戸田城聖『小説人間革命(上)』を読む

日本最大の新宗教団体・創価学会の
三代会長・池田大作の小説・『人間革命』の
前編とも言うべき作品が
この『小説人間革命』だ。
創価学会という組織を知る上で、
「創価学会の精神の正史」とされる
『人間革命』の前編となった
この『小説人間革命』の重要性は
改めて強調するまでもないだろう。

『小説人間革命』の著者は
池田大作の先代の創価学会会長にあたる
二代会長の戸田城聖だ。
池田大作は創価学会会長の職とともに、
この『人間革命』を書くという仕事も
戸田城聖から引き継いだのだと見ることができる。

聖教文庫版の『小説人間革命』の上巻には、
戸田城聖の後継者である池田大作が
「文庫版に寄せて」と題する序文を寄せている。
そこでは戸田の『小説人間革命』は、
戸田の師である創価学会初代会長・牧口常三郎を
宣揚する作品であるとされている。
そして、
池田が初めてこの小説の原稿を読んだとき、
自らは
「(戸田)先生の偉大な理念と真実を伝えるため、
 やがて続『人間革命』ともいうべきものを
 書かねばならないな、と」「密かに決意した」と
書かれている。
ここで言われている「続『人間革命』」というのが、
現在『人間革命』として刊行されている
池田の小説であることは言うまでもない。
池田大作の『人間革命』は
戸田城聖の『小説人間革命』の後を受け継ぎ
書き継がれた小説であるわけなのだ。
戸田が『小説人間革命』で
師である牧口常三郎を宣揚したように、
池田もまた
自らの師である戸田城聖を宣揚しようと
『人間革命』を書いたのだ。

だから池田大作の『人間革命』を読む人は
その前に戸田城聖の『小説人間革命』に
目を通しておくといい。
この本は小説であるので事実そのままではなく、
著者である戸田城聖は
「巌九十翁(がんくつお)」という少しふざけた名前で
登場している。
(無実の罪でとらわれた岩窟王に、
 戦時中、
 治安維持法違反・不敬罪で監獄に入れられた自らを
 なぞらえていたのか)。
池田大作も序文で言う通り、
この作品は「巌さん(筆者注:=戸田城聖)と
それを取巻く八軒長屋の住人が
妙法(筆者注:=日蓮仏法の信仰)によって
見事に蘇生していく姿を
軽妙な筆致で描」いたものであり、
その筆の軽妙さは
現在でも読む者を引き付ける力を失っていない。

時代設定は、
創価学会がまだ「創価教育学会」と呼ばれていた
戦前である。
池田大作は序文の中で、
「(筆者注:戸田)先生が小説の手法を用いて
 『人間革命』を書かれたのは、
 創価学会の使命と精神、
 そして妙法の偉大な変革の力を
 一人でも多くの人に伝えたかったからだ」と
言っている。
だが面白いことに、
この文庫本・『小説人間革命』の上巻部分には、
作中、
「創価学会」という言葉も、
その戦前の前身である「創価教育学会」という言葉も
全く出てこない。
出てくるのはただひたすら「日蓮正宗」だ。
創価学会初代会長の牧口常三郎も、
二代会長である戸田城聖の分身である「巌さん」も、
ひたすら「日蓮正宗」の信仰をすすめている。

文庫本の下巻に至ってようやく
「創価学会」という言葉も登場するが、
それは「生活革新同盟」などと同列の、
数ある日蓮正宗の信者の集まりの一つという程度にしか
描かれていない。
信仰の中心はあくまで「日蓮正宗」に置かれている。

他宗教を信じていると良くないことが続々と起こり、
他宗の信仰対象を処分して
日蓮正宗の
御本尊(「南無妙法蓮華経」と書かれた掛け軸)を拝むと
途端に良いことが起こるという
あまりにもご都合主義的で毎度ワンパターンな展開には、
あきれを通り越して
もはや痛快さすら感じる。
戸田城聖の時代の創価学会は
今よりもっとご利益主義的な宗教だったのだろう。
はっきり言って
理屈もへったくれもないのである。
他宗教を信じていると不幸になり、
日蓮正宗の御本尊を拝めば幸せになれる。
貧乏も病気も逃げていき、
家庭円満で幸せになれるという
実に大胆な構成なのだ。
池田大作はこの作品を、
「多分に小説風なところを見せながらも、
 急所は事実を織込み鋭く構成されている」と
激賞しているが、
少し身びいきが過ぎないか。
ノンフィクションとして
「うちの宗教を信じたらこんなに幸せになりました」
という話であれば、
その信仰のすばらしさを示す一つの実証として
受け取ることもできる。
だが、
フィクションである小説で
ひたすら「うちの宗教を信じたら幸せに……」と
やられても、
「そりゃ小説なんだから何とでも書けるじゃないか」と
言うしかない。


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by imadegawatuusin | 2014-02-09 19:41 | 文芸