総理の「戦没者」像への違和感

「いとしい我が子や妻を思い、
 残していく父、母に幸多かれ、
 ふるさとの山河よ、緑なせと念じつつ、
 貴い命を捧げられた、あなた方の犠牲の上に……」。
全国戦没者追悼式の式辞において安倍晋三総理大臣は、
追悼する戦没者をそう一くくりにして
その「御霊(みたま)」に呼びかけた(朝日新聞8月16日)。

歴代総理が踏襲してきた
アジア諸国に対する加害責任への反省や哀悼の言葉が
抜け落ちていることは
あちこちで議論になるであろうからここでは置く。
「御霊」なるものが実在することを自明視して
それに呼びかけるという
非科学的な式辞の形式そのものについても
今は論難するつもりはない。
そしてそもそも、この自己陶酔的なポエムでも読まされているかのような
違和感の残る文体についても、
総理の趣味の問題であるので
どうこう言ったりはしないでおこう。
私が指摘したいのは、
話を国内に限ったとしても、
ここで描かれる「戦没者」像は
あまりに貧困だということである。

ここで安倍総理が思い描く戦没者像はおそらく、
戦地で命を落とした(若く健康な)男性兵士のものだ。
もっとわかりやすく言えば、
戦艦大和の乗組員や神風特攻隊の隊員のような、
「靖国神社に祭られているような人々」こそが
安倍総理の思い描く戦没者なのだ。

だが、
「戦没者」というのは
本来もっと広い概念なのではないだろうか。
「戦争」で「没」した「者」のすべてが
そこに含まれていなければならない。
沖縄で集団自決に追い込まれた人々も、
広島や長崎で原爆の犠牲になった人々も、
東京や大阪や神戸における大空襲で焼き殺された人々も
すべて等しく「戦没者」であるはずだ。
安倍総理の言うところの、
「残」された「父、母」、「子や妻」、
そして老人や病人や障害者の中にも
膨大な「戦没者」がいるのだという視点が、
安倍総理の式辞からは
すっぽりと抜け落ちているように見える。

男たちが戦地で戦う その間にも、
「銃後」ではそうした市民がどんどん殺され続けていた。
戦争を続ければ続けるほど、
死ななくてよかったはずの市民が
「戦没者」とならざるをえなかった構図がここにある。
本土空襲の開始前に、
あるいは米軍の沖縄上陸以前、
広島・長崎への原爆投下以前に
きちんと戦争を終わらせて
「自由、民主主義」の道を受け入れていれば、
「ふるさとの山河」や「緑」にも
傷跡を残さずに済んだのだという当たり前の事実にも
目を閉ざしてはならない。

そしてことここに至って、
いわゆる(若くて健康な)男性兵士の犠牲だけが
追悼され、
「銃後」の犠牲がなおざりにされたのでは、
殺された市民は
文字通りの犬死にというものになってしまう。
誰を殺すつもりも殺される覚悟もないままに
理不尽に殺されていった市民の犠牲が
二の次三の次にされてはならない。

戦争は
男性兵士の戦う最前線でのみ起っていたのではない。
焼夷弾や原爆や「鉄の暴風」が降り注いだ
「銃後」もまた、
れっきとした戦場だったのだ。


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by imadegawatuusin | 2013-08-30 13:24 | 政治