「ほっ」と。キャンペーン

――それができれば「君子」になれる――

■「君子」=「人格者」への道は不可能ではない
儒教の経典・『論語』に、
「人知らずしていきどおらず。
 亦た君子ならずや」(学而篇1章、『論語』通番1章)
(他人が自分のことをわかってくれなくてもうっぷんを抱かない。
 それができる人は、立派な人格者と言うべきではないだろうか。)
とある。

僕たちはついつい、
他人に対して何かにつけて、
「何でわかってくれないんだ!」という心の声をあげてしまう。
そして、
必要以上に自らを悲劇の主人公に見立て、
どんどん「うつ状態」に陥ってゆく。
(例:「何でわかってくれないんだ!
    何でわかってくれないんだ!
    こんなに頑張ってるのに、
    こんなに頑張ってるのに、
    どんなに頑張ってもできないのだということを、
    何で誰もわかってくれないんだ……」。
 人は一度こういう状態に陥ると、
 「本当にそこまで言うほど頑張っているのか?」
 という冷静な突っ込みは
 自分では入れられなくなってしまう)。

しかし、
心の中で嘆き、うっぷんを抱くだけでは、
問題は何も解決しない。

「他人が自分のことをわかってくれなくてもうっぷんを抱かない」。
それができる人を、
儒教の祖・孔子は「君子」と呼んでいる。
「君子」とは、
「身分のある男子が原義であるが、
 そこから立派な人格者を意味するようになった。
 ただし君子は
 努力すれば何人も到達しうる境地で、
 孔子の教育において一応の目標となっている」(宮崎市定『現代語訳論語』岩波現代文庫、3ページ)。

孔子という人はは人々に対して、
超絶的な聖人・超人になることを求めたわけでは決してなかった。
「孔子の教育において一応の目標と」されたのは「君子」であり、
それは「努力すれば何人も到達しうる境地」なのである。
具体的には、
「他人が自分のことをわかってくれなくてもうっぷんを抱かない」
といった、
ちょっとした日々の心がまえで達成できる徳目が
実践できるようになることだ。

この程度のことなら、
確かにちょっと努力すれば誰にでも到達可能に見えてくる。
そして実際、
この境地に達して日々の生活を送っている人も、
決して少なくはないのだろう。

しかし、
僕のような未熟な人間には、
意外にこれが難しい。
思い返せば僕はいつも、
「どうして誰も、
 僕のことをわかってくれないんだよーッ!」と、
憤り、うっぷんを抱き、
自分を悲劇のヒロイン(?)に仕立ててしまう癖を持っている。
そして自らを「うつ状態」に追い込んでしまい、
やるべきことを こなさなくなってしまうのだ。
(そう。
 ぼくの「失敗パターン」はいつもいつも
 判で押したように決まりきっている)。

「他人が自分のことをわかってくれなくてもうっぷんを抱かない」。
それさえできれば、
僕は「君子」=「立派な人格者」になることができる。
たった「それだけのこと」なのだ。

「君子」は決して一部の限られた超人のみが到達しうる境地ではなく、
「努力すれば何人も到達しうる境地」なのだ。

簡単そうに見えていざ実践してみると、
これがなかなか難しい。
これが「君子」への道である。
しかしそれでも、
これは「努力すれば何人も到達しうる境地」なのだ。

信じよう。
信じよう。

自分を信じて、
今日から僕は、
「他人が自分のことをわかってくれなくてもうっぷんを抱かない」人間になることを
ここに誓う。
これが達成できたとき、
僕は「君子」=「立派な人格者」となれるのだ。
[PR]
by imadegawatuusin | 2006-02-12 17:47 | 儒教

儒教の根本文献・『論語』に、
「吾日に吾が身を三省す」
(私は日ごとに自分について3つの反省をすることにしている)
とある。
僕たちはこのように、
日々自らの生活を省みて、
改善を施してゆかなければならない。

人間には大抵「失敗パターン」がある。
自分はどういう状況で、
どういう失敗をするのか。
それを知り、
日々生活を改善してゆけば、
僕たちはまさに、
日々前進してゆくことができる。
[PR]
by imadegawatuusin | 2006-02-07 17:44 | 儒教

■当たり前のことを当たり前に 
儒教の祖・孔子の言行を記した『論語』に、

(奇跡のようなことを行わないでも)
最も近いところで、説明のできることをするのが、
仁者のやり方というものだ。(『論語』通番147章)


とある。
また、

仁の道は遠くにある理想ではない。
いま自分が仁を行おうと思えば、
仁はすぐそこにあるのだ。(『論語』通番176章)


とも言っている。
今この場から、
当たり前のことを当たり前に行なっていくことが
大切だということであろう。

実際、
『論語』の「公治長篇」で、
孔子の弟子の子貢が、

先生の生活の哲学は、
これまでいつも教えを受けてきたが、
先生の性命論と宇宙論とは、
ついぞ伺ったことがない。(『論語』通番104章)


と証言しているし、
また『論語』の「述而篇」には、

孔子は
怪奇、暴力、背徳、神秘なことを話題にしなかった。(『論語』通番167章)


とある。

孔子の教えはあくまで、
「この現実」を重視する実際的なものであった。
これは、
のちの儒者(特に朱子の一派の学者)たちが、
孔子の名を語りながら怪しげな「性命論」や「宇宙論」
(福沢諭吉の言うところの「腐儒の腐説」・「陰陽五行説の妄誕」)を
展開したのとは対照的な態度である。

※翻訳には『現代語訳論語』宮崎市定訳(岩波現代文庫)を使用した。
[PR]
by imadegawatuusin | 2005-11-20 17:27 | 儒教

■今の生活の裏にある、先人たちの尊い犠牲 
今日の「朝日新聞」夕刊で作家の陳舜臣さんが、
『論語』第10篇の「郷党篇」について語っていた。
この「郷党篇」は「子曰く」で始まる文章が一つもなく、
衣食住や公私の生活・礼儀について述べられたものである。

この中で陳さんは、

色の悪しきは食(くら)わず、
臭いの悪しきは食わず。(『論語』243、「郷党篇」8)


つまり
「色の変わったものは食わぬ。
 臭いの悪くなったものは食わぬ」(宮崎市定訳『現代語訳 論語』岩波現代文庫)
という「郷党篇」の文句に、

あたりまえだ


と短く一言
突っ込みを入れている。

確かに、
食べ物が豊富な現代では、
だれも すき好んで
「色の変わったもの」や「臭いの悪くなったもの」を
食べようなどとは思わない。
しかし、
飢えと貧困の時代、
人間は ひもじいと
ついつい何でも口にしてしまったのではないだろうか〔注1〕。

孔子は、
どうしても飢え死にしそうなほどの限界の状況でもない限り、
そこでグッと我慢しろと言いたかったのだと思う。
さもなければ、
一時の空腹は満たせても、
結局かえって命を落とすことになってしまうぞ、と。

〔注1〕「納豆」とか
「カマンベールチーズ」などという食べ物が今の世に存在するのは、
おそらくついつい「色の悪しき」・「臭いの悪しき」に
手を出してしまった貧しい人民の功績であろう。
そしてその輝かしい「功績」の裏には、
「色の悪しき」・「臭いの悪しき」にあたって腹を下し、
死んでいった幾多の犠牲があったのだろう。
こうした先人たちの尊い犠牲の上に
今の僕たちの生活がある。
[PR]
by imadegawatuusin | 2005-11-08 17:21 | 儒教