谷川流「笹の葉ラプソディ」について

――3年前の七夕、ハルヒに「誘いの手」が差し出された夜――

ハルヒに訪れる7月7日の憂鬱は、
届かないかもしれない者への憧憬と言うところに
あるのかもしれません。(「(アニメ感想) 涼宮ハルヒの憂鬱 第8話 『笹の葉ラプソディ』」より)


■キョンにも「秘密」のハルヒの思い出
3年前の七夕の夜、
ハルヒは「ジョン・スミス」と名乗る少年を使い、
東中学の校庭に
まるで「出来そこないのナスカの地上絵」のような(谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』18ページ)
模様群を描かせた(谷川流『涼宮ハルヒの退屈』106~108ページ)。
これは織姫・彦星に向けられた、
「私は、ここにいる」という
メッセージであったらしい(前掲書109、126ページ)。
世に言う「校庭落書き事件」である(谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』17ページ)。

ハルヒはこの一件を『自分がやった』と認めたものの、
校長室に呼び出され、教師総掛かりで問いつめられても
それ以上のことは
頑として話そうとはしなかった(谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』18~19ページ)。

「ジョン・スミス」との思い出は、
(本人であるキョンを除けば)
今もハルヒの心の中に仕舞い込まれたまま、
ということになる。

全てにおいて開けっぴろげに見えるハルヒも、
決して自分の全てをSOS団団員たちの前に
さらけ出しているわけではない。

ハルヒは今も七夕の季節になると、
窓の外を眺めては「思い出し憂鬱」にひたる。
まるで、
「いつ宇宙人が舞い降りるかと
 指折り待っているような雰囲気」で(谷川流『涼宮ハルヒの退屈』91、128~129ページ)。

■「異世界人」が登場しない理由
「ただの人間には興味ありません。
 この中に
 宇宙人、未来人、異世界人、超能力者がいたら、
 あたしのところに来なさい」(『涼宮ハルヒの憂鬱』11ページ)。
涼宮ハルヒ初登場の名シーンで
そう呼びかけられた対象のうち、
唯一「異世界人」だけが作品に登場する気配がない。
これはなぜか。

ファンの間でしばしば議論されることではあるのだが、
その答えは結局のところ、
この「笹の葉ラプソディ」の中にあるのではないか。
つまり、
当時中学1年生だった涼宮ハルヒに
大きな影響を与えた「ジョン=スミス」が、
「宇宙人」については「いるんじゃねーの」、
「未来人」については「まあ、いてもおかしくはないな」、
「超能力者」については「配り歩くほどいるだろうよ」と
肯定的な発言をしたのに対し(「笹の葉ラプソディ」『涼宮ハルヒの退屈』107ページ)、
唯一「異世界人」については
「それはまだ知り合ってないな」と
否定的な発言をした(全掲書108ページ)。
『だから』、
異世界人はこれまでも、
そしてこれからも登場しない。
そういうことなのではないか。


《本文校訂》
谷川流『涼宮ハルヒの退屈』74ページ

誤:今週は期末テストを間際に控えた
  七月の一週目で、

正:今週は期末テストを間際に控えた
  七月の二週目で、

本作は七月七日を舞台としており、
その日が平日である以上(谷川流『涼宮ハルヒの退屈』75ページ)、
七月七日を含む「今週」が「七月の一週目」であることは
ありえない。
七月一日が仮に月曜日であったとしても、
七月七日は日曜日になってしまう。
もっともキョンは
「俺は月曜は一って感じがする」と
発言しており(谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』28ページ)、
週の始まりを日曜日に置いている可能性もあるが、
たとえ七月一日が日曜日でも、
七日は土曜日となってしまい平日にはならない。
「第一回不思議探索パトロール」が
「土曜日」に決行されたことからも明らかなとおり、
キョンたちの通う県立北高では
土曜日も「休みの日」となっており、
平日ではありえない(谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』138ページ)。
七月七日が平日であるためには、
必ず一度(七月一日以外で)日曜日をまたいだ
第二週目でなければならない。
漫画版の
短編・「ノウイング・ミー、ノウイング・ユー」(『涼宮ハルヒの憂鬱』3巻、ツガノガク)は
「七夕前の七月の日曜日」を舞台としており(『涼宮ハルヒの憂鬱』3巻、69~77ページ)、
やはりこの「笹の葉ラプソディ」は
七月第二週の出来事であると考えたい。


谷川流『涼宮ハルヒの退屈』102ページ

誤:徐々に人通りのまばらなる道
  十分ほど歩いたか。

正:徐々に人通りのまばらになる道
  十分ほど歩いたか。

「まばらなる道」という言葉遣いも
古典的な日本語表現としては存在するが、
それでは「徐々に」という言葉が
後の部分につながらない。
(「徐々に人通りのまばらなる道」?)。
前後の文脈を見ると、
歩き始めたころは
「人の目をはばかるようにして」
歩かなければならなかったが、
目的地の東中学校付近には、
校門をよじ登り「不法侵入」をくわだてるハルヒを
とがめる者はいなかったことがわかる(谷川流『涼宮ハルヒの退屈』102~103ページ)。
つまりこの道は、
「(歩いてゆくと)徐々に人通りが
 まばらになっていった」ことになる。
よってここ部分は「に」という助詞が抜け落ちていると考え、
「徐々に人通りのまばらなる道」
と読むのが正解だろう。


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谷川流「ミステリックサイン」について
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by imadegawatuusin | 2008-02-19 05:01 | 文芸