国民栄誉賞について

――長谷川町子が受賞して手塚治虫はなし?――

■「次の受賞者」は誰か

9月17日の朝日新聞「青be」に、
国民栄誉賞の話題が載っていた。
「過去の受賞リストの中で、
 『国民の栄誉』に真にふさわしい
 『ベスト受賞者』は誰なのか、
 アンケートしてみ」たという。

現在までの受賞者は19人(団体を含む)で、
中には「こんな人知らんぞ」という人もいる。

「国民栄誉賞は選考の基準も、
 方法もいま一つわからない賞です。
 時の政権の人気取りという批判もあります」
と記事にもあるように、
受賞にあたって客観的な基準があるわけではない。
「対象者は
 『広く国民に敬愛され、
  社会に明るい希望を与えることに
  顕著な業績があった者』。
 ゆるい規定で、
 総理大臣顕彰では対象にしにくい
 プロ野球選手にも授与できるようにしたといわれる」
とのことだ。
「機会逸すると授与しにくい」とも。

漫画好きとしては、
長谷川町子(『サザエさん』の作者)が受賞していて
手塚治虫がもらっていないというのは
今ひとつしっくりこない。
もちろん、
『サザエさん』が
国民各層に広く受け入れられた作品であることは
否定できないが、
漫画という表現ジャンルそのものへの功績というか、
後の世への影響みたいなものも勘案すると、
「漫画家で誰か一人」ということになれば
やはり手塚治虫なのではないだろうか。

現在、
ただ「漫画」と言ったとき、
新聞の四コマ漫画や風刺漫画ではなく、
『ジャンプ』や『サンデー』に載っているような
ストーリー漫画を想像する人のほうが多いはずだ。
長谷川町子がいなくても、
おそらく現在の漫画業界に
大きな変化はなかったと思うが、
手塚治虫がいなければ、
漫画業界・アニメ業界のありようは
大きく違っていた可能性が高いと思う。

死亡時に生前の功績をたたえ、
受賞が決定することも多いようだ。
「広く国民に敬愛され、
 社会に明るい希望を与えることに
 顕著な業績があった者」。
『となりのトトロ』や『天空の城ラピュタ』で有名な
宮崎駿監督などは、
目下かなりの有力候補ではないかと思うのであるが、
どうだろう。

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by imadegawatuusin | 2011-09-21 18:46 | その他

――会場で被災地への義援金集めも――

■「助け合い」の精神で復旧・復興に連帯
3月13日(日)午前10時から開催予定の、
「反貧困フェスタinあいち」は、
東日本で起こった大震災の現状にかんがみ、
「反貧困集会inあいち」と名称を変更して
開催されることになりました。

会場では被災地への義援金集めなども予定され、
反貧困の諸活動の中で培われた「助け合い」の精神を
前面に押し出した集会として
実施されることとなります。

予定された企画には大幅な変更が生じる見込みですが、
こうしたときこそ一人一人が手を取り合って、
被災地の苦難に想いを馳せ、
連帯する「反貧困集会」を実現したいものです。

わが名古屋ふれあいユニオンの組合員にも、
東北出身者がいます。
トヨタグループ企業で労災隠しにあい、
現在入院中の男性組合員も宮城県出身です。
昨日は
何度電話をしてもつながらなかったとのことですが、
本日、ようやくご家族の無事が
確認できたということです。
しかし、
ご実家は半壊状態とのこと。

名古屋ふれあいユニオンとしても、
具体的な震災被災者支援の取り組みができないものかと
本日の運営委員会では話し合われました。

本日の「反貧困集会」をその出発点として、
被災地の復旧・復興に
連帯してゆきたいと思います。


名称 反貧困集会inあいち
日時 2011年3月13日(日)午前10時~午後5時・参加費無料・申込み不要
場所 金城学院大学(名古屋市守山区)
    名鉄瀬戸線「大森・金城学院前」駅下車徒歩4分
主催 反貧困フェスタinあいち実行委員会
共催 愛知県弁護士会
連絡先 反貧困フェスタinあいち実行委員会(名古屋法律事務所内)
電話052-451-7746 FAX052-451-7749 
Eメールinfo@hanhinkon-aichi.net
http://hanhinkon-aichi.seesaa.net/


【参考記事】
反貧困フェスタ、「反貧困集会inあいち」に変更し開催

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by imadegawatuusin | 2011-03-13 01:53 | その他

藤井裕久財務大臣が
体調不良を理由に辞任を表明し、
後任に菅直人副総理が
横滑りで就任することになった。

藤井氏の真意について、
小沢一郎民主党幹事長との関係など、
うがった見方も取りざたされている。
ただ僕は、
そうした理由ももしかするとあったのかもしれないが、
むしろ「表向きの理由」とされている
「体調不良」というものこそが、
案外「正直な理由」なのではないかと思っている。

なにせ藤井氏は77歳である。
もともと先の総選挙で
政界を引退するつもりだった人物だ。
そこを、77歳にして鳩山首相に請われ、
国務大臣の中でも最も重責とされている
財務大臣として
予算編成の激務にあたったのである。
体調不良にもなろう。
「もう無理です」というのは
それほどわからない話ではない。

菅直人新財務大臣は、
「予算執行過程の情報公開」や
一般会計と特別会計の
全面的見直しをはじめとする改革に
強い意欲を示している。
是非ともがんばってもらいたい。
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by imadegawatuusin | 2010-01-07 22:38 | その他

――「ハンディキャップ」の概念覆す最新技術――

■災い転じて福となす
9月7日の朝日新聞「GLOBE」に、
人間の可能性というものについて
非常に考えさせる記事が載っていた。
少し長いが引用する。

新しい未来の形として、
ヒトのもつ様々な能力を、
最新の技術で拡張する
(アップグレードする)試みも
始まっている。
06年に
(筆者注:マサチューセッツ工科大学メディアラボの)
研究所長に就任した
フランク・モスが音頭をとる
「ヒューマン2.0」である。
研究の先頭に立つのは、
登山家としても知られるヒュー・ヘア。
事故で両足を切断したヘア教授は、
自らも用いるコンピュータ制御の義足に、
様々な機能を追加し、
人間の運動能力を向上させる研究を
続けている……。

両足切断という「ハンディキャップ」を乗り越え、
再度登山に挑戦する彼は、
岩場の状況に応じて
義足の「プラグイン」モジュールをつけ替え、
普通の人間では登板不可能な場所をも
克服できる。
最新技術を活用することで
「障害」「ハンディキャップ」という概念をなくし、
「アップグレード」のチャンスに変える。
それが彼のビジョンである。
開発した義足は、
イラクで負傷した米傷病兵や、
地雷で足を失った人々の新しい「足」として
活用されている。
(石井裕「メディアラボから未来を発信」、朝日新聞「GLOBE」9月7日)


わが国にも昔から
「災い転じて福となす」ということわざがあるが、
これはすごい。
両足切断という人生最大級の「災い」も、
最新技術で自らのバージョンアップのチャンスに
変えてしまう。
「元に回復させる」という通念を突き破り、
両足切断というピンチを「利用」して、
普通の人間では到達できない領域にまで
自らの足を高めようというのである。

ピンチはチャンスに変えられる。
名古屋ふれあいユニオンのような
一人から入れる労働組合に相談にくる人は
多くは「ピンチ」を抱えた人だ。
クビを切られた、
パワハラを受けた、
住むところもなくなった……。
一般的にいえば、
それは「ピンチ」に他ならない。
けれど「ピンチ」をきっかけに
労働組合の門をたたいた人は、
それを「チャンス」に変えるカギをも
手にしていると思いたい。

派遣切りをきっかけに違法派遣の実態を告発、
これまでピンハネしてきた派遣会社を抜きにして
直接雇用を勝ち取って、
クビきりを跳ね返すだけでなく
時給アップまで勝ち取った労働者もいる。
働く者の団結体に出会えたことで、
本当に、
今まで不可能であったことが可能になることが
あるのである。
要はどれほど逆境にあっても
「ピンチをチャンスに」の心意気が
大切なのではないだろうか。

労組から交渉を申し入れられた企業の側にも
それはいえる。

ある日突然、
聞いたこともないような労働組合が
交渉を申し入れてくる。
経営者としては、
あまり面白い話でないというのが
正直なところだと思う。

パワハラの実態を暴露され、
頭を下げる羽目になる。
場合によっては慰謝料も
払わせられるかもしれない……。

しかし、
これも ものは考えようだ。
会社に労組が存在するということは、
一つのチェック機能が
社内に働くということでもある。

パワハラが隠蔽されているような職場では、
たとえ問題自体は公然化していなくても、
やはり職場の雰囲気はよくないものだ。
職場がすさめば
従業員もいい仕事はできない。
一人一人の従業員が
その力を十全に発揮できない職場になっていく。
それは、
企業にとっても長い目で見れば
実は大きなマイナスなのだ。

労組とともにウミを出し切り、
職場を改善してゆくならば、
その恩恵は必ず企業自身に帰ってくる。

労働者も企業も、
労組との出会いは決して「望ましい」ものでは
ないことが多い。
けれどその出会いを、
自らの「バージョンアップ」に結びつける
積極性が求められているのではないだろうか。
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by imadegawatuusin | 2009-09-08 23:47 | その他

「マリオ」と「マリア」

「オ」で終わたら男、
「ア」で終わたら女ね。
ボク、「アントニオ」、男ね。
「アントニア」なら、女ね。
「マリオ」、男ね。
「マリア」、女ね。
(日系ブラジル人・アントニオさんの言葉)


ブラジル人と話していると、
時々ハッとさせられるような発見を
することがある。
「マリオ」と「マリア」が同系列の名前だなんて、
これを聞くまで全く考えたこともなかった。
(「アントニオ」と「アントニア」なら
 すぐに気がつくのに……。
 某テレビゲームの影響か)。

日本語の名前でも、
動詞を名前にする場合、
歩(あゆむ)なら男、
歩(あゆみ)なら女。
光(ひかる)なら男、
光(ひかり)なら女、
薫(かおる)なら男、
薫(かおり)なら女、と、
一定の傾向性はあるように思う。

終止形なら男で、
連用形なら女
(もしかすると「動詞なら男、
 それが名詞化すると女」かもしれない)。
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by imadegawatuusin | 2009-02-08 15:42 | その他

――1人1人が情報発信の主人公に――

■電子メールを送る感覚で始められる情報発信
ブログは、
「電子メールを送る感覚で始められる」、
非常に手軽な情報発信の手段である(増田真樹『超簡単!ブログ入門』22ページ)。

これまでは、
インターネット上でホームページを開設・運営するためには、
独特のコンピューター言語を習得してそれを使いこなさなければならず、
多大な知識と労力とを必要とした。
しかしブログは、
そのシステムの中にあらかじめプログラムが組み込まれており、
開設・運営するために特別の知識を必要としない。
あたかも電子メールを送る感覚で、
あるいはインターネット上の電子掲示板に書き込みをしていく感覚で、
誰もが手軽に情報を発信してゆくことができる。

ブログの登場により、
コンピューターに関する特別な技能を持った一部の人々だけでなく、
誰もが情報発信の主人公となれる時代がやってきた。
他人が管理する掲示板に書き込みをしたり、
インターネットサイトに投稿したりするだけでなく、
自らインターネットサイトの運営者となり、
その思想を広く社会に直接発信してゆくことが可能となったのである。

■「情報を出す側の立場」で見てみると……
一人一人が情報発信の主人公となれるようになったとき、
人はどう変わることができるのだろうか。
一つ確実に言えることは、一人一人が、
「新聞を読むのも、
 テレビを見るのも、
 情報を出す側の立場で
 内容を見ることができるようにな」るだろうということだ(本書28ページ)。

みんながブログをやれば、
情報を見る目が育ち、
社会は変わるんじゃないかな。
特に
誤解や偏見は減るような気がします


と、本書28ページで「あるブロガー」は語っている。

■「他者」を意識することで文章はより磨かれる
だがブログは、
単に一方的に情報を発信するだけのシステムではない。
ブログには、一つ一つの記事に対して、
読者からの「コメント」欄と
「トラックバック」欄とが設けられている。

自分の書いた記事に対して読者の反応が跳ね返ってくることで、
情報発信者は「自分の記事に読者がいるということを認識する」(本書30ページ)。
自分の書いているものは
単なる独り言ではなく、
性格も思想も生育環境も、
自分とはまったく異なる「他者」の目に触れる「記事」なのだということを
感じることができる。

そうした「他者」にどうすれば、
自分の思いや考えを正確に伝えることができるのか。
それを意識するところから、
よい文章は生まれてくる。
文章構成から言葉の選び方一つ一つに至るまで、
より情を尽くし理を尽くし、
少しでも「伝わる」文章を書けるようになりたいと志す者にとって、
ブログは格好の「修行道場」となるだろう。

ブログにおける情報発信は
「言いっぱなし」では終わらない。
情報発信者は時に、
読者からの指摘を受ける立場ともなる。
本書では、
「普段は思っていなかったことや、
 気づいていないことを指摘されることから、
 大いに身になる」とされている(本書29ページ)。
だからこそブログは、
「人が何かを考えるとき、
 新しい観点を与えてくれる」のである(本書26ページ)。

■責任ある言論を育む「トラックバック」システム
特に画期的なのは、
「トラックバック」システムであろう。

「トラックバックは、
 ブログの記事同士をつなげる機能」である(本書38ページ)。
これによってブロガー(筆者注:=ブログで情報発信をする人)は、
「自分のブログの記事を、
 相手の記事に自動でリンクすることができ」る(本書38ページ)。

簡単に言えば、
誰かのブログの記事に対して何か意見があるときは、
自分のブログにそれを書いて相手に送るというわけだ。

この機能の素晴らしいところは、
自分の意見は「自分のブログ」に書かなければならないという点である。
当たり前のことのように聞こえるかもしれない。
だが、
これまでのインターネットの世界ではそうではなかった。

これまでは、
インターネット上にある何らかの記事に対して「物申す」ときは、
そのサイトに設けられている電子掲示板に書き込むか、
電子メールを利用するのが通例だった。
だが電子メールや掲示板は、
自らの姿を隠しながら相手に一方的にメッセージを送りつけることが可能な、
いわゆる「匿名言論」である。
その場その場でペンネームを使い分け、
あるときはAと言いながら別の場ではBと言うような無責任言論の横行が
社会問題となってきた。

だが、
ブログの「トラックバック」システムでは、
相手の記事に「物申す」には
自分のホームページに書かなくてはならない。
こうなると人は、
なかなか無責任なことは言えなくなってくるものである。
ある人に対してはAと言い、
別のある人に対してはBと言っているようなホームページを
誰が信用するだろうか。

「トラックバックでは
 自分の居場所を示してから意見を述べるので、
 むやみに荒れる心配が無」い(本書40ページ)。
安心して自らの主張を展開し、
また読者の主張に耳を傾け、
自らの思想を練り上げることが可能である。
ブログには、
「誰もがフェアにコミュニケーションできる土壌が」存在するのだ(本書41ページ)。

■コミュニケーションは「キャッチボール」
こうしたコミュニケーションを、
本書では「キャッチボール」に例えている。

うまくボールを投げるには、
足腰をしっかりさせないといけません。
受け取るときも定位置に構える必要があります。
ネット上でコミュニケーションをするのもまったく同じです。(本書49ページ)


ここで言う「足腰をしっかりさせ」るとは、
自らの立ち位置をはっきりさせるということである。
そして「受け取るとき」に「定位置に構える」とは、
相手の立場や思想といった「立ち位置」を把握し、
そうしたものへの理解の上に立って対話を始めるということである。

本書にもある通り、
「匿名掲示板は立ち位置が極めて曖昧」である(本書49ページ)。
だがブログでは、
発信された一つ一つの記事が「自分の場所に蓄積されていき、
自分自身の『顔』を」形成してゆく(本書55ページ)。
毎日毎日の記事が積み重ねられたブログは、
型の決まりきったありきたりの「自己紹介文」などより、
はるかにその人のありようを浮き彫りにしてゆくだろう。

ブログの「トラックバック」方式は、
お互いの立ち位置をはっきりさせた者同士が対話することになるので、
正に健全な「言論のキャッチボール」が行なわれやすい環境となっている。

■雑談は「発見の原石」
とはいえ、
いきなりブログを始めてみようと誘われても、
戸惑う人の方が多いかもしれない。
「自分は特別何かの専門家というわけではないし、
 人に伝える価値のある知識や見識など何も持っていない」と。

しかしそんな人も、
知り合いや職場の人と寄り集まれば雑談をする。
そして本書は、
そうした「雑談の中に、
……アイディアやヒントの宝の山がある」と教えている。

僕たち庶民が何気なく交わしている雑談は、
その場その場で言い流され、聞き流されて、
きちんと後に残らない。
しかしそうした雑談の中に、
実は「アイディアやヒントの宝の山」が隠されているのだとすれば、
それは非常にもったいない話である。

雑談はいわば「発見の原石」なのだ。
それ自体としては一見価値のない、
「ただのおしゃべり」に見えたとしても、
磨いてみればとてつもない、
価値ある情報が潜んでいるということがある。

ちょっとした思い付きやふと心によぎったこと、
その日あったことを書きとめていくだけでもいい。
本書では、
「頭の中にあることをブログに固着させるようなイメージ」で、
「気がついたことや考えたことを、
 どんどん入力してい」くとある(本書27ページ)。
そしてこれを、
「自分だけのデータベースを作っているような感覚」と評している(本書27ページ)。

だが、ブログを通じた情報発信は
「自分だけ」では終わらない。
自分が入力した情報は全世界に向かって発信され、
また未来永劫子々孫々に至るまで、
世代を越えて劣化することなく受け継がれてゆく。

そのなかで、
いつかどこかで自分の入力したその情報が
誰かの役にたつかもしれない。
そんな希望が湧いてくる。

■「個人文書館」のすすめ
そんなものは夢物語だと笑う人もいるかもしれない。
だが、
何ということのない「個人の日記」が、
後世、意外な役に立つということは実際にある。
我が国では例えば「公家の日記」などである。

三条西実隆の日記とか、
山科言国、言継の日記などが有名であるが、
いずれも宮廷における所管業務のことをはじめ、
さまざまな事件、経験をこくめいにしるした記録である。
また、
たとえば御湯殿上日記というようなものもある。
宮廷の台所日記で、
天皇の側近の女官が、
つぎつぎとかきついできたものである。
こういう日記は、
具体的な事実の記録であるから、
きわめて史料価値がたかい。(梅棹忠夫『知的生産の技術』164ページ)


ここでは例として「宮廷の記録」を挙げているが、
このことは決して「高貴な御方々」だけの話ではない。
例えば会社での日々の業務についての話であっても、
その会社の人々にとっては後に重要な資料となりうるし、
一家の主婦の記録でも、
その家の人々・子孫にとっては後世 重要な資料となりうる。

「ヨーロッパには、どの国にも、
 むかしからアルキーフ(文書館)という施設が発達していて、
 さまざまな記録を、
 じつにこくめいに保存しているということである。
 ……
 知的生産にたずさわろうとするものは、
 わかいうちから、
 自家用文書館の建設を心がけるべきである」と、
前掲書・『知的生産の技術』の著者・梅棹忠夫さんは述べている(前掲書175ページ)。
ブログはその、
個人文書館を築き上げるための、
格好のツールとなるであろう。

■「意外な一面」を披露しよう
人間は必ず、
さまざまな側面を持って生きている。
そして私たちは、
おおむね、その人の一面としか接することができない。
会社の部下はAさんの上司としての一面しか知ることがないし、
学校の生徒はBさんの教師としての一面しか知ることはできない。
だがこれは、
ちょっともったいなくはないだろうか。

ブログは、「何を書いてもOK」である。
仕事の話、趣味の話、
政治の話、経済の話、
どんな話題について書いてもいい。
だからこそブログは、
「ブロガーその人を、まるごと伝えることができる」(本書71ページ)。
「どんなことを考え、
 どんなことをやってきたか……
 過去、そして現在、未来を通じて、
 ブロガーの人格やその生き様すべてを伝えるのがブログ」なのである(本書72ページ)。

これは僕たち庶民だけでなく、
何らかの道を極めた著名人についても言える。
著名人は、
「その道」については専門家であり、
発言権もある。
「その道」について何か言いたいことがあれば、
新聞なり雑誌なりテレビなり、
いくらでも「発言の場」はあるだろう。
だがそれは、
あくまで「その道」に関しての話である。

ある道の専門家も、
それ以外の分野については門外漢だ。
しかし、
例えば現実の教育評論家は、
年がら年中 教育問題についてだけ考えているわけではない。
時には若いころに熱中したロックミュージックについて
熱く語りたいときもあるだろう。
ワインについてうなりたいこともあるだろう。
だが、
そうした分野における発言権をその人はおそらく持ってはいない。
大方飲み屋で一杯やるついでに知り合いに向かって語るくらいが
関の山である。

だが、
ブログでなら、
いかなるジャンルの話題であろうと、
一切の制限なく、
思いや考えを披露することができる。

読者にとっても、
これは自らの世界を広げるきっかけをつかむことになる。
例えばその教育評論家のファンがブログを読んで、
新たにロックミュージックの世界の素晴らしさに目覚めるかもしれない。
ブログは読者を、
新しい世界へといざなう案内板となるかもしれないのである。

■実際にブログを始めてみよう
本書の第2章は、
実際にブログを始めるにあたっての具体的なアドバイスである。
といっても、
それほど大層なことが書かれているわけではない。
なんとなればブログとは、
「特別な知識がなくても始められ、
 継続してゆけるもの」であるからだ。

ざっと紹介すれば、

●トラックバックで問題が起きることはまずないので、
 許可のままでよい(本書94ページ)。
●コメント欄が「荒れた」場合は、
 運営者としてコメント欄に
 「一時停止にさせていただきます」など一言添えた上で
 停止したり、表示を消したりする(本書94ページ)。
●まずは記事を充実させることを重視する。
 デザインや機能は、
 内容が充実してくると、
 次第にそれに適したものが見えてくる(本書96ページ)。
●トラックバックは、
 基本的に、
 記事中で相手のブログの記事について言及する場合に用いる(本書102~103ページ)。

といったところだろうか。

そして何より重要な指摘は、
ブログが人気を博するための秘訣が、
「休まず毎日続けること」だということであろう(本書105ページ)。

■「人格を伝え、信頼を得る」
近年、
インターネットを通じた取引が盛んである。
顔の見えないもの同士が
「金銭や商品のやり取りをする場合、
 人と人とをつなぐのはお互いの信頼」のみであるといえる(本書161ページ)。

そして、
「さまざまな方法で、自分を表現することができるブログは、
 インターネット上で信頼を獲得するために大きく役立」つと
本書は主張するのである(本書162ページ)。

なぜならブログには
「自分の意思を表明したり、
 気になった情報のメモを残したりするので、
 それらの積み重ねがその人の人格や情報を伝えるから」だ(本書162ページ)。

インターネット上で「人格を伝え、信頼を得る」手段として、
ブログは非常に有用である(123ページ)。
特にインターネットを通じた営利活動を行なう人には、
この上ない「自己紹介ツール」として機能するだろう。

■「アフィリエイト」への疑問……ひも付き記事はごめんだ!
さて、
本書を読んでいて少々疑問に思ったのが、
「アフィリエイト」という活動である。
本書ではこれは、
ブログで「収入を得る」手段として紹介されている。

要するに、
ブログの記事の中で何らかの商品を紹介し、
それを通じて消費者がその商品を買えば、
ブログの筆者が会社から、
その収益の何パーセントかのいわば「紹介料」を
受け取るというものである。

ものを書いて収入が得られるのは
一見うれしいことのように見える。
しかし世間では、
一般的に こういうものを「ちょうちん記事」と呼ぶのではないだろうか。
(少なくとも僕にはそうとしか見えない)。

本当によい商品があるのであれば、
ケチケチせずにタダで紹介すればいいではないか。
商品を紹介するたびに金をもらうというようなことをやっていると、
読者から見れば、
本当にその商品がよくて紹介しているのか、
それともお金が欲しくて紹介しているのかわからなくなる。
こうなれば、
一時は会社からお金をもらって儲かったように見えたとしても、
筆者はインターネット上で何よりも大切な財産である「信頼」を
失ってしまうことになる。
少なくとも、
オピニオンリーダーを志す者のやることではないように僕には思える。

確かに「一流」とされる新聞や雑誌にも
広告が載っているのは事実である。
だが、新聞や雑誌では、
「記事」と「広告」とは厳然として分けられている。
(時には紛らわしいものもなくはないが、
 広告のページにはきちんと「広告」と銘打たれ、
 記事とは区別されている)。
本物の記事の中に広告が紛れ込んでいたりすれば、
それは詐欺というものである。

しかし「アフィリエイト」システムでは、
企業から金をもらっている記事とそうでない記事とが、
同じブログの中にまったく対等の形で混在することになる。
ブログの記者が、
あたかも記事のような形式で書いた広告。
もし新聞や雑誌でこんなことをやれば、
大問題になるだろう。

僕は断じて「アフィリエイト」というような制度は利用しない。
企業から金をもらって商品の紹介をしたりはしないし、
ちょうちん記事を書くことも断固として拒否する。

僕は、
「もっとも『正直なウェブサイト』」であるブログでこそ(本書71ページ)、
よいものは はっきりよいと言い、
悪いものは はっきり悪いと言っていきたい。

特定企業・大企業のひも付きではない、
真に自由な言論空間をこのブログから築き上げてゆくつもりである。
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by imadegawatuusin | 2006-08-05 19:43 | その他

――女性の体を無理やり触るのは犯罪行為――

■公党の会合でこんなことが起こるなら、
 記者は安心して出席もできない
千葉県の自民党県議・岡田啓介氏(54)が
朝日新聞社の二十代の女性記者にわいせつ行為を行なった件で、
ブログ「りょんりょんの言いたいこと」の主催者・りょんりょん氏が、
「二人の問題では?」との記事を発表した。

りょんりょん氏はこの中で、

>もしこの女性が男性を好意的に思っていれば体を触られるのは「いちゃいちゃボディータッチ」で嬉しいことだし、わいせつ行為のメールだって「愛のラブラブメール」だよね。
>だから法的な問題じゃなくて、二人の問題でしょ。

などとしているが、
今回の自民党県議・岡田啓介氏のわいせつ行為は、
酒を飲んで女性の体を無理やり触ったものであり↓、
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/jiken/news/20060712ddm041040038000c.html
どう考えても

>女性が男性を好意的に思っていれば体を触られるのは「いちゃいちゃボディータッチ」で嬉しいこと

などというケースには該当しない。
岡田県議はその後も女性記者に卑猥な言葉をかけた上、
携帯電話に卑猥なメールを送りつけたりしているし、
女性は中座し、
わいせつ行為を受けたと自ら朝日新聞社に申告しているのである。
(詳しくは↓)
http://imadegawa.exblog.jp/2781190/

■公党と、それを取材するマスコミ全体との問題だ
りょんりょん氏は

>だから法的な問題じゃなくて、二人の問題でしょ

などと言っているが、
これは決して一県議と一記者の問題では済まされない。

考えてもみてほしい。
議員から情報を得なければならない立場の新聞社記者の体を
議員が無理やり触るのはそれ自体で十分「法的な問題」であるが、
今回の件は決してそれだけではないのである。
今回のわいせつ行為は、
公党主催の記者クラブとの懇親会で、
他の議員も見ている中で公然と起こっている。
公党主催の会合の席上で
こんなセクハラが行なわれるなら、
記者は安心して懇親会にも出席できなくなってしまう。
だからこれは、
「公党と、それを取材するマスコミ全体との問題」であり、
新聞社としては絶対に軽視できない問題なのだ。

僕は、
小なりといえども社会に情報を発信する同じブログ主催者として、
りょんりょん氏の責任ある返答を求めるものである。

【関連記事】
千葉:自民県議、記者にわいせつ行為
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by imadegawatuusin | 2006-07-12 19:00 | その他

■『読売新聞』が 報道

栃木リンチ殺人事件で
加害者と その親権者
及び 栃木県警の 属する 栃木県を 相手取って
損害賠償訴訟を 起こしている 被害者の 父親に 対し、
「血税を1億も取ったんだから出て行け」
などと 書かれた 嫌がらせの 手紙が
25日に 送りつけられたことが 明らかになった(読売新聞4月26日夕刊)。

読売新聞の 報道によると、
「いつまで被害者を装って英雄気取りしてるんだ」
などと 印字してあったという。

■事実誤認に 基づく 短絡的な 主張で 罵倒

確かに 宇都宮地裁は 12日、
加害者に、
県と 連帯して
およそ 1億1200万円を 支払うよう
命じてはいる(産経新聞4月12日夕刊)。
(正確には、
 加害者の 支払うべき およそ 1億1200万円のうち、
およそ 9600万円分が 栃木県との 連帯負担額だ)。
しかし 栃木県警は 判決の あとも
この 結果を 受け入れようとせず、
これを 不服として 東京高裁に 控訴したため、
県の 賠償自体が (いま)だに 確定しておらず、
実は 被害者遺族は
(いま)だに 県から
1円も 賠償金を 受け取っていない(下野新聞2月26日)。
(しかも その 宇都宮地裁判決でも、
 およそ 1億1200万円は 加害者が、
 うち およそ9600万円については
県と 連帯して 支払えとされているだけだ)。
にも 係わらず、
(すで)に 被害者遺族が
「血税を1億も取った」かのように
一方的に 思い込み、
それを よりどころに
「出て行け」などと 言いがかりを つけるとは、
事実誤認の 逆恨みも はなはだしい、
まことに 短絡的な 言い分である。

■「顔中火傷の被害者」 県警、証言や防犯ビデオを無視

この 事件で 被害者の 男性は、
少年グループに 拉致・監禁され、
およそ 2カ月の あいだ 連れ回された 末に
殺された。
このあいだ 被害者は、
少年グループによって 丸坊主にされ、
眉も そり落とされて 暴行を 受け、
挙句の果てには 熱湯を 浴びせられて
木の 靴べらで 100回以上 殴られるなどの
壮絶な リンチを 受けていた(毎日新聞2000年6月4日)。
(さら)に 加害者たちは 被害者に、
サラ金や 友人 及び 知人から 金を 借りることを 強(し)い、
合計 700万円以上を 脅し取っていたのである。
顔に やけど状の けがを 負った 被害者が、
4人の 男たちに 取り囲まれながら、
銀行に 金を 下ろしに 来る 様子を 写した
防犯カメラの 映像も 残されていた(毎日新聞4月12日夕刊)。

被害者の 両親は (すで)
警察に 捜索願いを 出していたが、
銀行から、
「顔は明らかにわかる火傷をしています。
 いつでも証拠として出しますので警察に相談してください」との 連絡を 受け、
改めて 警察に 相談した↓。
http://www.tv-asahi.co.jp/hst/contents/special/060404.html

にも(かか)わらず 警察は 動かなかった。
防犯ビデオの 映像の 確認すら しなかった。

そのあとも 両親は 幾たびも 捜査を 要請し、
何度も
息子を 助け出してほしいと 求めたにも係わらず、
栃木県警は 何の手立ても 講じることは 無かった。
被害者が 殺される 2日前に、
その日も 警察を 訪れていた 両親のもとに、
被害者から 電話が かかってきた。
加害者たちに 脅されて、
金を 送るよう 頼まされたのだ。
だが、電話口に 刑事が 変わり、
「警察だ」と 名乗った すぐあとに 電話が切れた。
加害者たちは この電話によって
警察の 捜査を 察知し、
被害者の 殺害を 決意したと
刑事裁判においても 認定されている(朝日新聞2000年6月1日夕刊)。

県警は、
一時は この 経過を 認めたにも (かか)わらず、
その後、
「署員の後に被害者の母親が
 『金なんかあるか、でれすけ野郎』と怒鳴ったため、
 電話が切れた」などと 責任を 転嫁した。
しかし、
この 席に 同席していた
加害者の 母親までもが 法廷において、
「(被害者の)両親の言うことが正しい」と
証言している。
宇都宮地裁は 県警側の 主張を 退けた。

■県警の 対応こそ 文字通りの 「税金ドロボー」

事件発生後、
栃木県警は 当時の 本部長が、
「担当した署員らは、
 仕事に対する取り組み方に欠けるものがあった。
 積極的に対応していれば、
 被害者を保護できたかもしれない」と、
捜査に 不手際や 怠慢があったことを 認めていた。
ところが 裁判が 始まると
その 物腰を いきなり ガラリと 変え、
「両親の届け出からは切羽詰った危機意識を見て取れず、
 具体的な危険性を予見できなかった」などと
責任を 否定するという
まことに 見苦しい ふるまいに 出たのである。
(宇都宮地裁は 判決の 中で、
 「県警は遅くとも99年11月には、
  被害者に生命の危機が切迫していることを
  認識していたか、
  十分認識できた」と、
 警察側の 主張を 一蹴している)。

警察の 怠慢や 適切でない 対応によって
息子を 殺された 被害者の 遺族が、
その 非を 訴え、
損害賠償を 求めることは
まことに 当たり前の事である。
栃木県警の こうした 捜査の あり方が
これからも 変わっていかなければ、
栃木県民全員が 損害を こうむるというものである。
被害者遺族は、
こうした 警察の 対応が
間違ったものであるということを
判例というかたちで (おおやけ)に 残し、
再び こうした 過ちが 繰り返されることが 無いように、
いわば そうした
「税金ドロボー」的な 行政の 在り方を
正す 意義も 含めて
損害賠償訴訟に 立ち上がったのだ。

それを、
「血税を1億も取ったんだから出て行け」などと、
あたかも 被害者遺族の 側が 税金を 掠め取る、
いわば
「県民の 敵」であるかのように 主張する
短絡的な 物言いには、
疑問を 通り越して 憤りすら 覚える。

被害者の 父親は 立派である。
息子を 殺され、
妻も 心労で 亡くし、
卑劣な 嫌がらせを 受けてなお
堂々と 闘っている。
自分の 顔・名前・住所……といった 個人情報を
全国に さらしながら、
正々堂々と 闘っている。
この人を、
どうして 栃木県民は
追い出すことが 出来るだろうか。
彼こそ、
栃木県民の誇りである。

■安易な 「被害者バッシング」の 風潮 許すな

わたしは 今回の 嫌がらせの 主に 対し、
(ただ)ちに このような 短絡的な 見解を 撤回し、
被害者遺族に 対して その 罪を 詫びることを 求める。
わたしたち 言論に 携わる 者は、
安易な 「被害者バッシング」の 風潮を 決して 許さず、
断固たる 物腰を もって
これに 立ち向かってゆくことが 求められる。しかり。

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by imadegawatuusin | 2006-04-26 15:19 | その他

――根拠は「超能力者の透視」――

■「振り回されぬ姿勢」を示すことこそ真の教育 
テレビ朝日が5日、
情報番組の中で、
「超能力者の透視」をもとに、
「殺人犯が近くに潜伏している」などとして
神戸市立福地小学校の地図と校庭の映像とを放送した。

報道によるとテレビ朝日は、
5日に放送された情報番組「TVのチカラ」の中で、
「透視能力者」に1990年12月に札幌市で発生した
女性殺害事件の容疑者の潜伏先を「透視」させ、
「潜伏先はこの近く」などとして
福地小学校の名前が載った地図と
同校の校庭の映像を放送したという。

学校側は「児童や保護者の不安をあおる内容」と
テレビ朝日に抗議する一方、
保護者から不安の声が上がったため、
1週間、児童を集団下校させることを決めたという(「朝日新聞」12月7日)。

学校側の言うとおり、
テレビ朝日の放送は
「児童や保護者の不安をあおる」ものであり、
悪質であると僕も思う。
だが、学校側も情けない。
このような胡散臭い放送に「あお」られた「不安の声」に対して
どうして毅然とした対処ができないのか。

おそらく、
「何かあったとき、
 責任が取れない」という事なかれ主義が
学校関係者の心を支配してしまったに違いない。
「何かある」可能性は、
確かに「ゼロ」ではないだろう。
「女性殺害事件の容疑者」とやらが本当に近くに潜伏している可能性も、
まったく「ゼロ」とは言い切れない。
しかしそれは、
どの町・どの学校でも同じことであり、
テレビ朝日の放送がある前もあった後も
何ら変わりのないことである。

「超能力者の透視」などという怪しげなものに
踊らされるのは愚かなことだと
きっぱり態度で示すのも、
教育のうちだと僕は思う。
情報の質と真偽をきちんと見極め、
いいかげんな情報に振り回されず、流されず、
主体的な判断を行なえる子供を育てることは、
情報化社会における非常に重要な課題でもある。

テレビ朝日側は
「小学校を訪れて番組の製作意図を説明」したいとしているが、
「透視能力者」なるものを担ぎ出して
不用意に人々の不安を煽り立てるこの放送に
いかなる「製作意図」があったというのか。
きちんと説明できるものなら
してもらいたいものである。
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by imadegawatuusin | 2005-12-07 04:19 | その他