中核派系前議員が「初詣」で神社参拝

――椎尾八幡宮へ 祭神は応神・仲哀天皇――

■ブログで公表、インターネットで話題に

極左内ゲバ集団・中核派系の前杉並区議・北島邦彦氏が、
山口県岩国市にある椎尾八幡宮に初詣に出かけたことを
自らのブログで明らかにした。
椎尾八幡宮は
右翼団体・日本会議にもつながる
宗教法人・「神社本庁」に所属しており、
祭神は応神天皇や仲哀天皇・神功皇后などである。
インターネット上では、
「北島邦彦はいつから天皇主義者に転向したのか」などと
北島氏の参拝を疑問視する声が上がっており、
話題となっている。

■「神社は天皇制とは違う」か

北島氏を批判する意見に対し、
「『神社=天皇』ではない」とする反論もある。
「明治政府によって吸収・統合された各地の神々を
 みんな『天皇制』として拒否する事はない」と
いうのだ。
たしかに、
地域の神社の多くは
元々は「氏神様」のようなものが
漠然と祭られていたところから始まったのだと思われる。
しかし、
現在は神社自身によって
その祭神が「応神天皇」や「仲哀天皇」であると
明示されているのであれば、
元々どうであったかにかかわらず、
今は「応神天皇や仲哀天皇が祭られている」と
見るしかないのではないだろうか。

靖国神社が、
「元々は戦争の犠牲者となった戦没者を祭り、
 平和を祈願する神社だったのだ」というような意見も、
それ自体としては
確かにそれらしくはあるわけであるが、
現在は
戦争を引き起こした張本人であるA級戦犯らが
合祀されており、
単純に
「戦没者を祭り、
 平和を祈願する神社」と見るわけには
いかなくなっているのと似ている。

■唯物論は「神」を拝む行為とは相容れない

さらに、
天皇制云々を脇に置いたとしても、
原則的な「レーニン主義」の党派であることを標榜する
中核派の指導的政治家(と目される人物)が、
何のためらいもなく神社に参拝し、
それを公然とブログで公表するのは
いかがなものだろうか。

北島氏が唯物論者ではなく、
個人的宗教信念としては神社神道の信者であり、
その上で
中核派の政策と手法のみに共感して党に加わっている
「神社神道社会主義者」であるというのなら話は別だが、
おそらくそうではないのであろう。
北島氏のこれまでの言動を見る限り、
彼は原則的な「レーニン主義者」であり、
当然 唯物論者であると思われる。

そうであるならば、である。
本来 唯物論とは、
この世はごくわずかの狂いもなく
物の筋道(物理法則)に従って動いていると考える
科学的な ものの見方であるはずだ。
「神」とか「霊」とかの
非科学的な存在を信じる考え方とは
根本的に相容れない。
そうした神や霊の類を
拝んだり信じたりするものではないはずだ。

「神」とか「霊」といったものが実在し、
そうした「神」とか「霊」とかに
この世界を動かす力があるなどと信じる考え方は
唯物論とは正反対の観念論だ。
「応神天皇」や「仲哀天皇」といった人物
(あるいは遠い「ご先祖様・氏神様」であったとしても)
は既に物質としては機能を停止している
(=亡くなっている)にもかかわらず、
なお霊魂が生きて働いていると考えるのも、
人の精神の活動を物質から切り離されたものと見る
観念論だ。
死んだ人にはもはや意識はない。
神を拝み、
これに祈ることによって神の力を借りようとするのは
観念論者のすることであって、
唯物論者のすることではない。
唯物論者にはただ、
生前の死者の言動や業績に思いをはせ、
そこから生きる活力や指針を汲み出すことしかできない。
それは、
神社に参拝することとは本質的に異なることだ。

■初詣は「しなくても困らない」こと

インターネット上では、
「おまえんとこのテレビは、
 パナソニックか、シャープか? 
 パナソニックなら、
 松下資本の犬ということになる」などという
乱暴な意見も飛び出していたが、
テレビを見ることと神社に参拝することとを
同列に論じることはできないと思う。

現代社会でニュースを見、
ドラマやアニメやバラエティー番組を楽しもうと思えば
テレビを買わざるをえない。
(私は金銭的な事情からまだ家にテレビがないのだが)。
そして現在、
家電の生産手段は全て資本家に握られており、
そこで働く労働者が一人一票で経営者を選出して
労働者自身が職場を運営する
労働者協同組合で生産されたテレビというもの
はまだないわけである。
だから私たち労働者は、
パナソニックなりシャープなり、
思想信条にかかわらず
とにかく資本の手から
テレビを買わざるをえないのであって、
パナソニックのテレビを買ったからといって
松下資本の手先扱いされてしまっては
たまったものではない。

しかし神社への参拝については事情が違う。
唯物論の立場に立てば、
物質から切り離された「神」や「霊」といったものは
実在せず、
そうしたものにこの世界を動かす力はないわけだから、
神社に参拝してもしなくても
別に不都合は生じない。
したい人はすればいいが、
したくなければ別にしなくてもいいわけである。
にもかかわらず参拝したということは、
自分の主体的な判断に基づいて参拝したということだ。
さらに、
単に個人的に参拝しただけでなく
これをブログで公表しているのである。
政治家として、
党派の指導者として、
支持者の模範となるべき人物がこういうことをすれば、
当然影響が広がることは予想される。
単に迷信を助長するだけでなく、
右翼的姿勢を隠さない神社本庁の立場を
強化することにもつながっていく。

■君が代には職務命令でも拒否せよというのに

中核派は君が代の斉唱はおろか、
起立さえも拒否するように呼びかけている。
もちろん、
それをとやかく言うつもりはない。
私も高校時代は一貫して
斉唱拒否・起立拒否を押し通してきた。
それはひとえに、
私が皇室制度に反対する共和主義者であるからであり、
「君が代」(天皇が日本国の象徴である状態)が
「千代に八千代に」続くことを
願うことはできないからだ。
中核派の人々も、
(理由は少しずつ違うかもしれないが)
同様のこだわりがあるのだと拝察する。
しかし、
君が代の起立・斉唱に対しては、
たとえ職務命令であっても
「40秒間のストライキに決起せよ」と呼びかけている
「レーニン主義」の党派の指導的政治家が、
他方では何のこだわりもなく
あっさり神社に参拝してしまうという精神構造に
私はやはり理解に苦しむものを感じてしまう。

歴史をひもとけば、
過去にはキリスト教徒の人たちに
神社参拝が強制されたこともあった。
創価学会の人たちが、
伊勢神宮のお札を祭るよう強制されたこともあった。
そうした圧力に抵抗し、
弾圧を受け、
果ては獄中で亡くなった人もいるわけである。

他方、
現在の北島氏は
神社参拝を職務命令されたわけではないはずだ。
参拝するつもりがなければ
参拝しなくても誰も文句は言わないだろう。
にもかかわらず参拝する。
「レーニン主義」の党派の指導的立場にある
(と目される)政治家であり、
原則的な唯物論者であるはずなのに
それでも参拝する。
私には今ひとつ理解できない。
もちろん、
参拝するしないは北島氏の自由である、という
信教の自由は大前提の上での
個人的な感想であるのだが。


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by imadegawatuusin | 2013-01-19 14:58 | 政治