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重松清「ワニとハブとひょうたん池で」について

――あたしは、一夜にして「ハブ」になった――

■「ココロなんて、ちょっと病気の方がいい」
重松清の作品には、
小説ならではの魅力的なフレーズが
しばしば地の文に登場する。
1人称主人公の「つぶやき」と言い換えてもいいかもしれない。
 
この「つぶやき」は、
評論などに登場すればただの暴論として排斥され、
論理的な説明には適さないかもしれないが、
そのストーリーの中に置かれたときに実に絶妙な効果を発揮し、
重松作品の魅力の一つとなっている。
 
 ≪いいじゃない、ココロなんて、ちょっとぐらい病気の方が。≫
 
も、そんなフレーズの一つである。
 
主人公の「ミキ」は14歳、
中学2年生の女の子。
彼女はある日、突然「ハブ」になった。
蛇になったのではない。
「ハブ」――「村八分」の省略形。
要するに、クラス全員から無視される存在になったということだ。
 
無視されるようになったことに、
特別の理由はない。
ミキがみんなに嫌われていたというわけでもない。
むしろ彼女は、
元気で明るく、
とても活発なクラスの人気者だった。
そんな彼女を、
クラスでいっせいに無視したらどうなるか……。
そんなささやきに、
クラスの全員が乗せられ、
あるいはその大勢に抗うことができなかった。
ただ、それだけのことなのだ。
 
けれど、
一度始まった「ハブ」はもう誰にも止められない。
ミキに話しかければ、
今度は自分が「ハブ」の対象になってしまう……。
 
そうしてミキを無視した子供たちは、
みんな「普通」の、どこにでもいる中学生たちだった。
 
そんなある日、
ワニが住むとされる「ひょうたん池」で、
ミキはある「おばさん」と出会う。
 
「おばさん」の夫は不倫をしている。
だが「おばさん」は、
夫が不倫をしているのが悔しいのではない。
不倫をしているのがバレバレなのに、
本気で隠し通せていると信じて疑わない夫が、
いかにも自分をあなどっているようで許せない。
 
「おばさん」は、
ワニを餌付けして
いつか夫を食い殺してもらおうと、
いつも夫の髪の毛や爪を混ぜ込んだ肉を、
本当にワニがいるのかどうかもわからない
ひょうたん池に投げ込んでいる。
 
この「おばさん」はココロを病んでいる。
そう読んだ「ミキ」の診立ては、
あながち間違ってはいないだろう。
……が、
だからといってこの「おばさん」は、
何かとてつもなく困ったことを
しでかしているというわけではない。
ただいつも、
池に肉を投げ込んでいるというだけだ。
 
毎日学校で
「普通」の子供たちの仕打ちに苦しめられているミキにとって、
「ココロを病んだ おばさん」は、
安らぎの場として機能する。
そして、ミキは思うのだ。
「いいじゃない、ココロなんて、ちょっとぐらい病気の方が」と。
 
■あまりにリアルな「イジメられる側」の心情描写
「イジメ」のような社会的な問題を、
等身大の中学生の視点から描ける作家は本当に稀少だ。
その理不尽の中に生きる中学生のリアルな心理を描き出せる作家は
極少数だ。
 
そして、
この人こそ そんな数少ない作家の一人なのだと、
自分が中学生だったころに感じた作家が
重松清だったのだ。
重松さんのあまりにリアルな「イジメられる側」の心情描写に、
僕は当時、何度も驚かされたものである。
 
本作・「ワニとハブとひょうたん池で」は、
そんな重松清の短編の中で、
僕の最も好きな話だ。
重く苦しい問題を取り扱っているにもかかわらず、
「ひょうたん池のワニ」に自分を重ねて力強く生き抜くミキと
文体の明るさとがあいまって、
読者に過度の重苦しさを強制しない。
最終的にはさわやかな青春小説(?)として仕上がっている。
 
 
【本日の読了】
重松清「ワニとハブとひょうたん池で」(評価:5)
by imadegawatuusin | 2007-08-14 17:15 | 文芸
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