カテゴリ:文芸( 50 )

「現代は団結が難しい。
 だからこそ、
 蟹工船があこがれの対象になっているのでは
 (名古屋ふれあいユニオン酒井さん11面)」
(『中日新聞』6月5日夕刊1面)


■「本当に、ワーキングプアが読んでるの?」
「『蟹工船』ブーム
 ――荒れる海 低賃金で働く男たち描く――
 ワーキングプア 若者ら共感」と題する記事が
『中日新聞』6月5日夕刊に掲載され、
僕のコメントが掲載された。
関係する部分だけを引用すると以下の通り。

東海地区は、
有効求人倍率の水準は高い。
しかし、
派遣労働者らが参加する
「名古屋ふれあいユニオン」の委員長、
酒井徹さん(24)は、
不安定な雇用状況を蟹工船に重ねる。

「同じ工場で正社員、派遣社員、
 日系ブラジル人、研修生が働き、
 しかも待遇が異なる。
 今や誰でも格差は身近な関心事で、
 幅広い層がブームを支えているのでは」
という。

蟹工船では労働者が団結し、
経営者側に立ち向かう。
しかし、
自身も派遣やホームレスの経験がある酒井さんは
こうも指摘する。

「現代はむしろ団結が難しく、
 希望を見いだしにくい。
 だからこそ、
 蟹工船があこがれの対象になっているのではないか」


……とまぁ いっぱしのことを言っていますが、
『蟹工船』なんて大学時代に1度読んだきりで
ほとんど忘れていたようなもので、
『中日新聞』の記者さんが突然組合事務所に来たので、
かなりいい加減なことを口走っていたような……。
(確かこんな感じのやりとりでした↓)。

記者「いま、
   小林多喜二の『蟹工船』が
   売れているんだそうですね。
   若い派遣労働者なんかが
   自らの境遇に重ね合わせて
   共感したりしてるんでしょうか」

酒井「それ、ホントの話なんですか。
   売れてる売れてるって話は聞きますけど、
   実際の派遣労働者で
   『蟹工船』読んでる人の話なんて、
   少なくとも僕は聞いたことありませんけど……」

記者「でも栄の本屋さんとか行ったら
   平積みになってて、
   ものすごい部数が売れてるって話ですよ」

酒井「うーん……、実際の派遣労働者がというよりは、
   もうちょっとインテリというか、
   そういった層が買っていってるんじゃないかと
   いう感じがしますけどね。
   いろんな地域から かき集められた労働者が
   蟹工船だのマグロ漁船だのに乗せられたりとか、
   あるいは
   いわゆる『飯場』でも『タコ部屋』でもいいんですけど、
   そういう『蟹工船労働』っていうのは、
   一昔前までは世間からかなり隔絶されたところに
   あったんじゃないかと思うんですよね。
   ところがここ数年、
   製造業にも派遣労働者が解禁されて、
   『住み込み派遣』なんていう形で、
   どんどん「普通の工場」の中に入って来ちゃった。
   沖縄とか東北とかから集められてきた労働者が
   派遣会社の用意した寮に入れられて、
   毎朝派遣会社の手配したバスに乗って
   工場にやってくる。
   昔の『蟹工船』は海の上にあってなかなか見えなかったけど、
   いまじゃごく普通の町工場に、
   ネットカフェで暮らしている日雇い派遣労働者なんかが
   ひょこっと来たりして、
   『蟹工船労働』がいわゆる『一般』の労働者にとって
   目に見える、身近な、『明日は我が身』の存在に
   なりつつある。
   そういったことを敏感に感じ取った、
   派遣労働者そのものよりは
   もうちょっとハイクラスな層の労働者たちが
   本を買っていってるんじゃないでしょうか」

記者「格差が身近なものになっているということですか」

酒井「例えば今年の冬、
   グッドウィルでこたつ工場に日雇い派遣で行ったんですけど、
   僕に仕事を教えてくれたのが
   龍さんという中国人研修生だったんですよね。
   僕に仕事を教えるぐらいですから、
   僕よりずっと仕事ができる。
   職場のみんなから頼りにされている。
   でもこの人、愛知県の最低賃金である
   時給714円すらもらっていないんです。
   ある日1日だけヒョコッと行った僕が
   時給800円もらってるのにですよ。
   『蟹工船』でも同じ船の中に
   全然違う所から来た労働者が集められて
   最初は分断されてるけど、
   同じ釜で飯を食って、
   同じようにひどい目に遭っていく中で
   最終的には一つに団結していく。
   でも、いまは違うんです。
   同じ非正規労働者でも、
   派遣労働者と外国人研修生では
   全然立場が違う。
   まして日雇い派遣なんか、
   今日行く職場と明日行く職場が全然違う。
   今日一緒に働いている人と
   明日一緒に働く人が違っている。
   これで、
   労働者は団結して闘おうっていうのが
   むちゃくちゃ難しい。
   派遣労働者は正社員との格差に怒るというよりも、
   そもそも『ハケン』と『正社員』は違うんだから……という
   あきらめが もはや先行してしまう。
   だからね、
   いまの労働者にとって『蟹工船』っていうのは
   一種のあこがれだと思うんですよ。
   もちろん、当時の職場環境は
   今よりずっと劣悪だし、
   代わってやろうかと言われたら
   全力でお断りするけど、
   でも、本を読んでそこに自分を投影している人たちって、
   『労働者が最後は団結して立ち上がる』あの結末に、
   何かあこがれみたいなものを
   感じているんじゃないでしょうかね」

ちなみに小林多喜二といえば、
僕は三浦綾子の書いた、
小林多喜二の母・セキを主人公とする
『母』という小説が大好きです。
小林多喜二の『蟹工船』そのものは
実を言うとあまり印象に残ってないし、
面白かったという感覚もないのですが、
この小説には泣けました。

「私は小説をかくことが、
 あんなにおっかないことだとは
 おもってもみなかった。
 あの多喜二が小説書いて殺されるなんて……」

「わたしはねえ、
 なんぼしてもわからんことがあった。
 多喜二がどれほどの極悪人だからと言って、
 捕らえていきなり竹刀で殴ったり、
 千枚通しでももだばめったやたらに刺し通して、
 殺していいもんだべか。
 警察は裁判にもかけないでいきなり殺しても
 いいもんだべか」

「多喜二は死んだ。
 指はぶらんとするほど折られても、
 足はぶすぶす千枚通しで刺されても、
 守らねばならない秘密は守ったんだと。
 そう言って、
 党の人たち、みんなほめてくれたの。
 でも、
 ほめられんでもいい。
 生きていてほしかった(三浦綾子『母』)



【参考記事】
評伝・葉山嘉樹(「セメント樽の中の手紙」作者)
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by imadegawatuusin | 2008-06-05 22:28 | 文芸

――テストがあってもSOS団は年中無休!――

ハルヒがこの世界で
(無自覚かつ能動的に)全能であるのと同様に、
長門もまた
(思慮深く受動的に)全能である。
なにを考えているのか分からないことは同じか…(笑)
 
二人のタイプの違う全能の女にはさまれて
キョンは幸せだが、
ストーリー的には、
全能の登場人物に対して
いかに制約条件を設定するかというのがひねり所。

ふたりの全能キャラの性格の違いは、
「危険物」と「安全装置」の機能も果たしていて、
物語をバランス良くドライブしている。(からから!『Amazon.co.jp:涼宮ハルヒの退屈 〔角川スニーカー文庫〕のレビュー』


■「行方不明の彼氏を探して」
「学園生活での生徒の悩み相談」を主な活動内容とする
(ことになっている)SOS団に(谷川流『涼宮ハルヒの退屈』148ページ)
初の「お客さん」がやってくる(前掲書146ページ)。
「ハルヒは今にも歌いだしそうな上機嫌」だ(前掲書149ページ)。

依頼者の名前は喜緑江美里(前掲書146ページ)。
行方不明になっている彼氏を
探してほしいというのだが……。

作品中では、
「幼稚園時代に昆虫博士として有名だった」など、
キョンの意外な一面が垣間見られる一幕も(前掲書164ページ)。

それにしてもコンピュータ研の部長氏よ、
どうしてよりにもよって「カマドウマ」だったのか。
古泉によると、
「このカマドウマは
 ……部長氏がイメージする畏怖の対象」
とのことなのであるが(前掲書166ページ)、
部長氏には、
カマドウマにまつわる嫌な思い出でもあるのだろうか。


《戻る》
谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』について
谷川流「涼宮ハルヒの退屈」について
ツガノガク「ノウイング・ミー、ノウイング・ユー」解説
谷川流「笹の葉ラプソディ」について
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by imadegawatuusin | 2008-02-21 19:19 | 文芸

――3年前の七夕、ハルヒに「誘いの手」が差し出された夜――

ハルヒに訪れる7月7日の憂鬱は、
届かないかもしれない者への憧憬と言うところに
あるのかもしれません。(「(アニメ感想) 涼宮ハルヒの憂鬱 第8話 『笹の葉ラプソディ』」より)


■キョンにも「秘密」のハルヒの思い出
3年前の七夕の夜、
ハルヒは「ジョン・スミス」と名乗る少年を使い、
東中学の校庭に
まるで「出来そこないのナスカの地上絵」のような(谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』18ページ)
模様群を描かせた(谷川流『涼宮ハルヒの退屈』106~108ページ)。
これは織姫・彦星に向けられた、
「私は、ここにいる」という
メッセージであったらしい(前掲書109、126ページ)。
世に言う「校庭落書き事件」である(谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』17ページ)。

ハルヒはこの一件を『自分がやった』と認めたものの、
校長室に呼び出され、教師総掛かりで問いつめられても
それ以上のことは
頑として話そうとはしなかった(谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』18~19ページ)。

「ジョン・スミス」との思い出は、
(本人であるキョンを除けば)
今もハルヒの心の中に仕舞い込まれたまま、
ということになる。

全てにおいて開けっぴろげに見えるハルヒも、
決して自分の全てをSOS団団員たちの前に
さらけ出しているわけではない。

ハルヒは今も七夕の季節になると、
窓の外を眺めては「思い出し憂鬱」にひたる。
まるで、
「いつ宇宙人が舞い降りるかと
 指折り待っているような雰囲気」で(谷川流『涼宮ハルヒの退屈』91、128~129ページ)。

■「異世界人」が登場しない理由
「ただの人間には興味ありません。
 この中に
 宇宙人、未来人、異世界人、超能力者がいたら、
 あたしのところに来なさい」(『涼宮ハルヒの憂鬱』11ページ)。
涼宮ハルヒ初登場の名シーンで
そう呼びかけられた対象のうち、
唯一「異世界人」だけが作品に登場する気配がない。
これはなぜか。

ファンの間でしばしば議論されることではあるのだが、
その答えは結局のところ、
この「笹の葉ラプソディ」の中にあるのではないか。
つまり、
当時中学1年生だった涼宮ハルヒに
大きな影響を与えた「ジョン=スミス」が、
「宇宙人」については「いるんじゃねーの」、
「未来人」については「まあ、いてもおかしくはないな」、
「超能力者」については「配り歩くほどいるだろうよ」と
肯定的な発言をしたのに対し(「笹の葉ラプソディ」『涼宮ハルヒの退屈』107ページ)、
唯一「異世界人」については
「それはまだ知り合ってないな」と
否定的な発言をした(全掲書108ページ)。
『だから』、
異世界人はこれまでも、
そしてこれからも登場しない。
そういうことなのではないか。


《本文校訂》
谷川流『涼宮ハルヒの退屈』74ページ

誤:今週は期末テストを間際に控えた
  七月の一週目で、

正:今週は期末テストを間際に控えた
  七月の二週目で、

本作は七月七日を舞台としており、
その日が平日である以上(谷川流『涼宮ハルヒの退屈』75ページ)、
七月七日を含む「今週」が「七月の一週目」であることは
ありえない。
七月一日が仮に月曜日であったとしても、
七月七日は日曜日になってしまう。
もっともキョンは
「俺は月曜は一って感じがする」と
発言しており(谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』28ページ)、
週の始まりを日曜日に置いている可能性もあるが、
たとえ七月一日が日曜日でも、
七日は土曜日となってしまい平日にはならない。
「第一回不思議探索パトロール」が
「土曜日」に決行されたことからも明らかなとおり、
キョンたちの通う県立北高では
土曜日も「休みの日」となっており、
平日ではありえない(谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』138ページ)。
七月七日が平日であるためには、
必ず一度(七月一日以外で)日曜日をまたいだ
第二週目でなければならない。
漫画版の
短編・「ノウイング・ミー、ノウイング・ユー」(『涼宮ハルヒの憂鬱』3巻、ツガノガク)は
「七夕前の七月の日曜日」を舞台としており(『涼宮ハルヒの憂鬱』3巻、69~77ページ)、
やはりこの「笹の葉ラプソディ」は
七月第二週の出来事であると考えたい。


谷川流『涼宮ハルヒの退屈』102ページ

誤:徐々に人通りのまばらなる道
  十分ほど歩いたか。

正:徐々に人通りのまばらになる道
  十分ほど歩いたか。

「まばらなる道」という言葉遣いも
古典的な日本語表現としては存在するが、
それでは「徐々に」という言葉が
後の部分につながらない。
(「徐々に人通りのまばらなる道」?)。
前後の文脈を見ると、
歩き始めたころは
「人の目をはばかるようにして」
歩かなければならなかったが、
目的地の東中学校付近には、
校門をよじ登り「不法侵入」をくわだてるハルヒを
とがめる者はいなかったことがわかる(谷川流『涼宮ハルヒの退屈』102~103ページ)。
つまりこの道は、
「(歩いてゆくと)徐々に人通りが
 まばらになっていった」ことになる。
よってここ部分は「に」という助詞が抜け落ちていると考え、
「徐々に人通りのまばらなる道」
と読むのが正解だろう。


《戻る》
谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』について
谷川流「涼宮ハルヒの退屈」について
ツガノガク「ノウイング・ミー、ノウイング・ユー」解説

《進む》
谷川流「ミステリックサイン」について
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by imadegawatuusin | 2008-02-19 05:01 | 文芸

――古泉が連れて来ようとした「友人」とは――

■時系列・発表順では第1巻の直後作
退屈すると、
とかく人はロクなことを考えない。
それを防ぐためには、
常に目の前に課題を設定し、
それを着実にこなし続けてゆくことが大切だ、ということを
教えてくれる一作……なのかどうかは知らないが、
ともかくこの作品以降、
古泉や長門は
「涼宮さんをあまりヒマにさせておいてはダメ」(『涼宮ハルヒの退屈』66ページ)
との教訓から、
彼女の「退屈」を回避するべく
絶えずさまざまな騒動を
(場合によっては自作自演してまで)わざわざ呼び込み、
何も知らないキョンを含むSOS団全体を
大小さまざまな いざこざに巻き込んでゆくことになる。

ところで、
野球チームの数合わせのために
古泉が当初連れてこようとした、
「我々に興味を抱いているある人物」(前掲書18ページ)とは
一体 誰であったのだろう。
「どうせけったいな野郎に決まっている」
と考えたキョンによって却下されてしまい(前掲書19ページ)、
結局どんな人物なのか分からず仕舞いに終わったが、
案外、
結局 朝比奈みくるが連れて来ることになった
鶴屋さんであったのでは……と
思えなくもない。
気になるところだ。

シリーズ第3巻『涼宮ハルヒの退屈』の表題作だが、
時系列でいうと第1巻『涼宮ハルヒの憂鬱』の直後に該当する。
短編のため、
単行本への収録が遅れたが、
実際に執筆されて雑誌に掲載されたのも、
第2巻『涼宮ハルヒの溜息』より先である。


《戻る》
谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』について

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by imadegawatuusin | 2008-02-17 05:31 | 文芸

――ハルヒはなぜ、キョンを選んだのか――

■カギは、あの冒頭のモノローグ
「ただの人間には興味ありません。
 この中に
 宇宙人、未来人、異世界人、超能力者がいたら、
 あたしのところに来なさい。以上」(本書11ページ)

これはあまりにも有名な、
本作ヒロイン・涼宮ハルヒ初登場時のセリフである。
そして彼女は、
その言葉を具現してゆくかのように、
自らの結成した学校当局非公認集団・
「世界を大いに盛り上げるための涼宮ハルヒの団」(略称:SOS団)に、
「宇宙人」・長門有希、「未来人」・朝比奈みくる、「超能力者」・古泉一樹を
引きずり込んでゆく。
そして、
彼らと同様にヒロイン・涼宮ハルヒによって
このSOS団に引きずり込まれたのが、
本作主人公・キョンなのであった。

「超能力者」・古泉一樹は
キョンに対してこう言っている。
「あなたについてはいろいろ調べさせてもらいました。
 保障します、
 あなたは特別何の力も持たない
 普通の人間です」(本書169ページ)

キョンは、
ハルヒが「興味」を持たないはずの
「ただの人間」だと言うのである。

キョンは自問する。
「なぜ、俺なのだ?

 宇宙人未来人エスパー少年が
 ハルヒの周りをうようよするのは
 古泉いわく
 ハルヒがそう望んだからだと言う。

 では、俺は?

 何だって俺は
 こんなけったいなことに巻き込まれているんだ?
 百パーセント純正の普通人だぞ。
 突然ヘンテコな前世に目覚めでもしない限り
 履歴書に書けそうもない謎の力も
 なんにもない
 普遍的な男子高校生だぞ。

 これは誰の書いたシナリオなんだ?

 ……お前か? ハルヒ」(本書250ページ)


「なぜ、俺なのだ?」との問いに対し、
理由はいくつか挙げられよう。

一つは、
後に単行本第4巻『涼宮ハルヒの消失』で明らかになった通り、
実はキョンが、
中学生時代のハルヒと出会い、
彼女のその後に大きな影響を与えた、
「世界を大いに盛り上げるためのジョン・スミス」であるという
点である(谷川流『涼宮ハルヒの消失』181ページ)。
実際 涼宮ハルヒは、
すでに1巻本書の時点でキョンに対し、
「あたし、あんたとどこかで会ったことがある?
 ずっと前に」と問いかけており(本書29ページ)、
「ジョン・スミス」のエピソードに向けての伏線は
すでに張られていたことになる。

だが。
少なくとも表面上は、
ハルヒはこの事実に気付いていない。
SOS団団員として、
誰よりも先にキョンを引き入れた理由としては やや弱い。

涼宮ハルヒがキョンに対して恋愛感情を抱いていることを
理由に挙げる向きもあろう。
しかし、
ハルヒがキョンに
そうした感情の片鱗ともいうべきものを見せ始めるのは、
SOS団 結団後の「第一回不思議探索パトロール」の際。
市内探索のためにグループを2つに分けることになり、
「ハルヒ・長門・古泉」組と「キョン・みくる」組に分かれたときの
以下の記述が最初である。

「ふむ、この組み合わせね……」

なぜかハルヒは
俺と朝比奈さんを交互に眺めて鼻を鳴らし、

「キョン、解ってる?
 これデートじゃないのよ。
 真面目にやるのよ。
 いい?」

……マジ、デートじゃないのよ、
遊んでたら後で殺すわよ、
と言い残して
ハルヒは古泉と長門を従えて立ち去った。(本書141~142ページ)


そもそも、
案外 嫉妬深い涼宮ハルヒが(本書212、259~260、267~276ページ)、
朝比奈みくるを部室に連れてきた際、
彼女の胸をもみまくり、
キョンにまで「あんたも触ってみる?」と持ちかけたり(本書61~62ページ)、
メイド姿にさせた際には
「あんたも一緒に
 みくるちゃんにエッチぃことしようよ」と
誘ってみたりしていることからも(本書132ページ)、
涼宮ハルヒがSOS団結団を思い立った当初から
キョンに恋愛感情を抱いていたとは考えにくい。

ここで注目すべき点は、
本書第7章で涼宮ハルヒが
「現実世界に愛想を尽かして
 新しい世界を創造することに決めた」ときのことである(本書274ページ)。
その際、
「こちら(筆者注:=元)の世界から
 唯一、涼宮さんが共にいたいと思った」のがキョンであった(本書275ページ)。
キョンは、
「俺は戻りたい」、
「連中ともう一度会いたい」、
「元の世界のあいつらに、
 俺は会いたいんだよ」と主張する(本書283~284ページ)。
それに対して、
ハルヒが「怒りと悲哀が混じった微妙な表情」で言ったのが、
次のセリフだ。

「あんたは、
 つまんない世界にうんざりしてたんじゃないの?
 特別なことが何も起こらない、普通の世界なんて、
 もっと面白いことが起きて欲しいと
 思わなかったの?」(本書284ページ)。


言うまでもなく、
そこまでの作品展開の中で、
キョンがハルヒに対してそのような主張をした事実は
全くない。
確かにキョンは『心の中で』
こんな思いを抱いては いた。

俺だってハルヒの意見に否やはない。
転校生の美少女が
実は宇宙人と地球人のハーフであったりして欲しい。
今、近くの席から俺とハルヒをチラチラうかがっている
アホの谷口の正体が
未来から来た調査員かなにかであったりしたら
とても面白いと思うし、
やはりこっちを向いてなぜか微笑んでいる
朝倉涼子が超能力者だったら
学園生活はもうちょっと楽しくなると思う。(本書35ページ)。


だが、少なくともキョンは
ハルヒの前ではそうした思いを押し隠し、
ことさらに「常識人」として振舞おうとする。
ある意味では、
「言動こそエキセントリックですが、
 その実、まともな思考形態を持つ
 一般的な人種」である涼宮ハルヒと
好一対の存在と言えなくもない。

ともあれ、キョンは涼宮ハルヒに対して、
「つまんない世界」、
「特別なことが何も起こらない、普通の世界」への不満を
はっきりした形で明言したことは一度もなかった。
にもかかわらず涼宮ハルヒが、
キョンは「つまんない世界にうんざりして」いる、
「もっと面白いことが起きて欲しいと思」っていると、
それを当然の前提とした上で、
キョンを「新しい世界」へと引き込んだのだという点を
見逃してはならない。
ハルヒにとって
(たとえ口には出さずとも)、
「心の底から宇宙人や未来人や幽霊や妖怪や超能力や
 悪の組織が目の前にふらりと出てきてくれることを
 望んでいた」キョンは(本書5~6ページ)、
「特別なことが何も起こらない」、
「つまんない世界」の中でただ一人、
同じ思いを共有できると確信できる「同志」であったのだ。
(だからこそ、
 その確信が「裏切られた」際のハルヒのショックは
 大きかったわけだが)。

本作冒頭の
「サンタクロースをいつまで信じていたかなんてことは
 たわいもない世間話にもならないくらいの
 どうでもいいような話だが……」という
あまりにも有名なプロローグは、
別に言葉の面白さだけを目的に
伊達や酔狂で掲載されているわけではない。
このプロローグの部分こそ、
キョンがハルヒと心の底で共有する「非日常へのあこがれ」をつづる、
いわば一見正反対に見える二人をつなぐ役割を果たす
非常に重要な部分だったのだ〔注1〕。

〔注1〕本作 随一の見せ場の一つに、
ハルヒがキョンに語って聞かせた小学六年生のときの、
「野球場での思い出」がある。
見渡す限りの人だかりに圧倒されたハルヒは、
父親にその場の人数を尋ねるのだが、
それが、この日本全体の人間の
ほんの一握りでしかなかったことに気付き、
またもや愕然とさせられる。
この体験をハルヒは、
「まるで弁論大会の出場者みたいに
 ……一気にまくしたて」たのであるが、
その後、
「喋り終わると
 喋ったことを後悔するような表情になって
 天を仰いだ」と記されている。
とすればこの体験は、
あの雄弁なハルヒをして、
人前ではめったに吐露することのない、
他人に伝えるには思い切りを必要とする
思い出だったということになる(本書225~226ページ)。
これはその後のハルヒの言動を決定付ける
非常に重要な原体験となるのであるが、
こうした思いを打ち明けた相手が
他ならぬキョンであったことに
注意を払うべきだろう。
くしくもキョンもこのハルヒの「告白」を聞く以前、
「第一回不思議探索パトロール」の際、
集合場所である北口駅のごった返しを眺めながら、
「どこから湧いたのかと思うほどの人混みには、
 いつもこの大量の人間一人一人に
 それぞれ人生ってのがあるんだよなあと
 考えさせられる」との独白を行なっている(本書138ページ)。



《進む》
谷川流「涼宮ハルヒの退屈」について
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谷川流「ミステリックサイン」について

『涼宮ハルヒ』シリーズと『なぞの転校生』

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by imadegawatuusin | 2008-02-16 22:39 | 文芸

――あたしは、一夜にして「ハブ」になった――

■「ココロなんて、ちょっと病気の方がいい」
重松清の作品には、
小説ならではの魅力的なフレーズが
しばしば地の文に登場する。
1人称主人公の「つぶやき」と言い換えてもいいかもしれない。

この「つぶやき」は、
評論などに登場すればただの暴論として排斥され、
論理的な説明には適さないかもしれないが、
そのストーリーの中に置かれたときに実に絶妙な効果を発揮し、
重松作品の魅力の一つとなっている。

いいじゃない、ココロなんて、ちょっとぐらい病気の方が。


も、そんなフレーズの一つである。

主人公の「ミキ」は14歳、
中学2年生の女の子。
彼女はある日、突然「ハブ」になった。
蛇になったのではない。
「ハブ」――「村八分」の省略形。
要するに、クラス全員から無視される存在になったということだ。

無視されるようになったことに、
特別の理由はない。
ミキがみんなに嫌われていたというわけでもない。
むしろ彼女は、
元気で明るく、
とても活発なクラスの人気者だった。
そんな彼女を、
クラスでいっせいに無視したらどうなるか……。
そんなささやきに、
クラスの全員が乗せられ、
あるいはその大勢に抗うことができなかった。
ただ、それだけのことなのだ。

けれど、
一度始まった「ハブ」はもう誰にも止められない。
ミキに話しかければ、
今度は自分が「ハブ」の対象になってしまう……。

そうしてミキを無視した子供たちは、
みんな「普通」の、どこにでもいる中学生たちだった。

そんなある日、
ワニが住むとされる「ひょうたん池」で、
ミキはある「おばさん」と出会う。

「おばさん」の夫は不倫をしている。
だが「おばさん」は、
夫が不倫をしているのが悔しいのではない。
不倫をしているのがバレバレなのに、
本気で隠し通せていると信じて疑わない夫が、
いかにも自分をあなどっているようで許せない。

「おばさん」は、
ワニを餌付けして
いつか夫を食い殺してもらおうと、
いつも夫の髪の毛や爪を混ぜ込んだ肉を、
本当にワニがいるのかどうかもわからない
ひょうたん池に投げ込んでいる。

この「おばさん」はココロを病んでいる。
そう読んだ「ミキ」の診立ては、
あながち間違ってはいないだろう。
……が、
だからといってこの「おばさん」は、
何かとてつもなく困ったことを
しでかしているというわけではない。
ただいつも、
池に肉を投げ込んでいるというだけだ。

毎日学校で
「普通」の子供たちの仕打ちに苦しめられているミキにとって、
「ココロを病んだ おばさん」は、
安らぎの場として機能する。
そして、ミキは思うのだ。
「いいじゃない、ココロなんて、ちょっとぐらい病気の方が」と。

■あまりにリアルな「イジメられる側」の心情描写
「イジメ」のような社会的な問題を、
等身大の中学生の視点から描ける作家は本当に稀少だ。
その理不尽の中に生きる中学生のリアルな心理を描き出せる作家は
極少数だ。

そして、
この人こそ そんな数少ない作家の一人なのだと、
自分が中学生だったころに感じた作家が
重松清だったのだ。
重松さんのあまりにリアルな「イジメられる側」の心情描写に、
僕は当時、何度も驚かされたものである。

本作・「ワニとハブとひょうたん池で」は、
そんな重松清の短編の中で、
僕の最も好きな話だ。
重く苦しい問題を取り扱っているにもかかわらず、
「ひょうたん池のワニ」に自分を重ねて力強く生き抜くミキと
文体の明るさとがあいまって、
読者に過度の重苦しさを強制しない。
最終的にはさわやかな青春小説(?)として仕上がっている。


【本日の読了】
重松清「ワニとハブとひょうたん池で」(評価:5)
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by imadegawatuusin | 2007-08-14 17:15 | 文芸

――「元ネタ」の解釈そのものに再検討を迫る新視点――

■巧みなミスリードで原作に切り込む
野村美月さん『文学少女』シリーズがすごいのは、
単なる「文学紹介」や「文学をネタにしたパロディー」に終わらず、
それ自体が、
「元ネタ」となった文学作品に対する独自の解釈を含む
優れた批評的作品に仕上がっているという点だ〔注1〕。

たとえば。
本作『“文学少女”と死にたがりの道化』では、
作品前半、
手紙の中に記されている「あの子」を、
あたかも竹田千愛のことであるかのように
読者に錯覚させようとする作為がほどこされている。
手紙は「あの子」のことを、
次のように記している。

自分のことを好きだといってくれたあの子も、
犬のようでした。

無邪気で明るく、
いつも楽しそうに笑っている、
子どもっぽいあの子。
あぁ、
自分も、あんなふうであれば、
どんなによかったろう。

けど、
そんな平和で単純なあの子が、
自分は憎らしくもあったのです。(本書55~56ページ)


この手紙の中で、
「自分のことを好きだといってくれたあの子」が
「犬」や「子ども」に例えられているという点に注目してほしい。
「犬」と「子ども」。
これはどちらも、
竹田千愛の第一印象に
ピタリと重なり合うものである。
竹田千愛が初登場した際、
本作は彼女を次のように描写している。

ドアが開くと同時に、どさっという音がして、
誰かが前のめりに転げ込んできた。

床にかえるみたいに倒れている女の子は、
制服のスカートがめくれ、
くまのパンツがもろ見えだ。

今年小学校に入学した妹が同じようなパンツを持ってたな、
なんてことを考えていたら、
「はぅ~」とか「うにゅ~」とかうめきながら体を起こした。

……ふわふわした髪を肩の上までのばした、
小さくてふっくらした女の子だ。
ミニチュアダックスフントとか、トイプードルとか、そんなイメージ。(本書15~16ページ)


竹田千愛も「あの子」と同様、
「犬」や「子ども」のイメージで描かれていることが見て取れる。
こうした印象操作・叙述トリックによって、
読者は「あの子」を無意識のうちに
竹田千愛に重ねて見るようになり、
手紙の筆者が「愁二先輩」であるとの誤解を
強めてゆくカラクリになっている。
そしてその「期待」を徹頭徹尾 裏切りぬくことによって本作は、
単にミステリとして優れているといった次元に留まらず、
「元ネタ」である『人間失格』という作品の読み方にまで、
重大な再検討を強いるのだ〔注2〕。

結論からいうと、
竹田千愛は「あの子」ではない。
それどころかこれらの手記の著者こそが、
竹田千愛だったのである。
「無邪気で明るく、
 いつも楽しそうに笑っている
 ……平和で単純なあの子」像は、
全て竹田千愛の意図的な「演技」で
作られたものにすぎないことが
作品後半 明らかになる。
(作品の中で太字のブロック体で記された手記は、
 すべて竹田千愛の手によるものであり、
 片岡愁二の「手紙」は天野遠子と井上心葉の会話の中で
 その数節が明らかになるのみである)。

主人公の目に、
「無邪気で明るく、
 いつも楽しそうに笑っている」ように写るからといって、
その人物が本当に「平和で単純」であるとは限らない……。
ただそんな人物像に、
あこがれを抱いているだけの人物の演技である可能性は
どこまでいっても否定できない。
もしそうだとすれば、
これはつまり、
太宰治の『人間失格』の主人公・大庭(おおば)葉蔵が
「よごれを知らぬヴァジニティ」(太宰治『人間失格』新潮文庫116ページ)、
「信頼の天才」(前掲書118ページ)とのみ描く「ヨシ子」もまた、
「もう一人の道化」でなかったという保障はどこにもない、
ということになりはしないか。

本作の主人公・井上心葉は、
竹田千愛の「演技」に気付いたとき、
次のように独白している。

これまで竹田さんが僕に語った言葉が、
頭の中でくるりと一転し、
まったく違う意味を持つ別の言葉に変わってゆく。(本書217ページ)


この瞬間 本書は、
竹田千愛のこれまでの言動のみならず、
太宰治の『人間失格』という作品そのものに対しても、
これと同様の重大な再検討を迫るものとなる。
もし、
大庭葉蔵の目に「よごれを知らぬ」「信頼の天才」と写った「ヨシ子」が、
本書の竹田千愛と同様、
実は「道化」にすぎなかったのだとすれば……。
そうした視点を導入しただけで、
太宰治の『人間失格』という作品は、
その様相を一変する。
『人間失格』に描かれた、
「ヨシ子」に関する全ての記述が、
「頭の中でくるりと一転し、
 まったく違う意味を持つ別の言葉に変わってゆく」ことになるだろう。

■太宰治『人間失格』の新解釈
例えば、
「ヨシ子」の初登場シーンである。
ここで「ヨシ子」は、
酔っぱらってマンホールに落ちた
『人間失格』主人公・大庭葉蔵を手当てしながら、
「飲み過ぎますわよ」とたしなめる。
そして葉蔵は、
「やめる。
 あしたから、一滴も飲まない」
と誓いを立て、
「やめたら、ヨシちゃん、
 僕のお嫁になってくれるかい」と
「冗談」で言う。
「ヨシ子」は
「モチ(筆者注:=勿論)よ」と快諾。
しかし葉蔵は、
翌日さっそく昼から酒を飲んでしまう。
「ヨシちゃん、ごめんね。
 飲んじゃった」という葉蔵に、
「ヨシ子」は、
「あら、いやだ。
 酔った振りなんかして」と
言うのである。

ここで葉蔵は、
「ハッとしました。
 酔いもさめた気持ちでした」と記述する。
葉蔵が、
「本当に飲んだのだよ。
 酔った振りなんかしてるんじゃない」と言っても、
「からかわないでよ。
 ひとがわるい」と、
「てんで疑おうとしない」という。
「かつごうったって、だめよ。
 昨日約束したんですもの。
 飲む筈が無いじゃないの」と
「ヨシ子」は言う。
葉蔵は、
「ああ、よごれを知らぬヴァジニティは
 尊いものだ」と「ヨシ子」の純粋性に感激し、
「その場で決意し」、
「結婚」してしまうのである(太宰治『人間失格』新潮文庫115~116ページ)。

だがこれが、
「ヨシ子」の、あくまで葉蔵と結婚するための
「演技」であったのだとしたら、
葉蔵の「冗談」を実現させてしまおうという、
「ヨシ子」の一世一代の
計算高い演技であったと考えれば
どうだろう。

「ヨシ子」はこのとき、
実は葉蔵の顔が赤いことにも
はっきり気づいていたのだが、
「夕日が当たっているからよ」の一言で
かたづけている(全掲書116ページ)。

葉蔵は、(冗談で)
『酒をやめたら結婚してくれ』とプロポーズした。
「ヨシ子」はこれを受ける。
でも、翌日 葉蔵は
やっぱり酒を飲んでくる。
ここで「酒を飲んでいる」と認めてしまえば、
自分は葉蔵と結婚することはできない。
そこで「ヨシ子」は、
葉蔵の顔が赤いことも夕日のせいにして、
「昨日約束したんですもの。
 飲む筈が無いじゃないの」と
あたかも純真な、
「信頼の天才」をよそおってそれを否定し、
葉蔵がそれにころっと騙されたのだとしたら……。

『人間失格』の各手記は、
大庭葉蔵の一人称の視点から描かれており、
このとき『本当は』「ヨシ子」がどういった気持ちだったのか、
読者には確認するすべがない。
そう考えると、
『人間失格』という作品の根底が
がらりと崩れ、全くあたらしい世界が
顔を覗かせることになる。

これは ほんの一例にすぎない。

野村美月さんの『文学少女』シリーズは、
単なる「文学紹介」や「文学をネタにしたパロディー」ではない。
一作一作が、『元ネタ』とされた作品の通釈に重大な再検討を迫る
極めて批評的な作品なのだ。


〔注1〕本作の主人公・井上心葉自身、本書の中で、
「文学の解釈なんて人それぞれ」と言っている(本書37ページ)。

〔注2〕本書『“文学少女”と死にたがりの道化』と併読するのであれば、
太宰治の『人間失格』は新潮文庫から出ているものをお薦めする。
遠子先輩の太宰薀蓄の中にある「潜在的二人称」(本書91ページ)というフレーズなどは、
新潮文庫の奥付にある奥野健男氏の「解説」によるものである(奥野健男「解説」太宰治『人間失格』新潮文庫157ページ)。
著者・野村美月さんも、
現在書店で発売されているものの中では
新潮文庫版を参考にしたことを明らかにしている(本書254ページ)。


【戻る】
野村美月『“文学少女”と死にたがりの道化』
「続・野村美月『“文学少女”と死にたがりの道化』」


《参考サイト》
野村美月『天使のベースボール』について
野村美月『天使のベースボール2巻』について

太宰治『人間失格』について
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by imadegawatuusin | 2007-02-11 17:58 | 文芸

短歌とは臆病者の文学だ

僕は「小説」を書こうとしたことがある。
そして実際、書き上げた。
けれどそれが、
本当に「小説」になっているのかどうか、
僕には全くわからなかった。

「ちゃんとした小説家」の「お墨付き」をもらわなければ、
「この文章」を僕は到底、
胸を張って「小説である」とは言う自信がなかった。

僕は「詩」を書こうとしたこともある。
けれどそれが、
本当に「詩」になっているのかどうか、
僕には全くわからなかった。

「ちゃんとした詩人」の「お墨付き」をもらわなければ、
「この文章」を僕は到底、
胸を張って「詩である」と主張する自信はなかった。

しかし、短歌の場合は少し違った。
「5・7・5・7・7」。
それが短歌の、たった一つのルールである。
そして、問答無用のルールでもある。
うまいのか、下手なのか、
優れているのかいないのか。
それは僕にはわからない。
けれど、「5・7・5・7・7」の文章ができたとき、
僕にはそれが、短歌であることを疑う余地はないように思えた。

短歌は臆病者の文学だ、と思う。
「入り口で拒絶されること」が絶対にない。
それがどんなにへたくそでも、
「こんなものは短歌ではない」とは言わせない。
「それ」は、
「5・7・5・7・7」という鉄壁の形式に
固く固く守られている。

その「囲い」の中では、
ちょっとぐらい冒険してみてもいい。
たまには羽目を外してみても構わない。
僕をして、そんな気にさせてくれる。

短歌とは、臆病者の文学である。
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by imadegawatuusin | 2006-11-28 13:56 | 文芸

■『嵐が丘』に着想を得つつ
 その構造を内側から食い破る実力作
本作・『"文学少女"と飢え乾く幽霊』は、
野村美月さんの「文学少女シリーズ」の第2弾である。
前作『"文学少女"と死にたがりの道化』は、
太宰治の『人間失格』に着想を得たミステリーとして
一部で大いに話題を呼んだ。
今回の『~飢え乾く幽霊』は、
19世紀のイギリスの文学者・エミリー=ブロンテ〔注1〕の
『嵐が丘』をモチーフとしている。

最後の最後まで読まないと
何がどうなっていたのかよくわからなかった前作と比べ、
今回の『~飢え乾く幽霊』は、
比較的早い段階で「物語の構図」の把握が可能だ。
おそらく読者の大半は
(『嵐が丘』という作品を知る・知らないに関わらず)、
この本の半分も読み終わらないうちに
この物語における主要な事実関係、
つまり『嵐が丘』的構図というものを
ほぼ掴み取ることができるであろう。

具体的には、
雨宮蛍の後見人である黒崎保の正体が
実は蛍の母・九条夏夜乃の幼馴染である国枝蒼だという事実。
そして彼が、
夏夜乃の娘である蛍を夏夜乃の身代わりに仕立て上げようとしているという
事実である。

だが、この作品の真骨頂は、
読者が以上の事実に気付き始めたそのところから始まるのである。

確かに読者は、
本書に展開される『表面的な』事実関係、
つまり「一体何があったのか」ということに関しては、
比較的 簡単に見抜くことができる。
そして、それは決して『間違っている』わけではない。
けれど野村さんは、
この『嵐が丘』的な事実関係というものを
まずはいったん作品の中に取り込んだ上で、
それを内部から食い破ってゆくという力技を披露する。

本書279ページで、
本書の語り手である井上心葉は次のように言う。

まだ、この物語は終わっていない。

まだ明かされていない真実がある。


物語の後半、
「まだ明らかにされていない真実」が次々と明らかにされてゆく中で、
物語は何度も何度も塗り替えられ、
その色合いを変えてゆく。
それまで見てきた物語が、
ちょっとした視点の転換で全く違う物語となってゆく妙味を
読者は味わうことができるだろう。

そして、最後に残る、
重く、けれど深く静かな読後感を
ぜひとも多くの人々に僕は感じてもらいたい。

〔注1〕『嵐が丘』の著者であるエミリー=ブロンテに関しては、
その姉・シャーロット=ブロンテもまた文学者として有名である。
エミリーの『嵐が丘』は出版当初は猛烈な非難ないしは黙殺をもって迎えられたが、
姉・シャーロット=ブロンテの代表作『ジェーン・エア』は出版当初から読者の歓迎を受けてきた。
近年でもこの『ジェーン・エア』は、
少女小説家・氷室冴子さんの傑作『シンデレラ迷宮』や『シンデレラミステリー』の
極めて重要なモチーフになるなど根強い人気を誇っている。
(『シンデレラ迷宮』において準主人公的役割を務める「ジェーン」が、
 実はこのジェーン=エアなのだ)。


《参考サイト》
「野村美月『“文学少女”と死にたがりの道化』」
「続・野村美月『“文学少女”と死にたがりの道化』」

野村美月『天使のベースボール』について
野村美月『天使のベースボール2巻』について
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by imadegawatuusin | 2006-09-12 20:52 | 文芸

――メイドさんは男の子!――

■少年執事、お嬢様のために女子寮でメイド姿で大奮闘!
僕はいわゆる「女装少年」モノの大ファンであるが、
意外に女装少年を心の底から「かわいいっ!」と思えたことが
実はない。

『ミントな僕ら』の のえる君は
「かわいい」というのとはちょっと違うし、
『少年ヴィーナス』の高見沢操一郎くんについても、
「かわいらしさ」というよりは、
女装の中からにじみ出る、
その生き様の「かっこよさ」みたいなものに
僕は惹かれてならないのである。

けれど僕は、
本書『メイド王子』のカバーイラストを見た瞬間、
メイド少年・たすく君のかわいらしさに
本当に一発でやられてしまった。

憧れのお嬢様にお仕えするため、
小さいころから執事としての訓練を受け続けてきた中学生の永倉たすくは、
ある日「お館様」から、
お嬢様付きのメイドとして
聖セシーリア女学院(高校)の女子寮に潜入せよと命じられる。

憧れのお嬢様にお仕えできるのは嬉しいけれど、
高校生のお姉さまたちに囲まれながら、
本当に女の子としてやってゆくことができるのだろうか……。

何があっても前向きで、
どんなときにもお嬢様第一!
直球まっすぐに「メイド道」を突き進む たすく君は
見ていて本当にかわいらしい。

さらに、
挿絵を担当したとんぷうさんのイラストが最高だ。
どのイラストにも、
たすく君の かわいらしさ・ひたむきさを100パーセント引き出すために
絶妙の趣向を凝らしてある。

とんぷうさん曰く、
たすく君は「男の子っぽくツンツン気味の髪型、
女の子っぽさを出す為少し長め」。
「顔にも男の子っぽさを出そうと、
 気持ち眉が太め」、
「うまく中性的、やや男の子寄りな雰囲気が出せてたら
 幸いなんですけど」とのこと。

この
「うまく中性的、やや男の子寄りな雰囲気が出せてたら」……
というコメントを見た瞬間、
このとんぷうさんは「女装少年モノ」のツボを
しっかりと押さえておられる方であると
僕は はっきりと確信した。

そうだ。
そうなのである。
女装少年は、ただ かわいらしくて女の子っぽければ
それでいいというようなものでは決してない。
「中性的、やや男の子寄りな雰囲気」をいかに残して
女装させられるかどうかというところが味噌なのである。

「メイドというのは仕事の結果ですべてを語るもの。
 だから、
 ボクが語るべき言葉は今日までの仕事のみです」というきめゼリフも、
メイドとしての誇りの高さとお嬢様への献身性に満ちた
たすく君にピッタリだ。


《お薦め女装小説》
1.奈波はるか『少年舞妓・千代菊がゆく!』シリーズ
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黒石翁『メイド王子』新風社Jam Plusノベルズ(評価:4)

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by imadegawatuusin | 2006-07-30 23:34 | 文芸