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続・野村美月『“文学少女”と死にたがりの道化』

――味覚障害者が「甘い物語」という表現を使うとき――

■キーワードは「想像力」
野村美月さんの『“文学少女”と死にたがりの道化』について、
ブログ『一本足の蛸』の主宰者・安眠練炭さんがおもしろい問題を提起した。
安眠練炭さんはブログでの記事の中で、
次のように問いかけたのだ。

  「文学少女」こと天野遠子は、
  ふつうの食物の味がわからないかわりに
  本を食べて味わうことができる特殊能力の持ち主だが、
  本の味を表現する際にふつうの日本語の味覚表現を用いたり、
  ふつうの食物に喩えたりする。
  いったいこのような比喩はいかにして可能なのだろうか?


実はこの問題は、
作者の野村美月さん自身も充分に意識しており、
作中で遠子が、ギャリコの物語を「ソルベ」という食べ物に例えたとき、
主人公・井上心葉に次のように語らせている。

  ソルベの味って、
  遠子先輩は……文字以外のものを食べても、
  味がわからないんでしょう?
  比べようがないじゃないですか(本書10ページ)


これに対する天野遠子の答えはこうであった。

  そこは想像力でカバーするのっ。
  あ~ソルベってこんな味かしら~って。(本書12ページ)


彼女は、ギャリコの物語を食べたときには
「喉にするりと滑り込んでゆく食感」がするので、
それは、
僕たち普通の人間が「ソルベ」という食べ物を食べたときに感じる感覚と
共通性を持つのではないかと「想像」したというわけだ(本書10ページ)。

そのように説明されると、
僕は「ソルベ」という食べ物を一切食べたことはないのだが〔注1〕、
「ソルベ」の食感がどのようであるのか
想像することが可能である。

他にも天野遠子は、
ある小説を
「キャビアをシャンパンと一緒にいただいている」ときの
味がすると言っている(本書37ページ)。

僕は生まれてこのかた
「キャビア」なる食べ物を口にしたことがないし、
シャンパンも飲んだことはない。
ましてそれを「一緒にいただい」たときにいかなる味がするのかなど、
全くもって知りはしない。
だがそれでも、
「キャビア」的小説や「シャンパン」的小説を
想像することは可能である。
ここで大切なのは、
「キャビア」や「シャンパン」の味そのものではなく、
それに付随して世間に流れるイメージだ。
要するに「華やか」な小説であり、
「虚飾と栄光と情熱」にあふれる小説なのだろうということだ(本書37ページ)。
天野遠子はその「華やかさ」や「虚飾」や「栄光」や「情熱」を、
その本を食べた際に口の中で感じている。
そしてそれを、
「キャビア」や「シャンパン」の味と表現するのだ。

食べ物の味そのものを知らなくとも、
そこに表現されている状態を想像することは
必ずしも不可能ではない。
キーワードは「想像力」と言えそうだ。

■全盲者も「頭の中が真っ白になる」ことがある
安眠練炭さんは、
食べ物の味がわからない者が
普通の味覚表現を比喩として用いるのは不可解であるとして、
次のように述べている。

  全盲の人が音を色に喩える場合を想像せよ。


と。

しかし、少し思いをめぐらせば、
「全盲の人が音を色に喩える場合」は
以外に容易に「想像」可能だ。

例えば、
生まれたときから全く物の見えない全盲の視覚障害者が、
次のように言う場合はどうだろう。

  私はその話を聞いたとき、
  目の前が真っ暗になった。


あるいは「目の前が真っ暗になった」という部分を
「頭の中が真っ白になった」〔注2〕と言い換えてもいい。
不可解だろうか。
僕はそうは思わない。

確かにその視覚障害者は、
「真っ暗」あるいは「真っ白」という状態を、
その言葉の真の意味で理解することは不可能だろう。
その人はおそらく、
「真っ暗」や「真っ白」という状態がどのようなものかを
きっと わかっては いなかったはずだ。
だがそのような人にも、
「目の前が真っ暗になるような
 衝撃的な事件」や
「頭の中が真っ白になるような驚き」を体験する機会は存在する。
そして、
そのような状態が日本語において、
「目の前が真っ暗になった」とか
「頭の中が真っ白になった」と表現されていることを
知る機会もやはりある。

ならば、その視覚障害者が、
たとえ「真っ暗」や「真っ白」という感覚そのものを
経験したことがないとしても、
「ある話を聞いたときに受けた感覚」を
「目の前が真っ暗になった」あるいは
「頭の中が真っ白になった」と表現することは可能であるし、
何ら不可解なことではない。

もっと極端な例を挙げてもいい。
生まれつき全盲の視覚障害者が
「今とてもブルーな気分だ」と言ったり、
あるいは
「そのとき私は、
 真っ赤な炎が私の背後で燃え上がるような
 猛烈な怒りを感じた」といった
「色鮮やかな」表現を用いることがあったとしても、
何ら不思議ではないのである。

■全聾者にも「運動音痴」は理解可能
逆の例を挙げるなら、
よりわかりやすい説明が可能になる。
生まれつき全く耳の聞こえない聴覚障害者が、
例えばある人について、
「××さんは運動オンチだった」
と著書の中で書いていたとして、
これを変だと思う人がいるだろうか。
ほとんどいないのではないかと僕は思う。

「オンチ」とは漢字で書くと「音痴」であり、
本来は
人が著しく音感に欠ける状態を意味していた。
したがって、
音感どころかそもそも聴覚を全く持たない者にとって、
「音痴」という状態そのものを
体験することは不可能だ。

しかしそのような人にも、
「運動音痴」という状態がどういうものであるかを
把握することは可能なのである。
それが可能であるならば、
「運動音痴」という言葉を自ら用いることも可能であろう。

■味覚障害者にも「恋物語の甘さ」はわかる
では、
「文学少女」こと天野遠子の場合はどうだろう。
彼女は食べ物の味がわからない味覚障害者である。
ただし、一般の味覚障害者と違うのは、
彼女は本を食べてその「味」を「味わう」ことができるという
特殊能力を持っているという点だ。

さて、
この「本を食べて味わうことができる」という点も
少々注意を必要とする。
というのも、
このときに彼女が感じる「味」は、
僕たちが食べ物に味を感じるときとは違って、
その本の材質などに規定されているわけではないからだ〔注3〕。
どうやら彼女の感じる「味」は、
その本の『内容によって』
規定されているらしいのである。

したがって彼女の感じるところのいわゆる「味」は、
実際のところ、
僕たちの感じているところの味という感覚と何らかの共通性を持つのかさえ
よくわからないとしか言いようがない。
彼女が「甘い」と言ったとき、
その感覚が、
僕たちが砂糖をなめたときやケーキを食べたときに感じる
「あの感覚」と共通のものであるのかどうかは、
確かめようがないのである。

ただ、はっきりしていることが1つある。
それは、彼女が口で感じるいわゆる「味」は、
僕たちが本を読んだときに感じる「印象」という感覚と
相当密接な相関関係があるらしい、という点だ〔注4〕。

その証拠に彼女は、
ハッピーエンドの恋愛小説から感じる「味」は
「甘い」と表現しているのである(本書14ページ)。
「恋物語は甘くて美味しい」とも発言している(本書187ページ)。
自分が食べた作品がハッピーエンドの恋愛小説であった場合、
どうやら彼女はそこに、
他の傾向の作品とは区別される一定の「味」を感じるようだ。

無論、彼女の言うところの「甘い」とは、
直接的には砂糖やケーキの味ではなく、
ハッピーエンドの恋愛小説の「味」である。

ただし我が国では一般的に、
ハッピーエンドの恋愛小説などから受ける印象を、
味覚に例えて「甘い」と表現することがある。

先に証明したとおり、そのような文化に暮らす人なら、
例えその人に味覚がなくても、
ハッピーエンドの恋愛小説を読んだとき、
その印象を「甘い」という言葉で表現することは可能である。
そして天野遠子がの持ついわゆる「味覚」は、
この「印象」という感覚と密接に関係しているのである。
ならば彼女が、
世間で「甘い」と比喩されるところの本から感じるいわゆる「味」を、
同じく「甘い」という言葉で表現しても一切差し支えはないはずだ。

■異質な感覚に「共感」を求めて
いや、「差し支えはない」どころか、
そのようにしてもらわないと僕たちは大いに困るのである。
もし彼女が、
「私が本を食べたときに感じる感覚は、
 あなたたちが食べ物を食べたときに感じる感覚とは
 本質的に異なるのだから、
 『甘い』なんて表現でお茶を濁すことはできないわ。
 今日から私は、
 ハッピーエンドの恋愛小説なんかを食べたときに感じる感覚を
 『ミロい』と表現することにするわっ!」と
宣言したらどうだろう。

「いい? 心葉くん。
 『ミロい』作文をお願いね。
 この前みたいに苺大福の箱が落っこってきて
 初恋の人が死んじゃうようなヤツはダメよ。
 やっぱり文学は『ミロい』のが一番よね。
 私が今まで食べた中で一番『ミロ』かった小説は……」
なんて話をされたら、
「ミロい」という語彙も感覚もそもそも持たない心葉には
さっぱり訳がわからなくなってしまう。
僕たち読者も同様だ。

だから彼女は、自分が
ハッピーエンドの恋愛小説を食べたときに感じる「味」を表わす形容詞として、
「甘い」という言葉を採用するのだ。
僕たち普通の人間が、
その作品を読んだときに感じる印象を表わす比喩表現として
通例使われている「甘い」という言葉を、
自らが口の中で感じた感覚を表現する言葉として、
彼女は取り込んだのである。

なお彼女は、
「苦しいことや辛いこと」が書かれたレポートは
「とっても苦い」と表現する(本書251ページ)。
この点についても上記と事情は同様だ。
彼女は「苦しいことや辛いこと」が書かれたものを食べた際、
他の傾向の文章とは区別される一定の感覚を持つようだ。

そうした「苦しさ」や「辛さ」は我が国においては
「苦い」と比喩的に表現されることが多い。
したがって、彼女の感じる「その感覚」が、
はたして僕たちの感じる「苦さ」と共通のものであるのかどうかは不明だが、
そうした作品を「苦い」と表現することで、
彼女と心葉の間には一定の共通理解が生じるのである。

■「お化け」が「お化け」のまま生きる為に
さて、
なぜ僕はこの問題を
かくも長々しく取り上げてきたのか。
それはこの問題が、
この小説のテーマそのものと
重大なかかわりを持っているからである。

本書は、
太宰治の『人間失格』と同様、
「他人の理解しうるものを理解できない」(本書84ページ)人間が、
いかにして、
自分とは異質な他者たちと
関係を取り結んでゆけばいいのかを問う作品である。
直接的には、
「愛や優しさを持たぬお化け」(本書66ページ)である、
『人間失格』の主人公の大庭(おおば)葉蔵〔注5〕と
片岡愁二〔注6〕・竹田千愛の2人とが、
それぞれに物語を綴りながら
自らの生きる道を見つめてゆく物語なのだ。

だが、この物語に出てくる「お化け」は、
実はこの3人だけではない。
「文学少女」こと天野遠子先輩自身が、
「仲間たちと同じものを喜べず、
 ……同じものを食せず、
 仲間たちが心地よいと感じるもの……を理解できない」(本書3ページ)
「お化け」・「妖怪」なのである。

本書の中で天野遠子を評してしばしば用いられる「妖怪」という表現を
文字通りの、
「生物学的にホモ=サピエンスという範疇から逸脱する存在」
と捉える人がいるようだが、
そのように解釈すると本書の真のテーマを見失うことになる。
彼女は、
社会の一般の人間とは同じ感覚を共有できない人間であるという意味で、
大庭葉蔵・片岡愁二・竹田千愛の3人と同様、
「お化け」であり、「妖怪」なのだ。

社会は、自分たちとは異質な存在を
しばしば恣意的に排除する。
竹田千愛の言葉を借りれば、
「お化けである」者を「世間」は
「石をもって追」うことがあるのだ(本書142ページ)。
だからこそ『人間失格』の大庭葉蔵は、
「一言も本当の事を
 言わない子にな」ることを強いられた(太宰治『人間失格』14ページ、新潮文庫)。

片岡愁二は自殺に追い込まれた(本書181ページ)。

そして竹田千愛は、
「バカで無邪気な少女のフリをして」生きているのである(本書242ページ)。

この点は、
一見 自由奔放に生きているかに見える天野遠子とて例外ではない。
彼女は「みんなでフルーツパフェを食べてるとき」
(当然「自分だけ美味しいって思えない」のだが)、
「うんと甘い本を思いうかべて、
 “わぁ、美味しい”って」言うのだという(本書106ページ)。

彼女もやはり、今の日本の社会の現状は、
自分が「妖怪」であることを
だれかれ構わずカミングアウトできる状況には
至っていないことを知っている。
「フルーツパフェを食べながら“わぁ、美味しい”と言う、
 どこにでもいる女子高生」を演じながら
「妖怪」は日々の生活を送っている。

けれど、
彼女は大庭葉蔵や片岡愁二・竹田千愛の3人のようには、
自らの孤独に絶望感を抱いてはいない。
それは心葉がいるからだ。

■遠子はなぜ、心葉の作文はどんなにグロくても食べたのか
彼女は、
今までずっと秘密にしてきた「本を食べる」瞬間を、
ある日の放課後、
新入生の井上心葉にばったり見られることになる。
彼女は「ぽっと顔を赤らめ、恥ずかしそうに
『見たわね』」と言ったという(本書185ページ)。

そして心葉は文芸部に引っ張り込まれ(本書186ページ)、
今に至る。
彼は、
食べ物の味を解さず、本を食する
「妖怪」の存在を受け入れた。
遠子は、
「お化け」が「お化け」であるままで
生きてゆける場所を手に入れたのだ。
これが、
天野遠子と
大庭葉蔵・片岡愁二・竹田千愛の3人との
最も大きな違いである。

ただし彼女はそのために、
何の努力もしなかったわけではない。
彼女は心葉に作文を書かせ、
たとえそれが
「わざと汚い文章で書いた、
 句読点一切なし、
 "てにおは"無視のグロい話」でも絶対に、
「半泣きで一生懸命食べ」たのだ(本書199ページ)。
そしてその作文を食べた感覚を、
「甘い」・「苦い」・「アクが足りない」をはじめとする、
僕たち「普通の人間」にも理解できる語彙を最大限に利用して
表現してゆく作業を積み重ねていった。

この作業を通じて、
文学に味覚を感じたりはしない心葉も、
彼女の感覚をおぼろげながらも理解し、
共有できるようになっていった。
天野遠子という「お化け」は、
自分は実は理解できない「普通の人間」の味覚表現や
食べ物の味について、
得意の「文学的表現」を最大限に借用することで、
自らの「妖怪」的感性を心葉に理解させることに成功したのだ。
(もしここで、
 遠子があくまで「この作品は『ミロい』」式の
 自らの「妖怪」性に固執する表現のみを用いたならば、
 2人の間に「味」に関する共感は
 おそらく生まれなかったであろう)。

■「甘い」は相互理解の第一歩
だから思えば、
天野遠子が恋物語を「甘い」と評した瞬間(本書187ページ)こそは、
2人の間に「味」に関する相互理解が生まれるための第一歩だったのだ。

もともと心葉は、
「きみ、文芸部に入部しなさい」の一言で
遠子に命じられるまま文芸部に入部し(本書186ページ)、
「ほらぁ、書かないと、呪っちゃうぞ」という遠子の発言を真に受けて
あれほど嫌がっていた文学の世界に再び引き戻されている(本書187ページ)。
このことを考えると、
遠子のことを当初は「どこか恐ろしい妖怪」と捉え、
恐れを抱いていた可能性が高い。
しかし遠子が恋物語を「甘くて美味しい」と言ったとき、
彼は彼女の感性を、
おぼろげながらでも理解するきっかけをつかんだのである。
「遠子先輩の『味覚』では、
 恋物語を『甘くて美味しい』と感じるんだ」と。

たとえ自分が「お化け」でも、
「人間の世界」に思い切って飛び込んでみれば、
お互いを理解し合える人間は現れる。
「お化け」が「お化け」のままで受け入れられる空間を
手に入れることは可能である。
本書はそのことを教えている。

他人とは異質な感性を持つ「お化け」には、
最初は自分の感覚をあらわす言葉そのものが
社会に存在しないかもしれない。
けれど、あきらめずに探してみよう。
『聖書』にも、
「求めなさい。
 そうすれば、与えられる。
 探しなさい。
 そうすれば、見つかる」とある(マタイ7章7節)。

自分の抱いた感覚を、
100パーセント完璧にでなくてもいい、
少しでもそれを表現できる言葉を探して、
外に向かって発してみよう。
そうすればきっと、
「お化け」が「お化け」のままで
生きてゆける場所は見出せる。
本書はそう、教えている。

それこそが本書のテーマなのである。

だから、安眠練炭さんの、
「遠子の特殊能力」は
「今のところ彼女のキャラクターを際立たせるという程度の効果しか
 あげていない」という主張は誤りである。
「遠子の特殊能力」こそは、
「仲間たちと同じものを喜べず、
 ……同じものを食せず、
 仲間たちが心地よいと感じるもの……を
 理解できない」(本書3ページ)「妖怪」が、
いかにして他者との関係を取り結ぶかという本書のテーマと
見事に直結しているのである。

■『心の種を言の葉に』(古今集)
本書の主人公・井上心葉の
心葉(このは)という名は、
平安時代の和歌集である『古今和歌集』の序文、
『心の種を言の葉に』に由来する〔注7〕。

心の中にある思いは、
そのままでは、他の誰とも関係を結ぶことのできない、
土に埋もれた孤独な「種」としてしか存在しない。
しかし、その思いを大切に育て、
その芽(=目)を地上へと伸ばし、
立派な言の葉(=言葉)へと成長させていったとき、
人は、異質な他者と共感し、
関係を取り結ぶことが可能になる。

いかにして
「心の種を言の葉に」育て上げゆくか。
これはおそらく、
この「文学少女」シリーズを貫く
重要な主題となるはずだ。

土に埋もれた孤独な思い、
それを言の葉(=言葉)へと成長させ、
他者の前に自らを表現することが、
「お化けの孤独」を乗り越える第一歩となる。
だからこそ、
本書の主人公は「作家」でなければならなかったのである。


〔注1〕「『ソルベ』という食べ物」について、
山猫日記の山猫さんから次のコメントを頂いた。
「『ソルベ』はたぶん幾度も食しておられると思いますよ.
 フランス語のsorbetで,シャーベットのことですから.」。

〔注2〕「頭の中が真っ白」という表現について言えば、
「衝撃のあまり何も考えられなくなる状態」と「白い」という色との間には、
生理学的には何の必然的関係も存在しない。
ただ、
この世界で最もよく使われる筆記用具が たまたま「紙」であり、
その紙は白を地の色とすることが多く、
「内容が何も書かれていない紙」が「真っ白」であることから
類推された比喩にすぎない。
もしこの世界の紙という紙の色が桃色であったならば、
僕たちは、衝撃のあまり何も考えられなくなったとき、
「頭の中が桃色になった」という表現を
何の躊躇もなく使うであろう。

〔注3〕ただし、
本の材質などが全く味に影響を及ぼさないのかどうかは
微妙である。
天野遠子は本書の中で、
「手で書かれた文字は
 ……すっっっっごく美味しい」(本書14ページ)・
「普段は本を食べているけど、
 本当は紙に肉筆で書いた文字が一番好き」(本書187ページ)とも
発言している。
これは、
単に文庫本に印刷された本と、
肉筆でかかれたものとでは、
書かれた内容が同じでも「味」が異なることを示唆している。
高級和紙に能筆家が書いたものは、
さらに味が異なるかもしれない。
ただこれは、
紙や筆記用具の材質そのものではなく、
その作品全体から受ける「印象」が
彼女が口で感じる「味」に
影響を与えるのだと考えた方が妥当であろう。

〔注4〕異なる感覚同士が密接な関係を持つというのは
必ずしも理解不能な事態ではない。
例えば一般の人間の場合、
味覚と嗅覚は相当密接な関係を持っている。
少なくとも僕は、
「臭いはいいが味はダメ」または
「味はいいが臭いがダメ」という食べ物を
食べたという経験はほとんどない。

〔注5〕『人間失格』の大庭葉蔵も、
作品の中で自分を「お化け」になぞらえている箇所が
ある。(太宰治『人間失格』新潮文庫37~39ページ)。

〔注6〕ちなみに、太宰治の本名も、
片岡愁二と「シュージ」違いの
「津島修治」である。

〔注7〕本書作者・野村美月さんの自伝的小説とも言うべき
デビュー作・『赤城山卓球場に歌声は響く』の中で、
野村さんの分身である主人公・村上朝香は
文学部国文科に在籍し(『赤城山卓球場に歌声は響く』43ページ)、
上代古典研究会に所属していた(前掲書42ページ)。
おそらく作者の野村さん自身、
そうであったと思われる。
『赤城山卓球場に歌声は響く』冒頭の5ページでは
古代の和歌が引用されるなど、
この作品には我が国古代の和歌に関する薀蓄が
繰り広げられている箇所が多数見られる。
このような作者・野村さんにとって、
「心葉」という本書主人公の名を『古今和歌集』序文から採ることは
極めて自然なことだったのだ。

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《参考記事》
野村美月『天使のベースボール』について
野村美月『天使のベースボール2巻』について

太宰治『人間失格』について
by imadegawatuusin | 2006-05-17 15:43 | 文芸
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