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英語は「心づかい」のない言語か

■公正さを欠いた日英言語比較
小学生用の国語教材・『読解の基礎』(JESDA)の
「書きぬき問題9」の項に、
国語学者・金田一春彦氏の著書『日本語』から取った問題が
収録されている。
「お茶が入りました」という表現に、
「自分の手がらは極力かくそうとする、
 ……日本人の心づかい」を見出すという文化論である。

確かに、問題を解くという作業を通じて
文化論や言語論に触れることは、
文化や言語といったものについて考えをめぐらせる良い機会となる。
単に子供たちの読解力を向上させるというだけでなく、
そうしたものに対する興味・関心を高め、
自分なりの思想を芽生えさせるきっかけにもなるはずだ。

しかしこの文章は、
今日の目から見ると非常に問題点が多いように
思われてならない。
小学生の子供たちが「国語」を学習する教材として、
明らかに不適切であると僕は思う。

この文章は、
「お茶がはいりました」に代表される
「自分の手がらは極力かくそうとする」表現を
「何と美しい言葉であるか」と絶賛する。
ここまでは、まあいい。
看過できないのは、
これと対比される形で「アメリカ」の例が
次のように記載されている点である。

日本人がアメリカへ行って
色の黒いお手伝いさんをやとう。
その人間が台所でコーヒー茶わんを割った。
何と言うか。

 「お茶わんが割れたよ」

と言うのだそうだ。
「お茶わんを割った」とは言わない。


そして、

日本人は違う。
……自分の責任にして、

 お茶わんを割りました

と表現するのである。


と続けるのだ。

つまり、「日本人」は
「お茶を入れた」という「自分の手がら」を「極力かくそうとする」ために、
「お茶がはりました」と
あたかもお茶がひとりでに入ったかのような表現をする。
その反対に「アメリカ」の「色の黒いお手伝いさん」は、
「茶わんを割った」という自分の落ち度を「極力かくそうとする」ために、
「お茶わんが割れたよ」と
あたかも茶わんがひとりでに割れたかのような表現をすると言うのである。
(日本人ならこのようなとき、
 「お茶わんを割りました」と表現するとも)。

これは、
日本とアメリカとの文化比較、
あるいは日本語と英語との言語比較の例として、
あまりに公正さを欠いたやり方だ。

まず、中学生レベルの英語の知識さえあればわかると思うが、
英語(特に英米において話される英語)において、
茶わんを割ったときに「お茶わんが割れたよ」などと言うことは
まずありえない。
そもそも英語には、
「割れる」などという動詞自体が存在しない。
(細かく探せばもちろんあるかもしれないが、
 あまり一般的な表現でないことは確かであろう)。

英語にあるのは"brake"(「割る」)と"be broken"(「割られる」)だけである。
そして英語は日本語と違い、
文に必ず主語を必要とする。
したがってアメリカの「お手伝いさん」には、
うっかり茶わんを割ってしまい、
「何があった!?」と聞かれたときには、
次の2通りの答え方しか存在しない。

1つは"I"(「私」)を主語とする答え方、

"I broke your cup."(「私があなたの茶碗を割りました。」)


もう一つは"cup"(「茶わん」)を主語とする答え方、

"Your cup was broken (by me)."(「あなたの茶わんが(私によって)割られました。」)


である。
「割れる」に当たる動詞がなく、
かつ、
「主語」を明示せずに「茶碗を割りました」などと言うことができない以上、
「お手伝いさん」は上のどちらかの表現を選択しなければならない。

そしておそらく、
この「お手伝いさん」は2番目の表現を選択したのであろう。
まず伝えるべきは「何があったか」である。
「私」について伝えるべきなのか、
それとも「茶わん」について伝えるべきなのか。
何よりも先に伝えなければならないのは
やはり後者であろう。
(筆者の想定する「日本人」も、
 「お茶わんを割りました」と、
 「お茶わん」を枕にして話をしている)。

したがって「お手伝いさん」は、
「茶わん」を主語にして言ったのだ。

"Your cup was broken."「あなたの茶わんが割られました。」


と。

しかし、筆者の友人である日本人は、
「茶わん」を主語にしたこの文を、
とっさにこのように訳して理解してしまったのだ。

「お茶わんが割れたよ」


日本人は「茶わん」のような「もの」を「主語」にする文に
なじみが薄い。
だから、
「茶わんが割られた」というような表現が
とっさには受け入れがたかったのであろう。

そもそも、
「あなたの茶わんが割られました。」というのは、
どう考えても日本語としては悪訳である。
だから、
"Your cup was broken."と聞いてとっさに
「お茶わんが割れたよ」と理解したこの人物は、
ある意味では非常に健全な日本語力を有しているわけだ。

しかし、それを元に、
『日本人は責任を引き受けるがアメリカ人は無責任だ』というようなことを言うのは、
明らかに不公正だ。

「お茶わんを割りました」という表現に「私が」という意味が潜在しているのと同様、
"Your cup was broken."には"by me"という意味が潜在している。
どちらが責任があるとか、無責任だというような問題ではないのである。

しかし、この文章にはさらに見過ごせない問題点がある。

■黒人に対する偏見を助長させかねない記述
茶碗を割ってその責任を免れようとするお手伝いさんについて、
「色の黒い」と書かれている点である。
「色の白い」お手伝いさんならこのようなことはしないのだろうかと
意地悪なことを考えてしまう。

少なくともこのケースにおいて、
唐突に肌の色を持ち出す必要はなかったはずだ。
関係のない「肌の色」を
どうして持ち出したりしたのだろうか。
僕はどうも、
ここに黒人に対する「悪意」のようなものを感じてならない。

言語に関する不正確な情報を元に、
一方の言語を用いる民族の「心づかい」を褒め上げたり、
特定の肌の色の人たちに対する偏見が垣間見られる文章を、
そうした点について何の説明もないまま小学生の学習教材として使用することは
好ましくないと僕は思う。

本教材の発行元であるJESDAは、
本書の再版にあたっては、
「書きぬき問題9」の掲載の是非について、
もう一度検討し直すべきであると考える。
by imadegawatuusin | 2007-02-09 19:13 | 日本語論
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