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カテゴリ:仏教( 20 )

――実は単なる縁起かつぎ――

■理屈もへったくれもない「10回プラス」
2011年12月31日の『毎日新聞』朝刊に、
「除夜の鐘はなぜ108回なの?」という記事が
載っていた。

「除夜の鐘」の「原形は
中国で宋代(960~1279年)に始まったとされ、
日本には鎌倉時代、
禅宗とともに伝わりました。
……室町時代になってから、
大みそかに108回鳴らすようになったと
いわれています」とのことである。

ではなぜ108回なのか。
世の中ではよく、
それが仏教でいう煩悩の数だからなどと
まことしやかに言われている。

確かに、
もともとの起源は
インドの仏教書・『倶舎論』にあるらしい。
ただし、
「実は、倶舎論にある煩悩の数は98なんです。
 しかし、
 いつからか10回プラスされて
 108という縁起のいい数字に数えられています」と
いうのである。

だとすれば、
「108」という数は
仏教とも煩悩の数とも縁もゆかりもない、
ただの縁起かつぎだということになる。
縁起かつぎで「10回プラス」とは、
理屈もへったくれもないむちゃくちゃな話だ。

「教理よりも縁起かつぎ」。
これが、
除夜の鐘108回の真相であるようだ。

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by imadegawatuusin | 2013-12-31 17:37 | 仏教

日蓮宗にちれんしゅう 法華経寺ほけきょうじで 行なわれている百日大荒行ひゃくにちだいあらぎょう
修行者の 死が 相次いでいることが 問題になっている。
昨年度は 30代の 僧侶が
修行中に 体調不良で 病院に 運ばれ、
その日のうちに 亡くなった。
2000年以降で 死者は 3人目であるという。

そもそも、
仏教を 開いた 能仁(シャカ)は、
当時 インドにおいて 行なわれていた 苦行によっては
悟りを 開くことは 出来ないと 断じたはずだ。
そして、
荒行でも 怠惰でもない 中道に
救いの 道を 見出したのである。

それに 対して 日蓮宗の 百日大荒行は どうか。
百日大荒行は
毎年 11月1日から 翌年の 2月10日まで 行なわれる。
その間、
冬の さなかも 1日 7回の 水行が 課され、
食事は かゆと 汁物の 一日 2回。
睡眠は 一日 3時間ほどであるという。
まさしく、
釈迦が 禁じた 苦行 そのものと いうべきではないか。

しかも、
この 百日大荒行を 達成すると
加持祈祷が 出来る 「修法師しゅほっし」という
日蓮宗 公認の 資格が 得られるというのだ。
この資格の 取得が 百日大荒行の 目的と 化していると
危惧する 声も 上がっているという(朝日新聞5月14日)。

呪術能力の 開発のために 修行をすることは
明らかに 仏教の 本旨に 反している。
仏教の 最も 古い 経典で、
歴史的人物としての 能仁(シャカ)の 言葉に
近いとされている 詩句を 集めた
『スッタニパータ』(『経集』)の 第927詩には、
能仁(シャカ)自らの 言葉として、
「わが徒は、
 ……呪法と夢占いと相の占いと星占いとを
 行なってはならない」と
はっきりと 記されているのである(『ブッダのことば』中村元[はじめ]訳、岩波文庫、201ページ)。

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by imadegawatuusin | 2013-07-22 09:50 | 仏教

■自分が生きることは人を生かすこと
「老いてゆく姿を孫に見せること。
 それも教育だと思う」。
かつて、旭化成の新聞広告に、
こんな言葉があった。

老人だから、何もできないと思うのは間違いだ。
全ての人は、他者との関係の中で生きている。
まさに、
「自分が生きることは人を生かすこと」であり、
「それ以上の尊い贈り物はない」のである
白取春彦『仏教「超」入門』PHP文庫39ページ)。


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「白取春彦『仏教「超」入門』について(その1)」
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白取春彦『仏教「超」入門』について (補章1)
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by imadegawatuusin | 2008-11-23 01:49 | 仏教

■世は無常。だからこそ、向上・発展あり
白取春彦『仏教「超」入門』58ページに
次のようにある。

「世」という漢字は、
流転する、移り変わっていく、という意味です。
したがって、
世間も世界も恒久的ではなく、
絶えず変化して、とどまらないものなのです。


絶えず変化するからこそ向上がある。
絶えず変化するからこそ発展がある。

世が無常であることは、
悲むべきことでも むなしいことでもなく、
厳然たる事実であり、真理なのだ。

その事実をどう生かし、
その事実にどう生かされてゆくかは、
ひとえに本人の努力次第ということになる。


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「白取春彦『仏教「超」入門』について (補章2)」
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by imadegawatuusin | 2008-07-15 07:42 | 仏教

■その後の仏教
ブッダの死後、
彼の教団は
出家修行者を中心に運営された。
彼らはブッダの教えの理論的な研究に
重点を置いた。
ブッダの説いた教義教理を
組織化・体系化して把握することを目指したのだ。
そのこと自体は、
仏教が「智慧」を重視する合理的思想である以上、
当然の流れだったと僕は思う。

しかしこの流れは、
やがて人間日常の生活とは遊離した
煩瑣な議論に終始する傾向に行き着くことになる。
ブッダの言うところの「煩悩」の正体を正確に知ろうとして、
それを108つだかいくつかに非常に細かく分類し、
その区分の仕方を巡って延々と議論を繰り返したりするようになった。
ブッダの言葉を借りれば、
「毒矢の材質」を知るための議論に
終始するようになったのだ(『仏教「超」入門』117~118ページを参照)。

これはキリスト教で言えば、
その神学研究が「聖書の解釈の解釈の解釈」に堕し、
やがてスコラ哲学(=煩瑣哲学)の行き詰まりにぶつかったことに
相当するのかもしれない。
本来 平明を旨としたブッダの教えは、
このような不毛な議論の中でズタズタに切り裂かれていった。

さらに、
教団運営の主導権を出家指導者が握ったことで、
教団は、
ごく一部の宗教エリートたちが
個人的に悟りを開くことのみを目指す運動へと
矮小化されていった。
広く大衆の中に分け入って、
一人でも多くの人々と幸福を分かち合おうと奮闘したブッダの実践は軽視され、
現実社会・生活を避けて、
どこか遠くに悟りや幸せを求めようとする傾向が強まったのだ。

しかしこのようなあり方は、
やはり「宗教改革」によって覆される運命にあるのだろう。

こうした流れ(=「小乗仏教」)に抗して現れたのが
いわゆる「大乗仏教」であった。

「大乗仏教」はもともとは、
煩瑣な議論の中にかき消されつつあった、
「すべての物事の性質は
 相互の関係の中で成立する」というブッダの教えを
「空」の思想として捉えなおす原点回帰(=ルネッサンス)運動であった。
そしてまた、
一部の宗教エリート(=出家修行者)から一般の在家信者へと
教団の主導権を取り戻そうという民衆運動でもあった。

「大乗仏教」初期の経典である、
『般若心経』をはじめとする「般若経典」では、
「実体」ではなく「関係性」を重視するブッダの主張が、
「空」の思想として鮮やかによみがえっている。

だが、
「民衆重視」の方向性は、
やがて悪い意味での「大衆迎合」へと向かっていってしまった。
それ以降作られたいわゆる大乗経典は、
ブッダ本来の精神からは
どんどん遠ざかっていったように僕には見える。

いわゆる「浄土三部経」(『無量寿経』・『観無量寿経』・『阿弥陀経』の3経典の総称)では、
本来は悟りに至った人間の穏やかな境涯を表わす
比喩的表現であったはずの「彼岸」(本書127~129ページを参照)が
「浄土」として実体化する。
悟りに至った人の心の平穏さが、
極楽浄土の素晴らしさ、
それも本書127~128ページにあるような、
(「極楽には五百億もの宮殿や楼閣がそびえている
  ……あたりは見渡す限りきらびやかな宝石だらけで……」というような)
実に即物的な「素晴らしさ」に
すりかえられてしまったのだ〔注1〕。
そして、
ブッダは「阿弥陀仏などという古い民間宗教の神様と
一緒にされ」てしまった(なだいなだ『神、この人間的なもの』岩波新書、111ページ)。
西方極楽浄土という観念的な、
死後の世界での成仏が説かれたためか、
「仏」というものがあたかも人間から離れた存在であるかのように
捉えられてしまったのだ。
また、
成仏とは死後の出来事であると考えたり、
死体を「ホトケ」と呼ぶなどの、
「仏」や「成仏」をいま生きている人間から切り離したものとして捉える
誤った風潮を生むこととなった。

『妙法蓮華教』(いわゆる『法華経』)では、
歴史上のブッダは仮の姿にすぎず、
遥か昔に成仏を遂げた永遠不滅の仏の化身であるなどと
臆面もなく説かれることになる。
もともとは、
個人としてのブッダその人などよりも、
普遍的なその教えの方が大切だという趣旨から出たのだろうが、
それがいつの間にやら、
逆にブッダの存在を限りなく神秘的なものとする
個人崇拝へとつながってしまった。

そして『大日経』などの密教に至って、
仏教はいよいよ呪術・祈祷をこととする、
儀式儀礼の「まじない宗教」に堕してしまう。

そして、
我が国・日本に広まった「仏教」は、
そのような「大乗仏教」だったのだ。

本書『仏教「超」入門』は、
ブッダ本来の教えに立ち返ろうという
原点回帰(=ルネッサンス)の呼びかけだ。
上に記した
「これまで安易にイメージされてきた仏教」を乗り「超」え、
本来の「仏(=ブッダ)」の「教」えの「門」に「入」ろうと説く。
『仏教「超」入門』という書名には、
僕たちへのそうしたメッセージが込められている。

本書が、一人でも多くの人たちにとって、
驚くほど新鮮で実際的なブッダ本来の教えに
触れる機会となれば幸いである。
〔注1〕鎌倉時代の僧で日蓮宗を開いた日蓮は、
「浄土」や「地獄」といったものについて、
「浄土と云うも地獄と云うも
 外(ほか)には候(そうら)はず・
 ただ我等がむねの間にあり、
 これをさとるを仏といふ・
 これにまよふを凡夫と云う」(『日蓮大聖人御書全集』1504ページ)、
つまり、
「浄土と言ったり地獄と言ったりするものも、
 ほかでもない、
 ただ私たちの心の中にあるものなのだ。
 この真理を悟った者を仏という。
 この真理を悟れない者を凡夫というのだ」と主張している。
日蓮宗ではこの主張を、
「一念三千」の法理と呼んで非常に重視している。
つまり、
「私たちの思い一つ(=一念)の中に、
 (浄土や地獄をはじめとする)三千世間(=全世界)が
 存在している」と考えるのだ。


酒井徹のおすすめ仏教書》
B=R=アンベードカル『ブッダとそのダンマ』山際素男訳、光文社新書


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by imadegawatuusin | 2007-12-04 16:33 | 仏教

■ブッダは遺骨崇拝を否定した 
本書・『仏教「超」入門』にもある通り、
ブッダは死期が近づいたとき、
弟子たちに対してこう語った。

お前たちは修行完成者(ブッダ)の遺骨の供養(崇拝)に
かかずらうな。
どうか、
お前たちは、
正しい目的のために努力せよ。(本書29ページ)


ブッダは遺骨崇拝を否定した。
大切なのは、物質としてのブッダの遺骨などではなく、
ブッダの悟りの内容なのだ、と。

死期を目前にしてあえてこのようなことを言ったのは、
おそらくブッダ自身、
自らの遺骨が迷信的な崇拝の対象となるのではないかと
予感し、心配していたからであろう。

だが……。

しかし、
弟子たちは遺骨を分配した。
遺骨の供養と崇拝を始めた。
ブッダの死とともに、
葬式仏教が始まったといっていいだろう。

……ブッダの遺志ははたされなかった。(本書29ページ)


ブッダの心配は的中した。
ブッダの遺骨は現在でも、
「仏舎利」として、
世界中で崇め奉られ続けている。
(もっとも、
 その「仏舎利」の総量を合計すれば
 とてつもなく膨大な量になってしまうと言われる。
 そのようなものが本当にブッダの遺骨なのかどうかは
 確認のしようもないことであるし、
 仮に本物であったとしても、
 ブッダの教えた通り、
 そのようなことには何の意味もないものである)。


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by imadegawatuusin | 2007-12-03 16:31 | 仏教

■「南無」(~に帰依する)をブッダはどう見るだろう 
日本は仏教国だ、と一般には言われている。
事実、日本人の大部分が「仏教徒」として、
その(「家」が)所属する寺院に登録されている。

しかし白取春彦さんは本書・『仏教「超」入門』の中で、
「日本が本当に仏教国であるかどうか、
 疑わし」いと言っている。
そして、
「もし仮に仏教国だとしよう。
 では、
 ブッダの教えた仏教を信じているのだろうか。

 ブッダがここにきたら、
 ためらいもなく『日本は仏教国だ』と言う確率は
 どのくらいあるものだろうか」と問いかけるのだ(本書182ページ)。

確かに、
「南無妙法蓮華経」と唱えることで
即身成仏が実現するとか、
「南無阿弥陀仏」と唱えれば
極楽往生間違いなしだとかいった類の、
我が国の「仏教」の主流派である
「南無」(~に帰依する)の信仰をブッダが知れば、
おそらく即座に、
「それは自分の教えとは異なるものだ」と言うだろう。

あらかじめ「阿弥陀仏」とか「妙法蓮華経」といった絶対的なものを設定し、
それへの帰依を説く「南無」の考え方は、
絶対的なものの存在やそれへの執着を否定する
ブッダの教えからは明らかに逸脱している。

日本の仏教徒の大半は、
「南無阿弥陀仏」の浄土宗系(真宗系を含む)か、
「南無妙法蓮華経」の日蓮宗系(霊友会などの新興教団を含む)で
占められている。
僕はいま、
日本人の大部分を敵に回す発言をしてしまったのかもしれない。
ただ、
本来の仏教の立場に立てば、
やはり以上のように言わざるを得ないのである。

ブッダは
「あの世」より「この世」、
「超越性」より「現実性」、
「神秘性」より「合理性」を重視した。

このような教えは、
あるいは宗教ではないと言われるかもしれない。
それならそれで構わないのではないかと僕は思う。

インド仏教復興の祖であるB=R=アンベードカルは、
その著書・『ブッダとそのダンマ』(光文社新書)の中で
次のように述べている。

ブッダがダンマと呼ぶものは
宗教とは根本的に異っている。
彼のダンマは
ヨーロッパ神学者が宗教と呼ぶものと似てはいるが、
類似性よりむしろ相違性のほうが遥かに大きい。
このためブッダのダンマを宗教と認めないヨーロッパ神学者も
かなりいる。
が、
このことで悔やむことは何もない。
悔やむのは彼らのほうであり
ブッダのダンマにはいささかの瑕(きず)もつかない。
むしろそれは
何が宗教に欠けているかを示しているといえる。(第4部第1章-2)



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by imadegawatuusin | 2007-12-02 16:23 | 仏教

■仏教は悲観論か 
本書・『仏教「超」入門』白取春彦さんも指摘するとおり、
ブッダは、
「人間存在を苦しみであると見るところから出発した」(本書34ページ)。
このような仏教を、
「悲観論」あるいは「厭世論」であるとして非難する人もいる。

確かに、
「人生は苦しみに満ちている」という結論で終わってしまえば、
それは確かに悲観論・厭世論というものである。
しかし、
ブッダにとって「人生は苦しみである」というのは
あくまで出発点にすぎない。

彼は菩提樹の下で悟りを開き、
苦しみ=心の病を自らの力で克服し、
心の平穏を獲得した。
そしてその後は、
以前の自分と同様の「病」に今も苦しむ人たちに
自分の獲得した心の平穏を分け与えようと、
布教と説教にその生涯をささげた。

これが果たして、
単なる悲観論者・厭世論者の行動であろうか。

「インド仏教徒のバイブル」と言われる
『ブッダとそのダンマ』(B=R=アンベードカル)は、
この点について実に的確な指摘をしている。

ブッダのダンマは厭世観を生むと非難されてきた。
その非難の根拠は、
この世は苦であると説いた最初の説法にある。
しかしその苦に対する考察がそのような批判を呼ぶというのは
いささか意外である。
カール・マルクスは、
この世界には搾取が存在し、
富めるものは益々富み、
貧しいものは益々貧しくなるといっている。
だが誰も
マルクスの思想は厭世的だとはいっていない。
だのに何故ブッダの思想には
異なった態度をとるのか。
おそらく最初の説法の中で、
“生まれることは苦であり、
 老いも死も苦である”と語ったと記録されていることから、
教義の厭世観が殊更(ことさら)強調されたのであろう。

……しかしブッダは第二の説法で、
この苦は取り除かれねばならぬと強調している。
苦の除去を力説するために
苦の存在に言及したのである。
苦の除去こそ
ブッダが極めて重視したものである。
……

このようなダンマが
どうして厭世的といえよう。
苦の克服に熱心であった教師が厭世的だなどと
どうして非難できるのだろうか。(第6部第4章-3)



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by imadegawatuusin | 2007-12-01 16:18 | 仏教

■不安でも、「するべきこと」をすればよい 
白取春彦さんは本書・『仏教「超」入門』の中で、
「悟っても煩悩は依然として生まれてくる」と指摘する。
だが、悟れば、
「その煩悩に煩わされないようになる」というのだ(本書111~112ページ)。
このことを説明するために、
白取さんはこんな例を出す。

たとえば、
今夜あたり一杯飲みたいなあという煩悩が
生まれてきたとしよう。
酒好きの人はいったんそう思うと、
昼過ぎあたりから夕方のことが気にかかって
しかたなくなる。

つい仕事もそこそこになったり、
今日しなければならない雑務を明日に延ばしたりする。
酒をうまく飲むために、
午後からできるだけ水分をとらないようにする人もいる。

こうして、
心も行いも飲酒にかかずらうようになってしまう。
煩悩に振り回されてしまっているのである。
結果、
しなければならぬことがおざなりになる。
思いが酒にばかり向いているから、
人との約束を忘れたりする。

道元の始めた曹洞宗のような禅宗では、
そのときの一事に専念することを求められる。
徹底して一事に集中するのである。(本書112ページ)


悟りを得るとは、
人間が生きていく中で生まれてしまう煩悩を
「全て消し去ってしまう」というよりも、
「それに煩わされなくなる」というほうに近い。
白取さんはそう言っている。
こうした考え方は、
現代の精神療法の一つである森田療法に
非常に似ている〔注1〕。

森田療法では、
精神病の原因は「不安」そのものではなく、
「不安に『とらわれること』」にあると考える。
だからとにかく、
「やるべきことをやる」ことが求められる。
「煩悩があるから、不安があるから、
 やるべきことに手がつかない」ではなく、
「煩悩があっても、不安があっても、
 とにかくやるべきことに手をつけろ」と教える。
「煩悩や不安を持つ自分」を受け入れた上で、
それらに煩わされず生きてゆくことに重点を置くのである。

そのために、
目の前にある一事に徹底して専念させる。
「不安で、やるべきことに手がつかなかった人間」から
「不安でも、やるべきことはきちんとやる人間、
 やろうとする人間」に変わることで、
自分だけでなく、
自分と周囲との関係も変わりはじめる。
ブッダの考えたとおり、
世界は「空」であり、絶対のものではない。
自分が変われば、世界も徐々に変わってゆく。

まず自らの行ないを変えてみることが
世界に対して良い関係(=縁起)をつくりだし、
世界をよりよい方向に革命する。
「自己革命が世界革命の原点となる」とはこういうことを言うのである。

こうして現実が変わってくると、
いつしか心の中に根強くあった不安の方が
薄らいでくる。
ブッダの考えたとおり、
人間は縁起、つまり
周囲との関係の中で「つくられる」存在であるからだ。

こうなると、
今度は革命された世界の側が
自分自身を良い方向へと向かわせてくれる。
いわば世界革命が自己革命を推進する方向へと向かうのだ。

……と、口でいうのは簡単だが、
実際にやってみるとこれがなかなかうまくいかない。
けれど白取さんは本書の中で、
だからといって嘆く必要はない、
まずは自分から『変わろうとすること自体』が大切なのだと
教えてくれる。

「自分ではそういうふうに努力しているつもりなんだけど、
 これがなかなか」と、
悪い縁起を絶ちきれないことに
いらだっている人もいるかもしれない。

けれども、
それで自分を責めたり、
自分を不甲斐ないと嘆く必要などさらさらない。

良く生きようと努力していく人生は尊く、美しいからだ。

必ず誰かが見て、
生き方の美しさにあこがれて、
その人も努力を始めるものだ。
だから、
自分の努力は良い縁起をつくっているのである。

はっきりと目に見えなくても、
それは良い縁起である。(本書79ページ)


〔注1〕前回著書を引用した精神科医のなだいなださんも、
仏教と森田療法の類似性を
次のように指摘している。

真理とは、
だれにも分かるやさしいものでなければならない。
……ブッダはそれを見つけた。
ものごとにはかならず理由がある。
人間が不安になる根源の理由は
生きているからだ。
だから生きている以上は
不安であって当たり前。
治ろう治ろうとじたばたしても無駄だ。
それより現実を受け入れて背負っていけ。

……それって、
おれたちが森田療法で
患者に納得させようとしていることじゃないか

……おれたちがブッダをまねているんだ。
ブッダは悟って、
病気には悩まなくなる。
だが、
自分の心は軽くなったが、
それで充分とは思わなかった。
自分は出家できた。
それゆえ悟れた。
出家できるのは特権だ。
特権で悟ったことは出家できないものに分け与えねばならない、
と思うのだね。
そしてかつての病人だったブッダが治療者に生まれ変わる

……そこで集団精神療法を始める

座談会の形式を使い、
弟子に自由に発言させながら、
その場の人間がわかるように、
たとえ話でしめくくる。
経典からは、
ブッダのそんな姿が浮かび上がってくる(なだいなだ『神、この人間的なもの』岩波新書、)


ブッダの布教活動を
「集団精神療法」と見ると、
在家信者は通院でときどき精神療法を受ける
比較的軽症の患者、
出家信者は入院して集団生活の中で精神療法を受ける
比較的重症の患者であったということになろうか。
こう考えると、
従来 当然とされてきた、
「出家信者が宗教的権威を持って主導権を握り、
 在家信者を従えていく」という構図も
根本的に見直さなければならなくなってくるかもしれない。


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by imadegawatuusin | 2007-11-30 16:07 | 仏教

■「心の病」を克服したブッダ
前回述べたようにブッダは、
「この世の苦しみを克服すること」を
自らの第一課題とした。
逆に言えばブッダは、
「この世に生きていくことは苦しみである」と
感じていたということになる。

ここでいう「苦しみ」とは、
物理的な苦しみというよりも、
むしろ精神的な苦しみに重きが置かれていると思われる。

本書『仏教「超」入門』でも述べられているが、
彼はもともとインドにあった王国の王子様だった。
物質的には、
季節ごとに住居を変えるような、
極めて裕福な暮らしを送っていた。

それでも彼は、
生きてゆくことが苦しかったのだ。
だから彼は、
地位はもちろん妻も子も捨て、
救いを求めて出家(=家出)した。
こうした点で彼の苦しみは、
物質的には豊かな国に暮らしながらも
満たされない思いを抱えている現代の日本人にも
通じるものがあるのではないか。

これは余談だが、
精神科医の なだいなだ さんは、
ブッダをはじめ、
イエスやムハンマド(マホメット)といった世界宗教の始祖たちは、
布教を始める以前に、
みな一度 精神病に罹患した経験を持っていると指摘している。

三人の始祖たちが、
布教の前に、
例外なく孤独になって、
幻聴や幻視や妄想を体験していることは象徴的だ(なだいなだ『神、この人間的なもの』岩波新書、146ページ)


と。

確かにブッダは、
悟りを開くためにブッダガヤの菩提樹の下で座禅を組み、
瞑想にふけっていた際に、
「幻聴や幻視や妄想を体験している」。
「インド仏教徒のバイブル」と言われる
B=R=アンベードカルの『ブッダとそのダンマ』(光文社新書)には、
この場面が次のように描かれている。

瞑想の最中に悪しき考え、
悪しき情欲――マーラの子――が心に忍び入った。

ガウタマ(筆者注:=ブッダの本名)はこの悪しき欲望との戦いに
いかに多くの聖仙、バラモンたちが屈したかを知っていたから、
彼もその力に屈服するかもしれないとひどく懼れた。
彼はあらん限りの力をふりしぼり
マーラに告げた。

「我には不動の信念、勇気、智慧有り。
 いかにして汝の悪しき情欲が我を打ち負かせようぞ。
 この風が川の流れを涸らすことがあろうとも、
 我が決心を涸らすことあたわず。
 我、敗北より戦いて死ぬことを望む」

悪しき欲情は、
脂肪の塊のような形をした石の周りを
“ここに何かやわらかそうな、
 旨そうな食物がある”と
飛び回る烏のように、彼の心に入りこんだ。
しかし
何も旨いものが見つからなかった烏のように、
悪しき欲情はうんざりしてガウタマから離れていった。(第1部第4章-1)


これはやはり、
客観的に見れば「幻聴や幻視や妄想」というべきものであろう。
「マーラの子」あるいは「マーラ」というのは、
悟りを開く前のブッダ(=ガウタマ)の心の中にあった「悪しき欲望」が
「幻聴や幻視」という形をとって彼の前にあらわれたのだと見るべきだと思う。

こうした目で見ていくと、
ブッダの「悟り」は驚くほど
現代の精神療法に似ていることに気付かされる。

彼は心の病にとらわれていた。
そして当時、
精神医学というものはなかった。
精神科医もいなかった。
だからブッダは、
「自分で治す」しかなかったのである。


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by imadegawatuusin | 2007-11-29 16:00 | 仏教