カテゴリ:文芸( 50 )

――「進歩と発展」真正面から描いた好著――

■「文明開化の火」ともした少年

もの知りのおじいさんから若者が
昔の話を聞かせてもらう……。
代表作・『ごんぎつね』でも使われる、
新美南吉の得意技である。

村から一度も出たことのなかった
13歳の少年・巳之助は、
ふとしたきっかけで町に出て、
そこでランプというものを知る。

「このランプのために、
 大野の町ぜんたいが
 竜宮城かなにかのように明かるく感じられた。
 もう巳之助は
 自分の村へ帰りたくないとさえ思った。
 人間は誰でも
 明かるいところから暗いところに帰るのを
 好まないのである」。

「巳之助は今までなんども、
 『文明開化で世の中がひらけた』ということを
 きいていたが、
 今はじめて文明開化ということが
 わかったような気がした」。

文学というのは、
社会の進歩や発展を描くのに
向いていないのではないか……。
この物語を読むまで僕は、
そんな偏見を抱いていた。
文明開化というものを、
13歳の少年の目を通して
これほど鮮やかに、
そして実感を持って描き出すことができるのかと、
新美の手腕に驚きもした。

巳之助は町でランプを仕入れ、
それを村に持ち帰る。
「巳之助の胸の中にも、
 もう一つのランプがともっていた。
 文明開化に遅れた自分の暗い村に、
 このすばらしい文明の利器を売りこんで、
 村人たちの生活を明かるくしてやろうという
 希望のランプが――」。

はじめは「新しいものを信用しない」村の人々も、
やがてランプを求めるようになってくる。
「巳之助はお金も儲かったが、
 それとは別に、
 このしょうばいがたのしかった。
 今まで暗かった家に、
 だんだん巳之助の売ったランプが
 ともってゆくのである。
 暗い家に、
 巳之助は文明開化の明かるい火を
 一つ一つともしてゆくような気がした」。

貧しく無学な少年が
町からもたらしたランプ。
そのランプが一つ、また一つと
村に普及してゆくさまが、
「文明開化の明かるい火」として描かれている。

物語の中盤、
大人になった巳之助が村の区長さんから聞いた、
「ランプの下なら
 畳の上に新聞をおいて読むことが出来る」という話を
自分で実際に試してみる場面がある。

「やはり区長さんのいわれたことは
 ほんとうであった。
 新聞のこまかい字がランプの光で一つ一つ
 はっきり見えた。
 ……しかし巳之助は、
 字がランプの光ではっきり見えても
 何にもならなかった。
 字を読むことができなかったからである」。

そして巳之助はこう言ったのである。
「ランプで物はよく見えるようになったが、
 字が読めないじゃ、
 まだほんとうの文明開化じゃねえ」と。

こうして巳之助は大人になってから、
区長さんのところへ
一から字を教えてもらいにいくのである。
作品の中では、
「熱心だったので一年もすると、
 巳之助は尋常科を卒業した村人の誰にも
 負けないくらい読めるようになった。/
 そして巳之助は
 書物を読むことをおぼえた」とある。

ここで終わればこの物語は、
ただ一人の男の立身出世話に
すぎないということになる。
ここまでくれば読者の側も、
ハッピーエンドを期待する。

ところが、
それをあっさり裏切ってしまうのが
新美文学の文学たるゆえんである。

やがて町には電線が引かれ、
家々にはランプの代わりに
電灯がともるようになってゆく。

「(筆者注:巳之助は、)ランプの、てごわいかたきが
 出て来たわい、と思った。
 いぜんには文明開化ということをよく言っていた
 巳之助だったけれど、
 電燈が
 ランプよりいちだん進んだ
 文明開化の利器であるということは分らなかった。
 りこうな人でも、
 自分が職を失うかどうかというようなときには、
 物事の判断が正しくつかなくなることが
 あるものだ」。

そしていよいよ、
巳之助の村にも電気を引く計画が
持ち上がる。
巳之助はここで、
断固として電化反対の論陣を張るのである。

巳之助はいう。
「電気というものは、
 長い線で山の奥からひっぱって来るもんだでのイ、
 その線をば夜中に狐や狸がつたって来て、
 この近ぺんの田畠を荒らすことは
 うけあいだね」。

だが巳之助の奮闘もむなしく、
村会は電線導入を決定した。

「巳之助は誰かを怨みたくてたまらなかった。
 そこで村会で議長の役をした区長さんを
 怨むことにした。
 そして区長さんを怨まねばならぬわけを
 いろいろ考えた。
 へいぜいは頭のよい人でも、
 しょうばいを失うかどうかというようなせとぎわでは、
 正しい判断をうしなうものである。
 とんでもない怨みを
 抱くようになる」。

かつて巳之助に字を教えてくれた
大恩ある区長さん。
その区長さんを巳之助は恨む。
恨むことに決めてから、
恨む理屈を頭の中ででっち上げて
恨むのである。
こういったものは世に「反動」と呼ばれる。

そしてついに巳之助は、
区長さんの家に火をつけようとするに至るのである。

こうして読むとこの作品は、
やはり文学作品なのである。
単なる文明賛歌にとどまらない、
隠された人間の本質に迫るものがある。

ランプ普及に燃える巳之助の心情描写、
自らの立身と文明開化とが
まさに完全に一致して事が進む前半部分には、
他の作品ではなかなか見られない躍動感がある。

自分のやりたいこと、やっていること、
言い換えれば自分の生き甲斐とするところが
社会の進む方向性と合致したとき、
人は実に生き生きと、
のびのびと自分を発揮する。
本作の前半部分は、
まさにそのことを示している。

しかし、
社会の進歩の流れに抗して
それに立ちふさがろうとしたとき、
人の努力は空回りを始め、
歴史の中で反動的な役回りを与えられることになる。
本書の後半はそのことを
示しているに違いない。

文学は社会の進歩・発展に接したとき、
発展の中で生じた矛盾や悲惨を描くことは得意である。
また、
現代社会が失った何かを、
昔のあり方への郷愁とともに
かきたてることも得意である。
現代社会のあり方に、
「それでいいのか」と
常に問いかけを投げかけようとすることは、
それはそれで文学の大切な役割である。

だが一方でこの作品の前半のように、
自分の実現がそのまま社会の発展に結びつき、
歴史の必然と一体となる充実感というようなものは、
ノンフィクションでは描かれることがあっても、
物語の世界では
あまり主題とされることがなかったのではないか。

新美南吉といえば『ごんぎつね』という程度にしか
思っていなかった筆者にこの作品は、
文学の持つ新たな一面を
教えてくれた作品となった。


新美南吉「おじいさんのランプ」
評価:3



【テキスト本文】
「おじいさんのランプ」


【参考記事】
書評:『ごんぎつね』(新美南吉)
新美南吉『手ぶくろを買いに』について

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by imadegawatuusin | 2011-08-15 17:40 | 文芸

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サルは人間っぽい。
もともとヒトの親戚である上に、
しぐさや動きが妙に人間くさい。
動物園でいろいろな動物を見て回っても、
圧倒的にサルが
他の動物よりも感情移入しやすく、
わが子のように思えてきてしまう……。
作者はそんなところから、
『ひとまねこざる』の着想を得たのではないか。

本書の主人公は
動物園にいるサルのジョージ。
「かかりの おじさん」の隙を見て
オリのカギを盗み出して町に出る。
皿洗いをしたり、
ペンキで壁に絵を描いてみたり、
最後は映画に出たりする。

ジョージはどんなことにも興味しんしんで、
ついつい首を突っ込んでしまう。
けれど、
肝心なところでは(当たり前だが)「サル知恵」で、
ジャングルと同じ感覚で
高いところから固い道路に飛び降りて、
足を骨折してしまったりする。
そんなジョージの
天真爛漫で好奇心旺盛な振る舞い・行動に、
本書の主な読者層である小さな子供たちを
重ねて見る人も多いようだ。

ジョージを見ていて
私がついつい思い浮かべてしまったのは、
漫画・『クレヨンしんちゃん』の主人公である
野原しんのすけである。
かつて
アニメ版の『クレヨンしんちゃん』の主題歌の歌詞に、
「距離を置いてみると それなりに
 楽しい奴 なんですが
 こうも近くにいると そのワガママさ
 ずうずうしさに ウンザリです」というフレーズが
あった(「夢のENDはいつも目覚し!」作詞:長戸大幸)。

ジョージの事由闊達な立ち居振る舞いも、
絵本を見ている私たちから見れば
非常に「楽し」くほほえましいものである。
だが、
「近く」で実際に世話をする人たちの身になってみれば
大変なものがあるだろう。
少なくとも、
カギを盗まれて逃げられた
動物園の「かかりの おじさん」は
責任問題だったに違いない。

そう思うと本書は、
そんなジョージのような子供の一挙手一投足に
振り回される親御さんたちの心を
むしろ捉えてきたのではないか。
そのことが、
戦後すぐ(1947年)に出版された本書が
今日まで読まれ続けてきた、
ロングセラーの秘密なのではないかと
思われるのである。


『ひとまねこざる』(評価:2)
H=A=レイ (著)、 光吉夏弥 (翻訳)
岩波の子どもの本(岩波書店)

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by imadegawatuusin | 2011-07-19 16:42 | 文芸

――「ネコ」は食べられるはずだった!――
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■「長ぐつ」には何の意味があったのか

『長ぐつをはいたネコ』という話は、
題名だけは やたら有名だ。

3人の息子を持つ粉屋が死んだ際、
長兄は粉ひき小屋を、
次兄はロバを相続したが、
末の息子はネコしか相続できなかった。

がっかりした 末の息子だったけれども、
このネコの知恵を借り、
最後は侯爵となって王妃と結婚するという
お話だ。

だが一方、
ほとんど知られていない話もある。
この末の息子は当初、
ネコを食べてしまうつもりだったという点だ。

息子はこんなことをつぶやいている。

「にいさんたちはいいよ。
 いっしょにはたらけば、
 なんとかくらしていけるから。
 だけどぼくは、
 こんなネコ一ぴきもらっても、
 どうしようもない。
 肉を食って、
 皮で手ぶくろをこしらえれば、
 あとはおなかがぺこぺこになって、
 しぬだけだ


これに対して、
ネコはこう言って命拾いするのである。

「そんなにしんぱいしないで、
 まあ、
 おききなさい、ご主人。
 わたしに、
 ふくろをひとつと、
 どこにでもはいていける長ぐつを一足、
 よういしてください。
 そうすれば、
 このわたしが、
 あなたのおもっているほど
 悪いわけまえではないことが、
 わかりますよ」


結局ネコは、
もらった「ふくろ」を
ウサギやウズラを捕まえるのに使う。
それを王様に献上して、
王家とお近づきとなるきっかけとするのである。

その一方、
有名な「長ぐつ」は
物語の全編を通して
何の役にも立っていない。

それどころか、
「ひとくい鬼」の城で天井の「はり」に駆け上る際、
「長ぐつでかけのぼるのは、
 とてもたいへんでした」とあるほどなのだ。

この長ぐつには、
いったい何の意味があったのだろうか。


『長ぐつをはいたネコ』(評価:2)
シャルル=ペロー原作/末松氷海子文
徳間書店

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by imadegawatuusin | 2011-07-18 19:37 | 文芸

――「ねこは死にました。めでたしめでたし」――
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■「生まれ変わらない幸せ」描く
佐野洋子によるこの絵本のすごさを
もっとも的確に言い表したのは、
歌人の枡野浩一氏であろう。
枡野氏は著書『日本ゴロン』(毎日新聞社)のなかで、
『100万回生きたねこ』について
次のように書いている。

100万回生きて100万回死んだ主人公のオスネコは、
最後の最後には二度と生き返らなくなる。
彼は生まれて初めて本当の意味で
死んでしまうわけなんだけど、
たいていの読者は物語の終わりを知ったとき
「あー、よかった。めでたし、めでたし」
という気分になっているはずで、
そこがすごいのだ。
主人公が死んでしまうのに
「あー、よかった」と心から思える不思議。
その「不思議」の部分は、
ぜひ絵本の実物を読んで味わってください。(枡野浩一『日本ゴロン』183ページ)


この書評にあえて付け加えることなど
何もないほどに完璧な書評だ。
ここから先は はっきり言って私の蛇足だ。

この物語は「生まれ変わり」を扱っている。
一般に広まっている多くの仏教宗派でも
生まれ変わりを信じている。

そうした仏教では、
何事にも執着をもたず、
愛や欲を超越したとき、
この生まれ変わり死に変わりの状態から抜け出して、
もう生まれ変わらなくなるという。

それに対して本書のオスねこは、
むしろ
100万回生まれ変わり死に変わりしているときの方が、
どちらかというと
愛や欲を超越しているかのように見える。
何ごとにも執着しない。
「とんできた やに あたって しんで」も、
「船から おちて……びしょぬれになって,しんで」も、
サーカスで「まっぷたつに なってしまっ」ても、
「いぬに かみころされてしま」っても、
「年をとって し」んでも、
「おぶいひもが 首に まきついて,しんでしま」っても
淡々としている。
大声で泣くのは飼い主だけで、
「ねこは しぬのなんか へいき」なのだと
いうのである。

しかし、
それが「悟りの境地」なのかというと、
そうではない。
ねこはそのときどきの自分の状態に
全然満足していない。
王様に飼われていても
「王さまなんか きらい」だといい、
船乗りに飼われていても
「海なんか きらい」だといい、
泥棒に飼われたら飼われたで
「ねこは,どろぼうなんか だいきらい」だという。

だから、
こんな状態だと「生まれ変わってしまう」のだと
言いたいのだろう。
最後にねこは、
愛する「白いねこ」と
「たくさんの 子ねこ」をもうける。
「ねこは,
 白いねこと たくさんの 子ねこを,
 自分よりも すきなくらいでした」と
この絵本は言う。

ねこは充実した人生(猫生?)を生きた。
だから、
もう生まれ変わらない。
充実した人生を全力で生きることで、
生まれ変わりなどというものに
振り回されることはなくなるというメッセージは、
本書も仏教も共通している。

枡野浩一氏はこう言っている。

私たちは日頃、
無条件に「生=すばらしい」「死=かなしい」と
考えるようになってしまっていて、
じつはそんな考えは嘘っぱちなんだということを
この絵本は教えてくれる。
すばらしくない生もあるし、
幸福な死もある。
もちろん幸福な死を迎えるためには、
生を充実させなくちゃ駄目なんだけど、
生きるということは死を忘れることではない。
むしろ死を真剣に想う人だけが、
真の意味で生きられるのだろう……と、
こうして文章にしてみると
当たり前の真理だし、
ほかにも似たようなことを言ってる人は多いけれど、
佐野洋子くらい届く表現で言えた人って
いないと思う。(枡野浩一『日本ゴロン』183~184ページ)

JanJan Blog 2月19日から加筆転載)


佐野洋子『100万回生きたねこ』(講談社)
評価:3(ふつう)



【参考サイト】
佐野洋子『コッコロから』について

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by imadegawatuusin | 2011-02-19 13:48 | 文芸

――根元的な「救いのなさ」を描ききる――
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■子供相手に手加減無し
「国語の教科書」で出会った作品で、
いつまでたっても気になり続ける作品は
ないだろうか。
僕の場合は、
高校時代の中島敦『山月記』と、
小学校時代の新美南吉『ごんぎつね』とが
それに当たる。

特に『ごんぎつね』である。
よく考えてみれば救いのない話だ。
完全に理不尽な話かといわれると、
必ずしもそうではない、というあたりが、
ますますリアルに救いがない。

ブログ「子どもの時間」を主宰するasagiさんは、
「ごんぎつね」という記事の中で、
「その頃読んでいた子ども向けの本は、
 たいてい
 『良いことをすれば報われる』
 『悪いことをしても
  心から悔いて償えばいつかは許される』
 というようなものばかりで、
 『ごんぎつね』のような悲しい結末には
 免疫がなかった」と言っている。

ちょっとしたいたずら・出来心が
思いがけず
取り返しのつかない結果を招いてしまうということは、
人生の中でもしばしば起こる。
「そんなつもりじゃなかった」などという言い訳は
通用しない。

これが、
100パーセント相手が悪い理不尽であればまだ、
相手を恨むことも
自分を悲劇の主人公に仕立て上げることもできる。

だが、
事の発端はやはり自分。
悪いのも自分。
そんなことは誰に言われなくてもわかっている。
だから つらいのである。

物語は最後、
いたずらぎつねの主人公・「ごん」が、
母を亡くした百姓・兵十に
火縄銃で撃たれて殺されるところで
幕を閉じる。
だが、
それでもごんは
兵十を恨むことができなかったはずである。
「童話」といっても子供相手に手加減がない〔注1〕。

この、
根元的な「救いのなさ」を正面から描いた作品を、
小学生に読ませる日本の国語教育は
まだまだ捨てたものじゃない。

あのころ、
教科書で読んで覚えた心の痛みは、
今でも消えることがない。

〔注1〕前出のasagiさんは、
《本読みを終えた娘が言うには、
 「先生がみんなに感想を書かせたんだけどね、 
  みんな
  『ごんがかわいそう。ぜんぶ兵十が悪い。』って
  いうのばっかりなんだよ。
  兵十だってかわいそうだよねえ?」
 …はじめて「ごんぎつね」を読んだ子どもは、
 結末のショックが大きすぎて、
 ただただ
 「ごんがかわいそう→兵十のせいだ」って
 思うんだろうなぁ》
と述べている。

また、
「ブログ版:春日井教育サークル」を開設している
竹田博之さんは、
「『ごんぎつね』をどう読むか」の中で、
「『ごんぎつね』を低学年に読ませると
 『死んでいない・生き返る』として読む子が
 多いそうだ。
 生きていてほしい・
 死んでしまうなんて悲しすぎると思うから、
 生きていると信じたいのだそうだ。
 そして
 『ごんは死んだ』と
 悲劇を受け入れて読めるのが
 10歳前後=4年生という発達段階なのだそうだ」と
この作品が小学4年生の国語の教材として
採用されている理由を説明している。

ともに、
「ごんぎつね」の手加減のなさを物語る
挿話だと思う。



新美南吉『ごんぎつね』(金の星社)
評価:3(ふつう)



【参考記事】
新美南吉『手ぶくろを買いに』について
新美南吉「おじいさんのランプ」について

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by imadegawatuusin | 2010-12-11 11:10 | 文芸

――「旅館嫌い」のぼやき――
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←「書評:『若おかみは小学生!Part2』(令丈ヒロ子)」に戻る
本書には、
「温泉嫌い」の稲田えりかというキャラクターが
登場する。

僕も稲田えりかとはまったく理由は違うけど、
やはり温泉があまり得意ではない。
特に苦手なのは、
温泉独特のあの「におい」である。

ゆでたまごみたいなにおいというか、
ぶっちゃけて言うと硫化硫黄のにおいだ。

もともと卵が苦手なのだが、
温泉の硫化硫黄は強烈だ。
におっただけで吐き気がすることもある。

また本書には、
えりかの祖父で「味にうるさい」
稲田義春も登場する。
僕もまた、
旅館の料理とは相性がよくない。

先にも言ったとおり、
僕は卵が苦手である。
だが、
旅館で出る料理で卵がつかないということは
まずない。

その意味でも、
「カレーライス」とか「うどん」とか「ラーメン」とか、
単品で頼めるレストランは非常にありがたいのだが、
旅館に行くと問答無用で料理が出てくる。
「若おかみは小学生!」シリーズには
いろいろとワガママな客が出てきて
おっこたちを困らせるが、
現実の僕たちはここに出てくる客ほど
「あれは嫌だ、
 こうしてくれ」と注文がつけられるわけではない。
「料理は抜きでいいから、
 料金を安くしてよ。
 近くにマクドナルドはないかな」とか、
いえるなら一度言ってみたいけど、
実際に言ったことはない。


【戻る】
書評:『若おかみは小学生!』(令丈ヒロ子)
書評:『若おかみは小学生!Part2』(令丈ヒロ子)

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by imadegawatuusin | 2010-10-19 01:54 | 文芸

――「ユーレイ」の年齢――
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←「書評:『若おかみは小学生!』(令丈ヒロ子)」に戻る
「たしかにわたしは七つで死んだから、
 見た目は七つのままだけど、
 あなたよりかは長くこの世を見てるし、
 ずっとものを知ってるわ。」(本書180ページ)

主人公のライバル・秋野真月の「姉」である、
美陽のユーレイが語ったセリフである。

主人公・おっこのパートナーであるウリ坊も、
見た目は12歳のおっこと同世代っぽいが、
実際にはおっこの祖母と同世代のようだ。

たしかにウリ坊にしても、
かなりものを知っているようなふしがあり、
特に長年住み続けてきた春の屋旅館の実務には詳しい。
だが明らかに、
彼の精神年齢は、
蓄積された知識とは離れて「子供」でしかない。
美陽にいたっては、
やることなすこと
まさしく7歳の「悪ガキ」そのものである。

本書では主人公・おっこが
ウリ坊に惹かれはじめるほのかな思いが示唆される。
「好きになるのに年の差なんか関係ない」というのは
少女漫画などではよく出てくるセリフだ。
たしかにそれはそうだろう。

が、
その「年の差」が
時の経過にしたがって
どんどん「開いていく」ということになれば、
話はかなり変わってくる。

今後おっこはどんどん大人になっていく。
年老いてもゆく。
現にウリ坊は、
幼なじみであるおっこの祖母を
「峰子ちゃん」と呼び続けているが、
客観的には二人の関係は
いまや「祖母と孫」のようにしか見えない。

恋愛関係が
人と人との「関係」の中で生まれるものであるのなら、
日々 年齢を重ねてゆく人間と、
知識の蓄積はあっても
年齢の変わらないユーレイとの間には
どんな恋愛関係が成り立ちうるのか。
または成り立たないのか。
今後の続巻に注目したい。
「書評:『若おかみは小学生!Part3』(令丈ヒロ子)」に進む→


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書評:『若おかみは小学生!』(令丈ヒロ子)

【進む】
書評:『若おかみは小学生!Part3』(令丈ヒロ子)

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by imadegawatuusin | 2010-10-18 00:13 | 文芸

――ウリ坊の関西弁――
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関西弁が自然な作品に接すると、
それだけで作品世界が信頼できるような気がする。
反対に、
登場人物が「けったい」な関西弁を話す作品は
それだけでうさんくさい。

本書『若おかみは小学生!』に登場する
主人公・おっこのパートナーキャラクターである
「ユーレイ」のウリ坊は、
関西弁がとても自然だ。
もちろん、
作者の令丈ヒロ子さんが
大阪市生まれの生粋の関西人で、
同じ大阪市生まれの僕と
フィーリングが合うだけかもしれないが。

どうも世の中には
「吉本くさい」関西弁とでもいうようなものが
ずいぶんと幅をきかせているようで、
関西弁だというだけで
「そういうもの」を期待される風潮がある。

とはいえ吉本新喜劇だって
それほど大昔からあるわけではないし、
大阪人の会話がすべて
ボケとツッコミで成り立っているわけでもない。
そんな会話は疲れるし、
少なくとも僕は、
そんな会話にはついていける自信がない。

その点 本書のウリ坊の言葉は
どこか人を安心させるものがある。
ウリ坊はどちらかというと
かなり「チョケた」ところのあるユーレイで、
決して上品な性格ではないが、
言葉遣いでウケを狙おうというような
あざとさがない。

こういう大阪弁の書ける作家さんが
どんどん減っているんじゃないかと
最近僕は思っているのだが、
どうだろう。

そういえば、
いま名古屋市に住む僕の周りには、
市長である河村たかしの名古屋弁が
ウソくさいという人が結構いる。
大阪出身の僕なんかには
さっぱりよくわからないけど、
「関西弁の吉本化現象」と
何か通底するものがあるのかもしれない。
「書評:『若おかみは小学生!Part2』(令丈ヒロ子)」に進む→


【参考記事】
書評:『若おかみは小学生!Part2』(令丈ヒロ子)
書評:『若おかみは小学生!Part3』(令丈ヒロ子)

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by imadegawatuusin | 2010-10-17 23:29 | 文芸

――祇園の舞妓・千代菊ちゃんは男の子――
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■京都・祇園が舞台の異色の女装小説
主人公は京都の私立男子校・
聖ジョージ学院中等部に通う岡村美希也くん(13歳)。
学校では囲碁部に所属する
ごくごく平凡な中学1年生である。
だが、
夜になると舞妓・「千代菊」に変身し、
京都を舞台に
周囲で起こるさまざまな事件に
飛び回ることになる。

最初は、
実家がやっている置屋の舞妓が
ある日 突然失踪してしまい、
その日限りのピンチヒッターで
女装しただけだった。
だが、
新興財閥の御曹司・楡崎慎一郎に見初められ、
やめるにやめられなくなってしまう。

当初は楡崎慎一郎のことを
「天敵」とまで呼んでいた「千代菊」であるが、
彼の様々な側面を知るにつけ、
徐々に彼に惹かれてゆく。
が、
楡崎は当然、
千代菊を女の子だと思っている。
しかし「千代菊」は、
自分が本当は女でないことを知っている。
「両思いになってめでたしめでたし」というわけには
いかないのである。

加えてこの「千代菊」という舞妓は、
ものすごく惚れっぽい。
ちょっといい男が登場すると、
すぐに「旦那様」である楡崎のことなんか忘れて
ポーッとなってしまうのだ。
もちろん、
楡崎はやきもちを焼いて……
というような三角関係が
しょっちゅう繰り広げられるわけである。

私は思うのであるが、
主人公がごく普通の女の子であれば、
これほど気の多い主人公が
はたして少女小説業界で
受け入れられていただろうか。
ところが、
「主人公は実は男」という設定にしたことで、
なぜかあっさり受け入れられているあたりが
少々 不思議なところである。

また、
本書が他の女装小説と
大きく違っている点として、
「女装」に対する主人公の
意識の特殊性を挙げることができる。
女装小説の主人公には大きく分けて、
「女装が好き」という主人公
(性同一性障害者だったり、
 かわいい服装が大好きだったり)と、
何らかの事情で
嫌々女装させられる主人公とに
大別される。
しかし、
美希也の姿勢は
そのどちらとも微妙に異なる。

彼は「女装」に対する嫌悪感を
一切持っていない。
実家の舞妓が逃げたと知って、
積極的にピンチヒッターを買って出た。
舞妓の格好をすることに対しても、
特段の抵抗はなさそうに見える。

しかし一方で、
女装自体に強い思い入れを
持っているわけでもない
(特に必要のない日常生活の中で
 積極的に女装することは一切なく、
 変身するときには
 必ず何らかの目的がある)。
美希也の姿勢は一貫して、
「必要とあれば女装もする」という
徹頭徹尾 目的合理性に根ざしたものである。
そしてその意識は、
舞妓に変身した後の
「千代菊」の仕事に対する
プロ意識の高さにも通底する。

「花見小路におこしやす」は、
そんな千代菊シリーズの第1巻にあたる。
まだまだ「舞妓見習い」を始めたばかりの、
バレるかバレないかという
初々しい描写は見物である。
さらに、
京都の花街の風俗やしきたり
(例えば、
 月ごとに変わるかんざしの意味や種類)などの
かなり小難しいことなども、
筆者の奈波はるかさんが
その筆力で小説の中にわかりやすく織り込んでいるので、
一気に読ませてしまうのだ。
多くの人にぜひ手にとってほしい
一押しの女装小説である。
JanJan blog 7月17日より加筆転載)


【参考記事】
ほんのちょっぴりBLティスト♪ 一期一会の淡い恋(カノアマスミ)


《お薦め女装小説》
1.奈波はるか『少年舞妓・千代菊がゆく!』シリーズ
2.志麻友紀『ローゼンクロイツ』シリーズ
3.竹岡葉月『SH@PPLE -しゃっぷる-』シリーズ

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by imadegawatuusin | 2010-07-19 22:15 | 文芸

――本書で垣間見た氷室冴子の意外な才能――

■超一級のエンターテイナーは超一級の文学者
「BOOK・OFF」で
105円でたなざらしになっていたのを
見つけて買った氷室冴子『海がきこえる』だが、
これほど面白いとは全く期待していなかった。

元々僕は氷室冴子の『なんて素敵にジャパネスク』シリーズや
『シンデレラ迷宮』シリーズの大ファンで、
むろん本書のことを知らないわけではなかった。
だが、
どうも「期待はずれ」に終わりそうな予感がして
手に取るのをずっと躊躇してきた。
僕が期待する『ジャパネスク』なんかと
全く違う「文学臭」とでもいうべきものが、
ブックカバーやあおり文から漂っていたのだ。

僕の予想は半分は当たり、
半分は はずれた。
本書の作風は『ジャパネスク』シリーズなどでおなじみの
氷室冴子の作風とは全く違うものだった。

本書巻末の解説で社会学者の宮台真司が、
物語のあり方を
1.普通にはありえない波瀾万丈の経験を描く
  「代理体験もの」
と、
2.これって私という具合に
  自分と他人の関係を解釈するためのモデルに使える
  「関係性もの」
の2つに分類している(本書292ページ)。
僕にとって、氷室冴子は
間違いなく、「1」の波瀾万丈の
「代理体験もの」の名手であった。

平安時代
(それも「ジャパネスク」な世界の平安時代であって、
 決してジャパン=日本の平安時代そのものではない)や
夢の国、
ありえないような
吉屋信子風の全寮制女子校などを舞台にして、
手に汗握る大冒険やドタバタ劇を繰り広げる。
僕はそれらを夢中になってむさぼり読んだし、
最終回では本当に涙を流して感動した。

それに対して本書は、
宮台真司も指摘するとおり、
「2」の「関係性もの」の方なのである。
これといって大事件が起こるわけでもない。
自分でもびっくりしているのであるが、
これがまた面白かったのだ。
「氷室冴子って、
 こんな小説も書けたんだ!」と、
率直に言って僕は本当に驚かされた。

実にリアルな お話だ。
方言まで駆使するリアルな舞台設定、
いかにもいそうな
(本当に「いる」かどうかは別問題)登場人物、
自然で無理なく
本当にあったかのような物語……、
はっきり言って文学だ。
それも、
最上級の文学である。

僕は、
氷室冴子の大ファンでありながら、
心のどこかでバカにしていたのかもしれない。
氷室冴子に文学的な作品なんて
書けるわけがない。
書いても面白いわけがない。
彼女こそは超一級の
エンターテイナーなのだから……と。

そんな思いこみを覆す大収穫だった。
超一級のエンターテイナーが
超一級の文学者であり得ることを
本書は証明して見せたのである。
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by imadegawatuusin | 2010-01-02 17:43 | 文芸