カテゴリ:文芸( 50 )

本書・『陽気なギャングの日常と襲撃』は、
『陽気なギャングが地球を回す』の続編である。
4つの短編と1つの中篇とが、
実は1冊の長編小説を構成するという仕掛けになっている。
(短編部分が「ギャングの日常」、
 中篇部分が「ギャングの襲撃」)。

伊坂幸太郎は『チルドレン』でも、
「短編集、と見せかけて実は1冊の長編小説」
というようなことをやったことがある。
巧みな伏線、皮肉の聞いた軽快な台詞回し、
そして最後の最後まで息つく暇を与えない事件の連鎖……と、
前作の長所をそのまま生かし、
さらにパワーアップさせたような絶品だ。

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【本日の読了】
伊坂幸太郎『陽気なギャングの日常と襲撃』祥伝社ノン・ノベル(評価:5)

《伊坂幸太郎お薦め作品ベスト4》
1.『アヒルと鴨のコインロッカー』
2.『チルドレン』
3.『死神の精度』
4.『陽気なギャング』シリーズ
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by imadegawatuusin | 2006-05-23 20:01 | 文芸

今、一番センスを感じさせる小説家は
伊坂幸太郎である。
2004年『このミス』2位に選ばれた
『鴨とアヒルのコインロッカー』を読んだときの衝撃を
僕はいまだに忘れることができない。

何気ない台詞回しの端々に
才能のきらめきを感じる……というか、
とにかく えげつなくすごいのである。
個々バラバラに見えた話が
最後にバシッとまとまった瞬間には
思わずため息を漏らしてしまう。

そんな伊坂幸太郎の原点ともいうべき作品が、
本書・『陽気なギャングが地球を回す』(祥伝社文庫)である。
伊坂幸太郎のデビュー作はもちろん
『オーデュポンの祈り』であるが、
本作の土台となった作品はそれより前に書かれている。
伊坂幸太郎は『オーデュポンの祈り』で
新潮ミステリークラブ賞を受賞する以前、
この賞に2つの作品を応募して落選している。
そのうちの最初の作品・「悪党たちが目にしみる」こそが、
本書の原型であるということなのだ。

ちなみに、若い伊坂が書いたこの作品は
「選考委員から徹底的に叩かれた」という。
それは、
「本人がもう小説を書いちゃいけないんだ、という気持ちになるほど」
であったという。

それを何度も何度も練り直し、
これほどの作品にまで磨き上げたのであるからすばらしい。
ちょっとしたエピソード同士が終盤で意外な形で結びつく、
最後の最後まで気を抜けない奇想天外な作品構成。
「嘘を見抜く男」・「すりの名手」・
「演説の達人」・「完璧な体内時計を持つ女」など奇抜で個性的なキャラクターたち。
そして何より「伊坂節」とでも言うべき
皮肉の聞いたテンポのよさが全快で、
何も考えずにスラスラ読めて面白い。

伊坂幸太郎『陽気なギャングの日常と襲撃』へ→

【本日の読了】
伊坂幸太郎『陽気なギャングが地球を回す』祥伝社文庫(評価:5)

《伊坂幸太郎お薦め作品ベスト4》
1.『アヒルと鴨のコインロッカー』
2.『チルドレン』
3.『死神の精度』
4.『陽気なギャング』シリーズ
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by imadegawatuusin | 2006-05-22 09:58 | 文芸

――味覚障害者が「甘い物語」という表現を使うとき――

■キーワードは「想像力」
野村美月さんの『“文学少女”と死にたがりの道化』について、
ブログ『一本足の蛸』の主宰者・安眠練炭さんがおもしろい問題を提起した。
安眠練炭さんはブログでの記事の中で、
次のように問いかけたのだ。

「文学少女」こと天野遠子は、
ふつうの食物の味がわからないかわりに
本を食べて味わうことができる特殊能力の持ち主だが、
本の味を表現する際にふつうの日本語の味覚表現を用いたり、
ふつうの食物に喩えたりする。
いったいこのような比喩はいかにして可能なのだろうか?


実はこの問題は、
作者の野村美月さん自身も充分に意識しており、
作中で遠子が、ギャリコの物語を「ソルベ」という食べ物に例えたとき、
主人公・井上心葉に次のように語らせている。

ソルベの味って、
遠子先輩は……文字以外のものを食べても、
味がわからないんでしょう?
比べようがないじゃないですか(本書10ページ)


これに対する天野遠子の答えはこうであった。

そこは想像力でカバーするのっ。
あ~ソルベってこんな味かしら~って。(本書12ページ)


彼女は、ギャリコの物語を食べたときには
「喉にするりと滑り込んでゆく食感」がするので、
それは、
僕たち普通の人間が「ソルベ」という食べ物を食べたときに感じる感覚と
共通性を持つのではないかと「想像」したというわけだ(本書10ページ)。

そのように説明されると、
僕は「ソルベ」という食べ物を一切食べたことはないのだが〔注1〕、
「ソルベ」の食感がどのようであるのか
想像することが可能である。

他にも天野遠子は、
ある小説を
「キャビアをシャンパンと一緒にいただいている」ときの
味がすると言っている(本書37ページ)。

僕は生まれてこのかた
「キャビア」なる食べ物を口にしたことがないし、
シャンパンも飲んだことはない。
ましてそれを「一緒にいただい」たときにいかなる味がするのかなど、
全くもって知りはしない。
だがそれでも、
「キャビア」的小説や「シャンパン」的小説を
想像することは可能である。
ここで大切なのは、
「キャビア」や「シャンパン」の味そのものではなく、
それに付随して世間に流れるイメージだ。
要するに「華やか」な小説であり、
「虚飾と栄光と情熱」にあふれる小説なのだろうということだ(本書37ページ)。
天野遠子はその「華やかさ」や「虚飾」や「栄光」や「情熱」を、
その本を食べた際に口の中で感じている。
そしてそれを、
「キャビア」や「シャンパン」の味と表現するのだ。

食べ物の味そのものを知らなくとも、
そこに表現されている状態を想像することは
必ずしも不可能ではない。
キーワードは「想像力」と言えそうだ。

■全盲者も「頭の中が真っ白になる」ことがある
安眠練炭さんは、
食べ物の味がわからない者が
普通の味覚表現を比喩として用いるのは不可解であるとして、
次のように述べている。

全盲の人が音を色に喩える場合を想像せよ。


と。

しかし、少し思いをめぐらせば、
「全盲の人が音を色に喩える場合」は
以外に容易に「想像」可能だ。

例えば、
生まれたときから全く物の見えない全盲の視覚障害者が、
次のように言う場合はどうだろう。

私はその話を聞いたとき、
目の前が真っ暗になった。


あるいは「目の前が真っ暗になった」という部分を
「頭の中が真っ白になった」〔注2〕と言い換えてもいい。
不可解だろうか。
僕はそうは思わない。

確かにその視覚障害者は、
「真っ暗」あるいは「真っ白」という状態を、
その言葉の真の意味で理解することは不可能だろう。
その人はおそらく、
「真っ暗」や「真っ白」という状態がどのようなものかを
きっと わかっては いなかったはずだ。
だがそのような人にも、
「目の前が真っ暗になるような
 衝撃的な事件」や
「頭の中が真っ白になるような驚き」を体験する機会は存在する。
そして、
そのような状態が日本語において、
「目の前が真っ暗になった」とか
「頭の中が真っ白になった」と表現されていることを
知る機会もやはりある。

ならば、その視覚障害者が、
たとえ「真っ暗」や「真っ白」という感覚そのものを
経験したことがないとしても、
「ある話を聞いたときに受けた感覚」を
「目の前が真っ暗になった」あるいは
「頭の中が真っ白になった」と表現することは可能であるし、
何ら不可解なことではない。

もっと極端な例を挙げてもいい。
生まれつき全盲の視覚障害者が
「今とてもブルーな気分だ」と言ったり、
あるいは
「そのとき私は、
 真っ赤な炎が私の背後で燃え上がるような
 猛烈な怒りを感じた」といった
「色鮮やかな」表現を用いることがあったとしても、
何ら不思議ではないのである。

■全聾者にも「運動音痴」は理解可能
逆の例を挙げるなら、
よりわかりやすい説明が可能になる。
生まれつき全く耳の聞こえない聴覚障害者が、
例えばある人について、
「××さんは運動オンチだった」
と著書の中で書いていたとして、
これを変だと思う人がいるだろうか。
ほとんどいないのではないかと僕は思う。

「オンチ」とは漢字で書くと「音痴」であり、
本来は
人が著しく音感に欠ける状態を意味していた。
したがって、
音感どころかそもそも聴覚を全く持たない者にとって、
「音痴」という状態そのものを
体験することは不可能だ。

しかしそのような人にも、
「運動音痴」という状態がどういうものであるかを
把握することは可能なのである。
それが可能であるならば、
「運動音痴」という言葉を自ら用いることも可能であろう。

■味覚障害者にも「恋物語の甘さ」はわかる
では、
「文学少女」こと天野遠子の場合はどうだろう。
彼女は食べ物の味がわからない味覚障害者である。
ただし、一般の味覚障害者と違うのは、
彼女は本を食べてその「味」を「味わう」ことができるという
特殊能力を持っているという点だ。

さて、
この「本を食べて味わうことができる」という点も
少々注意を必要とする。
というのも、
このときに彼女が感じる「味」は、
僕たちが食べ物に味を感じるときとは違って、
その本の材質などに規定されているわけではないからだ〔注3〕。
どうやら彼女の感じる「味」は、
その本の『内容によって』
規定されているらしいのである。

したがって彼女の感じるところのいわゆる「味」は、
実際のところ、
僕たちの感じているところの味という感覚と何らかの共通性を持つのかさえ
よくわからないとしか言いようがない。
彼女が「甘い」と言ったとき、
その感覚が、
僕たちが砂糖をなめたときやケーキを食べたときに感じる
「あの感覚」と共通のものであるのかどうかは、
確かめようがないのである。

ただ、はっきりしていることが1つある。
それは、彼女が口で感じるいわゆる「味」は、
僕たちが本を読んだときに感じる「印象」という感覚と
相当密接な相関関係があるらしい、という点だ〔注4〕。

その証拠に彼女は、
ハッピーエンドの恋愛小説から感じる「味」は
「甘い」と表現しているのである(本書14ページ)。
「恋物語は甘くて美味しい」とも発言している(本書187ページ)。
自分が食べた作品がハッピーエンドの恋愛小説であった場合、
どうやら彼女はそこに、
他の傾向の作品とは区別される一定の「味」を感じるようだ。

無論、彼女の言うところの「甘い」とは、
直接的には砂糖やケーキの味ではなく、
ハッピーエンドの恋愛小説の「味」である。

ただし我が国では一般的に、
ハッピーエンドの恋愛小説などから受ける印象を、
味覚に例えて「甘い」と表現することがある。

先に証明したとおり、そのような文化に暮らす人なら、
例えその人に味覚がなくても、
ハッピーエンドの恋愛小説を読んだとき、
その印象を「甘い」という言葉で表現することは可能である。
そして天野遠子がの持ついわゆる「味覚」は、
この「印象」という感覚と密接に関係しているのである。
ならば彼女が、
世間で「甘い」と比喩されるところの本から感じるいわゆる「味」を、
同じく「甘い」という言葉で表現しても一切差し支えはないはずだ。

■異質な感覚に「共感」を求めて
いや、「差し支えはない」どころか、
そのようにしてもらわないと僕たちは大いに困るのである。
もし彼女が、
「私が本を食べたときに感じる感覚は、
 あなたたちが食べ物を食べたときに感じる感覚とは
 本質的に異なるのだから、
 『甘い』なんて表現でお茶を濁すことはできないわ。
 今日から私は、
 ハッピーエンドの恋愛小説なんかを食べたときに感じる感覚を
 『ミロい』と表現することにするわっ!」と
宣言したらどうだろう。

「いい? 心葉くん。
 『ミロい』作文をお願いね。
 この前みたいに苺大福の箱が落っこってきて
 初恋の人が死んじゃうようなヤツはダメよ。
 やっぱり文学は『ミロい』のが一番よね。
 私が今まで食べた中で一番『ミロ』かった小説は……」
なんて話をされたら、
「ミロい」という語彙も感覚もそもそも持たない心葉には
さっぱり訳がわからなくなってしまう。
僕たち読者も同様だ。

だから彼女は、自分が
ハッピーエンドの恋愛小説を食べたときに感じる「味」を表わす形容詞として、
「甘い」という言葉を採用するのだ。
僕たち普通の人間が、
その作品を読んだときに感じる印象を表わす比喩表現として
通例使われている「甘い」という言葉を、
自らが口の中で感じた感覚を表現する言葉として、
彼女は取り込んだのである。

なお彼女は、
「苦しいことや辛いこと」が書かれたレポートは
「とっても苦い」と表現する(本書251ページ)。
この点についても上記と事情は同様だ。
彼女は「苦しいことや辛いこと」が書かれたものを食べた際、
他の傾向の文章とは区別される一定の感覚を持つようだ。

そうした「苦しさ」や「辛さ」は我が国においては
「苦い」と比喩的に表現されることが多い。
したがって、彼女の感じる「その感覚」が、
はたして僕たちの感じる「苦さ」と共通のものであるのかどうかは不明だが、
そうした作品を「苦い」と表現することで、
彼女と心葉の間には一定の共通理解が生じるのである。

■「お化け」が「お化け」のまま生きる為に
さて、
なぜ僕はこの問題を
かくも長々しく取り上げてきたのか。
それはこの問題が、
この小説のテーマそのものと
重大なかかわりを持っているからである。

本書は、
太宰治の『人間失格』と同様、
「他人の理解しうるものを理解できない」(本書84ページ)人間が、
いかにして、
自分とは異質な他者たちと
関係を取り結んでゆけばいいのかを問う作品である。
直接的には、
「愛や優しさを持たぬお化け」(本書66ページ)である、
『人間失格』の主人公の大庭(おおば)葉蔵〔注5〕と
片岡愁二〔注6〕・竹田千愛の2人とが、
それぞれに物語を綴りながら
自らの生きる道を見つめてゆく物語なのだ。

だが、この物語に出てくる「お化け」は、
実はこの3人だけではない。
「文学少女」こと天野遠子先輩自身が、
「仲間たちと同じものを喜べず、
 ……同じものを食せず、
 仲間たちが心地よいと感じるもの……を理解できない」(本書3ページ)
「お化け」・「妖怪」なのである。

本書の中で天野遠子を評してしばしば用いられる「妖怪」という表現を
文字通りの、
「生物学的にホモ=サピエンスという範疇から逸脱する存在」
と捉える人がいるようだが、
そのように解釈すると本書の真のテーマを見失うことになる。
彼女は、
社会の一般の人間とは同じ感覚を共有できない人間であるという意味で、
大庭葉蔵・片岡愁二・竹田千愛の3人と同様、
「お化け」であり、「妖怪」なのだ。

社会は、自分たちとは異質な存在を
しばしば恣意的に排除する。
竹田千愛の言葉を借りれば、
「お化けである」者を「世間」は
「石をもって追」うことがあるのだ(本書142ページ)。
だからこそ『人間失格』の大庭葉蔵は、
「一言も本当の事を
 言わない子にな」ることを強いられた(太宰治『人間失格』14ページ、新潮文庫)。

片岡愁二は自殺に追い込まれた(本書181ページ)。

そして竹田千愛は、
「バカで無邪気な少女のフリをして」生きているのである(本書242ページ)。

この点は、
一見 自由奔放に生きているかに見える天野遠子とて例外ではない。
彼女は「みんなでフルーツパフェを食べてるとき」
(当然「自分だけ美味しいって思えない」のだが)、
「うんと甘い本を思いうかべて、
 “わぁ、美味しい”って」言うのだという(本書106ページ)。

彼女もやはり、今の日本の社会の現状は、
自分が「妖怪」であることを
だれかれ構わずカミングアウトできる状況には
至っていないことを知っている。
「フルーツパフェを食べながら“わぁ、美味しい”と言う、
 どこにでもいる女子高生」を演じながら
「妖怪」は日々の生活を送っている。

けれど、
彼女は大庭葉蔵や片岡愁二・竹田千愛の3人のようには、
自らの孤独に絶望感を抱いてはいない。
それは心葉がいるからだ。

■遠子はなぜ、心葉の作文はどんなにグロくても食べたのか
彼女は、
今までずっと秘密にしてきた「本を食べる」瞬間を、
ある日の放課後、
新入生の井上心葉にばったり見られることになる。
彼女は「ぽっと顔を赤らめ、恥ずかしそうに
『見たわね』」と言ったという(本書185ページ)。

そして心葉は文芸部に引っ張り込まれ(本書186ページ)、
今に至る。
彼は、
食べ物の味を解さず、本を食する
「妖怪」の存在を受け入れた。
遠子は、
「お化け」が「お化け」であるままで
生きてゆける場所を手に入れたのだ。
これが、
天野遠子と
大庭葉蔵・片岡愁二・竹田千愛の3人との
最も大きな違いである。

ただし彼女はそのために、
何の努力もしなかったわけではない。
彼女は心葉に作文を書かせ、
たとえそれが
「わざと汚い文章で書いた、
 句読点一切なし、
 "てにおは"無視のグロい話」でも絶対に、
「半泣きで一生懸命食べ」たのだ(本書199ページ)。
そしてその作文を食べた感覚を、
「甘い」・「苦い」・「アクが足りない」をはじめとする、
僕たち「普通の人間」にも理解できる語彙を最大限に利用して
表現してゆく作業を積み重ねていった。

この作業を通じて、
文学に味覚を感じたりはしない心葉も、
彼女の感覚をおぼろげながらも理解し、
共有できるようになっていった。
天野遠子という「お化け」は、
自分は実は理解できない「普通の人間」の味覚表現や
食べ物の味について、
得意の「文学的表現」を最大限に借用することで、
自らの「妖怪」的感性を心葉に理解させることに成功したのだ。
(もしここで、
 遠子があくまで「この作品は『ミロい』」式の
 自らの「妖怪」性に固執する表現のみを用いたならば、
 2人の間に「味」に関する共感は
 おそらく生まれなかったであろう)。

■「甘い」は相互理解の第一歩
だから思えば、
天野遠子が恋物語を「甘い」と評した瞬間(本書187ページ)こそは、
2人の間に「味」に関する相互理解が生まれるための第一歩だったのだ。

もともと心葉は、
「きみ、文芸部に入部しなさい」の一言で
遠子に命じられるまま文芸部に入部し(本書186ページ)、
「ほらぁ、書かないと、呪っちゃうぞ」という遠子の発言を真に受けて
あれほど嫌がっていた文学の世界に再び引き戻されている(本書187ページ)。
このことを考えると、
遠子のことを当初は「どこか恐ろしい妖怪」と捉え、
恐れを抱いていた可能性が高い。
しかし遠子が恋物語を「甘くて美味しい」と言ったとき、
彼は彼女の感性を、
おぼろげながらでも理解するきっかけをつかんだのである。
「遠子先輩の『味覚』では、
 恋物語を『甘くて美味しい』と感じるんだ」と。

たとえ自分が「お化け」でも、
「人間の世界」に思い切って飛び込んでみれば、
お互いを理解し合える人間は現れる。
「お化け」が「お化け」のままで受け入れられる空間を
手に入れることは可能である。
本書はそのことを教えている。

他人とは異質な感性を持つ「お化け」には、
最初は自分の感覚をあらわす言葉そのものが
社会に存在しないかもしれない。
けれど、あきらめずに探してみよう。
『聖書』にも、
「求めなさい。
 そうすれば、与えられる。
 探しなさい。
 そうすれば、見つかる」とある(マタイ7章7節)。

自分の抱いた感覚を、
100パーセント完璧にでなくてもいい、
少しでもそれを表現できる言葉を探して、
外に向かって発してみよう。
そうすればきっと、
「お化け」が「お化け」のままで
生きてゆける場所は見出せる。
本書はそう、教えている。

それこそが本書のテーマなのである。

だから、安眠練炭さんの、
「遠子の特殊能力」は
「今のところ彼女のキャラクターを際立たせるという程度の効果しか
 あげていない」という主張は誤りである。
「遠子の特殊能力」こそは、
「仲間たちと同じものを喜べず、
 ……同じものを食せず、
 仲間たちが心地よいと感じるもの……を
 理解できない」(本書3ページ)「妖怪」が、
いかにして他者との関係を取り結ぶかという本書のテーマと
見事に直結しているのである。

■『心の種を言の葉に』(古今集)
本書の主人公・井上心葉の
心葉(このは)という名は、
平安時代の和歌集である『古今和歌集』の序文、
『心の種を言の葉に』に由来する〔注7〕。

心の中にある思いは、
そのままでは、他の誰とも関係を結ぶことのできない、
土に埋もれた孤独な「種」としてしか存在しない。
しかし、その思いを大切に育て、
その芽(=目)を地上へと伸ばし、
立派な言の葉(=言葉)へと成長させていったとき、
人は、異質な他者と共感し、
関係を取り結ぶことが可能になる。

いかにして
「心の種を言の葉に」育て上げゆくか。
これはおそらく、
この「文学少女」シリーズを貫く
重要な主題となるはずだ。

土に埋もれた孤独な思い、
それを言の葉(=言葉)へと成長させ、
他者の前に自らを表現することが、
「お化けの孤独」を乗り越える第一歩となる。
だからこそ、
本書の主人公は「作家」でなければならなかったのである。


〔注1〕「『ソルベ』という食べ物」について、
山猫日記の山猫さんから次のコメントを頂いた。
「『ソルベ』はたぶん幾度も食しておられると思いますよ.
 フランス語のsorbetで,シャーベットのことですから.」。

〔注2〕「頭の中が真っ白」という表現について言えば、
「衝撃のあまり何も考えられなくなる状態」と「白い」という色との間には、
生理学的には何の必然的関係も存在しない。
ただ、
この世界で最もよく使われる筆記用具が たまたま「紙」であり、
その紙は白を地の色とすることが多く、
「内容が何も書かれていない紙」が「真っ白」であることから
類推された比喩にすぎない。
もしこの世界の紙という紙の色が桃色であったならば、
僕たちは、衝撃のあまり何も考えられなくなったとき、
「頭の中が桃色になった」という表現を
何の躊躇もなく使うであろう。

〔注3〕ただし、
本の材質などが全く味に影響を及ぼさないのかどうかは
微妙である。
天野遠子は本書の中で、
「手で書かれた文字は
 ……すっっっっごく美味しい」(本書14ページ)・
「普段は本を食べているけど、
 本当は紙に肉筆で書いた文字が一番好き」(本書187ページ)とも
発言している。
これは、
単に文庫本に印刷された本と、
肉筆でかかれたものとでは、
書かれた内容が同じでも「味」が異なることを示唆している。
高級和紙に能筆家が書いたものは、
さらに味が異なるかもしれない。
ただこれは、
紙や筆記用具の材質そのものではなく、
その作品全体から受ける「印象」が
彼女が口で感じる「味」に
影響を与えるのだと考えた方が妥当であろう。

〔注4〕異なる感覚同士が密接な関係を持つというのは
必ずしも理解不能な事態ではない。
例えば一般の人間の場合、
味覚と嗅覚は相当密接な関係を持っている。
少なくとも僕は、
「臭いはいいが味はダメ」または
「味はいいが臭いがダメ」という食べ物を
食べたという経験はほとんどない。

〔注5〕『人間失格』の大庭葉蔵も、
作品の中で自分を「お化け」になぞらえている箇所が
ある。(太宰治『人間失格』新潮文庫37~39ページ)。

〔注6〕ちなみに、太宰治の本名も、
片岡愁二と「シュージ」違いの
「津島修治」である。

〔注7〕本書作者・野村美月さんの自伝的小説とも言うべき
デビュー作・『赤城山卓球場に歌声は響く』の中で、
野村さんの分身である主人公・村上朝香は
文学部国文科に在籍し(『赤城山卓球場に歌声は響く』43ページ)、
上代古典研究会に所属していた(前掲書42ページ)。
おそらく作者の野村さん自身、
そうであったと思われる。
『赤城山卓球場に歌声は響く』冒頭の5ページでは
古代の和歌が引用されるなど、
この作品には我が国古代の和歌に関する薀蓄が
繰り広げられている箇所が多数見られる。
このような作者・野村さんにとって、
「心葉」という本書主人公の名を『古今和歌集』序文から採ることは
極めて自然なことだったのだ。

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《参考記事》
野村美月『天使のベースボール』について
野村美月『天使のベースボール2巻』について

太宰治『人間失格』について
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by imadegawatuusin | 2006-05-17 15:43 | 文芸

――お嬢様監督、合宿に行く――

■リリイに迫られ断れず
私立男子校・翔之原高校野球部が
このたび合宿を決行した。
引率はもちろん、
お嬢様監督・琴宮まりあさんである。

「最初はレスリング部の安岡先生に
 代わりに行っていただこうかとも思っていたんです。
 だって最近、
 野球部部長の太宰くんと
 いろいろ変な噂を立てられているでしょう。
 でも樋口くん(リリイ)が、
 『琴宮サンが行かなかったら、
  女の子はアタシ一人になっちゃうじゃない』と言い出して……」。

「樋口くん」とは野球部のエース、
樋口百合夫くんである。
男子校に通ってはいるが、
「頭のてっぺんから足の先まで女の子」を自認する。
校内では「リリイ」の愛称で親しまれている、
少しキツめの美少女だ。
(そのためしばしば、
 野球部のマネージャーと勘違いされることがある)。

関係者によると まりあさんは、
「若くてかわいい女の子を、
 たった一人で、
 野郎どもと一緒に行かせて平気なの?
 アタシに子供ができちゃったら、
 琴宮サンが引きとって育ててくれるの?」
とリリイに持ち前の気迫で迫られ、
逆らえなかったようなのだ。
(しかしいくら何でも子供はできないだろうと思うが)。

これまでまりあさんは
樋口くんのことが少し苦手であったという。
確かに樋口くん(リリイ)はまりあさんを、
「女は胸の大きさじゃない」・「デブ」などと、
客観的に見ればほとんど逆恨みではないかとも思われる言葉で
ののしった「前科」がある。

しかし今回の合宿で、
まりあさんは樋口くんと
「少しだけ仲良くなれた気がしてうれしかった」と語っている。
まりあさんによると、
同室になった樋口くん(リリイ)は、
化粧品の使い方についてアドバイスしたり、
日焼け止めクリームについての説明をしてくれたりして、
すっかり打ち解けたということなのだ。
「楽しかったですよ。
 樋口くん、
 『アタシ達野球をする女性にとって一番の敵は、
  相手チームのピッチャー、バッターじゃなくて、紫外線よ!
  青空の下で明るく楽しく野球をするには、
  日焼け止めの厳選は不可欠よ!』なんて力説しちゃったりして……」。

■まりあさんの心のオアシス・中原由羽くん
今回の合宿先には、
黒いグランドピアノが置かれていた。
小さいころからピアノと生活を共にしてきた
ライトの中原由羽くんが喜んだことは言うまでもない。
副部長の夏谷魁くんは、
合宿先の選定にあたって、
ひそかにピアノのあるところを探し回ったといわれている。
(関係者によると、
 「ナツさん(夏谷くん)はお由羽ちゃん(中原くん)にあまあま」とのこと)。

さらさらの茶色の髪と大きな目、
かわいく無垢な中原くんは、
「猛獣のすみか」と言われる翔之原高校における、
まりあさんの心のオアシスである。
まりあさんが野球部の顧問を押し付けられたばかりのころ、
辛い日々に耐えられたのは、
中原くんがいたからだとまりあさんは振り返る。
まりあさんは中原くんを、
「天使のような存在」と言ってはばからない。

そんな中原くんを巡って、
今回の合宿ではひと悶着あったという情報を入手した。
もともと中原くんに想いを寄せていたセカンドの永井達樹くんと、
中原くんが野球を始めるきっかけとなった
憧れのバッター・正宗一也くんとの間で
三角関係が勃発したというのである。

関係者は次のように語っている。
「もともとお由羽ちゃん(中原くん)の指導役は
 永井だったのよ。
 お由羽ちゃんは中学のころ、
 指に怪我したら大変だからって野球の授業は全部見学させられて、
 全く初心者だったじゃない。
 それで永井は、
 お由羽ちゃんのことをかわいがって、
 あれこれ世話を焼きまくってきたわけよ。
 お由羽ちゃんって、
 いたいけで庇護欲そそるとこあるじゃない。
 それを正宗が、
 ひっさらって行っちゃったわけだから、
 やっぱり焼きもち焼いちゃうわよねー」。

この件で
永井くんが合宿先でトラブルを起こしたとの情報もあり、
本紙は当事者3人にインタビューを試みたが、
永井「う……うるさい! 帰れ帰れっ!」
中原「え……いや、その話はちょっと……(少し顔を赤らめて)」
正宗「……(無言)」
という結果に終わり、
その詳細を把握することはできなかった。

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【本日の読了】
野村美月『天使のベースボール2巻』ファミ通文庫(評価:3)

《参考記事》
野村美月『天使のベースボール』について
野村美月『“文学少女”と死にたがりの道化』
続・野村美月『“文学少女”と死にたがりの道化』
続々・ 野村美月『“文学少女”と死にたがりの道化』
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by imadegawatuusin | 2006-05-11 14:28 | 文芸

――お嬢様監督、球場を駆ける――

■「私は野球を憎んでいました」
「最初は、無理やり押し付けられたんです。
 野球のことなんてほとんど何も知りませんでしたし、
 野球を憎んでさえいたんです」。
私立男子校・翔之原高校野球部の監督・琴宮まりあさんは
そう語る。

琴宮まりあさんはいわゆる「お嬢様」だった。
4歳で聖クララ女学院の付属幼稚園に入学し、
初等部、中等部、高等部、とつつがなく進学。
この春 短大を卒業した。

彼女には、
中学生のときからすでに許婚が決められていた。
戦後急成長した企業グループの御曹司で、
頭脳明晰でスポーツマンで、
何をやらせても完璧な人であったという。
彼女は、短大卒業後はその人のもとに嫁ぎ、
穏やかな一生を送るものだと思っていた。

しかしその人は
家業を継ぐことを拒否してプロ野球選手となる。
まりあさんのお相手は、
現在 ゴールデンルーキーとして球界に旋風を巻き起こしている
織川慶吾選手だったのだ。

まりあさんとの婚約も破談。
そしてそのことをきっかけに、
まりあさんの父親が経営していた会社は
織川グループからの支援を打ち切られ、
事実上倒産してしまう。
こうしてまりあさんは、
生活のために、
私立男子校・翔之原高校に古典の教員として務めることとなった。
だからまりあさんは、
自らの人生を狂わせた「野球」というものを
ひそかに憎んでいたのだという。

■押し付けられて監督に
まりあさんが監督に就任した当時、
翔之原高校野球部の部員は8名。

髪を真っ赤に染め上げ耳にはピアスをジャラジャラつけて
一見不良風に見えるのだが、
実は料理やお菓子作りの得意な太宰千草くん(部長)。

太宰くんの親友で、
地域一帯の暴走族総長を務め、
趣味は園芸という のんびり屋の夏谷魁くん(副部長)。

巨体と怪力の持ち主で、
趣味は絵を描くことというマイケル=ヘミングウェイくん。

陰気な占いマニアの国江田守くん。

性格はキツイが「リリイ」の愛称で親しまれている
スレンダーな金髪美少女・樋口百合夫くん。

ピアノの腕前は海外で賞を取ったこともあるほどで、
名門・清和学園の芸術科への進学が期待されていたにもかかわらず、
野球をするため翔之原高校に入学してきた
無垢で優しい中原由羽くん。

そんな中原くんに想いを寄せる
やんちゃ坊主の永井達樹くん。

校舎の3階の窓からよく飛び降りて運動場に向かう
せっかちで身軽な尾崎風太くん。

……
個性的な面々のそろった野球部の顧問にはどの先生もなりたがらず、
新任教師の まりあさんにその役が押し付けられたというわけだ。

■9人目獲得に四苦八苦
野球は9人のメンバーが集まらないと試合が成り立たない。
そのため当初は まりあさんが、
自ら試合に参加したこともあったそうだ。
(まりあさんの元婚約者の織川慶吾選手が、
 野球部の指導にきたこともあるとの噂もあるが、
 いまだ確認は取れていない)。

そんな翔之原高校野球部がついに獲得したのが、
中学時代は都大会で打率6割を超えたという天才バッター、
正宗一也くんだった。
全打席ホームランで10点差をひっくり返した伝説は、
今も なお語り草である。
(クラシックピアノ一本槍だった中原くんは、
 この試合を見て正宗くんに憧れ、
 野球をやってみたいと思ったのだという)。

■「晴れた日には野球をしよう」
そんな部員たちと活動を共にしてゆく中で、
まりあさん自身、
野球に対する認識を改めてゆく。

翔之原高校野球部には、
部長の太宰千草くんが提唱するポリシーがあった。
「一つ、晴れた日は野球をしましょう。
 二つ、野球は楽しくやりましょう」。
(翔之原高校野球部が雨の日に練習をしないのは、
 このポリシーに忠実であろうとするためだという)。

まりあさんは、
「野球はスカッと晴れた青空の下で、
 楽しくするもんなのヨ」と言った太宰くんの言葉を
今でも忘れることができない。

最後にまりあさんは、
本紙のインタビューに答えてこう言った。
「自分の意思で監督になったわけではありませんでした。
 けれど、今は違います。
 晴れた日には野球をしよう、
 この先もずっとそうしようと
 今では思っているんです」。

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【本日の読了】
野村美月『天使のベースボール』ファミ通文庫(評価:3)

《参考記事》
野村美月『天使のベースボール2巻』について
野村美月『“文学少女”と死にたがりの道化』
続・野村美月『“文学少女”と死にたがりの道化』
続々・ 野村美月『“文学少女”と死にたがりの道化』
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by imadegawatuusin | 2006-05-10 23:24 | 文芸

■「元・美少女作家」は男の子!? 
野村美月『“文学少女”と死にたがりの道化』の主人公である
「ぼく」こと井上心葉(このは)は、
元・天才覆面美少女作家であった。

この、一見平凡な、
(そして実際にも本当に平凡な)少年は、
いかにして「覆面美少女」という
(そもそも日本語として成り立ちうるのかどうかも微妙な)役割を
演じることになったのか。

彼は14歳のとき、
さる文芸雑誌の新人賞に小説を応募したところ、
大賞を史上最年少で受賞することになってしまった。

しかも内容は、
女の子を主人公とする一人称作品で、
その上ペンネームも「井上ミウ」という
「いかにも女の子」なものであったため、
「史上最年少! 大賞は中学三年生の十四歳の少女!」などと発表され、
もはや引っ込みがつかなくなる。

出版された受賞作はたちまちベストセラー。
映画化・ドラマ化・コミック化……と、
ついには社会現象にまでなっていく。

しかし、「井上ミウ」は頑として顔を出そうとしないのだ。
(当たり前のことではあるが)。
こうなると、
世間の噂には尾ひれがつき、背びれもつき、
ついには足まで生えて一人歩きする。
曰く、
『井上ミウちゃんは華族のご令嬢で
 ペンより重いものを持ったことがない』。
曰く、
『いかにも“文学少女”な感じの、
 清楚で可憐な美少女に違いない』……。

こうして彼は、
謎の「覆面美少女作家」となった。

しかし、平穏と平凡を愛する少年に、
その重圧は重すぎた。
「恥ずかしくっていたたまれなくって、
 息の根が止まりそうになった」と彼は後に振り返る(本書6ページ)。
そして、
『あること』をきっかけに彼は、
ストレスからくる過呼吸を起こして倒れ、病院に搬送。
「もう小説なんかかけないよ~とみっともなくべそべそ泣いて、
 登校拒否なんかもして」(本書7ページ)、
結局彼は文学界から去っていった。

自らの人生を振り返るとき彼は、
「恥の多い生涯を送ってきました」という
太宰治『人間失格』「第一の手紙」冒頭の一節を
思い起こさずには いられない。

そんな、元・「文学少女」の彼が高校で出会ったのが、
「本物の文学少女」・天野遠子(とおこ)先輩だった。
何しろ彼女は文学を、
激しく深く愛しており、
僕たちがご飯やパンを食べて生きるように、
文学を食べて生きている。

『聖書』でイエス=キリストも、
「人はパンだけで生きるものではない。
 ……一つ一つの言葉で生きる」と言っているが(マタイ4章4節)、
天野遠子の場合はそのような「比喩」ではない。
彼女は本のページをちぎり、口にくわえ、
ヤギのようにむしゃむしゃと、
文学を食べる少女だったのである。

■"他人に共感すること"の危うさと素晴らしさの二面性
……と、
以上の説明だけ読むと、
「何やねん、それ!」ということになるだろう。
良く言えばライトな、
悪く言えばちゃらちゃらした、
いかにも今話題の、
(良くも悪くも)「ライトノベル」だという印象を受けるだろう。
が、
上のあらすじはこの作品の、
ほんの一面に光を当てて紹介したものであるにすぎない。
まずは実際に手に取って、
本書を読んでみてほしいのだ。
最後の最後まで読んだとき、
「予想していた内容(あるいは作風)と全然違う」ということに
おそらくビックリするはずだ。
(それはおそらく、「よい意味で」)。

誤解を恐れずに言えば、
本書は「文学作品」である。
それは別にこの作品が、
文芸部を舞台にした小説であるからでもなければ、
先に挙げた太宰治『人間失格』の
超一級のパロディーであるからでもない。
「作り出された1つのストーリーの中に、
 人間存在の根源やそれの社会との葛藤など
 普遍的なテーマを描き出す」という、
「文学」という言葉の、
言葉の真の意味での「文学」作品なのである。
「ありやんブログ」を主宰するありやさんは本書を評し、
「"他人に共感すること"の危うさと素晴らしさの二面性」が
描かれていると指摘している。
(それはおそらく、
 太宰治の作品そのものについての大きな主題のひとつでもある)。

本書を読み終えた後もう一度表紙に戻り、
『“文学少女”と死にたがりの道化』という題名を
改めて読み直して、
その意味をじっくりと噛み締めてほしい。
著者・野村美月さんの技力の高さに
ただただ圧倒されるであろう。

もし、これを読んでいる人の中に、
太宰治(とくに『人間失格』)にこれから挑戦しようと思っている人がいれば、
その前にぜひ、本書を読んでおいてほしい。
文体も実に親しみやすく、
太宰の作品・人生を訪ねるうえでの優れた道しるべとなるはずだ。

■心葉の過去を天野遠子は知っているのか
ところで、本書252ページで主人公は、
「ぼくの赤面ものの過去を、
 遠子先輩が知るはずはない」と言っている。
だが、本当にそうだろうか。

本書には、
心葉=井上ミウの書いた小説は
「社会現象」にまでなったとある(本書5ページ)。

これを、
「美食」(彼女の食するものは文学である)への
「飽くなき欲望」を抱き(本書20ページ)、
「この世のありとあらゆる物語や文学を食べてしまう」と豪語する天野遠子が
見逃すことがあるだろうか(本書12ページ)。
彼女は、心葉=井上ミウの小説を
「食べた」ことがあるのではないか。

そして彼女は「美食家」である。
「ギャリコの物語は冬の香りがする」と、
その作品から作者の香り(=におい)を
かぎ分ける能力を持っている(本書8ページ)。
(重ねて言うが、これは比喩ではない)。

そんな彼女が、
心葉の書いた詩や作文を、
毎日「おやつ」として食べているのだ。
「ヘンな味」・「マズイ」(21ページ)、
あるいは「アクがいまひとつ足りない」などと文句をつけることもあるが(本書187ページ)、
いい作品を書いたときは、
「わぁ、今日の作文、甘くて美味しい~。
 心葉くんエライ!」と褒めてくれる(本書188ページ)。
心葉がどんなに「おかしな作文を書き散らしても、
遠子先輩はそれを食べき」るのだという。
たとえ心葉が、
「わざと汚い文章で書いた、
 句読点一切なし、
 "てにおは"無視のグロい話」でも
「半泣きで一生懸命食べて」くれるのだ(本書199ページ)。

だとすれば、
心葉の書く作文が、
以前「食べた」井上ミウのベストセラー作品と同じ「香りがする」ことに、
彼女は気づいているのではないか。
僕にはそう思われてならないのである。
(ついでに言えば、
 心葉が屋上で
 「生きていて恥ずかしいことなんていっぱいある!
  僕だって二年前は女の子で、
  謎の美少女とか呼ばれて生き恥さらして……」
 と言った直後に天野遠子が現れて、
 「そうよ、
  誰だって人に隠しておきたい恥ずかしいことはあるわ」と言う下りがあるが〔本書234ページ〕、
 これはつまり、
 天野遠子は心葉のせりふを、
 「生きていて恥ずかしいことなんていっぱいある!」という部分から
 〔「二年前は女の子……」という部分も含めて〕
 全部聞いていたということである。
 もし彼女が、
 心葉が以前「井上ミウ」であったのだという事実を知らないのだとすれば、
 好奇心旺盛な彼女が、
 「僕だって二年前は女の子で、
  謎の美少女とか呼ばれて生き恥さらして……」という彼の発言に
 その後も何の反応も示さないのは不可解である)。


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【本日の読了】
野村美月『“文学少女”と死にたがりの道化』ファミ通文庫(評価:4)


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「続・野村美月『“文学少女”と死にたがりの道化』」
続々・ 野村美月『“文学少女”と死にたがりの道化』


《参考サイト》
野村美月『天使のベースボール』について
野村美月『天使のベースボール2巻』について

太宰治『人間失格』について
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by imadegawatuusin | 2006-05-08 15:31 | 文芸

■本文は事件の「真相」に「触れて」います!
 ……しかし、「真相」には至っていません(涙)
 

麻耶雄嵩『神様ゲーム』〔注1〕のポイントは、
「神様」たる鈴木太郎は「間違えないということ」(本書279ページ)、
そして彼は、
「嘘はつかないけど、
 本当のことを包み隠さず話すわけでもない」(本書259ページ)ということである。

主人公は「ぼく」こと小学4年生の黒沢芳雄。
彼の親友・岩渕英樹が、
秘密基地・「鬼婆屋敷」の井戸の中から遺体で発見される。

「神様」・鈴木太郎によると、
真犯人は芳雄(=ぼく)の憧れのクラスメート・山添ミチルであり、
「共犯者がもうひとりいる」(本書257~258ページ)。

芳雄(=ぼく)は推理の結果、
その共犯者が刑事である、
自分の「父さん」で以外には考えられないとの結論に至る。

「神様」・鈴木太郎によると事件の際、
山添ミチルは「あの家で共犯者とエッチなことをしていた」(本書260ページ)。
その「現場を」岩渕英樹に「見られた」ので、
「山添さん(筆者注:=ミチル)はすぐさま岩渕君(筆者注:=英樹)に襲いかかり、
 土間に頭を強打した岩渕君はそのまま死んでしまった」(本書260~261ページ)。
「岩渕君は頭を打ちつけたとき鼻血を出した。
 それが山添さんの白い服とスカートにべったりついた」。
「そのままじゃ目立つから、
 自分の家に帰って服を着替えるために
 (筆者注:ミチルは)岩渕君の服とズボン、帽子を拝借した」(本書262ページ)。

以上は「神様」・鈴木太郎が語る、
この物語世界における「絶対的な真実」である。

しかし、
物語の最後の最後にいたり、
主人公・芳雄の推理は外れていたことが明らかになる。
ミチルの共犯者は芳雄の「父さん」ではなく、
「母さん」であったことが明らかにされるのだ。
だが、
「母さんが共犯者であった」ということが
「どんなに信じられなくても、
 ……」それは「真実」であるとだけ述べられるだけで、
それ以上、何の説明もなされないのである。
これでは、
読者は途方にくれてしまう。

じっくり考えてみよう。
まず、
事件当日 秘密基地で、
ミチルと「エッチなことをしていた」のは、
主人公・芳雄の「父さん」ではなく「母さん」であった。
これはいい。

本書30ページでミチルは、
「一ヶ月前に六年生に告白されて、
 『他に好きな人がいるから。』と断った」とあり、
またそこには、
「少し前に僕(筆者注:=芳雄)んちのことを何度か訊かれた」とも書いてある。
ミチルと「エッチなことをしていた」のは、
主人公・芳雄の「父さん」ではなく「母さん」であったと考えても、
これらの記述とは何ら矛盾しない。

しかし、である。
芳雄の推理によるまでもなく、
「父さんしか、
 ミチルちゃんと連携して
 ぼくたちを巧みに誘導できた人はいない」(本書275ページ)はずなのだ。

先にも述べたとおり、
「神様」・鈴木太郎によれば、
「共犯者」は「ひとり」である。
よって、
芳雄の母が共犯者であるなら、
彼の父も同時に共犯者であることはできない。

よって、
刑事である「父さん」が自分の隠れていた物置小屋に自ら踏み込み、
足跡が「ない。」と嘘の証言をしたという推理は、
共犯者が「母さん」である場合には成り立たない。
では、
芳雄たちが裏庭に踏み込んだとき、
共犯者・「母さん」はどこに隠れていたのか。

これは容易に解決できる。
「母さん」は体格が「小さい」(本書12ページ)。
だからおそらく、
芳雄が最初に推理したとおり、
井戸の蓋として使われていた
「大きなたらいのような蓋」の中に隠れていたのであろう。

だが、
問題はここからである。
芳雄の推理の「父さん」の部分を
「母さん」に全て入れ替えようとしても、
どうしても入れ替えられない部分がある。
それはミチルが、
秘密基地に残って「袋の鼠」となった共犯者を脱出させるため、
主人公・芳雄に
「父さんにケータイを掛けるように提案した」(本書273ページ)という部分だ。

「共犯者」は「ひとり」である。
これは、
本書の物語世界における「神様」・鈴木太郎が言っているのだから
疑えない。

「父さん」は、
遺体をもう一度見に裏庭に行くよう芳雄たちに指示する。
彼らが裏庭に出た間に、
共犯者は隠れ家から脱出したのだ。
本書274ページにもある通り、
「ぼくが父さんに電話したとき、
 状況から考えて、
 犯人が裏庭に潜んでいる可能性が大きかった。
 でも父さんはプロであるにもかかわらず、
 無理にぼくを裏庭へ向かわせようとした」。

「父さん」が共犯者でないのであれば、
「父さん」とミチルがとったこの行動を
どう理解すればいいのであろう。

気になるのは、
本書の表題・『神様ゲーム』が、
英語では“God's truth”(「神様の真実」)と表記されている点だ。
辞書で調べても、
“truth”(「真実」)に「ゲーム」という意味はない。
何か意味があるのだろうか。

わからない。
いくら考えてもお手上げである。
もし真相にたどり着けた方がいるなら、
このブログにトラックバックかコメントをして
是非ともお教えいただきたい。

【重要】
なおWeb上に、
「共犯者」はやはり父親であり、
「天誅を下すために、お父さんの愛するお母さんを殺した」
という説
が掲載されていた。
うーむ……。

〔注1〕なお、
物語の本筋とは直接関係ない(のか?)のだが、
本書の中で登場する「ラビレンジャー」なる戦隊ヒーローものは
一体どうなっているのだろう。

「ラビレンジャー」たちは「タルムード司令」なる人物に率いられ、
「ジェノサイドロボ」に乗って戦うのだという。
必殺技のきめゼリフは「ファイナル・ジェノサイド!」だそうだ。

言うまでもなく「ラビ」とはユダヤ教の聖職者、
「タルムード」とはユダヤ教聖書(いわゆる『旧約聖書』)の解釈を集大成した書物で、
言ってみればユダヤ教の「第2の聖典」のようなものだ。
そして「ジェノサイド」とは「大量虐殺」を示す言葉である。
悪ふざけにしては
ちょっと度がすぎるのではないだろうか。


【本日の読了】
麻耶雄嵩『神様ゲーム』講談社ミステリーランド(評価:1)
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by imadegawatuusin | 2006-05-04 15:42 | 文芸

■『スパイラル』城平京さんのデビュー作
この作品は、
人気ミステリー『スパイラル』の作者・城平京さんのデビュー作である。
推理小説家・鮎川哲也さんが編集長を務めた
『本格推理』(光文社文庫)の第10号に掲載されている。
(『本格推理』の他の号は古本屋などでよく見かけるのだが、
 どういうわけかこの第10号だけが、
 なかなか見つからないのである。
 もしかしたら、
 全国で城平さんのファンが買占めに走っているのか?)

なお城平さんは、
この作品の投稿時には「吉野口飛鳥」というペンネームを
使用していたそうだ。
(本作が『本格推理』第10号に掲載されるにあたり、
 現在のペンネームの使用を始めたらしい)。
選者の鮎川哲也さんは、

ふたつの筆名から推測するならば、
作者は大和の国の住人と思われる。


と、選評の中で語っている。
(実際、城平さんは奈良県出身である)。

「城平京」というのは、
自らの出身県に奈良時代に置かれた都・「平城京」の
「城」の字と「平」の字を
入れ替えただけのペンネームだったのか、と、
これを読んではじめて気がついた。

作風は、
「あぁ、やっぱり城平さんは、
 デビューのときから城平さんだったんだ」と
納得できるもの、とだけ言えば、
きっとわかっていただけるのではないか。
(選評の中で評者の鮎川さんは、
 城平さんのことを「飛び切りのロマンチスト」と呼んでいる)。

《あらすじ》
■トイレで餓死体 ドアを冷蔵庫等で塞がれて? 
名探偵・藤崎守のもとに、
ある画家から一件の依頼が舞い込む。
それは、自分の妻の死についての真相を
教えてほしいというものであった。

彼の妻は、
自宅のアトリエのトイレで
遺体で発見された。
死因は餓死だった。
トイレの前には、
ドアをふさぐように冷蔵庫などが積まれていた。
警察は、
彼女がトイレに入った間に何者かが
ドアの前に冷蔵庫などを積み上げた結果、
彼女はトイレのドアを開けることができなくなり、
そのまま中で餓死したものと考えた。
ちょっと想像しただけで
ぞっとして身の毛がよだつほど、
実におぞましい事件である。

状況から見て、
そのようなことができたのは、
夫である画家本人以外にはありえないように思われた。
しかし、
夫である画家は交通事故にあい、
事件前後の記憶を喪失してしまっていたのである……。

依頼人の画家は探偵・藤崎に訴えた。
自分は愛する妻に対して、
一体何をして、何をしなかったのかを教えてほしい、と。
藤崎の目には、彼はとうてい、
このようなおぞましい殺人を犯す人物には見えなかった。
しかし、
いくら調べても彼以外の犯人など、
まったく浮かんでこないというのも事実なのである。

画家は、
自分が犯してしまったかもしれない、
信じがたいほどむごたらしい犯罪を前にして、
ただただ震え、怯えていた。
藤崎は彼のために、
自分が収集したありとあらゆる証拠・証言から考えうる
全ての可能性を考え尽くす。
その中に、
依頼人の「救い」となるストーリーは、
はたして存在するのだろうか……。

《解説》
作品の構成、というか展開は、
後の小説版『スパイラル』第2巻・『鋼鉄番長の密室』
驚くほど酷似している。
この作品の発展形(あるいは「完成形」)が、
『鋼鉄番長の密室』なのだとみて、
まず間違いないであろう。
(「真実」よりもむしろ「依頼人の救い」を重視して
 推理を進めるその姿勢も、
 両作品の名探偵、藤崎守と鳴海歩とに共通している)。


《次に読むべき本》
本作品を読まれた方は、
絶対に小説版『スパイラル』第2巻・『鋼鉄番長の密室』
足を進めるべきである。
ある意味では本作・「飢えた天使」の「救い」は、
数年後に発表される『鋼鉄番長の密室』において、
ようやくもたらされるのだと言っても過言ではない。
(『スパイラル』の漫画版や、
 小説版の他の巻を読んでいなくとも、
 『鋼鉄番長の密室』だけを単独で読むこともできる)。

《そのうち読んでほしい本》
やはり、
城平京さんの名を世に知らしめた大傑作
『名探偵に薔薇を』(創元推理文庫)を
一生に一度は読んでおきたい。
本作とも共通する、
胸に迫ってくるような物悲しさとロマンチックさ、
そしてどんでん返しに次ぐどんでん返しという、
推理小説の醍醐味を限界まで楽しませてくれる
名作中の名作だ。
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by imadegawatuusin | 2005-09-07 18:16 | 文芸

文学賞の値うち

阿部和重さんの「グランド・フィナーレ」(『群像』12月号掲載)が
第132回芥川賞を受賞した。

芥川賞は本来、
「無名もしくは新進作家が対象となる」文学賞である。
しかし阿部さんは、
1994年に「アメリカの夜」(群像新人文学賞)でデビューして以来、
すでに10年以上経過している。
新聞各紙でも阿部さんは、
「『J文学』の旗手」(読売新聞1月14日)であり、
「90年代後半以降の文学シーンを代表する一人」(毎日新聞1月14日)であり、
「最後の大物」(朝日新聞1月14日)であったなどと評されている。
『毎日新聞』の記事によると阿部さん自身、
「新人に与えられる賞なので手放しで喜んでいられない」と述べているらしい。

『朝日新聞』によると、今回の芥川賞選考にあたっては、
「(村上春樹さん、島田雅彦さんに芥川賞を出せなかった)80年代の取りこぼしを
 繰り返してはならない」と話す選考委員もいたという。

さて、この選考委員のコメント、
よくよく考えてみるとちょっと奇妙な現象をあらわしている。
普通、文学賞とは、
その賞の権威や名声を、
ある作家、あるいはその作品に与えるものだと考えられている。
しかしこのコメントは、
今回の芥川賞の選考の過程で、
まったく逆のメカニズムが働いた可能性を示唆している。

阿部和重という作家の権威や名声を
芥川賞は逃すことができない、というメカニズムである。

文芸評論家・福田和也さんの
『作家の値うち』(飛鳥新社)という本があったけれども、
値うちの高い作家に文学賞を出せないと、
今度は文学賞の値うちのほうが下がってしまう。
「村上春樹」の件だって、
村上春樹に芥川賞をあげられなかったのは
芥川賞の恥かもしれないが、
芥川賞をもらえなかったことは
村上春樹の恥ではない。
「村上春樹にあげてないなんて、
 芥川賞も所詮その程度の文学賞だ」と言う人はいても、
「芥川賞ももらってないなんて、
 村上春樹も所詮その程度の作家だ」と言う人はどこにもいないのである。
例の選考委員の発言は、
こうした事態を踏まえたものだといえるだろう。

実は、こうした現象は世界中のどこにでもあって、
あの「ノーベル文学賞」ですら、
その権威を確立する過程ではそうだったという。
作家で精神科医の・なだいなださんは、
『権威と権力』(岩波新書)の中で次のように書いている。

(筆者注:ノーベル賞の権威というのは、)えらばれた人たちにあるのです。
たとえば、文学でいえば、
ジイドやカミュやヘミングウェーがえらばれていることで、
それが賞に権威を与えているのです。
彼らに賞を与えることで、
賞の価値が高められるのです。
ヘミングウェーがもらうような賞という形でね。
(中略)
しかし、いつの間にか、
賞そのものに権威があるかのように、
賞を与える選考委員に権威があるように思われるのです。
(中略)
そして、いつの間にか、
人間は賞をもらうことをのぞみ、
賞にえらばれることを名誉に思いはじめるのですよ。
(中略)
皮肉ないい方をすれば、
ノーベル賞は、あの多額な賞金で、
受賞者の持つ権威を買って来たことになります。(134~135ページ)


「ノーベル賞は、あの多額な賞金で、
 受賞者の持つ権威を買って来たことになります。」
とは、ずいぶんと辛らつな言葉に聞こえるかもしれないが、
実際にそうだったのだろうと僕は思う。

そういえば、僕の好きな歌人・枡野浩一さんの短歌に
こんな作品があったことをふと思い出した。

●ほめているあなたのほうがほめられている私よりえらいのかしら
 (筑摩書房『かんたん短歌の作り方』186ページに収録)

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by imadegawatuusin | 2005-01-14 17:28 | 文芸

僕の家から歩いて5分くらいのところに
赤留比売神社(あかるひめじんじゃ)という神社がある。
境内があまりにも狭すぎて、
端から端まで30歩で歩けてしまうということから、
地元では普通、
三十歩神社(さんじゅうぶじんじゃ)と呼ばれている。
ぼくの町には、
この神社の祭神である赤留姫(あかるひめ)に関して、
昔から語り伝えられた伝説がある。
この伝説がかなり ぶっ飛んでいておもしろいので、
今回はそれを紹介する。

もともとこの赤留姫という人は、
むかし朝鮮半島に存在した
新羅(しらぎ)という国の皇太子殿下が
小さいときから大事にしていた
赤いルビーの宝石だった。
ところがこのルビーは、
長年大事にされているうちに、
なんと皇太子殿下のことを好きになってしまったのだ。
そこでこのルビーは、
夜空に昇った月に向かって
「お月さま、お月さま、どうか私を人間にしてください……」
と願いをかけて、
ついに人間にしてもらった。
ロマンチックなお話だ。

そして、
皇太子殿下と恋に落ちるわけなんだけど、
二人の結婚に王妃様が反対するのだ。
そんな身元の分からない女と結婚したら
王家の血が穢れるとか何とか、
わけの分からないことをわめきまくったそうなのだ。
余計なことをする奴だ。

そこで、また赤留姫は月を見上げて、
「お月さま、お月さま、どうか私たちを結婚させてください」
と願いをかけた。
するとその夜、
王妃様の枕元に月が現われ、
「あの娘のことはワシが保障する。
 いいかげんに、意地を張ってないで結婚させてやれよ」
と、王妃様を説得してくれたのである。

こうして赤留姫と皇太子殿下は
結婚できることになったのだ。
めでたしめでたし

……と、ここで終わればいいのだが、
話はまだまだ続くのだ。

なんとこの皇太子、
赤留姫と結婚したとたんに態度が変わって、
家庭内暴力をふるうようになってしまったのだ。
赤留姫のことを殴って蹴って、
タバコの火を押し付け……たかどうかは知らないが、
とにかくひどいものだったらしい。
そこで、
赤留姫はまたまた月にお願いをはじめるのだ。
「お月さま、お月さま、どうか私たちを離婚させてください……」
と。
すると月は、
「お前が結婚したいと言うから結婚させたったんやんけ。
 そんなんお前が勝手に自分で何とかせーや、
 ボケーッ!」
っと、
逆ギレしてしまったそうなのだ。
そりゃそうですよね。

そこでようやく、
赤留姫は反省したのだ。
今まで自分は、
お月さまにお願いをするばっかりで、
自分から積極的に何かをやったことは一つもなかった……と。

そして、
赤留姫は家出をすることに決めたのだ。
もちろん、
「家出」といっても
最近はやりの「プチ家出」ではない。
命がけの家出である。
なにしろ、相手は一国の皇太子なのだ。
国中の どこに逃げたって、
最後の最後にはつかまってしまう。
もちろん、時代が時代なので、
外国の大使館に駆け込むわけにもいかない。
逃げるためには国外に脱出しなければならないのだ。

赤留姫は決死の覚悟で宮殿を脱出。
闇にまぎれて何とか海まで逃げたのだ。
そして、
そこに止めてあったボートを盗んで日本海を渡り
(朝鮮では「日本海」じゃなくて「東海」って言うんでしたっけ)、
ついに大阪市の東南部にある平野の町まで
一生懸命ボートをこいで逃げてきたのだ。
赤留比売神社の隣に「平野川」という川が流れていて、
大阪湾からそこを上ってきたそうだ。
すごい根性である
(余談だが、
 戦前、この平野川の改修工事をするために、
 朝鮮半島から多くの人が連れてこられて
 改修工事に従事した。
 この人々が戦後、
 一ヶ所に集まって定住したのが、
 日本一のコリアタウン・生野である)。

しかし、
すごかったのは赤留姫のほうだけではない。
皇太子のほうもすごかった。
自分の妻が家出したことを知ったとき、
自分のやったことを泣いて後悔して、
次の王位も何もかも捨てて、
日本まで追ってきたのである。
まあ、
ストーカーの元祖みたいなものだろう。
それを知った赤留姫はびっくりして、
「別れた夫がしつこく追ってくるんです!」
と言って、
住吉大社に駆け込んだのだ。
結局、皇太子は、
住吉大社の神さんにボコボコにされて、
兵庫県に追い返されてしまうのだ。

こうして赤留姫は、
世界で初めてストーカーを撃退した女になったのだ。
皇太子は今でも、
兵庫県の出石神社(いずしじんじゃ)というところに居座って、
復縁を迫っているという噂である
(ちなみに、この出石というところは そばがおいしいらしい)。

「国境を越えた愛」というのはいくらでもあるが、
「国境を越えたストーカー騒動」というのは
そうそうあるものではない。
神の存在を断じて信じない僕ではあるが、
一応、この赤留姫が僕の「氏神」ということになるらしい。
離婚とストーカー退治にご利益があるらしいが、
恋愛成就のお願いなどは絶対に聞いてくれないという噂である。

なかなかおもしろい話だとは思いませんか?

ちなみにこの話は、
『古事記』にもちゃんと載っている。
最近、文芸春秋社から発売された
『口語訳古事記〈完全版〉』という本が
全国の書店で平積みにされているが、
訳文が読みやすくておもしろい
(それでいて、
 一語一語かなり忠実に訳しているらしい)。
平野に伝えられている伝説とは多少食い違う部分もあるが、
大体のあらすじは同じである。
本の最後に付いている索引で
「アカルヒメ」という言葉を引くとこの話が出てくるので、
読み比べてみるとおもしろいかもしれない
(ちなみに、
 古事記のほうではこの皇太子は
 さらにえげつない人物として描かれている)。

そして、
『日本書紀』にも載っている。
さらにその部分が、
鈴木先生の御本に引用されて載っている。
『こんな日本 大嫌い!』(青谷舎)という
辛淑玉さんとの対談本の中で、
辛さんが「帰化」という言葉の起源を説明するために引用しているのだ。
 
(新羅の王子、天の日槍)己が国を以て弟の知古に授けて化帰す。
〈垂仁三年、「一云」〉(『こんな日本 大嫌い!』134ページ)


この「新羅の王子、天の日槍」(あめのひぼこ)というのが、
今回の話に出てきた新羅の皇太子のことである。
王位を弟に譲り、
赤留姫を追って日本にやってきて、
後に日本に「化帰」したことがここで描かれているわけだ。
これが、外国人が日本の国籍を取ることを
「帰化」と呼ぶようになった始まりである。

もちろん、
この話自体が史実であるかどうかは
かなり疑わしいのも事実である。
ただ、
こういう話が生まれてくる背景には、
もちろんそれなりの事情がある。
僕の住む町・平野には、
古代から朝鮮渡来人が多く住みついていたという。
その証拠に、
平野の周辺には、
杭全(くまた)・百済(くだら)・加美(かみ)・喜連(きれ)などと、
はっきり言って読みにくい地名が少なくない。
これらはどうやら、
古代朝鮮語に由来する知名だといわれている。

また、
「平野」という地名のもとになったといわれる
坂上広野麻呂
(さかのうえのひろのまろ:
 蝦夷「討伐」で有名な坂上田村麻呂の息子で、
 「ひろのまろ」の「ひろの」がなまって
 「ひらの」となったといわれている)も、
元をたどれば朝鮮渡来人の子孫である。
この坂上家の一族は江戸時代になっても平野で勢力をふるい、
分家の一つ・末吉家は
朱印船貿易でベトナムと交易して大もうけしたそうだ。
ちなみに、
東京の「銀座」を作ったのも
この末吉家の人間だ。
坂上家の本家は戦後、北海道に移住したそうだが、
分家の末吉家は今でも神社の氏子総代をやっている。

この話は、
おそらくそうした渡来人によって
作られたのではないかといわれている。

また、
赤留姫が住吉大社にかくまってもらったのも、
住吉の神と関係の深い朝鮮半島にあったもう一つの国・百済と、
皇太子の母国である新羅との対立関係が
背景にあるとも言われている。
赤留姫は新羅からの弾圧を避けるために、
対立関係にあった百済系の施設に駆け込んだのだ。
そう考えれば、
「大使館駆け込み」に通じるような部分もあるのかもしれない。

さて、この赤留姫と天の日槍(皇太子)、
最近ついに顔を合わす機会があったそうなのだ。
2000年ぶりの再会だ。
これは「歴史的会談」である。
そして、
二人は仲良く笑顔を振りまきながら一つの写真に写っている。
「歴史的和解」だ。

この写真は、
「ハナマトゥリ」というフェスティバルの
パンフレットの表紙を飾っている。
「ハナマトゥリ」とは朝鮮語で「一つの祭り」という意味だ。
「ハナ」が「一つ」、
「マトゥリ」が「祭り」を表す。
韓国系の在日団体「民団」と、北朝鮮系の在日団体「総連」が
合同で行なう画期的なお祭りだ。
この、長年対立してきた二つの団体が合同で一つの祭りを開くなんて、
ちょっと前までは考えられなかった。
その、「歴史的和解」の象徴としてパンフレットの表紙を飾ったのが、
赤留姫と天の日槍だったのだ。

天の日槍は過去の家庭内暴力について
「率直に謝罪」したのだろうか。
それとも、
祖国統一のために赤留姫が「大幅に譲歩」したのだろうか。
パンフレットにはそのあたりについて、
何の説明もない。
どうやら、「玉虫色の決着」であったような気がする。
『鈴木邦男をぶっ飛ばせ!』「酒井徹の今週の裏主張」No.6より転載)
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by imadegawatuusin | 2002-09-30 19:03 | 文芸