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名古屋地裁:トヨタ社員の過労死認定

――30歳EX(班長)、夜勤残業中に心不全で死亡――

■死亡前1ヶ月、「『確実なところで』106時間45分残業」
トヨタ自動車堤工場に勤めていた内野健一さん(当時30歳)が
2002年2月9日午前4時20分ごろ、夜勤残業中に工場内で倒れ、
心不全で死亡したにもかかわらず、
豊田労働基準監督署
これを労災と認めなかったのは不当として、
遺族が労災認定を求めていた裁判の判決が
30日、名古屋地方裁判所であった。
名古屋地裁の多見谷寿郎裁判長は、
内野健一さんの死亡前1ヶ月の時間外労働時間が
「『確実なところで』106時間45分」に上ったとして
遺族側の訴えを認め、
内野健一さんの死を過労死と認定。
遺族補償年金の支給などを認めなかった
豊田労働基準監督署の処分を取り消す判決を言い渡した。

■裁判長、異例の「判決理由説明」と付言
民事訴訟の判決言い渡しでは通常、
裁判長は主文(結論)だけを読み上げ、
あとは事務局が判決文を配布するのみとなる。
しかし名古屋地裁の多見谷寿郎裁判長は、
主文言い渡しの後、
さらに法廷で自ら判決理由の解説まで行なうなど、
この判決の言い渡しにかける
異例とも言える強い姿勢を示した。

多見谷寿郎裁判長はこの異例の「判決理由解説」の中で、
内野健一さんの死亡前1ヶ月の時間外労働時間を
「『確実なところで』106時間45分」と認定。
健一さんが「真面目な性格」であり、
「丁寧に仕事をしていた」、
「過重な業務で疲労を蓄積していた」、
「亡くなる直前まで一生懸命仕事をしていた」と
自らの口で語った。

内野健一さんの妻・博子さん(37歳)は、
この間の入念な調査によって、
健一さんの死亡前1ヶ月は勿論、
死亡2ヶ月~6ヶ月前についても
膨大な時間外労働の存在を立証し、
これが「労災」であることを主張してきた。
多見谷寿郎裁判長は「判決理由解説」の後、
さらにこの点について原稿を見ずに直接原告に語りかけ、
「原告はこの間、
 強い思いで大変な努力をされてきました。
 しかし裁判では、
 結論を得るために必要な分だけを認定するということですので、
 その点についてはご了解願いたいと思います」と話した。
時間外労働であったことが「確実な」
直前1ヶ月の106時間45分のみで
過労死認定には充分なことから、
あえて遺族側が主張した月144時間という残業時間や
死亡2ヶ月~6ヶ月前の時間外労働時間の存在を、
判決理由の中に盛り込まなかったことに
理解を求めたのである。
遺族・内野博子さんの、
事実上の全面勝利判決といえよう。

■父も祖父もトヨタ社員。3代にわたる「トヨタマン」
父も祖父もトヨタ自動車の従業員。
さらに母親もトヨタで働いていたという内野健一さんは、
「子供の頃から車が大好き」だったという。
自らもトヨタ自動車のEX(班長)として、
車体部で「トヨタ生産方式」の下、
多忙な業務に従事してきたことは勿論、
EX(班長)会の広報担当、
交通安全活動やQCサークル活動のリーダー、
創意工夫活動のチェック係や新人教育係に加え、
さらには労働組合の職場委員までを一手に引き受け、
「亡くなる直前まで一生懸命仕事をし」(多見谷裁判長)、
当時3歳と1歳だった子供たちを残して
最後の瞬間までトヨタに尽くして亡くなった。

判決言い渡しのあと支援者たちは、
別に用意された記者会見会場に集合。
弁護団が判決文の読み合わせを行なっている間、
トヨタ車体の「労働者うたう会」が中心となり、
『ライトを付けて帰りたかった』を熱唱。
その後、
内野さん一家をモチーフに作られたとされる、
『おやすみ』や『背筋のばして』を
会場の支援者で合唱し、
参加者の涙を誘った。
(『おやすみ』には、
 「車の大好きなパパは遠いお空の道を
  今も走ってる」、
 「ママはパパの笑顔を胸に抱いて生きるよ
  ママは負けないよ」との歌詞が、
 また『背筋のばして』には
 「母さんと歩こう手をつなぎ
  右は姉ちゃん 左はぼく
  父さんのように背筋のばして」との歌詞がある。
 内野健一さん死亡時には3歳と1歳だった子供たちが、
 今やもう、小学校3年生と1年生になっている。
 妻・内野博子さんは、
 遺族年金の支給が認められない中、
 自ら派遣社員となって幼い子供たちを育てる傍ら、
 長い裁判闘争を闘ってきたのだ)。

■遺族:「もう頑張らなくていい。支えてくれる人がたくさんいるから」
記者会見が始まると内野博子さんは、
亡き健一さんと家族らの写真を前に、
「やっと……、
 やっと認められました」と切り出し、
「当たり前のことが当たり前に認められるために、
 6年近くかかりました。
 あきらめずに頑張ってきて、
 本当に良かった」と語って涙をぬぐった。

その後 記者から、
「健一さんにどのような言葉をかけたいか」
と質問された博子さんは、
少し考えた後、
「ちょっと時間がかかっちゃって、ごめんなさい。
 でも、もう、頑張らなくていいよ。
 支えてくれる人がいっぱいいるから」とコメント。
トヨタ自動車に対しては、
「これで会社も変わっていく。
 生産台数だけじゃない、
 本当の意味での世界一の会社になってほしい」と
期待を込めて注文を付けた。

■豊田労基署:元署長含む7人、トヨタ系企業の接待で処分
そもそもこの問題は、
2002年3月に、
遺族である内野博子さんが
豊田労働基準監督署に遺族補償年金などの支給を
申請したにもかかわらず、
これが認められなかったのが発端だ。
当時30歳の内野健一さんは、
夜勤残業中に心不全で死亡したという 事の性質上、
まず何を置いても過労死ではないかと疑ってかかるのが
当然である。
しかし、どうしたわけか豊田労働基準監督署は、
遺族側が約144時間、
裁判所の判決では「『確実なところで』106時間45分」とされた
死亡前1ヶ月間の時間外業務を
何と44時間余りと主張。
(その後、
 裁判が開始されると52時間50分に若干修正)。
トヨタ自動車工場における内野健一さんの死を労災とは認めず、
遺族補償年金の支給などを拒否したのである。

今年2007年7月、
同じ豊田労働基準監督署の労働相談員が、
トヨタ系企業に、
同社の残業代支払いに関する内部告発情報を
漏洩していたことが判明した(朝日新聞7月3日)↓。
http://rodo110.cocolog-nifty.com/airoren/2007/11/post_feb9.html
この労基署の労働相談員は、
何と当該トヨタ系企業を定年退職した後に、
豊田労働基準監督署に
再就職していたというのである。
労働行政の厳正性・中立性に
根本的な疑念を抱かせる出来事である。

ところが、それだけではない。
この件に関する愛知労働局の内部調査の過程で、
豊田労働基準監督署の元署長を含む幹部3人、
職員4人がこのトヨタ系企業のゴルフ場割引券で
ゴルフをしていたことが判明し、
減給などの懲戒処分を受けたのである。

この事件は、
それまでの豊田労働基準監督署の厳正性・中立性に
大きな疑問を投げかける事件であった。
それ以前の労働行政のあり方について、
もう一度一から洗い直す必要すら感じさせる
重大事件である。

判決後、
裁判所にほど近い愛知労働局を訪れた
遺族の内野博子さんは、
「豊田労働基準監督署が
 最初から正しい判断をしてくれれば、
 こんなに大変な思いをすることはなかった。
 どうかこれ以上、
 遺族を苦しめないでください」と、
応対した労働局長や労災補償課長らに
控訴断念を訴えた。

豊田労働基準監督署は、
今回裁判所で断罪された
2003年の労災不認定決定を反省し、
直ちに控訴断念の決断を行なってほしい。

■トヨタ自動車:遺族の要請書の受け取り拒否
その後、
内野博子さんや支援者らは、
トヨタ自動車の営業本社のある
名古屋駅前・ミッドランドスクエアを訪問。
人生の最後の瞬間までトヨタに尽くして亡くなった
内野さんの功績に報い、
会社からも被告である国(豊田労基署)に対して
控訴しないよう働きかけてもらいたいとの、
要請書を手渡そうとした。

しかしトヨタ自動車側は、
「訴訟の当事者ではない」などとして、
要請書の受け取り自体を拒絶。
博子さんは、
健一さんが祖父・父・子の3代にわたって
トヨタで働いてきたことなどを説明し、
応対した社員に理解を求めたが、
トヨタ自動車側は最後の最後まで
遺族の要請書を受け取ることを
頑なに拒否したのである(朝日新聞12月1日)。
(さらに言うと、
 博子さん自身も、
 大学時代にトヨタのディーラーのアルバイトをしていて
 健一さんと知り合い、
 トヨタの労働組合の組合会館で
 結婚式を挙げたのだ。
 また博子さんの父親も、
 トヨタ関連の部品製造に従事していたという)。

トヨタ営業本社の奥深くに入っていった博子さんを、
ミッドランドスクエア24階で待っていた支援者たちは、
博子さんが再び姿を見せたとき、
大きな拍手でこれを迎えた。
しかし、
博子さんが事の顛末を語ると、
拍手はまもなく「エーッ」という驚きの声に変わった。

この間、ミッドランドスクエアの入り口前で待機していた
トヨタ少数派労組・「全トヨタユニオン」の若月忠夫委員長は、
これを聞いて、
「なんて会社だ!
 社長に代わって俺がお詫びするよ」と、
会社側の対応への憤りを表明した。

そもそも今回の裁判では、
遺族側が「会社業務」として主張した
トヨタの労働組合における職場委員としての活動は、
「会社の業務」とは認められなかった。
つまり内野健一さんは、
「『確実なところで』106時間45分」に上る時間外業務をこなし、
疲労が限界にまで達しつつある中、
さらに「会社業務ではない」労働組合の活動にも
挺身していたということになる。
内野健一さんは労働組合の役員として、
文字通り身を削り、
骨を削り、
命をも削って労働組合の活動に従事しつつ
任期半ばで亡くなったのだ。

妻・博子さんは故・内野健一さんが、
「労働組合の職場委員会があって、
 今日も昼ご飯が食べられなかった」と言っているのを
よく聞いたという。
過労死寸前の状態で、
なお組合活動に挺身した内野健一職場委員に、
労働組合はどのような形で報いてきたのか。
もし今までそれが出来てこなかったというのであれば、
せめて今、何が出来るのか。

労働組合としての真価が問われているのは
今である。


市民団体:内野さんの労災認定を支援する会
住所:〒472-0043 知立市東栄3-25
     愛労連西三河ブロック事務所内
電話:0566-82-5020
電子メール:seisan@katch.ne.jp

by imadegawatuusin | 2007-11-30 23:20 | 労働運動
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