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『般若心経』を日本語で

うちの家では昔、
僕の祖母が朝、
仏壇に向かって『般若心経』を唱えているということがあった。

「ブッセツマーカーハンニャーハーラーミーター」
とやるのだが、
それがどういう意味なのかは
さっぱりわかっていなかった。
おそらく、祖母自身、
ほとんどわかっていなかったのではないだろうか。

意味のわからないお経を、
呪文のように唱えることに、
一体どんな意味があるのだろう。

「お経を読めばご利益がある」とか
「功徳になる」とかいうのは
実に馬鹿らしい神秘主義のきわみであって、
仏教の始祖である釈迦自身、
自分の説いた教えがそんな風に「呪文」と化してしまうのは
望んでいなかったはずだと僕は思う。

ありがたいお経は、
死んでから聞いても意味がない。
生きているうちに、
生きている人間がわかる言葉で読まなければ仕方がないと思うのだ。

以下は、
僕にとってもっとも身近なお経である『般若心経』の、
僕なりの解釈とでもいうべきものだ。
毎朝『般若心経』を唱えているという方は、
明日からはぜひ、
訳のわからない古代中国語でではなく、
こちらのバージョンで唱えてほしい。


■お釈迦さまの説かれた偉大な般若波羅蜜多心経
「観音菩薩は、
 深遠な智慧を完全に掌握したとき、
 物理的な現象や精神の作用は
 すべて相互の関係によって成り立っていると見抜かれて、
 一切の苦悩を超越された。

 舎利子よ。
 物理的な現象は相互の関係によって成り立っており、
 相互の関係こそがまさに物理的な現象なのだ。
 物理的な現象はすなわち相互の関係であり、
 相互の関係とはすなわち物理的な現象である。
 私たちの精神の作用もまた、
 このように相互の関係によって成り立っているという点において、
 何の違いもないといえる。

 舎利子よ。
 この世のあらゆる法則も、
 すべて相互の関係によって成り立っている。
 すべての存在は根源的には相互の関係によって成り立っており、
 それ単独で生じたり滅したりするものではなく、
 またそれ単独で善いものであったり悪いものであったりすることはない。
 それ単独で増えたり減ったりするものでもないのである。
 
 もちろん、
 『相互の関係』というものそのものは、
 物理的な存在でもなければ精神の作用でもなく、
 感覚や意識で直接感じ取れるものではない。
 『相互の関係』というものそのものは、
 かたちもなく、音もなく、
 香りも味もなければ感触もなく、
 あるいは感性で捉えられるものでもない。
 目の領域から意識の領域に至っても、
 これを直接捉えることはできないのである。

 『心の迷い』というものも、
 決してそれ単独で存在するというわけではない。
 だがそれは、
 『心の迷い』が存在しないということは意味しない。
 『老い』や『死』も、
 それ単独で存在するというわけではないが、
 だからといって
 『老い』や『死』というものがなくなるというわけでもない。

 私が今までに説いた真理も、
 決して絶対的なものではないわけだ。
 大体、
 『知る』とか『得る』とかいったこと自体、
 関係の上でしか成り立ちえないことである。
 『得る』ということが絶対的なものではなく、
 そして求道者は深遠な智慧に依拠して生きているので、
 その者は心が束縛されるということがない。
 心が束縛されるということがないから
 何かを恐れることがなく、
 迷いの世界を離れてその境地を楽しむのである。

 過去・現在・未来の仏たちも、
 この深遠な智慧に依拠するからこそ、
 完全な悟りに達することができたのである。

 それゆえに、
 人々は次のように知るべきなのだ。
 深遠な智慧は、
 一切の苦悩を取り除く偽りのない真実であるがゆえに、
 神秘的で、明らかで、この上なく、比較しうるものがない
 真言であるといえる。
 その深遠な智慧の真言をここに説こう」

こうしてお釈迦様は、
その真言を次のように説かれた。



至った者よ、
至った者よ、
悟りの世界に至った者よ、
悟りの世界に完全に至った者よ、
悟りよ、
幸あれ。


と。

《参考サイト》
「白取春彦『仏教「超」入門』について」
by imadegawatuusin | 2005-11-06 20:38 | 仏教
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