カテゴリ:文芸( 50 )

日本最大の新宗教団体・創価学会の
三代会長・池田大作の小説・『人間革命』の
前編とも言うべき作品が
この『小説人間革命』だ。
創価学会という組織を知る上で、
「創価学会の精神の正史」とされる
『人間革命』の前編となった
この『小説人間革命』の重要性は
改めて強調するまでもないだろう。

『小説人間革命』の著者は
池田大作の先代の創価学会会長にあたる
二代会長の戸田城聖だ。
池田大作は創価学会会長の職とともに、
この『人間革命』を書くという仕事も
戸田城聖から引き継いだのだと見ることができる。

聖教文庫版の『小説人間革命』の上巻には、
戸田城聖の後継者である池田大作が
「文庫版に寄せて」と題する序文を寄せている。
そこでは戸田の『小説人間革命』は、
戸田の師である創価学会初代会長・牧口常三郎を
宣揚する作品であるとされている。
そして、
池田が初めてこの小説の原稿を読んだとき、
自らは
「(戸田)先生の偉大な理念と真実を伝えるため、
 やがて続『人間革命』ともいうべきものを
 書かねばならないな、と」「密かに決意した」と
書かれている。
ここで言われている「続『人間革命』」というのが、
現在『人間革命』として刊行されている
池田の小説であることは言うまでもない。
池田大作の『人間革命』は
戸田城聖の『小説人間革命』の後を受け継ぎ
書き継がれた小説であるわけなのだ。
戸田が『小説人間革命』で
師である牧口常三郎を宣揚したように、
池田もまた
自らの師である戸田城聖を宣揚しようと
『人間革命』を書いたのだ。

だから池田大作の『人間革命』を読む人は
その前に戸田城聖の『小説人間革命』に
目を通しておくといい。
この本は小説であるので事実そのままではなく、
著者である戸田城聖は
「巌九十翁(がんくつお)」という少しふざけた名前で
登場している。
(無実の罪でとらわれた岩窟王に、
 戦時中、
 治安維持法違反・不敬罪で監獄に入れられた自らを
 なぞらえていたのか)。
池田大作も序文で言う通り、
この作品は「巌さん(筆者注:=戸田城聖)と
それを取巻く八軒長屋の住人が
妙法(筆者注:=日蓮仏法の信仰)によって
見事に蘇生していく姿を
軽妙な筆致で描」いたものであり、
その筆の軽妙さは
現在でも読む者を引き付ける力を失っていない。

時代設定は、
創価学会がまだ「創価教育学会」と呼ばれていた
戦前である。
池田大作は序文の中で、
「(筆者注:戸田)先生が小説の手法を用いて
 『人間革命』を書かれたのは、
 創価学会の使命と精神、
 そして妙法の偉大な変革の力を
 一人でも多くの人に伝えたかったからだ」と
言っている。
だが面白いことに、
この文庫本・『小説人間革命』の上巻部分には、
作中、
「創価学会」という言葉も、
その戦前の前身である「創価教育学会」という言葉も
全く出てこない。
出てくるのはただひたすら「日蓮正宗」だ。
創価学会初代会長の牧口常三郎も、
二代会長である戸田城聖の分身である「巌さん」も、
ひたすら「日蓮正宗」の信仰をすすめている。

文庫本の下巻に至ってようやく
「創価学会」という言葉も登場するが、
それは「生活革新同盟」などと同列の、
数ある日蓮正宗の信者の集まりの一つという程度にしか
描かれていない。
信仰の中心はあくまで「日蓮正宗」に置かれている。

他宗教を信じていると良くないことが続々と起こり、
他宗の信仰対象を処分して
日蓮正宗の
御本尊(「南無妙法蓮華経」と書かれた掛け軸)を拝むと
途端に良いことが起こるという
あまりにもご都合主義的で毎度ワンパターンな展開には、
あきれを通り越して
もはや痛快さすら感じる。
戸田城聖の時代の創価学会は
今よりもっとご利益主義的な宗教だったのだろう。
はっきり言って
理屈もへったくれもないのである。
他宗教を信じていると不幸になり、
日蓮正宗の御本尊を拝めば幸せになれる。
貧乏も病気も逃げていき、
家庭円満で幸せになれるという
実に大胆な構成なのだ。
池田大作はこの作品を、
「多分に小説風なところを見せながらも、
 急所は事実を織込み鋭く構成されている」と
激賞しているが、
少し身びいきが過ぎないか。
ノンフィクションとして
「うちの宗教を信じたらこんなに幸せになりました」
という話であれば、
その信仰のすばらしさを示す一つの実証として
受け取ることもできる。
だが、
フィクションである小説で
ひたすら「うちの宗教を信じたら幸せに……」と
やられても、
「そりゃ小説なんだから何とでも書けるじゃないか」と
言うしかない。


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by imadegawatuusin | 2014-02-09 19:41 | 文芸

――帽子屋が示した「資本主義の倫理」――
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■母狐のつぶやきの意味は

『手ぶくろを買いに』は
大正・昭和初期の童話作家・新美南吉の有名な作品だ。

冷たい雪でしもやけになった子狐の手を見て母狐は、
毛糸の手袋を買ってあげたいと決意する。
そこで母狐は子狐の片手を人の手に変え、
銅貨を握らせ、
かならず人間の手のほうをさしだすんだよと
言いふくめて
町の帽子屋へ
毛糸の手袋を買いに行かせてやるのである。

ところが子狐は間違って、
母狐が出してはいけないと言っていた狐の手の方を
帽子屋に差し出してしまう。
帽子屋は一目で狐であると理解するが、
それでも持ってきた銅貨が本物であることを確認し、
きちんと毛糸の手ぶくろを子狐に持たせてやったのだ。

ある経済学者が、
健全な資本主義の発展に必要なのは、
この『手ぶくろを買いに』の帽子屋が示した態度であると
言っていた。
相手が人間の子供であろうと子狐であろうと、
きちんとお金を持って来たら
きちんと手ぶくろを売ってあげるという
資本主義の倫理だ。
相手が狐だからといってお金をふんだくったり、
値段を吊り上げたりはしない。
そのお金を客がどうやって手に入れたのかも問わない。
客がお金を差し出せば、
正直に、
誠実に、
こちらも商売をするという姿勢が
資本主義の倫理なのだ。
この姿勢がないと、
市場経済というものは正常に機能しないというのである。

資本主義が当たり前になった今に生きる私たちは、
お金を持ってきた子狐に
手ぶくろを売った帽子屋の態度を
ごく当たり前であると感じる。
特段賞賛するほどのことをしたのだとは
思わないのではないだろうか。
どうして母狐が
帽子屋の態度にこれほど驚いたのかが
もはや理解できないほど、
私たちにはこの資本主義の倫理が
当たり前のものとして染み付いている。

けれど、
資本主義勃興の当時にあって、
「お金を持って来さえすれば、
 相手が狐でも物を売る」という態度は
決して当たり前のことではなかった。
そのことを踏まえなければ作品の終わりの、
「ほんとうに人間はいいものかしら。
 ほんとうに人間はいいものかしら」という
母狐のつぶやきの意味は理解できないのである。

【参考記事】
書評:『ごんぎつね』(新美南吉)
新美南吉「おじいさんのランプ」について


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by imadegawatuusin | 2013-07-25 15:16 | 文芸

――「賢い」王女様の冒険譚――

結婚を嫌がるお姫様の冒険譚というと、
私はつい、
氷室冴子さんの傑作・『なんて素敵にジャパネスク』を
思い出してしまう。
この『アリーテ姫の冒険』も、
題名から ついてっきり、
おてんば姫の冒険物語だと思い込んでいた。

だがアリーテは、
実のところ決して「おてんば」少女ではない。
縫い物も絵も得意で、
親の国王から習わされたダンスも
楽しくレッスンを受けている。

姫を特徴付けているのは
「おてんば」などでは決してなく、
むしろ「かしこい」ということなのだ。
王様の書斎にある本という本を
読みつくした彼女の「賢さ」に、
王様は「あまりに賢いと嫁の貰い手がない」と
恐れている。
それで執拗に姫に結婚をすすめるのである。

誤解の原因は日本語の表題にもある。
日本では『アリーテ姫の冒険』と訳された
この本の英語における本当の題名は
"The Clever Princess"(賢いお姫様)なのだ。

物語にありがちだが、
アリーテ姫は「良い魔法使い」から
3つの願いをかなえる力が授けられている。
だが、
アリーテ姫はこれまでのおとぎ話の姫たちと違い、
この力を問題の解決には使わない。
悪い魔法使いから出される無理難題を、
アリーテ姫は魔法の力に頼ることなく、
あくまで自分の知恵と勇気ある行動で乗り越えてゆく。

アリーテには、
『なんて素敵にジャパネスク』の瑠璃姫のような破天荒さはない。
それまで
幾多の騎士や王子たちが失敗してきたという無理難題を、
ある意味ではきわめて「まっとうな」正攻法で
アリーテは解決してしまう。
「当たり前のこと」が
いざというときにきちんとできるかどうかこそが
本当の「賢さ」なのだと
読者は気付かされることになるだろう。
だがもしかするとアリーテ姫は、
根本的なところで瑠璃姫などより
ずっと「過激」なのかもしれないと思うのだ。

瑠璃姫は
自らは貴族社会の身分制度などには
こだわらないと言いつつも、
自分が摂関家の血を引く姫であることを
要所要所で利用(悪用?)しまくる傾向にある。
何のかんの言いつつ広い意味では、
大臣である父親の庇護の下に
活動していると言ってもいい。

それに対してアリーテ姫は、
自分を悪い魔法使いに売り飛ばした父親を決して許さず、
自らの国を捨てる。
そして、
新しい土地で国王に推挙されたにもかかわらず、
「冒険」の末に手に入れた「永遠の井戸の水」や
「病気を治すルビー」を使い
世界中の人たちを助けにまわる道を選択する。

そして、
あとのことは
「この国のおおぜいの人を集めて、
 みんなで相談」させ、
「よい法律」を作って国を守らせることにするのである。

どんなにじゃじゃ馬でも、
決して貴族社会の根幹、皇室制度の根幹そのものは
突き崩そうとしなかった瑠璃姫とは、
ここが非常に対照的だと思うのである。

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by imadegawatuusin | 2012-01-20 19:09 | 文芸

――「血族の因縁」と対照的な「血縁のない居候」――
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『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』
『少女には向かない職業』
『少女七竈と七人の可愛そうな大人』……と
桜庭一樹の作品を続けて読んできた私が
次に手を伸ばしたのが本書・『赤朽葉家の伝説』である。

中国地方の日本海側で
製鉄業を生業としてきた「赤朽葉家」を舞台に、
祖母・母・娘と女系三代の物語がつづられてゆく。

この物語を読んでいて一番興味深く思われたのが、
こうした「血族の因縁」とは裏腹に
一家に次第に増殖してゆく居候たちである。
彼らはこの物語の舞台となる赤朽葉家とは
何ら血縁関係も婚姻関係も持たないにもかかわらず、
ふとしたきっかけからこの家に転がり込み、
そのまま居付いてしまう。
倒産したライバル会社の娘とか(なぜか祖母と仲が良い)、
漫画家であった亡くなった母親の元担当編集者とか、
母親と顔が似ているフィリピン人とかが
因襲漂うこの旧家に平気な顔で同居している。

そもそもこの家では、
祖母も母親も、
親戚の間でいつの間にか決められた相手と
結婚させられたのであり、
いわゆる「恋愛結婚」をしていない。
だから、
自分の夫であっても根本的には「他人」にすぎず、
友人・知人を同居させることと
あまり違いがなかったのかもしれない。
物語の語り手である三代目の「わたし」が、
小さいころからこうした血縁も何もない居候たちと
自然に仲良く暮らしている光景が、
逆に、
物語の主題である三代にわたる血族の因縁を
際立たせる効果を果たしているのではないだろうか。


桜庭一樹『赤朽葉家の伝説』(創元推理文庫)
(評価:4)


【参考記事】
桜庭一樹『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』について
桜庭一樹『少女には向かない職業』について
桜庭一樹『少女七竈と七人の可愛そうな大人』について

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by imadegawatuusin | 2012-01-19 10:36 | 文芸

――「たいへん遺憾ながら」美しく生まれた少女――
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■「都会に出れば埋もれられる」との奇妙なスカウト

作中で、
「昭和の女と平成の女」というような話が
出てくるけれど、
この物語の主人公は
昭和どころか大正時代の戯曲のような話し方をする。
大正時代の戯曲を見たことはないが、
多分こんな感じだろうという偏見で断言したい。
いまどき「嗚呼!」とか
「あなた、○○なのですよ!」などと口走る女子高生が
どこにいるというのだろうか。

主人公の川村七竈(ななかまど)は
「たいへん遺憾ながら、
 美しく生まれてしまった」女子高生。
趣味は鉄道模型。
今風に言えば、
容姿端麗・成績優秀ながら
どこか「残念」な女生徒さんだ。
桜庭一樹の前作・『少女には向かない職業』
前々作・『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』
主人公たちのように、
人殺しをしたり友人を殺されたりするわけではない。
母親がやや育児放棄気味であるものの、
親子の仲は決定的に悪いわけではない。
(この七竈の場合、
 出来が良過ぎて手がかからなかったという側面も
 あるのだろう)。

そんな美しい七竈のもとに都会から、
「本物のかんばせ」を持つ美少女を求めて
「スカウト」がやってくる
(「かんばせ」ですよ「かんばせ」! 
 「顔かたち」のことね)。

スカウトの「梅木」が言うには、
川村七竈の美貌は「ちょっとやそっと」ではないらしい。
梅木が言うには
「本物のかんばせ」には客観的な基準値があるらしく、
それは、
『その美しさにより
 十校を超える学校で名をはせていること』、
そして、
『世代の違うものたちにも知られている』ことだそうだ。
梅木はそうした美少女を探して三年間、
南から北上して来た。
「沖縄はもうだめだった。
 あらかた刈りつくされていた。
 四国も。
 九州は惜しかった。
 もうちょっとという子が数人いた。
 本州は不作だった。
 少しずつ北上して、
 ついにここにきた。
 旭川だ」と梅木は言う。
書き忘れていたが、
本作の舞台は北海道・旭川である。

七竈は芸能界になど興味はない。
興味があるのは鉄道だけ。
筋金入りの鉄道オタクだ。
けれどもスカウトの梅木はこうささやくのである。
「都会に出れば君の美貌も埋もれることができる」と。
「わかるとも。
 そのかんばせで、
 奇妙な出自を隠せぬそのかんばせで、
 こんな小さな町で生きていくことのこわさが」と。

奇妙なスカウトである。
「都会に出れば有名になれる」ではなく、
「都会に出れば埋もれることができる」というのだ。
「性質が異質で共同体に向かない生まれのものは、
 ぜんぶ、ぜんぶ、都会にまぎれてしまえばいい」と。

七竈は、
「都会に、
 ほんとうにまぎれますか」と問い返す。
梅木の答えはこうだ。
「あんがい、まぎれるものだよ。
 もちろんまぎれることのできぬほど美しい人は、
 ああやって、
 カラー印刷機やカレールーの箱の横に
 おさまるのだけれどね。
 それも一時的なことだ。
 やがてまぎれて消えることができる」。
「ひとはあんがい容赦なく、
 年を取るものだからね」。

あまりにも美しすぎて息苦しいなら、
いっそ芸能界に入ってしまえば楽になる。
いっとき有名になることはあっても、
すぐにまぎれてかき消されてしまうから……。
非常に逆説的なスカウトであるが、
どこか説得力がある。
狭くて古い共同体の中で、
その一挙手一投足をあぁだこうだと言われるくらいなら、
いっそ都会に出てしまえばいいと。

この作品は
2006年に角川書店から単行本として出たそうであるが、
いま角川文庫から出ている文庫には
「ゴージャス」という、
このスカウト・梅木の過去を扱った
短編小説が加筆されており、
これがこの小説に一層の奥行きを与えている。


桜庭一樹『少女七竈と七人の可愛そうな大人』(角川文庫)
(評価:3)


【参考記事】
桜庭一樹『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』について
桜庭一樹『少女には向かない職業』について
桜庭一樹『赤朽葉家の伝説』を読む

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by imadegawatuusin | 2012-01-17 10:23 | 文芸

――人を殺してでも、生きようとした少女たち――
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■手をつなぐ ふたりの少女たち

桜庭一樹の前作・『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』
「子供の無力感」を描いた作品であるならば、
この『少女には向かない職業』は、
「無力な子供たちが
 それでも自分たちの力で生き抜こうと奮闘する物語」
だろう。
主人公はその過程で、
人を殺す。
それも2人。

「それくらいのことをしなければ、
 子供には自分の運命を切り開くことはできない」という、
裏返された無力感と見ることもできる。
一方で、
「たとえ人を殺してでもやり抜くのだという覚悟があれば、
 自分の道を自分で切り開くことは子供にもできる」という、
前作には存在しなかった希望を見ることもできる。
少なくとも本作の主人公・大西葵と宮乃下静香は、
殺されることなく生き残ったのである。
『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』の海野藻屑のように
殺されるくらいなら、
人を殺してでも生きようとした少女たちが
『少女には向かない職業』の主人公なのだ。

本書巻末の「解説」の中で杉江松恋氏は、
「迫り来る運命を知らない二人が
 無意識のうちに互いを同志と認め合う」場面として、
本書の次のような描写をあげている。

やがて少しずつ日が陰ってきた。
あたしはそろそろ帰ろう、と立ち上がった。
静香も立ち上がった。
どちらからともなく手をつないで、
一緒に、
狂ったように咲き誇る黄色い真夏のフリージア畑を
駆け下りていく。


手をつないだ中学二年生の少女たちは無敵だ。
本書にも、
「この世で一番強いのは中学生の女の子だ」
という言葉があった(本書18ページ)。
ただし、
ここでいう「中学生の女の子」というのは
その前後の文脈を見れば明らかなとおり、
英語で言えば単数形ではなくて複数形。
一人一人の「中学生の女の子」は無力で弱い。
それでも、
手をつなぎ合えばとてつもない力を発揮する(こともある)。

この本を読んでいて、
そんなテーマの作品がどこかにあったなぁと
思い出したのが、
『ふたりはプリキュア』というアニメ作品だ。
いわゆるお子様向けの
「闘う魔法少女もの」であるのだが、
くしくもこの作品も、
2人の主人公たちは中学二年生の少女たちだった。

なぜこのようなアニメ作品を思い出したのかというと、
「手をつなぐ」という表現が
これほどふたりの結びつきの強さを表現した作品を
私は他に知らないからだ。

セーラームーンにしても何にしても、
普通の「闘う魔法少女」たちは
一人で変身して一人で闘うことができる。
ところがなぜか
この『ふたりはプリキュア』シリーズだけは変わっていて、
主人公ふたりが手をつながないと
変身もできないし必殺技も出せない。
「だったらなんで敵は、
 主人公がそれぞれ一人のところを
 襲ってこないんだろう」という
作品の根幹にかかわる疑問は
口にしないのがマナーなのだろうが、
主人公ふたりの絶対的な信頼感や絆のようなものが
「手をつなぐ」という行為に表れていた。

ひるがえって本作・『少女には向かない職業』ではどうか。
『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』の海野藻屑が
ウソばかりついていたように、
『少女には向かない職業』の宮乃下静香も
相当のうそつきだ。
主人公の大西葵に対してうそばかりついている。

けれど、
ウソばかりついている少女の言うウソの中に、
ほんの少しだけ「本当」がある。
そして、
ふたりの少女が心を通い合わせるには、
本質的にはそれで充分なのである。
それも、
『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』の場合と同じである。

ただし、
まさに殺されようというとき、
『砂糖菓子……』の海野藻屑が
あっさりと殺されたようには、
本作の宮乃下静香はいかなかった。
宮乃下静香は叫ぶのである。

「こわく、ないよ」
「あんたなんかぜんぜんこわくない。
 だって、
 こっちには大西葵がいるもん。
 あんたのことも、
 葵が、殺してくれるもん」
「……誰も、誰も知らなかったけどね。
 あたしの友達は、
 大西葵は、
 特別な女の子なんだよ。
 誰も知らないけど、
 葵は、
 本物の殺人者なんだよ。
 すごいでしょ?」


「すごいね、と私は思う。
 何がすごいって、
 そうして同志の存在を絶対のものとして称賛できる、
 少女の気持ちだ。
 『大人』の手によって蹂躙され、
 すべてを失い、
 何者でもなくなりかけた少女は、
 最後の最後にかけがえのない同志を得て、
 全幅の信頼を与えるのである」とは
解説者の杉江松恋氏の謂いだ。

誰も知らないけど、
相方が特別なことをあたしは知っている。
相方が闘う少女であることを、
世界中の誰も知らなくても、
あたしだけは知っている。
それはもはや、
闘う魔法少女ものの世界ではないか。

「敵」を倒した2人の少女たちは、
おそらく警察に捕まってしまう。
「敵」を倒せば町中の人が喜んでくれ、
変身を解けばまた何食わぬ顔で日常に戻れる
魔法少女ものの世界と現実とは違う。
けれど、
手をつなぎ命を賭けて共に闘った少女たちの友情は、
今後 紆余曲折があったとしても、
ずっと壊れることはないだろう。
現実であれ、
魔法少女ものの世界であれ、
それはきっと変わりない。
そんなことを私は思った。


桜庭一樹『少女には向かない職業』(創元推理文庫)
(評価:4)


【参考記事】
桜庭一樹『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』について
桜庭一樹『少女七竈と七人の可愛そうな大人』について
桜庭一樹『赤朽葉家の伝説』を読む

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by imadegawatuusin | 2012-01-16 09:56 | 文芸

――見事に『現実』を描写したライトノベル――
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■「子供の無力感」を描き切ったミステリー

直木賞作家・桜庭一樹が注目されるきっかけとなった
本書・『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』であるが、
当初この作品は
富士見ミステリー文庫という
ライトノベルの文庫シリーズから出版された。

しかし作者自身があとがき(角川文庫版)の中で、
「少年少女向けでも、
 娯楽小説でさえないかもしれない原稿」だったと
言っているように、
この作品は普通のライトノベルとは
『何か』が決定的に違っている。
一言で言えば、
この作品は徹頭徹尾
『現実のこの世界』を描写したものなのである。

子供の虐待などの
「現実の社会問題」を扱っているからというのではない。
現実の社会問題をモチーフにして書かれたライトノベルは
たくさんある。
また、
鳥取県境港市という実在の場所を舞台として
描かれているからそう言うのでもない。
たとえば、
ライトノベルの代表作とされる
『涼宮ハルヒ』シリーズ
兵庫県西宮市を舞台として描かれていることは
周知の事実であろう。
そういうことではなく、
作品の本筋から離れた
ちょっとした細部の描写に至るまで、
この作品は徹底して
「この現実」を描こうとする気迫に満ちている。

たとえば、
こんな描写である。

山のほうには、
あたしが生まれた頃にできた原発がある。
ていうか、
田舎に作ったほうがいいと都会の人が考える
すべてのものがこの町にある。
原発。
刑務所。
少年院。
精神病院。
それから自衛隊の駐屯地。
だからあたしたちは
あんまり山のほうには近づかない。


原発は「あたしが生まれた頃にできた」ものである。
そこに13歳の「あたし」の意思が介在する余地は
全くない。
刑務所も、
少年院も、
精神病院も自衛隊の駐屯地もそうである。
少女の意思とは無関係に、
ただ、
そうあったものとしてそこにある。
この作品で描かれるのは
そうした「子供の無力感」だ。
10代の少年少女が大は地球の命運をかけて、
小は友情や恋愛を実らせるために
大活躍をするライトノベルとは
そこが全く違っている。

現実は厳しい。
わずか13歳の主人公・山田なぎさや海野藻屑には
自分の力で生きる糧を稼ぐ手段がなく、
家庭や親も選べない。
社会を動かす力もなく、
自分の運命を切り開く力もやはりない。
そういう冷徹な現実が
これでもかこれでもかというほど徹底して
この作品では描かれているのだ。

だから読者は、
この作品の舞台が決して「作り物」でないことを
実感せずにはいられない。
主人公の担任の教師がつぶやいたこんな一言が
示唆的である。

「……俺は大人になって、
 教師になって、
 スーパーマンになったつもりだったから。
 山田のことでも、
 お前に嫌われてもいいから、
 高校行けるようになんとかしてやろうって
 張り切ってたし。
 海野の家だってなんとかするつもりだった。
 ヒーローは必ず危機に間に合う。
 そういうふうになってる。
 だけどちがった。
 生徒が死ぬなんて」


作り物の世界においては、
「ヒーローは必ず危機に間に合う」。
「そういうふうになってる」。
しかし、
『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』の世界は
そうではない。
担任教師は生徒の危機に間に合わず、
主人公はヒロインを救い出すことができない。

そんなこの作品が、
なぜこれほどまでに『面白い』のだろう。
それでもやはり、
これは確かに
少年少女向けの「ライトノベルだ」と思わせるのは
なぜなのだろう。
名探偵が活躍するわけでも
名推理を披露するわけでもないにもかかわらず、
極めて良質のミステリーとして
成立しているのはなぜだろう。
そんなことを考えさせる、
ライトノベル・ミステリーの傑作である。


桜庭一樹『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』(角川文庫)
(評価:4+)


【参考記事】
桜庭一樹『少女には向かない職業』について
桜庭一樹『少女七竈と七人の可愛そうな大人』について
桜庭一樹『赤朽葉家の伝説』を読む

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by imadegawatuusin | 2012-01-15 09:32 | 文芸

――『涼宮ハルヒ』シリーズと『なぞの転校生』――
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■「この世界」へのこだわり

少年向けの大人気小説・『涼宮ハルヒの憂鬱』で、
「不思議なこと」に興味津々の涼宮ハルヒが
「謎の転校生」の転入を心待ちにしている場面がある〔注1〕。
ハルヒはなぜ、
「謎の転校生」が転校してくるのを待望していたのか。
その答えがSF作家・眉村卓の代表作・
『なぞの転校生』である。
ハルヒはこの本を読んでいたはずだ。
本書に登場する「なぞの転校生」・山沢典夫の正体が、
ハルヒが会いたがっていた「異世界人」なのである〔注2〕。

美形の上に勉強もスポーツもよくできる
転校生の山沢典夫は、
どこか「ふつうではない」。
妙に神経質なのだ。
エレベーターが止まっただけで慌てふためき、
核実験の放射能が含まれていると言って雨を怖がり、
頭上をジェット機が通っただけで逃げ出してしまう。
それは山沢典夫が、
核戦争で破滅的な最後をむかえた別の世界からやってきた
「次元放浪民」だったからだった。

優秀だが臆病で神経質な山沢やその仲間は、
あちこちでやっかいごとを引き起こしてゆく。
結局この世界での定住をあきらめて、
またもや別の世界に移っていこうとする
「次元放浪民」たちに、
本書の主人公・岩田広一は
こう問いかけるのである。
「そういうふうにつぎからつぎへと
 別の世界に移っていって、
 それでおしまいには
 どこか理想の世界が見つかるんですか?」、
「理想の世界なんてものは、
 ほんとうにあるんでしょうか?」、
「理想の世界なんて
 どこにもないんじゃないでしょうか。
 ぼくはそう思います。
 いや、
 そう思わないと、
 ぼくたちのようにこの世界でしか生きられない人間は、
 どうしようもないんじゃないでしょうか。
 典夫くんやみんなは、
 なまじっか次元から次元へ移れるから、
 より好みをしてしまうんです。
 そうじゃないでしょうか」……。
ここには、
『涼宮ハルヒの憂鬱』や、
その続編の一つである『涼宮ハルヒの消失』で
繰り返し主題となってきた
「世界選択」の問題が提起されている。

『涼宮ハルヒ』シリーズの主人公・キョンは、
『~憂鬱』では、
「今よりもっと不思議な世界」より「この世界」を、
『~消失』でも、
「今よりもっとまっとうな世界」より「この世界」を
選択した。
仲間と共に、
「この世界」を生きてゆくことに、
『涼宮ハルヒ』シリーズはこだわりをもつ。
そこに、
少年向けSF作品の先行作とも言うべき
本書・『なぞの転校生』の影響を見るのは
私だけではないはずだ。

「今よりもっとよい世界」を求めて放浪を続ける
「次元放浪民」たちには
悲惨な結末が待っていた。
命からがら再び「この世界」に戻ってきた
山沢典夫の父は
このように言っている。
「ほんとに、
 わたしたちは愚かでした。
 いつも最上のものを求めてさまよっていた結果が
 これです」。
そして、
こう言うのである。
「わたしたちは、
 もう自分たちだけの生活にとじこもっているつもりは
 ありません。
 みんなといっしょにやってゆかなければ、
 ほんとうの生き方はないということに、
 やっと気がついたんです」。

「みんなといっしょに」、
「この世界で」。
この二つのキーワードが、
『涼宮ハルヒの憂鬱』や『涼宮ハルヒの消失』でも
重要なカギとなっている。
私はそこに、
二つの少年向けSF作品の
深いつながりを感じるのである。

〔注1〕谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』68・96~98ページ
〔注2〕谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』11ページ


眉村卓『なぞの転校生』(評価:2)


【参考文献】
谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』について
谷川流「涼宮ハルヒの退屈」について
ツガノガク「ノウイング・ミー、ノウイング・ユー」解説
谷川流「笹の葉ラプソディ」について
谷川流「ミステリックサイン」について

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by imadegawatuusin | 2011-09-20 19:51 | 文芸

――悪役を買って出た青鬼の動機は「友情」なのか――
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あたしはね、
『泣いた赤鬼』を読んで以来、
鬼を見かけたら優しくしてあげようって
心に決めてるのよ。
もう、
すっごい泣いたわ『泣いた赤鬼』。
あたしなら立て札見た瞬間に
大喜びで赤鬼さんちに行って
お茶とお菓子を遠慮なくもらったのに……
(谷川流『涼宮ハルヒの陰謀』54ページ)


少年向けの大人気小説・『涼宮ハルヒ』シリーズで、
主人公のキョンとハルヒとが
幼いころに共に涙した絵本として、
『ないた赤おに』が挙げられている〔注1〕。

人間と友達になりたいと願う心優しい赤鬼は、
毎日お茶とお菓子を用意して
家に人間が遊びに来るのを待っていた。
家の前に立て札を立てて誘うのであるが、
人間たちはワナだと思ってなかなか近づこうとしない。

それを見かねた青鬼が、
赤鬼に協力することを申し出る。
「青鬼が村で大暴れしているところに赤鬼があらわれ、
 青鬼を退治する」という
芝居を打とうというのである。

二人の計略は成功し、
赤鬼は村人たちからの信頼を得て、
慕われるようになる。
だが、
それ以降、
青鬼は赤鬼の前に姿を現さなくなるのである。
心配になった赤鬼が、
ある日、
青鬼のところをたずねてみる。
すると、
青鬼の家には誰もおらず、
赤鬼あての置き手紙があったのである。

「アカオニクン 
 ニンゲンタチトハ 
 ドコマデモ ナカヨク マジメニツキアッテ 
 タノシク クラシテイッテ クダサイ。
 ボクハ シバラク 
 キミニハオメニ カカリマセン。
 コノママ キミト ツキアイヲ ツヅケテ イケバ、
 ニンゲンハ、
 キミヲ ウタガウ コトガ ナイトモ カギリマセン。
 ウスキミワルク オモワナイデモ アリマセン。
 ソレデハマコトニ ツマラナイ。
 ソウ カンガエテ、
 ボクハコレカラ タビニ デル コトニシマシタ」。
そんな言葉で始まる手紙は、
「ドコマデモ キミノ トモダチ    アオオニ」と
締めくくられていた。
物語は、
「赤おには、
 だまって、
 それを読みました。
 二ども三ども読みました。
 戸に手をかけて顔をおしつけ、
 しくしくと、
 涙を流して泣きました」と書かれて終わっている。

一般には「友情の美しさ」を描いた作品であると
位置づけられる絵本である〔注2〕〔注3〕。
だが青鬼の行動を、
そういう「赤鬼個人への友情」という動機だけで
理解する考えに
私は若干の疑問を持っている。

私が考えるところでは、
この青鬼もまた、
鬼と人間の友好を
強く望んでいた一人ではなかったのだろうか。
だが、
これまでのいきさつから、
鬼と人間とが交際を始め、
お互いが理解しあうには、
何かきっかけが必要なのだ。
「一転突破、全面展開」ではないが、
たとえ一人でも
「鬼の中にも優しい鬼がいる」ということが
実感されるならば、
そこから関係を切り開いてゆくことは
可能なのである。

だからこそ青鬼は、
自分が悪役を買って出たのである。
赤鬼との友情はもちろんだろうが、
鬼全体と人間の友好の未来のために、
たった一人でも、
「人間と関係を築く鬼」を輩出するために、
自分が悪者になったのである。

その意味で、
冒頭で紹介した涼宮ハルヒは、
この物語の真のテーマを
きちんと理解していた一人であろう。
ハルヒが団長を務める
学校当局非公認サークル・「SOS団」では、
2月3日の節分の日の豆まきの際、
「鬼は外」とは言わず、
もっぱら「福は内」とだけ言うそうである。
ハルヒはこう言っている。
「鬼を外に追いやろうなんて絶対不許可よ。
 SOS団は人以外の人にも
 広く門戸を開放しているんだからね」と〔注4〕。

〔注1〕谷川流『涼宮ハルヒの陰謀』54ページ
〔注2〕西本鶏介「浜田廣介と『ないた赤おに』“無償の愛の美しさ”」、浜田廣介『ないた赤おに』48ページ、金の星社
〔注3〕樋口裕一『子どもの頭がよくなる読書の習慣』183ページ、PHP文庫
〔注4〕谷川流『涼宮ハルヒの陰謀』54ページ


浜田廣介『ないた赤おに』(評価:3)


【参考記事】
谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』について
谷川流「涼宮ハルヒの退屈」について
ツガノガク「ノウイング・ミー、ノウイング・ユー」解説
谷川流「笹の葉ラプソディ」について
谷川流「ミステリックサイン」について

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by imadegawatuusin | 2011-09-19 19:05 | 文芸

――「変な顔して もてないと思って人生なめんなよ」――
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■恋は美人だけがするもの?

少女漫画や少女小説の主人公は、
作品中では決して「美人」とはされていないことが多い。
もちろん、
実際の漫画の絵や小説の挿絵では、
主人公は他のどのキャラクターよりも
チャーミングで魅力的に描かれていることが
多いのである。
だが、
それでも主人公は
「美人ではない」というのが読解上のお約束で、
読者はそれに添って
読まなければならないようなのである
『姫ちゃんのリボン』の野々原姫子とか、
 『なんて素敵にジャパネスク』の瑠璃姫とかは、
 作品上で「美人」とされている他の登場人物よりも
 絵や挿絵上、
 はるかに美人に見えるのであるが、
 作品展開上は「不美人」として読まなければならない)。

何でそんなややこしいことをするのだろうと
思っていたところ、
佐野洋子の小説・『コッコロから』に
面白い指摘が載っていた。
「美しいものは人を不安にさせる」というのである。
早い話が読者を遠ざけ、
感情移入がし難いのかもしれない。

本書の主人公・亜子は、
「ものごころつくようになって、
 鏡とか、写真とかを知るようになって、
 ……『ちょっと、冗談じゃないこれ』と
 思うようになった」というほどの
不美人である。
絵本作家でもある著者の佐野洋子は
本書の挿絵も担当しているのであるが、
少女小説の例と違い、
美人に描いておいて不美人だと読めというような
むちゃくちゃなことは言わない。
亜子の挿絵は見たまんま、
かなり不細工である。 

ところがこの亜子は、
周りの人間にずいぶんとかわいがられているのである。
近所のおばさんは
亜子についてこんな風に言っている。
「私、
 亜子ちゃん見ていると、
 理由なく嬉しくなっちゃうの。
 いるだけで、
 生きている幸せ感じちゃう。
 そういう女の子って、
 なかなかいるもんじゃない」。

しかし、
それに対する亜子の言い分はこうである。
「でも、
 それって、
 私が嬉しいんじゃないんじゃない。
 私、
 自分が嬉しくなりたいよ」。

不美人は人を不安にさせない。
周りに争いも起こらない。
「結構なことだ」と肯定することもできる。
しかし、
そこで「結構」なのは
不美人の周囲の人間ばかりであって、
本人はちっとも「結構」ではない。

不美人の亜子には、
実は男の子の友達も多いのである。
しかし、
亜子は言う。
「あの男の子達、
 全部彼女がいるんだから、
 私のことそーいう目で誰も見ないんだから、
 コッコロから安心して友達してるのよ。
 コッコロからの友達でいる女の子って
 哀しいもんですよ」。

そんな女の子が、
ふとしたきっかけからモテ始める。
俳優のようにかっこいい東大生や、
幼なじみからいっぺんに告白される事態に
巻き込まれる。

まぁ、
漫画や小説によくある展開と言えば
よくある展開ではある。
だが、
本書は他の漫画や小説と違い、
作品の3ページ目に掲載した挿絵で、
亜子をきっちり不細工に描いてしまっているのである。
この不細工が、
かっこいい東大生にも幼なじみにも
言い寄られる展開! 
この部分を、
違和感なく、
説得力を持って描くのは
実は並大抵の手腕ではないのではないか。

「不美人だけどモテる」ということを、
きちんと物語に説得力を持たせて語らせることは
難しい。
「顔よりも性格」というような紋切り型の展開も
一つの手ではあるかもしれない。
が、
本書ではとてつもなく性格の悪い女子も、
それはそれでモテていたりするのである。

性格の悪い女と付き合っている男の弁はこうである。
「お前よう、
 人って、
 何の欠点もない立派なものを
 好きになるってわけじゃないんだよな」。
だから性格の悪い女に引っかかったんだろうか。
すごい言い分ではあるが、
なぜか説得力があるのである。

そして、
本書の終盤、
主人公に惚れ直した幼なじみの主張はこうだ。
「変な顔してもてないと思って人生なめんなよ」。
これもすごい言い分だ。

変な顔してようが、
性格が悪かろうが、
人間、
それなりの因果が成り立てば
モテるときにはモテる。
「そんなのおかしい」と言ってみたところで
仕方がない。
そして世間でも、
意外にそんなことの方が多いのではないのか。


佐野洋子『コッコロから』マガジンハウス(評価:3)


【参考記事】
書評:『100万回生きたねこ』(佐野洋子)

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by imadegawatuusin | 2011-09-04 11:01 | 文芸