「キングギドラ」のCD回収事件を振り返って

数ヶ月前、
人気ヒップホップグループ・「キングギドラ」のCDが
回収されるという事件があった。
鈴木邦男主義」が連載されている『創』にも
記事が掲載されていたので、
知っている方もいるかもしれない。
「ニセもん野郎にホモ野郎 
 一発で仕止める言葉のドライブバイ 
 こいつやってもいいか 
 奴の命奪ってもいいか」などという歌詞が
サビの部分で何度も繰り返されていたからだ。
この歌詞の中では他にも
「オカマみたいな変なの」という言葉も出てきており、
この歌詞を作詞した「キングギドラ」のメンバーが、
同性愛者を「程度の低いもの」とみなしていたことは明らかだった。

メディアの中にはこの問題を
「不適切表現で回収」と報じたところもあった。
しかし、
これは単なる「不適切表現」の問題ではない。
「キングギドラ」は歌詞の中で
「ホモ野郎」を
「やってもいいか」・「命奪ってもいいか」と言ったのである。
これを、どれほど「適切」な表現で言い換えたとしても、
事態は何も変わらない。
「表現」ではなく、
そこに流れる思想そのものが問題となっていたのである。

鈴木先生はよく、
「抗議があるなら自分に直接言ってほしい。
 自分を通り越して出版社に抗議するのはやめてくれ」と言っている。
しかし、
彼らの対応は全くその逆だった。
この件に関して、
「キングギドラ」のメンバーが表に出てくることは最後までなかった。
すべて、
CDの販売元が前面に出てきて抗議に対処し始めたのだ。
販売元は、
歌詞が問題となっていると見るやいなや
即刻CD回収を決定した。
それなのに、
CD回収を通知する文章の中でもなお
「メンバーに悪意は決してなかった」などと言い切ったのである。
悪意がなくてどうしてこのような歌詞が書けると言うのか。

そして販売元は、
CD回収の理由について、
「同性愛者やHIV感染者の方々に
 不快な思いをさせかねない歌詞が
 一部含まれていると判断」したためだとした。
これもずいぶんとふざけた話である。
同性愛者でなければ、
HIVに感染していなければ、
この歌詞で不快な思いをすることはないというのだろうか。
異性愛者やHIV非感染者もひどく見くびられたものである。
僕は大いに「不快な思いをさせ」られて、
この件についての文章を『週刊金曜日』に投書した(5月31日号に掲載)。

表現活動をしている以上、
必ず人を傷つける可能性はあるものだ。
高らかに恋愛のすばらしさを歌い上げる美しい歌詞であっても、
失恋したばかりの者には「不快な思いをさせかねない」。
「不快な思いをさせかねない」というのは、
CDを回収する理由にはならないと思う。
もしCDを回収するのなら、
表現者がきちんと抗議者の意見に耳を傾け、
自分の表現の中のどういう部分が間違っていたのかをきちんと明らかにした上で、
回収するのが筋である。
しかし、
CD回収という騒動にまで発展したにもかかわらず、
「キングギドラ」はいまだに今回の件について公式に
何のコメントもしていない。
抗議への対応なども、
すべて販売元に任せきりであり、
彼らの声は僕の耳には全く聞こえてこなかった。
ただ、販売元が
「メンバーに悪意は決してなかった」・
「彼らも深く反省している」などと言っているのを聞くことだけしか
できなかったのである。

僕は何も、
彼らを糾弾してCDを音楽界から追放したかったわけではない。
この歌詞を見て心を痛めたものの一人として、
彼らが何を考えてこんな歌を歌ったのかを問いただし、
反省を促したかっただけなのだ。
けれど、
彼らが抗議を真正面から受け止めることはなかった。
彼らが逃げたのか、
あるいは販売元が彼らに口止めをしていたのか、
その辺の事情は僕にはよく分からない。
もしかすると、
「キングギドラ」ほどのグループになると、
メンバーたち本人が抗議に対応したりはしないのが
当たり前なのかもしれない。
そんなのは、
事務所やCD会社の仕事なのかもしれない。
けれど僕は、聞きたかった。
どういうつもりでこんな歌を歌ったのか。
そのことについて今どう思っているのか。
どういう点を反省し、
これからはどうしていこうと思っているのか。
彼らはホームページだって持っているんだから、
そこできちんと説明してほしかった。

「キングギドラ」のメンバーたちはそれらの疑問に答えてくれなかったが、
大学の友人がこの件について僕に意見を言ってくれた。
彼は音楽サークルに所属しており、
「キングギドラ」の大ファンだと言っていた。
彼の意見はかなり貴重だと思ったので、
きちんと取り上げ、これについて考えてみたいと思う。

彼の主張は大きく分けて二つであった。

1.「ホモ野郎」という言葉は、
  文字通りにホモセクシャルの人々を指しているわけではなく、
  「男らしくない男」を表す一種のたとえではないか。

2.同性愛者は趣味で同性愛をやっているのであるから、
  ある程度の差別には我慢すべきではないのか。

まず、
1.について考えてみよう。
確かに、
「ホモ野郎」という言葉が他の何かの比喩的表現であり、
同性愛者そのものを指していたわけではない可能性は否定できない。
しかし、
たとえそうであったとしても、
この歌の悪質さは変わらない。
「ジャップを殺せ!」というCDが発売され、
その「ジャップ」という言葉が「仕事中毒人間」の比喩的表現であって
日本人そのものを指しているわけではないのだとしても、
日本人を侮辱していることには変わりがないのと同じである。
この歌詞の中で
「ホモ野郎」は「ニセもん野郎」と同列視され、
明らかに「悪いもの」としておとしめられている。
「ホモ野郎」という言葉が実際にはどういう人を指していたのだとしても、
「ホモ野郎」というものは悪いものだという前提で
「悪いたとえ」として使われていたことは動かしようがないのである。

また、
「ホモ野郎」を「男らしくない男」という意味で使ったというのなら、
それはそれで見識に欠ける。
「男らしさ」・「女らしさ」という「社会的性別」の問題と、
「ホモセクシャル(同性愛)」・「ヘテロセクシャル(異性愛)」という「性的指向」の問題とを、
全く別の問題であるのに混同してしまっているからだ。
世の中にはいろんな同性愛者がいる。
男性同性愛者もいるし、女性同性愛者もいる。
その男性同性愛者の中にも、
マスコミによく取り上げられるような「女性的」な男性同性愛者もいるし、
逆に「マッチョ」な男性同性愛者もいる。
そして、
男性同性愛者に対する世間のイメージは
大体この二つに絞られてしまっているような傾向があるけれど、
そのどちらのイメージにも合わない男性同性愛者が
大多数だというのも事実である。
要するに、
男性同性愛者にもいろいろいるのである。
右翼にもいろんな右翼がいるように。
そして、左翼にもいろんな左翼がいるように。

何より、
「男らしくない男」なら差別してもいいのか。
日本文化における「男らしさ」には、
「責任感がある」・「力強い」などの意味合いがあるようだが、
反面、「暴力的」・「柔軟性に欠ける」などの側面もある。
男が「男らし」くないことは一概に悪いこととは言えないし、
また男だけが「男らし」く生きなければならない理由も特にない。
「男らしい」ことがそんなにいいことであるならば、
当然女性も「男らし」くてもいいはずだ。
そもそも、「男らしい」云々で言うならば、
今回の「キングギドラ」の対応ぶりは
お世辞にも「男らしい」ものとは言えなかった。

次に2.についてだ。
「同性愛者は趣味で同性愛をやっている」と信じる人は
いまだに多い。
しかし、
性的指向はそう簡単に自分の意思で変えられるものではない。
同性愛者が異性を性的に愛することが難しいのは、
異性愛者が同性を性的に愛することが難しいのと同じである。

もちろん、恋愛とは、
本来は強制されてするものではないから、
広い意味では「趣味」に属する可能性があることは
否定はしない。
しかし、
男が女を愛することや女が男を愛することは
一般に「趣味」とは言わないようだ。
まして、男女の結婚や夫婦生活のことを
「趣味」という人はいないだろう。
それなのに、
同性間の恋愛だけを「趣味」として片付けるのは不公平である。

また、
百歩譲って同性愛が趣味だとしても、
それは決して同性愛者に対する差別を正当化しない。
もし、
将棋好きの人が我が国では差別されており、
「将棋野郎を殺せ!」というCDが発売されたとしよう。
将棋好きの人たちは趣味で将棋をやっているのであるから、
これに抗議する権利はないのだろうか。
少なくとも、
僕はそうは思わない。
同性愛が趣味であろうとなかろうと、
不当な差別に抗議するのは実に当然のことなのだ。

世の中には、
同性を愛する人間もいれば、
異性を愛する人間もいる。
両者は単に恋愛対象が異なるだけで、
この違いが人間としての価値に差をつけることはありえない。
「変態」なのは同性愛者の方ではない。
同性愛者を嫌悪し、排除し、笑いものにする社会の方こそ、
はっきり言って「変態」なのだ。
同性愛者に対する差別・偏見はやはり不当なのである。
『鈴木邦男をぶっ飛ばせ!』「酒井徹の今週の裏主張」No.2より転載)
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by imadegawatuusin | 2002-08-30 05:26 | 差別問題