野村美月『“文学少女”と死にたがりの道化』

■「元・美少女作家」は男の子!? 
野村美月『“文学少女”と死にたがりの道化』の主人公である
「ぼく」こと井上心葉(このは)は、
元・天才覆面美少女作家であった。

この、一見平凡な、
(そして実際にも本当に平凡な)少年は、
いかにして「覆面美少女」という
(そもそも日本語として成り立ちうるのかどうかも微妙な)役割を
演じることになったのか。

彼は14歳のとき、
さる文芸雑誌の新人賞に小説を応募したところ、
大賞を史上最年少で受賞することになってしまった。

しかも内容は、
女の子を主人公とする一人称作品で、
その上ペンネームも「井上ミウ」という
「いかにも女の子」なものであったため、
「史上最年少! 大賞は中学三年生の十四歳の少女!」などと発表され、
もはや引っ込みがつかなくなる。

出版された受賞作はたちまちベストセラー。
映画化・ドラマ化・コミック化……と、
ついには社会現象にまでなっていく。

しかし、「井上ミウ」は頑として顔を出そうとしないのだ。
(当たり前のことではあるが)。
こうなると、
世間の噂には尾ひれがつき、背びれもつき、
ついには足まで生えて一人歩きする。
曰く、
『井上ミウちゃんは華族のご令嬢で
 ペンより重いものを持ったことがない』。
曰く、
『いかにも“文学少女”な感じの、
 清楚で可憐な美少女に違いない』……。

こうして彼は、
謎の「覆面美少女作家」となった。

しかし、平穏と平凡を愛する少年に、
その重圧は重すぎた。
「恥ずかしくっていたたまれなくって、
 息の根が止まりそうになった」と彼は後に振り返る(本書6ページ)。
そして、
『あること』をきっかけに彼は、
ストレスからくる過呼吸を起こして倒れ、病院に搬送。
「もう小説なんかかけないよ~とみっともなくべそべそ泣いて、
 登校拒否なんかもして」(本書7ページ)、
結局彼は文学界から去っていった。

自らの人生を振り返るとき彼は、
「恥の多い生涯を送ってきました」という
太宰治『人間失格』「第一の手紙」冒頭の一節を
思い起こさずには いられない。

そんな、元・「文学少女」の彼が高校で出会ったのが、
「本物の文学少女」・天野遠子(とおこ)先輩だった。
何しろ彼女は文学を、
激しく深く愛しており、
僕たちがご飯やパンを食べて生きるように、
文学を食べて生きている。

『聖書』でイエス=キリストも、
「人はパンだけで生きるものではない。
 ……一つ一つの言葉で生きる」と言っているが(マタイ4章4節)、
天野遠子の場合はそのような「比喩」ではない。
彼女は本のページをちぎり、口にくわえ、
ヤギのようにむしゃむしゃと、
文学を食べる少女だったのである。

■"他人に共感すること"の危うさと素晴らしさの二面性
……と、
以上の説明だけ読むと、
「何やねん、それ!」ということになるだろう。
良く言えばライトな、
悪く言えばちゃらちゃらした、
いかにも今話題の、
(良くも悪くも)「ライトノベル」だという印象を受けるだろう。
が、
上のあらすじはこの作品の、
ほんの一面に光を当てて紹介したものであるにすぎない。
まずは実際に手に取って、
本書を読んでみてほしいのだ。
最後の最後まで読んだとき、
「予想していた内容(あるいは作風)と全然違う」ということに
おそらくビックリするはずだ。
(それはおそらく、「よい意味で」)。

誤解を恐れずに言えば、
本書は「文学作品」である。
それは別にこの作品が、
文芸部を舞台にした小説であるからでもなければ、
先に挙げた太宰治『人間失格』の
超一級のパロディーであるからでもない。
「作り出された1つのストーリーの中に、
 人間存在の根源やそれの社会との葛藤など
 普遍的なテーマを描き出す」という、
「文学」という言葉の、
言葉の真の意味での「文学」作品なのである。
「ありやんブログ」を主宰するありやさんは本書を評し、
「"他人に共感すること"の危うさと素晴らしさの二面性」が
描かれていると指摘している。
(それはおそらく、
 太宰治の作品そのものについての大きな主題のひとつでもある)。

本書を読み終えた後もう一度表紙に戻り、
『“文学少女”と死にたがりの道化』という題名を
改めて読み直して、
その意味をじっくりと噛み締めてほしい。
著者・野村美月さんの技力の高さに
ただただ圧倒されるであろう。

もし、これを読んでいる人の中に、
太宰治(とくに『人間失格』)にこれから挑戦しようと思っている人がいれば、
その前にぜひ、本書を読んでおいてほしい。
文体も実に親しみやすく、
太宰の作品・人生を訪ねるうえでの優れた道しるべとなるはずだ。

■心葉の過去を天野遠子は知っているのか
ところで、本書252ページで主人公は、
「ぼくの赤面ものの過去を、
 遠子先輩が知るはずはない」と言っている。
だが、本当にそうだろうか。

本書には、
心葉=井上ミウの書いた小説は
「社会現象」にまでなったとある(本書5ページ)。

これを、
「美食」(彼女の食するものは文学である)への
「飽くなき欲望」を抱き(本書20ページ)、
「この世のありとあらゆる物語や文学を食べてしまう」と豪語する天野遠子が
見逃すことがあるだろうか(本書12ページ)。
彼女は、心葉=井上ミウの小説を
「食べた」ことがあるのではないか。

そして彼女は「美食家」である。
「ギャリコの物語は冬の香りがする」と、
その作品から作者の香り(=におい)を
かぎ分ける能力を持っている(本書8ページ)。
(重ねて言うが、これは比喩ではない)。

そんな彼女が、
心葉の書いた詩や作文を、
毎日「おやつ」として食べているのだ。
「ヘンな味」・「マズイ」(21ページ)、
あるいは「アクがいまひとつ足りない」などと文句をつけることもあるが(本書187ページ)、
いい作品を書いたときは、
「わぁ、今日の作文、甘くて美味しい~。
 心葉くんエライ!」と褒めてくれる(本書188ページ)。
心葉がどんなに「おかしな作文を書き散らしても、
遠子先輩はそれを食べき」るのだという。
たとえ心葉が、
「わざと汚い文章で書いた、
 句読点一切なし、
 "てにおは"無視のグロい話」でも
「半泣きで一生懸命食べて」くれるのだ(本書199ページ)。

だとすれば、
心葉の書く作文が、
以前「食べた」井上ミウのベストセラー作品と同じ「香りがする」ことに、
彼女は気づいているのではないか。
僕にはそう思われてならないのである。
(ついでに言えば、
 心葉が屋上で
 「生きていて恥ずかしいことなんていっぱいある!
  僕だって二年前は女の子で、
  謎の美少女とか呼ばれて生き恥さらして……」
 と言った直後に天野遠子が現れて、
 「そうよ、
  誰だって人に隠しておきたい恥ずかしいことはあるわ」と言う下りがあるが〔本書234ページ〕、
 これはつまり、
 天野遠子は心葉のせりふを、
 「生きていて恥ずかしいことなんていっぱいある!」という部分から
 〔「二年前は女の子……」という部分も含めて〕
 全部聞いていたということである。
 もし彼女が、
 心葉が以前「井上ミウ」であったのだという事実を知らないのだとすれば、
 好奇心旺盛な彼女が、
 「僕だって二年前は女の子で、
  謎の美少女とか呼ばれて生き恥さらして……」という彼の発言に
 その後も何の反応も示さないのは不可解である)。


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【本日の読了】
野村美月『“文学少女”と死にたがりの道化』ファミ通文庫(評価:4)


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続々・ 野村美月『“文学少女”と死にたがりの道化』


《参考サイト》
野村美月『天使のベースボール』について
野村美月『天使のベースボール2巻』について

太宰治『人間失格』について
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by imadegawatuusin | 2006-05-08 15:31 | 文芸