神社も宗教 けじめは必要

――修養団・國分正明理事長に反論――

■政治と宗教のけじめと公私のけじめ
元文部省事務次官で、
精神修養団体・修養団の理事長を務める國分正明氏が
修養団機関誌・『向上』2014年1月号に
「『遷御の儀』に参列して」という文章を発表した。
この中で國分正明理事長は、
伊勢神宮の祭神である天照大神の「ご神体」を
20年に一度 新たに建てた神殿に移す
「遷御の儀」について、
「私は参列してみて、
 これは日本文化の源泉、
 日本人の心のふるさとだ、
 決して宗教行事という性格のものではないと
 改めて感じました」とした。
そしてその上で、
安倍総理以下数名の官僚がこれに参列したことを
菅官房長官が
「私人としての参列」と記者会見で述べたことについて、
「官房長官は議論になるのを避けて
 『私人としての参列』と述べたのでしょうが、
 総理が総理として閣僚が閣僚として参列したとしても、
 多くの国民は、
 千三百年前から続く
 我が国の伝統的な行事への参加と
 とらえるのではないでしょうか」と
述べているのである。

國分正明理事長は、
「西洋の絶対的な唯一神と
 神道の八百万の神とは
 同じ神という言葉でも全く異なる概念ですし、
 同じく宗教という言葉でくくってしまうことに
 私はいささか違和感を覚えます。
 折から憲法改正論議が盛んですので、
 現行の政教分離の規定自体を
 日本の実情も踏まえて
 再検討すべきではないでしょうか」と言う。

確かに、
「西洋の絶対的な唯一神と
 神道の八百万の神とは
 同じ神という言葉でも
 全く異なる概念」だということは
事実であろう。
だが、
だからといって、
「同じく宗教という言葉でくくってしまうことに」
問題があるとは思えない。
和食と洋食とでは
料理といってもその背景にある考え方や作り方が
全く異なっているかもしれないが、
だからといって
『同じく料理という言葉でくくってしまうことに
 違和感を覚え』る人はいないであろう。
どれほど さまざまな部分が違ったとしても、
「食べるために食材に手を加えたもの」という点では
和食も洋食も共通しており、
どちらも料理であると言わざるを得ないからである。
同じく、
たとえ「神」の概念がどれほど違っていようとも、
「実在が証明できない霊的な存在に祈り、祭る」
という点では
キリスト教やユダヤ教も日本の神道も共通している。
その点をとらえて、
両者を同じ「宗教」という概念で把握するのは、
和食と洋食とを
同じ「料理」という言葉でくくるのと同じ
自然なことだ。

そもそも、
伊勢神宮やその上部団体である神社本庁は
自ら望んで
「宗教法人」という法人格を取得したのであって、
誰かがそれを強制したわけではない。
自分たちは
キリスト教やユダヤ教と同じ「宗教」という枠には
当てはまらないというのであれば、
あえて任意の団体として活動してもよかったのであるし、
あるいは社団法人や財団法人として
登記してもよかったのである。
にもかかわらず、
伊勢神宮や神社本庁は
自ら望んで宗教法人として登記している。
(税金がかからないようにするためであろうか)。
理由が何であれ、
伊勢神宮や神社本庁が
自ら望んで宗教法人として登記している以上、
伊勢神宮や神社本庁が宗教として扱われるのは
実に当然のことなのである。

だいたい、
「絶対的な唯一神」の概念を持つ宗教は、
世界的に見ても
キリスト教・ユダヤ教・イスラム教など、
その信者数は多くても、
宗教の数としてはごく少数に限られる。
世界の圧倒的に多くの宗教は、
神道と同様の「八百万」型の多神教である。
これが宗教でないのだとすれば、
中国やアフリカやインドや東南アジアの多くの人々は
宗教を持たないということになる。
ついでに、
アジアに拠点を置く宗教の中にも
イスラム教など
「絶対的な唯一神」の概念を持つ
典型的な大宗教があるのに、
「絶対的な唯一神」は「西洋の」ものと決め付けるのも
乱暴だと思う。
(イスラム教は
 「アラブの宗教」という印象が強いのかもしれないが、
 ――実はアラブも
   れっきとしたアジアなのであるが――
 世界で最もイスラム教徒が多い国は
 東南アジアのインドネシアである)。

「これは日本文化の源泉、
 日本人の心のふるさとだ、
 決して宗教行事という性格のものではない」
というのもおかしな文章だ。
ここでは
「日本文化の源泉、
 日本人の心のふるさと」であるということと、
「宗教行事」であるということとが
対立するかのように書かれている。
けれども、
これはずいぶんと「宗教」に対して
失礼な物言いではないだろうか。
宗教行事の中に、
「日本文化の源泉、日本人の心のふるさと」が
あらわれるということは当然ありうる。
神道のように
日本民族(大和民族)の歴史と伝統に密着した
宗教の場合は なおのことである。
だから、
「日本文化の源泉、
 日本人の心のふるさと」だからといって
その行事が宗教行事ではないということには
ならないはずだ。

また、
「日本人の心のふるさと」というが、
ここでいう「日本人」に、
アイヌ民族や沖縄の人々は含まれるのだろうか。
どう考えても
伊勢神宮がこうした人びとの
「心のふるさと」であるとは思えない。
ここで言う「日本人」というのは
あくまで日本民族(大和民族)のことなのだろう。

もちろん、
内閣総理大臣にも
個人としての信教の自由がある。
一人の神道の氏子として伊勢神宮に参拝したい、
神事に参加したいというならそれは自由だ。
だがそこには、
おのずと公私のけじめがなければならない。
この点をあいまいにしないことが大切である。
 
日本人みんなが神道の氏子ではない。
日本民族(大和民族)のすべてが
神社参拝をするわけでもない。
日本で最も大きな仏教宗派である浄土真宗は
「神祇不拝」を掲げ、
神社には参拝しないことを宗旨としているし、
日本で最も大きな新宗教である創価学会も
「神天上の法門」を掲げ、
神社には参拝しないことを宗旨としている。
もちろん、
キリスト教などの一神教に入信している日本人も
存在している。
内閣総理大臣はそうした日本人すべての代表なのである。
「総理が総理として閣僚が閣僚として」
伊勢神宮の神事に参列すれば、
公私のけじめがあいまいになり、
政治と宗教とのけじめがつかなくなってしまう。
総理個人が神社神道を奉じているからといって、
その信条で国を私(わたくし)してはならないのである。

以上の理由で私は、
特定宗教の神事に
「総理が総理として閣僚が閣僚として参列」することには
断固反対である。
また、
憲法改正論議においても、
私自身は同性婚禁止規定(憲法第24条)の削除や、
国の象徴を血筋で決める皇室制度の廃止を求める
改憲論者であるけれども、
政治と宗教とのけじめをあいまいにする
政教分離の緩和には断固反対だ。

國分正明氏は文部省の元事務次官である。
文部省(現在の文部科学省)は
宗教行政をつかさどる役所でもある。
総理や閣僚の伊勢神宮の神事への参列を
「私人としての参列」と説明した
官房長官の見解について、
「官房長官は議論になるのを避けて
 『私人としての参列』と述べたのでしょう」としか
とらえられない見識の人物が
宗教行政をつかさどる文部省の事務方のトップを
務めていたのかと思うと、
そら恐ろしい気がしてならない。


..... Ads by Excite 広告 .....
[PR]
by imadegawatuusin | 2014-01-14 13:55 | 宗教