新美南吉「おじいさんのランプ」について

――「進歩と発展」真正面から描いた好著――

■「文明開化の火」ともした少年

もの知りのおじいさんから若者が
昔の話を聞かせてもらう……。
代表作・『ごんぎつね』でも使われる、
新美南吉の得意技である。

村から一度も出たことのなかった
13歳の少年・巳之助は、
ふとしたきっかけで町に出て、
そこでランプというものを知る。

「このランプのために、
 大野の町ぜんたいが
 竜宮城かなにかのように明かるく感じられた。
 もう巳之助は
 自分の村へ帰りたくないとさえ思った。
 人間は誰でも
 明かるいところから暗いところに帰るのを
 好まないのである」。

「巳之助は今までなんども、
 『文明開化で世の中がひらけた』ということを
 きいていたが、
 今はじめて文明開化ということが
 わかったような気がした」。

文学というのは、
社会の進歩や発展を描くのに
向いていないのではないか……。
この物語を読むまで僕は、
そんな偏見を抱いていた。
文明開化というものを、
13歳の少年の目を通して
これほど鮮やかに、
そして実感を持って描き出すことができるのかと、
新美の手腕に驚きもした。

巳之助は町でランプを仕入れ、
それを村に持ち帰る。
「巳之助の胸の中にも、
 もう一つのランプがともっていた。
 文明開化に遅れた自分の暗い村に、
 このすばらしい文明の利器を売りこんで、
 村人たちの生活を明かるくしてやろうという
 希望のランプが――」。

はじめは「新しいものを信用しない」村の人々も、
やがてランプを求めるようになってくる。
「巳之助はお金も儲かったが、
 それとは別に、
 このしょうばいがたのしかった。
 今まで暗かった家に、
 だんだん巳之助の売ったランプが
 ともってゆくのである。
 暗い家に、
 巳之助は文明開化の明かるい火を
 一つ一つともしてゆくような気がした」。

貧しく無学な少年が
町からもたらしたランプ。
そのランプが一つ、また一つと
村に普及してゆくさまが、
「文明開化の明かるい火」として描かれている。

物語の中盤、
大人になった巳之助が村の区長さんから聞いた、
「ランプの下なら
 畳の上に新聞をおいて読むことが出来る」という話を
自分で実際に試してみる場面がある。

「やはり区長さんのいわれたことは
 ほんとうであった。
 新聞のこまかい字がランプの光で一つ一つ
 はっきり見えた。
 ……しかし巳之助は、
 字がランプの光ではっきり見えても
 何にもならなかった。
 字を読むことができなかったからである」。

そして巳之助はこう言ったのである。
「ランプで物はよく見えるようになったが、
 字が読めないじゃ、
 まだほんとうの文明開化じゃねえ」と。

こうして巳之助は大人になってから、
区長さんのところへ
一から字を教えてもらいにいくのである。
作品の中では、
「熱心だったので一年もすると、
 巳之助は尋常科を卒業した村人の誰にも
 負けないくらい読めるようになった。/
 そして巳之助は
 書物を読むことをおぼえた」とある。

ここで終わればこの物語は、
ただ一人の男の立身出世話に
すぎないということになる。
ここまでくれば読者の側も、
ハッピーエンドを期待する。

ところが、
それをあっさり裏切ってしまうのが
新美文学の文学たるゆえんである。

やがて町には電線が引かれ、
家々にはランプの代わりに
電灯がともるようになってゆく。

「(筆者注:巳之助は、)ランプの、てごわいかたきが
 出て来たわい、と思った。
 いぜんには文明開化ということをよく言っていた
 巳之助だったけれど、
 電燈が
 ランプよりいちだん進んだ
 文明開化の利器であるということは分らなかった。
 りこうな人でも、
 自分が職を失うかどうかというようなときには、
 物事の判断が正しくつかなくなることが
 あるものだ」。

そしていよいよ、
巳之助の村にも電気を引く計画が
持ち上がる。
巳之助はここで、
断固として電化反対の論陣を張るのである。

巳之助はいう。
「電気というものは、
 長い線で山の奥からひっぱって来るもんだでのイ、
 その線をば夜中に狐や狸がつたって来て、
 この近ぺんの田畠を荒らすことは
 うけあいだね」。

だが巳之助の奮闘もむなしく、
村会は電線導入を決定した。

「巳之助は誰かを怨みたくてたまらなかった。
 そこで村会で議長の役をした区長さんを
 怨むことにした。
 そして区長さんを怨まねばならぬわけを
 いろいろ考えた。
 へいぜいは頭のよい人でも、
 しょうばいを失うかどうかというようなせとぎわでは、
 正しい判断をうしなうものである。
 とんでもない怨みを
 抱くようになる」。

かつて巳之助に字を教えてくれた
大恩ある区長さん。
その区長さんを巳之助は恨む。
恨むことに決めてから、
恨む理屈を頭の中ででっち上げて
恨むのである。
こういったものは世に「反動」と呼ばれる。

そしてついに巳之助は、
区長さんの家に火をつけようとするに至るのである。

こうして読むとこの作品は、
やはり文学作品なのである。
単なる文明賛歌にとどまらない、
隠された人間の本質に迫るものがある。

ランプ普及に燃える巳之助の心情描写、
自らの立身と文明開化とが
まさに完全に一致して事が進む前半部分には、
他の作品ではなかなか見られない躍動感がある。

自分のやりたいこと、やっていること、
言い換えれば自分の生き甲斐とするところが
社会の進む方向性と合致したとき、
人は実に生き生きと、
のびのびと自分を発揮する。
本作の前半部分は、
まさにそのことを示している。

しかし、
社会の進歩の流れに抗して
それに立ちふさがろうとしたとき、
人の努力は空回りを始め、
歴史の中で反動的な役回りを与えられることになる。
本書の後半はそのことを
示しているに違いない。

文学は社会の進歩・発展に接したとき、
発展の中で生じた矛盾や悲惨を描くことは得意である。
また、
現代社会が失った何かを、
昔のあり方への郷愁とともに
かきたてることも得意である。
現代社会のあり方に、
「それでいいのか」と
常に問いかけを投げかけようとすることは、
それはそれで文学の大切な役割である。

だが一方でこの作品の前半のように、
自分の実現がそのまま社会の発展に結びつき、
歴史の必然と一体となる充実感というようなものは、
ノンフィクションでは描かれることがあっても、
物語の世界では
あまり主題とされることがなかったのではないか。

新美南吉といえば『ごんぎつね』という程度にしか
思っていなかった筆者にこの作品は、
文学の持つ新たな一面を
教えてくれた作品となった。


新美南吉「おじいさんのランプ」
評価:3



【テキスト本文】
「おじいさんのランプ」


【参考記事】
書評:『ごんぎつね』(新美南吉)
新美南吉『手ぶくろを買いに』について

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by imadegawatuusin | 2011-08-15 17:40 | 文芸