文学賞の値うち

阿部和重さんの「グランド・フィナーレ」(『群像』12月号掲載)が
第132回芥川賞を受賞した。

芥川賞は本来、
「無名もしくは新進作家が対象となる」文学賞である。
しかし阿部さんは、
1994年に「アメリカの夜」(群像新人文学賞)でデビューして以来、
すでに10年以上経過している。
新聞各紙でも阿部さんは、
「『J文学』の旗手」(読売新聞1月14日)であり、
「90年代後半以降の文学シーンを代表する一人」(毎日新聞1月14日)であり、
「最後の大物」(朝日新聞1月14日)であったなどと評されている。
『毎日新聞』の記事によると阿部さん自身、
「新人に与えられる賞なので手放しで喜んでいられない」と述べているらしい。

『朝日新聞』によると、今回の芥川賞選考にあたっては、
「(村上春樹さん、島田雅彦さんに芥川賞を出せなかった)80年代の取りこぼしを
 繰り返してはならない」と話す選考委員もいたという。

さて、この選考委員のコメント、
よくよく考えてみるとちょっと奇妙な現象をあらわしている。
普通、文学賞とは、
その賞の権威や名声を、
ある作家、あるいはその作品に与えるものだと考えられている。
しかしこのコメントは、
今回の芥川賞の選考の過程で、
まったく逆のメカニズムが働いた可能性を示唆している。

阿部和重という作家の権威や名声を
芥川賞は逃すことができない、というメカニズムである。

文芸評論家・福田和也さんの
『作家の値うち』(飛鳥新社)という本があったけれども、
値うちの高い作家に文学賞を出せないと、
今度は文学賞の値うちのほうが下がってしまう。
「村上春樹」の件だって、
村上春樹に芥川賞をあげられなかったのは
芥川賞の恥かもしれないが、
芥川賞をもらえなかったことは
村上春樹の恥ではない。
「村上春樹にあげてないなんて、
 芥川賞も所詮その程度の文学賞だ」と言う人はいても、
「芥川賞ももらってないなんて、
 村上春樹も所詮その程度の作家だ」と言う人はどこにもいないのである。
例の選考委員の発言は、
こうした事態を踏まえたものだといえるだろう。

実は、こうした現象は世界中のどこにでもあって、
あの「ノーベル文学賞」ですら、
その権威を確立する過程ではそうだったという。
作家で精神科医の・なだいなださんは、
『権威と権力』(岩波新書)の中で次のように書いている。

(筆者注:ノーベル賞の権威というのは、)えらばれた人たちにあるのです。
たとえば、文学でいえば、
ジイドやカミュやヘミングウェーがえらばれていることで、
それが賞に権威を与えているのです。
彼らに賞を与えることで、
賞の価値が高められるのです。
ヘミングウェーがもらうような賞という形でね。
(中略)
しかし、いつの間にか、
賞そのものに権威があるかのように、
賞を与える選考委員に権威があるように思われるのです。
(中略)
そして、いつの間にか、
人間は賞をもらうことをのぞみ、
賞にえらばれることを名誉に思いはじめるのですよ。
(中略)
皮肉ないい方をすれば、
ノーベル賞は、あの多額な賞金で、
受賞者の持つ権威を買って来たことになります。(134~135ページ)


「ノーベル賞は、あの多額な賞金で、
 受賞者の持つ権威を買って来たことになります。」
とは、ずいぶんと辛らつな言葉に聞こえるかもしれないが、
実際にそうだったのだろうと僕は思う。

そういえば、僕の好きな歌人・枡野浩一さんの短歌に
こんな作品があったことをふと思い出した。

●ほめているあなたのほうがほめられている私よりえらいのかしら
 (筑摩書房『かんたん短歌の作り方』186ページに収録)

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by imadegawatuusin | 2005-01-14 17:28 | 文芸