佐野洋子『コッコロから』について

――「変な顔して もてないと思って人生なめんなよ」――
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■恋は美人だけがするもの?

少女漫画や少女小説の主人公は、
作品中では決して「美人」とはされていないことが多い。
もちろん、
実際の漫画の絵や小説の挿絵では、
主人公は他のどのキャラクターよりも
チャーミングで魅力的に描かれていることが
多いのである。
だが、
それでも主人公は
「美人ではない」というのが読解上のお約束で、
読者はそれに添って
読まなければならないようなのである
『姫ちゃんのリボン』の野々原姫子とか、
 『なんて素敵にジャパネスク』の瑠璃姫とかは、
 作品上で「美人」とされている他の登場人物よりも
 絵や挿絵上、
 はるかに美人に見えるのであるが、
 作品展開上は「不美人」として読まなければならない)。

何でそんなややこしいことをするのだろうと
思っていたところ、
佐野洋子の小説・『コッコロから』に
面白い指摘が載っていた。
「美しいものは人を不安にさせる」というのである。
早い話が読者を遠ざけ、
感情移入がし難いのかもしれない。

本書の主人公・亜子は、
「ものごころつくようになって、
 鏡とか、写真とかを知るようになって、
 ……『ちょっと、冗談じゃないこれ』と
 思うようになった」というほどの
不美人である。
絵本作家でもある著者の佐野洋子は
本書の挿絵も担当しているのであるが、
少女小説の例と違い、
美人に描いておいて不美人だと読めというような
むちゃくちゃなことは言わない。
亜子の挿絵は見たまんま、
かなり不細工である。 

ところがこの亜子は、
周りの人間にずいぶんとかわいがられているのである。
近所のおばさんは
亜子についてこんな風に言っている。
「私、
 亜子ちゃん見ていると、
 理由なく嬉しくなっちゃうの。
 いるだけで、
 生きている幸せ感じちゃう。
 そういう女の子って、
 なかなかいるもんじゃない」。

しかし、
それに対する亜子の言い分はこうである。
「でも、
 それって、
 私が嬉しいんじゃないんじゃない。
 私、
 自分が嬉しくなりたいよ」。

不美人は人を不安にさせない。
周りに争いも起こらない。
「結構なことだ」と肯定することもできる。
しかし、
そこで「結構」なのは
不美人の周囲の人間ばかりであって、
本人はちっとも「結構」ではない。

不美人の亜子には、
実は男の子の友達も多いのである。
しかし、
亜子は言う。
「あの男の子達、
 全部彼女がいるんだから、
 私のことそーいう目で誰も見ないんだから、
 コッコロから安心して友達してるのよ。
 コッコロからの友達でいる女の子って
 哀しいもんですよ」。

そんな女の子が、
ふとしたきっかけからモテ始める。
俳優のようにかっこいい東大生や、
幼なじみからいっぺんに告白される事態に
巻き込まれる。

まぁ、
漫画や小説によくある展開と言えば
よくある展開ではある。
だが、
本書は他の漫画や小説と違い、
作品の3ページ目に掲載した挿絵で、
亜子をきっちり不細工に描いてしまっているのである。
この不細工が、
かっこいい東大生にも幼なじみにも
言い寄られる展開! 
この部分を、
違和感なく、
説得力を持って描くのは
実は並大抵の手腕ではないのではないか。

「不美人だけどモテる」ということを、
きちんと物語に説得力を持たせて語らせることは
難しい。
「顔よりも性格」というような紋切り型の展開も
一つの手ではあるかもしれない。
が、
本書ではとてつもなく性格の悪い女子も、
それはそれでモテていたりするのである。

性格の悪い女と付き合っている男の弁はこうである。
「お前よう、
 人って、
 何の欠点もない立派なものを
 好きになるってわけじゃないんだよな」。
だから性格の悪い女に引っかかったんだろうか。
すごい言い分ではあるが、
なぜか説得力があるのである。

そして、
本書の終盤、
主人公に惚れ直した幼なじみの主張はこうだ。
「変な顔してもてないと思って人生なめんなよ」。
これもすごい言い分だ。

変な顔してようが、
性格が悪かろうが、
人間、
それなりの因果が成り立てば
モテるときにはモテる。
「そんなのおかしい」と言ってみたところで
仕方がない。
そして世間でも、
意外にそんなことの方が多いのではないのか。


佐野洋子『コッコロから』マガジンハウス(評価:3)


【参考記事】
書評:『100万回生きたねこ』(佐野洋子)

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by imadegawatuusin | 2011-09-04 11:01 | 文芸