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『唯物論哲学入門』(森信成)を読む・その5

自然と人間の無差別

本書・『唯物論哲学入門』の著者・森信成氏は、
原始人の考え方の特徴として、
「自然と人間との間に
 はっきりした区別をおいていない」ということを
挙げている。
「原始人は
 自然と自分とはまったく同じものだと考えています」
というのである。
これは一体どういうことなのだろうか。

よく、
近代は「人間中心の時代」と言われる。
「自然を尊重しながら生きてきた前近代の人々と比べ、
 近代人は自己中心的になり、
 平気で自然を破壊するようになった」
などと言われる。

だが、
本当に前近代の人々は
自然を自然そのものとして尊重していたのだろうか。
実はそうではないのである。
前近代の人々は、
ある意味では近代人以上に
人間を中心としてしか
物事を捉えることができなかったし、
そうした意味では極めて自己中心的な人々であった。

たとえば、
川が氾濫して洪水が起きるのは、
川の神が怒っているからだと考えた。
言うまでもなく、
川は怒ることもなければ喜ぶこともない。
川は感情も意思も持たない
単なる自然にすぎないのである。
川が氾濫したのも
大雨が降ったとかそれなりの理由があって
ただ起こったにすぎない。
だが、
前近代の人々はそうは考えない。
「私たちにこんなひどいことをするのは、
 きっと怒っているからに違いない」と、
極めて人間的なものの見方を
川という自然物にまで勝手に押し付ける。
そして、
お供え物をしたり、
場合によっては生けにえをささげたりして
「ご機嫌をとる」と、
川は元に戻るだろうと勝手に判断するのである。

だから、
前近代の人々が、
たとえば川にごみを捨てなかったのは、
川を川としてその自然を尊重していたからではない。
そうではなく、
そんなことをすれば「川の神が怒る」からと、
いわば川を人間として捉えた結果なのである。
前近代の人々は
自然を自然そのものとしてありのままに把握することが
できなかった。
そのために全てに対して
自分の尺度(人間中心のものの見方)を
当てはめることしかできなかったのだ。
これが、
「自然と人間との間に
 はっきりした区別をおいていない」ということ、
「原始人は
 自然と自分とはまったく同じものだと考えています」
ということの意味である。

「したがって、
 霊魂によって人間が活発に動くということになると、
 今度は、
 この考え方を自然にそのまま移していきます。
 そして、
 いろいろな自然の現象というものは、
 自然にそなわっている霊魂の作用であると
 考えるわけです」。

「山の神には、
 ちゃんと夫婦がいて、
 子供もいて、
 そして恋愛もしています。
 ……川の神であれば、
 川の神もちゃんと夫婦生活をして、
 ちゃんと子供もあるわけです」
というのはまさに、
人間中心のものの見方や生活の仕方を、
山や川にまでそのまま押し付けた結果に
すぎないのである。


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【参考記事】

『社会民主党宣言』を読む
新しい社会主義像を求めて
小牧治『マルクス』について
レーニン「マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分」を読む

by imadegawatuusin | 2011-10-22 19:49 | 弁証法的唯物論
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