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大分県など、迷信 あおる 暦(こよみ)を 配る

――おおやけ機関きかんが「大安だいあん仏滅(ぶつめつ)」をあからさまにしるす――

大分県(おおいたけん)、「不適切(ふてきせつ)」と みと回収(かいしゅう)

大分県(おおいたけん)25はつか あまり いつ()に、
(けん)むっつの 市町村(しちょうそん)にて つくる
国東半島宇佐地域世界農業遺産推進協議会(くにさきはんとう うさちいき せかい のうぎょういさん すいしん きょうぎかい)」が
発行(はっこう)した、
()たる
平成へいせい28(西暦せいれき2016)ねん(こよみ)(カレンダー)に、
大安だいあん」や「仏滅(ぶつめつ)」などといった、
迷信(めいしん)つながる 「六曜ろくよう」を
しるしてしまっていたとして、
回収(かいしゅう)すすめることを あきらかに した。
読売新聞よみうりしんぶん』や 朝日新聞あさひしんぶん電子版(でんしばん)
26はつか あまり むい()
これを つたえた。

それらの 記事(きじ)に よると 大分県(おおいたけん)は、
人権教育じんけんきょういくに ついての 市町村向しちょうそんむけの 資料しりょうなどにおいて
みずから、
差別さべつ助長(じょちょう)する 迷信(めいしん)因習いんしゅうとして、
その 1つに 六曜ろくようげていた。
その、
差別さべつ助長(じょちょう)する 迷信(めいしん)因習いんしゅうひとつ」であると
みずか自覚じかくしていたところの 六曜ろくようを、
自分じぶんたちが 発行(はっこう)する (こよみ)
おおぴらせていたというのは、
おもてで 言っている 事と、
仕事しごとを まさに 行なう にて やっている 事とが
まったくもって ちがっており、
言行不一致(げんこうふいっち)はなはだしい。
これでは みずか
差別さべつ助長じょちょうする」 つもりが あったのではないかと
うたがわれても 仕方しかたいのではないだろうか。

たしかに の中には、
今だに
大安だいあん」とか 「仏滅ぶつめつ」などといった
日柄ひがらかかわる 迷信めいしん
とらわれ続けている 人人も 少なくない。
けれども、
そうした 日柄ひがら年柄としがら迷信めいしんの たぐいを
こうから 否定ひていし、
そうしたものに とらわれては いけないと
かんがえる 人も 少なくない。
わたしのような 弁証法的唯物論者べんしょうほうてきゆいぶつろんじゃ
げるまでも無く、
宗教者しゅうきょうしゃの 中にも、
たとえば、
わが国の 仏教ぶっきょうなかでは もっとおおきな 宗派しゅうはである
浄土真宗じょうどしんしゅうや、
神道しんとうかんがらみち)の ながれを くむ
金光教こんこうきょうなど、
こうした 迷信めいしんこうから 否定ひていする 宗教しゅうきょう
わがくに日本にほんには 目違まちがるのである。
浄土真宗を ひらいた 見真大師けんしんだいし親鸞しんらんは、
その おしえを の かたちで (やさ)しく いた
和讃(わさん)」という 長歌(ながうた)の 中で わく、

  かなしきかなや 道俗(どうぞく)の   
  良時(りょうじ) 吉日(きちにち)えらばしめ〔注1〕   
  天神地祇(てんじんぢぎ)を あがめつつ   
  卜占祭祀(ぼくせんさいし) つとめとす   

  (ああ、(かな)しいことだなあ!
   (ほとけ)(みち)(おこ)ない(びと)である 法師(ほうし)も、
   法師(ほうし)ではない 白衣しろぎぬの ただ(びと)
   どちらもが、
   ()わゆる 「()(とき)」だの
   「()()」だのといったものを
   殊更(ことさら) えり分けて お選びになり、
   あま(かみ)だの (くに)(かみ)だのといったものを
   がめつつ、
   (うらな)いだの (まつ)りだの
   おはらいだのといったものを
   (もっぱ)らの (つと)めとして
   いそしんでいらっしゃるとは! 
   〔正像末和讃(しょうぞうまつ わさん) 第101首
    第5章 「愚禿悲歎述懐(ぐとく ひたん じっかい)第8首〕。
   〔注1〕ここでいう 「えらばしめ」の 「しめ」は、
   「やらせる」という
   使役(しえき)(むね)(あらわ)(たす)言端(ことば)助動詞(じょどうし))・「しむ」の
   ()方形(かたがた)連用形(れんようけい))ではなく、
   「お~になる」という
   尊敬の 旨を 表す 助動詞・「しむ」の
   連用形である。)

うんぬんと 歌い、
「『()(とき)』だの
「『()()』だのといったものを
   ……えり分けて ……選」ぶことを
ハッキリと 否定している。
 
また、
教派神道きょうはしんとう・金光教の 教祖きょうそ(おしえおや)である
赤沢=文治あかざわぶんじも 言わく、
如何いかなる所、
 如何なる時、
 如何なるほうも、
 人間にきは
 吉所よきところ
 吉日よきひ
 吉方よきほうなり。
 日柄方位等は、
 神が氏子を
 苦しめる事ではない」(『金光大神理解』)
うんぬんと 述べ、
人人の「生活を暗くおしつつむ
有害な俗信に
正面からたたかいを挑んだ」(村上重良『新宗教 その行動と思想』第108葉〔ページ〕)。
赤沢=文治は明治維新めいじいしんのあとに、
太陽暦たいようれきに 基づいた 新暦しんれき
新政府しんせいふによって 導入どうにゅうされた りに、
「大安」・「仏滅」・「さんりんぼう」といった、
迷信に つながる 記載きさい
公的こうてきな 暦から 一掃いっそうされたのを 見て
涙を 流して これを 喜び、
この 暦を 神の 前に 供えて
神に 感謝かんしゃしたという。
 
浄土真宗は 日本において 最も 大きく、
地域ちいきに 根を張って 存在そんざいしている 既成きせい仏教宗派ぶっきょうしゅうはである。
国会こっかいに 2ケタの 議席ぎせきを 占める 日本共産党にほんきょうさんとうも、
弁証法的唯物論に 基づく 世界観せかいかんを 持っている。
そうした 人人の 存在を 全く 無視むしして、
県や 市町村といった 公的機関こうてききかん
何らの 科学的根拠かがくてきこんきょも 無い 迷信を
助長しかねない 暦を
安易あんいに 発行してしまうということは、
あたかも
「大安」だの 「仏滅」だのといった 迷信に、
県や 市町村が
お墨付きを 与えたかのごとき
誤った見方を 広めかねない。

そもそも、
「大安」や 「仏滅」といった 「六曜」 及び
その 解釈かいしゃくは、
諸越もろこし中国ちゅうごくから 伝わった
陰陽道おんみょうどうという 俗習的宗教ぞくしゅうてき しゅうきょう由来ゆらいするものであり、
民衆みんしゅうの 間に 広まったのは
近世きんせい江戸時代えどじだいに 入ってからのことである。
「六曜」は決して、
わが国固有こゆう文化ぶんかでも 何でも 無いのである。
ある 特定とくていの 宗教に 肩入れしては いけないはずの
県や 市町村といった 公共団体こうきょうだんたいが 作る 暦が
特定の 宗教観しゅうきょうかんに 基づくものであること そのものが
そもそも おかしな 事である。
(例えば、
 どれほど
 天主てんしゅ[カトリック]教徒きょうとが 多い 国であっても、
 宗教について 中立的ちゅうりつてきであるべき
 国や 地方公共団体ちほうこうきょうだんたいが 出す 暦に、
 「今日は 聖○○の 日」などと
 おおぴらに 書かれていれば、
 確かに
 天主[カトリック]教徒にとっては
 さぞかし 便利に 違いないだろうが、
 そうした信仰しんこう共有きょうゆうしない 人人は、
 自らの 存在そのものを
 国や 地方公共団体といった 公の 機関きかん
 切り捨てられたと 感じるだろう。
 公の暦に、
 特定の 宗教的迷信しゅうきょうてきめいしんに 基づく 記述きじゅつ
 取り入れた事 そのことからして、
 想像力そうぞうりょくにおいて あまりに 鈍感どんかんであると
 言わざるをえない)。

公共団体 自らが、
あたかも 特定の 迷信を 認めて
これに 肩入れするかのごとき 暦を
出すなどというのは
まことに 言語道断ごんごどうだんである。
大分県が こうした 不適切な 暦を 回収するのは
当たりまえの 事である。



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by imadegawatuusin | 2015-12-26 15:09 | 政治