白取春彦『仏教「超」入門』について(その1)

――実は驚くほど新鮮で、実際的なブッダの教え――

■仏(ブッダ)は神様ではない 
 ただ悟った人間である

仏教ほど誤解されている宗教はない。
俗に「神様仏様」などといって、
願い事をお祈りする対象として
「仏様」という存在が捉えられていたりする。
白取春彦さんの『仏教「超」入門』(PHP文庫)は、
そのような「これまで安易にイメージされてきた仏教」を見直し、
「本来の仏教」の真髄を伝えようという本である。

本書における著者・白取春彦さんの立場は明快である。

仏教の仏とは真理を悟った人間のことをたんに指すだけで、
神のような超越的存在ではないのです。(本書4ページ)


もともと「仏」(ブツ)という言葉は、
古代インドの言葉であるサンスクリット語で
「悟った人」という意味を表わす「ブッダ」のことだ。
だから仏は神様ではない。
神通力をそなえた超人でもない。
ただの人間である〔注1〕。
けれど、
この人間世界の道理を悟っている。
そしてその結果、
正しい生き方を心得ており、
正しい生活を送っている。
そんな人が「仏」である。

したがって「成仏」とは、
人間が何か特別な存在に変化することをいうのではない。
まして生きている人間が死ぬことでもなければ、
死後の出来事をいうのでもない。
仏とは、
生きた人間から隔絶した神のような存在ではないのである。

それなのにどうして、
「神様仏様」になってしまったのだろうか。
それは、
仏教の教祖である
お釈迦さま=ブッダの後代の弟子たちが、
自分たちの遠い遠いお師匠様の偉大さを強調するため、
幼稚きわまる伝説を次から次へとでっち上げたためである〔注2〕。

お釈迦さまは生まれてすぐに七歩歩き、
「天上天下唯我独尊」と唱えたとか、
そういった類の実に馬鹿馬鹿しい作り話を
聞いたことがある人も多いだろう。
そうしてまた、
このような話ばかりを聞いていると、
まるでお釈迦さまは、
何やら人ならぬ神秘的な力をもった
神様か何かのように思えてきたりするものだ。
そしてそれが高じれば、
仏様をかたどって作られた像(いわゆる仏像)に向かってお祈りすると
願い事が聞き届けられるといったような程度の低い俗信が
生まれてくることになってしまう。

しかし、
本書の著者・白取春彦さんはこれに対し、

ブッダをあまりにも神格化して考えるのは、
ブッダが何度も強調して排することに努めた「極端なこと」に
抵触することになるだろう。(本書21ページ)


と、しっかりと指摘している。
白取さんも言うとおり、

教えの徹底した実際性や、
高齢になって最後は食中毒で死んだことなども考えれば、
ブッダはわたしたちと同じ人間であったと分かる(本書21ページ)


のである。
〔注1〕ブッダも一人の人間なのだということは、
インド仏教復興の祖・B=R=アンベードカルも、
その著書・『ブッダとそのダンマ』(光文社新書)のなかで
次のように強調している。

ブッダは自分自身とそのダンマに神性を求めなかった。
それは人間による人間のための発見であり
天啓ではない


いかなる宗教的開祖も
自分あるいは自分の教えに神性を要求する。
モーゼは彼自身に神性を求めなかったが、
彼の教えには神性を要求した。
彼は信者たちに、
もし乳と蜜の国へ行き着きたければ、
エホバの教えである自分の教えを受け入れよといった。
キリストは自ら神の子を名乗り、
当然ながらその教えは神聖なものとされた。
……

ブッダは
自分自身にも自分の教義にも
そのような要求をしなかった。
彼は、
自分は諸々の人間の一人であり
自分の教えは人間に対する人間の言葉なのだと
明言した。
彼は自分の言葉の不謬性など
決して求めなかった。
……
それ(筆者注:=ブッダの言葉)は
人間の普遍的経験に基づき、
誰しもがその教えに
疑問を持ち、
確かめ
どのような真実が潜んでいるかを見出すことが
できるものだといった。
自分の宗教をかくも大胆な挑戦に晒した開祖は
かつて存在しない(第3部第1章-3)


ブッダは、
自分の「悟り」が本物なのか偽物なのか、
人々が疑い、確かめようとすることさえも
奨励していたのである。
よって真の仏教徒は、
「ブッダのお告げに盲従する」のではなく、
「ブッダの教えに学ぶ」というのが正しい態度となる。

〔注2〕後世になるほど教祖を神格化して祭り上げる傾向は、
仏教に限らずどの宗教にもあるようだ。
イエスは、
偉大なる神と比べれば
自分自身もまた小さな存在に過ぎないと
はっきり説いたにもかかわらず(「ヨハネによる福音書」14章28節)、
後に作られた「三位一体」なる教義によって
神そのものと一体化されてしまった。
イスラム教のムハンマド(マホメット)も、
自分はあくまで「ただの人間」であり、
数ある預言者の一人にすぎないことを強調した(『コーラン』17章93節)。
にもかかわらず彼の死後、
弟子たちは他の宗教などから引き出した伝説を彼の生涯に付け加え、
飾り立てる作業を始めた。
(ムハンマドの心臓は
 彼が16歳のときに神によって取り出されて洗浄されたので、
 彼は決して間違いを犯すことがなかったのだなどという伝説は
 その一つであろう)。
弟子というものは、
自らの師を神格化することで、
自分の権威を高めようとする傾向があるらしい。


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by imadegawatuusin | 2007-11-24 15:18 | 仏教