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カテゴリ:キリスト教( 17 )

――聖書には、「誕生日の夜、羊飼いが野宿」と記述――

■イエスの誕生が冬であった可能性は低い

12月9日の『中日新聞』読書欄に、
随筆家の酒井順子さんが
「聖書を開くクリスマス」と題する文章を寄せていた。
「クリスマス間近。
 いまや万人にとっての楽しい行事ですが、
 本来はイエスの誕生日ということで、
 これはキリスト教のお祝いです」と書かれている。
そして、
「クリスマスくらい
 聖書をひもといてみようか、という方に」
新共同訳聖書を読むことを勧めている。
「クリスマスには
 なぜ三人の博士や羊飼いが登場するのかも、
 理解できることでしょう」というのである。

しかし、
実際に酒井さんの薦める新共同訳聖書を開いてみると、
イエスを訪ねてきた「博士」が「三人」であるなどとは
実はどこにも書かれていないことが分かる。

『新約聖書』の「マタイによる福音書」には
この挿話について次のように書かれている。

イエスは、
ヘロデ王の時代に
ユダヤのベツレヘムでお生まれになった。
そのとき、
占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、
言った。
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、
 どこにおられますか。
 わたしたちは東方でその方の星を見たので、
 拝みに来たのです。」……
王は民の祭祀長たちや律法学者たちを皆集めて、
メシアはどこに生まれることになっているのかと
問いただした。
彼らは言った。
「ユダヤのベツレヘムです。……」

そこで、
ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、
……ベツレヘムへ送り出した。
彼らが王の言葉を聞いて出かけると、
東方で見た星が先立って進み、
ついに幼子のいる場所の上に止まった。
……家に入ってみると、
幼子は母マリアと共におられた。
彼らは……宝の箱を開けて、
黄金、乳香、没薬(もつやく)を
贈り物として献(ささ)げた。(「マタイによる福音書」2・1~11)


このように『聖書』には、
「占星術の学者たち」が三人だったとは
どこにも書かれていない。
「彼らは……宝の箱を開けて、
 黄金、乳香、没薬(もつやく)を
 贈り物として献(ささ)げた」と書いてあるので、
三つの贈り物を
一人が一つずつ三人で持っていたようにすると
絵などに描きやすいという都合で
「三人の博士」ということになったのかもしれない。
だが、
少なくとも聖書本文からは
「占星術の学者たち」が三人だったとは
断定できないのである。

それどころか、
酒井さんが紹介する「羊飼いが登場する」挿話を読むと、
イエスが生まれたのが
本当に12月25日だったのかどうか、
そのこと自体が疑わしく思えてしまうのである。

そもそも『聖書』には、
イエスが生まれたのが12月25日だったとは
どこにも書かれていない。
それどころか『新約聖書』の「ルカによる福音書」には、
イエスが生まれたその日の夜、
近くで羊飼いたちが
野宿をしていたと書かれているのである。
果たしてパレスチナの地で
12月25日の極寒の冬のさなか、
テントの外で野宿などできるものなのであろうか。

「ルカによる福音書」の記述は次のとおりだ。

皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、
登録をせよとの勅令が出た。
これは、
キリニウスがシリア州の総督であったときに
行われた
最初の住民登録である。
人々は皆、
登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。
ヨセフもダビデの家に属し、
その血筋であったので、
ガラリアの町ナザレから、
ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ
上って行った。
身ごもっていたいいなずけのマリアと一緒に
登録するためである。
ところが、
彼らがベツレヘムにいるうちに、
マリアは月が満ちて、
初めての子を産み、
布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。
宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、
夜通し羊の群れの番をしていた。
すると、
主の天使が近づき、
主の栄光が周りを照らしたので、
彼らは非常に恐れた。
天使は言った。
「恐れるな。
 わたしは、
 民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
 今日ダビデの町で、
 あなたがたのために救い主がお生まれになった。
 この方こそ主メシアである。
 あなた方は、
 布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている
 乳飲み子を見つけるであろう。……」
すると、
突然、
この天使に天の大軍が加わり、
神を賛美して言った。

「いと高きところには栄光、神にあれ、
 地には平和、御心に適(かな)う人にあれ。」

天使たちが離れて天に去ったとき、
羊飼いたちは、
「さあ、
 ベツレヘムへ行こう。
 主が知らせてくださったその出来事を
 見ようではないか」と話し合った。
そして急いで行って、
マリアとヨセフ、
また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を
探し当てた。(ルカによる福音書2・1~16)


イエスが生まれたその日、
近くにいた羊飼いたちは「野宿をしながら、
夜通し羊の群れの番をしていた」のである。
到底寒い12月のこととは思えない。
当時この地方の羊飼いたちは、
春から秋にかけては屋外で羊を放牧し、
12月や1月には
羊たちを寒さや雨をしのげる場所で
飼育していたと言われている。
当時、パレスチナでは、
12月ごろは寒い上に雨も多かったからである。

ユダヤの暦では今の暦の12月ごろは
「第九の月」(9月)に相当する。
『旧約聖書』の「エズラ記」には、
この「第九の月」の「二十日」に
イスラエルの民が
エルサレムの神殿の広場に集められた際、
「民は皆、
 ……雨が降っていたために震えていた」と
記されている。
そして集められた群衆の側も、
「雨の季節でもあって外に立っている力はありません」
と言ったと記されているのである(「エズラ記」10・9~13)。
また『旧約聖書』の「エレミア書」にも、
現在の12月に相当する
ユダヤ暦の「九月」のできごととして、
「王は宮殿の冬の家にいた。
 時は九月で暖炉の日は王の前で赤々と燃えていた」と
書かれている(「エレミア書」36・22)。

昼間でさえこうなのである。
まして寒くて雨の多い12月の夜に、
羊飼いたちが「野宿をしながら、
夜通し羊の群れの番をしていた」とは到底思えない。

そもそもイエスの父母であるヨセフやマリアが、
出産も近いというのに
「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」からといって
あっさりあきらめて馬宿に泊まったりしていたのも、
寒い冬の日のできごとではなかったからだと思うと
しっくりとくる。

以上の理由から、
聖書を素直に読む限り、
イエスが生まれたのが寒い冬、
まして雨の多い12月であった可能性は
限りなく低いと言わざるをえないのである。

実際、
イエスの直弟子であるペテロや
キリスト教の基礎を築いたパウロなどが
クリスマスを祝ったという記録はどこにもない。
歴史的には、
12月25を「クリスマス」として祝うようになったのは、
イエスが生まれてから
300年以上あとになってからだという。
17世紀半ばには、
政権を握った
急進派のキリスト教徒である
清教徒(ピューリタン)たちが
議会において
クリスマスを禁止する法令を制定したこともあるらしい。
アメリカのマサチューセッツ州議会でも
同じくクリスマス禁止の法案が
可決されたことがあるという。
『聖書』を大切にする清教徒たちにとって、
クリスマスは
『聖書』に何らの根拠もない異教の祭りに
他ならなかったのである。

■キリスト教で大切なのはイエスが「死んだ日」

そもそも『聖書』では、
イエスは自分の誕生日を祝えなどとは
一言も言っていない。
イエスが記念するようにと命じた日は
自分が生まれた日ではなく、
自分が死んだ日なのである。

聖書によると、
イエスは官憲に引き渡され処刑された日の夜
(現在の感覚では「前夜」であるが、
 当時のユダヤでは
 日没から新しい日が始まり
 翌日の日没で一日が終わると考えられていたから、
 処刑の前夜が「処刑された日の夜」となる)、
イエスは「主の晩餐」と呼ばれる
記念の式典を制定したことになっている。

『新約聖書』の「コリントの信徒への手紙 一」には
次のように書いてある。

主イエスは、
引き渡される夜、
パンを取り、
感謝の祈りをささげてそれを裂き、
「これは、
 あなたがたのためのわたしの体である。
 わたしの記念としてこのように行いなさい」と
言われました。
また、
食事の後で、
杯(さかずき)も同じようにして、
「この杯は、
 私の血によって立てられる新しい契約である。
 飲む度(たび)に、
 私の記念としてこのように行いなさい」と
言われました。(「コリントの信徒への手紙 一」11・23~25)


キリスト教では、
イエスが全人類の罪を背負って
人類の代わりに殺された結果、
人類は罪が許されて救済されたと説いている。
人類の先祖であるアダムが犯した罪を清算するためには、
アダムに代わって
罪のない(アダムの血を引いていない)イエスが
殺される必要があったのだというのである(「ローマの信徒への手紙」3・23~25、5・12~19、「コリントの信徒への手紙 一」15・21~22、「テモテへの手紙 一」2・6、「ヘブライ人への手紙」10・10)。

したがって、
キリスト教の教義から言えば、
人類はイエスが生まれたことによってではなく
死ぬことによって救われたのだから、
イエスの誕生日よりも
処刑された日のほうが大切なことは明らかである。
イエス自身も自分の死を記念するようにとは言ったが、
自分の誕生日を記念しろとは言わなかった。
イエスが
「私の記念としてこのように行いなさい」と言ったのは、
自分の誕生日ではなく、
死の日の夜のことだった(「ルカによる福音書」22・19)。
イエスが弟子たちに行うように命じたのは、
イエスの誕生ではなく、
死を記念することだったのだ。

また、
『新約聖書』に収録された
イエスの伝記である四つの「福音書」の中で、
イエスの死について触れていないものは一つもないが、
イエスの誕生について触れているのは
「マタイによる福音書」と「ルカによる福音書」の
二つだけである。
「マルコによる福音書」と「ヨハネによる福音書」は、
イエスの誕生について何も語っていない。

そして何より、
『聖書』には
イエスの誕生日がいつであるかは書かれていないが、
イエスが処刑された日がいつであったかは
はっきりと書かれている。
それは
ユダヤ暦1月14日(現在の3月から4月ごろ)に
行なわれる
「過越」の日(「過越の小羊を屠る日」・「過越祭の日」)
である(「マルコによる福音書」14・12、15・6~9、「マタイによる福音書」26・17~19、27・15~17、「ルカによる福音書」22・7~16、「ヨハネによる福音書」13・1、13・29、18・39)。

『旧約聖書』の「コヘレトの言葉」にも、
「死ぬ日は生まれる日にまさる」とある(「コヘレトの言葉」7・1)。

「クリスマス」はイエスの誕生日ではない。
そしてそもそもイエスの誕生日自体が
キリスト教の教義からすれば
さして重要なものとはいえない。
「死ぬ日」の方が「生まれる日にまさる」のである。
イエスの死んだユダヤ暦1月14日を祝わずに、
イエスの誕生日かどうかもはなはだ疑わしい
「クリスマス」を祝ったりするのは
明らかにキリスト教の本旨を履き違えたものなのだ。
そして、
キリスト教的にさえこの「クリスマス」なるものに
大した根拠がないことを知れば、
ましてキリスト教徒でもない人間が
クリスマスだクリスマスだと言って
乱痴気騒ぎをすることが
いかに愚かなことであるかも
自然にわかるはずである。

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by imadegawatuusin | 2012-12-24 16:00 | キリスト教

『新約聖書』の「ヨハネによる福音書」に
次のようなイエスの言葉が載っている。

「わたしはぶどうの木、
あなたがたはその枝である。
人がわたしにつながっており、
わたしもその人につながっていれば、
その人は豊かに実を結ぶ」(15-5)。

この「ヨハネによる福音書」の中でイエスは、
自らを「道であり、真理であ」ると言っている(14-6)。
現代風に解釈すればこのたとえ話は、
真理から外れず歴史の正道を行く者は
人生において実りが多く、
真理から外れ道を踏み外した生き方をする者は
人生において実を結ばないということになろうか。

歴史の必然・方向性に自らを重ねて生きる者には
実りがある。
社会の進歩の先頭に立って牽引する人は
そのような人生自体に喜びを見出すことができる。

力及ばずとも、
そんな充実した人生を私は生きてゆきたい、
目指してゆきたいと思うのである。

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by imadegawatuusin | 2011-08-17 20:20 | キリスト教

■なぜタビタを「ドルカス」(かもしか)と訳して呼ぶのか
本書においては、
「YHWH」(ヤハウェ,エホバ)は神の固有名詞であり、
「主」(=「ご主人様」)などという称号、
つまり普通名詞で訳すべきではないと主張されている。
この意見には僕も全く同感だ。
詩編83編19節(ものみの塔の「新世界訳」では18節)や
列王記上18章21節を見ても、
通常「主」と訳されているこの言葉は、
明らかに神の固有の名を指していることがわかる。
それが固有名詞である以上、
「主」(つまり「ご主人様」)などと「翻訳」してしまうことは好ましくなく、
原音に添った形で表記するべきであると僕も思う。

しかし、
「エホバ」については非常に強く主張するこの極めてまっとうな主張を、
タビタという女性に関しては全く貫こうとしないのは
一体どうしたことなのか。

本書69ページの挿絵の説明の中に、
「使徒ペテロはドルカスという
 クリスチャンの女性を
 復活させた」という一文がある。
しかし、
彼女の名前は「タビタ」であり、
「ドルカス」とは、
この「タビタ」という名前の意味を
あえて「使徒言行録」の書かれた言語であるギリシア語に訳せば
「ドルカス」(つまり「かもしか」)であると
聖書には書かれてあるにすぎない。

「新共同訳」の「使徒言行録」9章36節は、
この部分を次のように翻訳している。

ヤッファにタビタ
――訳して言えばドルカス、すなわち「かもしか」――
と呼ばれる婦人の弟子がいた。


この場合、
「エホバ」における原則を準用するならば、
彼女の名は明らかに「タビタ」である。
現に使徒ペトロも彼女を復活させるとき、
「タビタ、起きなさい」と言っている(使徒言行録9章40節)。

どうして「エホバ」は「エホバ」であるのに、
「タビタ」を「ドルカス」(=「かもしか」)などと「訳して」書くのか。
言語間の発音体系の違いによって
多少読み方が変わることがあっても、
固有名詞は恣意的に「訳す」べきではない。
聖書においては最初に「タビタ」という固有名詞を挙げた上で、
その意味をギリシア語で説明するものとして
「ドルカス」(つまり「かもしか」)という言葉が出てくるのであるが、
本書は「タビタ」という彼女の固有の名を全く挙げないまま、
いきなり彼女の名としてギリシア語の「ドルカス」を用いている。
これは極めて不適切であり、
「エホバ」という固有名詞に対する本書の徹底した姿勢と照らせ合わせたとき、
はなはだ一貫性に欠く態度であると思わざるを得ない。

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by imadegawatuusin | 2006-08-26 23:37 | キリスト教

■「新しい地」とは「社会」のことか?
本書33ページには次のように書いてある。

聖書は次のことを保障しています。
「神の約束によってわたしたちの待ち望んでいる
 新しい天と新しい地があります。
 そこには義が宿ります」。(ペテロ第二3:13。イザヤ65:17)
聖書に出てくる「地」は,
地上に住む人々を指すことがあります。(創世記11:1)
ですから,
義の「新しい地」とは,
神の是認を受ける人々で成る社会のことです。(本書3章15節)


これは非常に変な理屈である。
「聖書に出てくる『地』は,
 地上に住む人々を指すことがあ」るからといって、
どうして「ペトロの手紙 二」にある「義の『新しい地』」を、
「神の是認を受ける人々で成る社会のこと」と
断言できてしまうのだろうか。
「~は,~を指すことがあ」るというのは、
「そうでないこともある」ということを
大前提とした ものの言い方のはずである。

本書で引用されている「ペトロの手紙 二」3章13節の前節である
12節には次のように述べられている。

神の日の来るのを待ち望み、
また、
それが来るのを早めるようにすべきです。
その日、
天は焼け崩れ、
自然界の諸要素は燃え尽き、
熔け去ることでしょう。(「ペトロの手紙 二」3章12節)


また、
本書で参照するように言われている「イザヤ書」65章17節には、
「見よ、
 わたしは新しい天と新しい地を創造する」とあるし、
詩編46章7節にも、
「神が御声を出されると、地は溶け去る」とある。

「ヨハネの黙示録」21章1節には、
「わたしはまた、
 新しい天と新しい地を見た。
 最初の天と最初の地は去っていき、
 もはや海もなくなった」と書いてある。
「新しい地」が神によって「創造」されたものであり、
「自然界の諸要素」が「燃え尽き、
熔け去」った後にやって来て、
そこには「もはや海もな」いというのである。
そうであればやはり、
ここでいう「新しい地」とは神によって新たに創造された、
文字通りの意味での「地」を意味していると
考える方が自然ではないか。

「創世記」11章1節のように、
全地が「同じ言葉を使って、
同じように話していた」とあるのであれば、
「地」が「言葉を使っ」たり「話し」たりするわけがないのであるから、
ここでいう「地」とは
「地上に住む人々を指」していると解釈するのが妥当である。
しかし、
「自然界の諸要素」が「燃え尽き、
熔け去」った後にやって来る、
神によって「創造」された「新しい地」というものを、
わざわざ
「神の是認を受ける人々で成る社会のこと」と解釈しなければならない必然性は
どこにあるのか。
僕には全くわからない。

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by imadegawatuusin | 2006-08-22 14:59 | キリスト教

■神の創造物がなぜ自ら「悪魔」となったのか
本書28ページ(3章5節)で、
次のような疑問が提示されている。

エホバの創造物はすべて完全なのですから,
だれがこの「悪魔」を,
つまり「サタン」をつくったのか,という疑問が生じます。
簡単に言えば,
神の霊の子たちのひとりが自ら悪魔になったのです。
どうしてそんなことが起こるのでしょうか。


この疑問に対して、本書は次のように答えている。

以前は正直で立派だった人が泥棒になることは
今でもあります。
なぜそうなるのでしょうか。
人は,
心の中で悪い欲望が強まっているのに,
それを放っておくことがあります。
欲してはならないものについて考え続けるなら,
悪い欲望は非常に強くなるでしょう。
そして,
機会が訪れると,
以前から抱いていたその悪い欲望に駆られて
行動を起こすかもしれません。―ヤコブ1:13‐15。

悪魔サタンの場合がそうでした。(本書3章5~6節)


しかしこのような答えでは、
冒頭の疑問に充分に答えているとは
僕にはどうしても思えない。

確かに、
「以前は正直で立派だった人が泥棒になることは
 今でもあ」る。
それは本書も言うとおり、
表面的には「正直で立派」な人であっても、
「心の中で悪い欲望が強まっている」ことがあり、
「機会が訪れると,
 以前から抱いていたその悪い欲望に駆られて
 行動を起こす」ことがあるからだ。

しかし、真に
「エホバの創造物はすべて完全」なのであれば、
人であれ、神の霊の子であれ、
表面的にその行動において「正直で立派」であることはもちろん、
その心のあり方についても「完全」でなければならないのではないか。

イエスは、
単に表面的な行動だけではなく、
その心のあり方についても大切だとして、
次のように述べている。

あなた方も聞いているとおり、
昔の人は
『殺すな。人を殺したものは裁きを受ける』と
命じられている。
しかし、わたしは言っておく。
兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。(マタイ5章21~22節)


あなた方も聞いているとおり、
『姦淫するな』と命じられている。
しかし、
私は言っておく。
みだらな思いで他人の妻を見るものはだれでも、
すでに心の中でその女を犯したのである。(マタイ5章27~28節)


現代社会には既にさまざまな「悪」の要素があり、
人はそうしたさまざまな影響を受けながら自らを形成してゆくのであるから、
「以前は正直で立派だった人が泥棒になること」は
容易に起こりうるだろう。
だが、その一番初めの最初の堕落、
「すべて完全」な「エホバの創造物」に囲まれた
「神の霊の子たちのひとり」が「悪魔」になってしまったのはどうしてなのか。

「神の霊の子たちのひとりが自ら悪魔になった」のであれば、
「心の中で悪い欲望が強まっているのに,
 それを放ってお」き、
「欲してはならないものについて考え続」け、
「機会が訪れると,
 以前から抱いていたその悪い欲望に駆られて
 行動を起こ」してしまったのであれば、
そもそも その「神の霊の子たちのひとり」は、
「心の中で悪い欲望」を抱きうる存在、
つまり「罪の要素」を内包した存在として創造されたと
言わざるを得ないのではないか。

聖書において神は「全能者」である(黙示15章3節)。

『旧約聖書』の「イザヤ書」によれば、
神の計ることは「必ず成り」、
神が「定めることは必ず実現する」という(イザヤ14章24節)。
神は「初めから既に、先のことを告げ
まだ成らないことを、既に昔から約束して」おられるという(イザヤ46章10節)。

そのような「全能者」である神が、
どうして「心の中で悪い欲望」くような霊の子を創造してしまったのか。
それがやがては悪魔となり、
世界にさまざまな害悪を与えるような存在となることを予見できなかったのか。
それとも、それを予見できながら
あえてそのような存在を創造したのか。

この点は、聖書が抱える最も根本的な矛盾であると僕は思う。
しかし、本書がその疑問に充分な回答を与えているとは
僕にはどうしても思えない。

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by imadegawatuusin | 2006-08-07 16:32 | キリスト教

■エバをそそのかした蛇はサタンか
本書では、『旧約聖書』の「創世記」においてエバをそそのかした蛇は
「単なる動物ではありません」と述べられている(本書28ページ、3章4節)。
本書によるとこの者は、
「悪魔またサタンと呼ばれ,
 人のすむ全地を惑わしている」者だという(本書28ページ、3章4節)。
その根拠として本書には、
「悪魔またサタン」が「ヨハネの黙示録」12章9節において
初めからの蛇」(新共同訳では「年を経た蛇」)と呼ばれていることが
挙げられている(本書28ページ、3章4節)。
しかし、ここでいう「蛇」という言葉は、
「悪い奴」とか「呪われたもの」・「人類の敵」というような意味の
比喩的表現ではないのだろうか。

そもそも「創世記」には、
エバをそそのかした蛇は
「野の生き物」であったとはっきりと書かれている(創世記3章1節)。

一方サタンは、
その後「ヨブ記」において、
「主の前に神の使いたちが集ま」った際、
そこにやって来てさえいる(ヨブ記1章6~7節)。

結局サタンは最終的には、
「天で戦いが起こ」り、
「ミカエルとその使いたちが……戦いを挑」むに至って
ついに「天には……居場所がなくな」り、
「地上に投げ落とされ」てしまうのであるが、
逆に言うとそのときまでは、
サタンは天に一定の居場所を確保していたわけである(黙示12章7~9節)。

そのサタンが、
どうしてイブをそそのかした、
「野の生き物」である蛇でありうるだろうか。

本書はサタンは、
「蛇を使ってエバに話しかけ」たのだと主張している(本書28ページ、3章4節)。
これは、
「特別な技術を持った人が,
 すぐそばの人形から声が出ているように
 見せかけるのと同じ」だという(本書28ページ、3章4節)。
しかし「創世記」は、
蛇がエバをそそのかした場面について、

主なる神が造られた野の生き物のうちで、
最も賢いのは蛇であった。
蛇は女に言った。(創世記3章1節)


と記しており、
そのように読む余地は全くない。
そもそも、
本当に「エバに話しかけ」たのがサタンであり、
蛇は「声が出ているように見せかけ」られた「人形」にすぎなかったのであれば、
どうしてサタンではなく蛇の側が、
「あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で
 呪われるもの」とされ、
「生涯這いまわり、塵を食らう」存在とされなければならなかったのか(創世記3:14)。

以上の理由で僕は、
「創世記」においてエバをそそのかした蛇は、
「野の生き物」としての蛇そのものであったと考える。

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by imadegawatuusin | 2006-08-06 13:25 | キリスト教

■聖書は「調和していて正確」?
本書は聖書について、
「科学的に正確」であり(本書20ページ、2章8節)、
「最初から最後まで調和を保っています」(本書20ページ、2章6節)
と記している。
聖書は
「歴史的にも正確で信頼でき」、
「その記述は具体的で」、
「人々の名前だけではなく,その先祖の系図も挙げています」という(本書21ページ、2章9節)。
そしてその例として、
「例えば,ルカ3章23‐38節にあるイエスの詳しい系図をご覧ください」
というのである(本書21ページ)。

確かにルカ3章23‐38節には、
「イエスの詳しい系図」が載っている。
しかし聖書にはもう一箇所、
「マタイによる福音書」の冒頭にも
アブラハムからイエスに至る「詳しい系図」が載っており、
これが「ルカによる福音書」の系図とは全く対応していないのだ。

下が、本書で触れられている「ルカによる福音書」のイエスの系図と、
「マタイによる福音書」のイエスの系図を照らし合わせたものである。
「ルカによる福音書」ではイエスはアブラハムから数えて57代となっているが、
「マタイによる福音書」では41代ということになる。

  ルカ伝系図(マタイ伝系図)

1.アブラハム(アブラハム)
2.イサク(イサク)
3.ヤコブ(ヤコブ)
4.ユダ(ユダ)
5.ペレツ(ペレツ)
6.ヘツロン(ヘツロン)
7.アルニ(アラム)
8.アドミン(アミナダブ)
9.アミナダブ(ナフション)
10.ナフション(サルモン)
11.サラ(ボアズ)
12.ボアズ(オベド)
13.オベド(エッサイ)
14.エッサイ(ダビデ)
15.ダビデ(ソロモン)
16.ナタン(レハブアム)
17.マタタ(アビア)
18.メンナ(アサ)
19.メレア(ヨシャファト)
20.エリアキム(ヨラム)
21.ヨナム(ウジヤ)
22.ヨセフ(ヨタム)
23.ユダ(アハズ)
24.シメオン(ヒゼキア)
25.レビ(マナセ)
26.マタト(アモス)
27.ヨリム(ヨシア)
28.エリエゼル(エコンヤ)
29.ヨシュア(シャルティエル)
30.エル(ゼルバベル)
31.エルマダム(アビウド)
32.コサム(エリアキム)
33.アディ(アゾル)
34.メルキ(サドク)
35.ネリ(アキム)
36.シャルティエル(エリウド)
37.ゼルバベル(エルアザル)
38.レサ(マタン)
39.ヨハナン(ヤコブ)
40.ヨダ(ヨセフ)
41.ヨセク(イエス)
42.セメイン
43.マタティア
44.マハト
45.ナガイ
46.エスリ
47.ナウム
48.アモス
49.マタティア
50.ヨセフ
51.ヤナイ
52.メルキ
53.レビ
54.マタト
55.エリ
56.ヨセフ
57.イエス


1代目のアブラハムから6代目のヘツロンまでは対応するが、
あとはもう滅茶苦茶である。
細かく観察すると、
「ルカ」で9代とされているアミナダブから15代ダビデと、
「マタイ」で8代とされているアミナダブから14代ダビデとの部分が
対応していることがわかるが、
逆にいえば7代から8代・9代の間で
確実に「ズレ」が生じていることが確認できる。

また、「ルカ」で36代・37代とされている
「シャルティエル―ゼルバベル」が、
「マタイ」では29代・30代とされているのも気になるところだ。

この事実を見てもなお、
聖書の記述は「科学的に正確」であり、
「最初から最後まで調和を保ってい」るなどと言い切れるのであろうか。
「聖書中のある箇所が他の箇所と矛盾しているという人もいますが,
 そのような主張には根拠がありません」(本書20ページ)と言い切れるのであろうか。
僕には到底そのようには思えない。

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by imadegawatuusin | 2006-07-29 14:15 | キリスト教

■聖書は、地球は丸く無の中に浮かぶと教えているか
この本の21ページでは、
聖書には地球の形やあり方についてどのような記述がなされているかが
解説されている。
そこには、

地球の形について間違った見方がされていた時代に,
聖書は,
地の円,つまり丸いものという表現を用いました。


として、
イザヤ書40章22節を参照するよう書かれている。
しかし、少なくとも僕の持っている「新共同訳」の聖書では、
イザヤ書40章22節には次のような記述しかない。

主は地を覆う大空の上にある御座に着かれる。
地に住む者は虫けらに等しい。
主は天をベールのように広げ、天幕のように張り
その上に御座を置かれる。


少なくとも「新共同訳」の翻訳からは、
地球が丸いということを示す表現を見出すことはできない。
それどころか、
「地を覆う大空の上」に「天をベールのように広げ、天幕のように張り
その上に御座を置」くという表現からは、
むしろ地を平たいものとして捉えているのではないかという印象すら
受けるくらいだ。

また本書21ページには、

地は『無の上に掛かっている』という,
事実に合致した描写もあります。(ヨブ26:7)


とも書いてある。
確かに、
地が『無の上に掛かっている』というヨブ記26章7節の記述は
事実に合致してはいる。
だが、これはヨブという男が神様に対して不満を募らせ、
暴言を吐いた際に出てきた発言の一節なのだ。
ヨブは同じ26章の中で神に対して、
「どんな助けを力のないものに与え
 どんな救いを無力な腕にもたらしたというのか。
 どんな忠告を知恵のない者に与え
 どんな策を多くの人に授けたというのか。
 誰の言葉を取り次いで語っているのか」
と、放言の限りを尽くしている(ヨブ26章2~4節)。

こうしたヨブの発言に対して神は、
「これは何者か。
 知識もないのに、言葉を重ねて
 神の経綸を暗くするとは」と とがめだてている(ヨブ38章2節)。
そしてヨブも最終的には、
自分には知識がないということを認め、
自分の発言が
自分には「理解できず、……知識を超えた
驚くべき御業をあげつらって」いたものにすぎなかったと
反省している(ヨブ42章3~4節)。

地が『無の上に掛かっている』というヨブの発言は、要するに
自分でもよくわかっていないことを口走ったものに
すぎなかったのである〔注1〕。
こうした、神様にとがめられた発言の一節を根拠にして、
聖書には「地は『無の上に掛かっている』という,
事実に合致した描写もあ」るなどと主張するのは、
公正さを欠くやり方であると僕は思う。

〔注1〕なお、このヨブの主張に対する神様の反論の中には、
「大地の縁(へり)をつかんで
 神に逆らう者どもを地上から払い落と」すなどという表現が見られる(ヨブ38章13節)。

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by imadegawatuusin | 2006-07-15 11:34 | キリスト教

■神は「全地を治める至高者」なのか
なお、
「『聖書の教え』(ものみの塔)を批判する(その6)」で取り上げた
詩編83編18節は、
この本では
「その名をエホバというあなたが,
 ただあなただけが全地を治める至高者である」と訳されている(本書13ページ,1章14節)。

カトリックとプロテスタントが共同で翻訳した「新共同訳」のように、
「あなたの御名は主
 ただひとり
    全地を超えて、いと高き神である」(「新共同訳」詩編83編19節)
と訳すのなら問題は無いが、
もしもこの本にある通り、
神が「全治を治める至高者である」のであれば、
この世の支配者はサタンであるという教え(本書32ページ,3章11~12節)は
一体どうなってしまうのだろうか。
聖書は一方では、
「この世全体が悪い者の支配下にある」(ヨハネ第一5章19節)と教え、
そうした者を「この世の神」とまで呼んでいる(コリント第二4章4節)。
『旧約聖書』の「イザヤ書」には、

私たちの神なる主よ
あなた以外の支配者がわれらを支配しています。(イザヤ26章13節)


とはっきり書かれている。

本書の32ページにも、
「聖書のどこにも,
 エホバ神……がこの世の支配者であるとは
 書かれていません」と書いてある(本書3章12節)。
ところがその同じ本の中で、
神は「全地を治める至高者である」とはっきり書いてしまってあるのだ。

一体これはどういうことなのだろうか。

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by imadegawatuusin | 2006-07-10 18:29 | キリスト教

■「神」・「主」を神の名とする宗教は多数派か
この本の13ページには、
次のように書いてある。

神には名前がありますか。
多くの宗教は,
「神」あるいは「主」が名前だと答えます。
しかし,
それらは固有の名前ではありません。
「王」とか「大統領」と同じように称号なのです。(本書1章14節)


しかし、
話はむしろ逆ではないか。
一部の一神教を除く圧倒的に「多くの宗教」は、
「天照大神」とか「大国主命」とか(日本神道)、
「シヴァ」とか「ビシュヌ」とか(ヒンドゥー教)、
「アフラマズダ」と「アーリマン」とか(ゾロアスター教)、
実にいろいろな名前を神々のために用意している。

むしろ、ただ「神」と言っただけで、
ただ一つの「その神さま」しか指しえないのは、
聖書信仰の特質ではないのか。

確かに本書の言うとおり、
『旧約聖書』の「詩編」83編18節(「新共同訳」では19節)にある神の御名を
「主」(=ご主人様)などという普通名詞に訳し変えるのは
どう考えてもおかしな話だ。

この部分は「新共同訳」では

あなたの御名は主
ただひとり
  全地を超えて、いと高き神である


と訳されているが、
「あなたの御名は」とある以上、
その後に続く部分は明らかに神のお名前(=固有名詞)である。
この神の名――YHWH――は、
「ヤハウェ」としても「ヤーヴェ」としても
「エホバ」としても大した問題ではないと思う。
ある言語を異言語に翻訳した場合、
「ペトロ」が「ペテロ」になったり
「ペーター」になったり「ピョートル」になったり、
あるいは「ピーター」になることも珍しくない。
何も日本人が、
古代ヘブライ語風・ギリシア語風の発音をしないからといって
目くじらを立てる神さまでもないだろう。
(大体、「ペトロ」・「ペテロ」とカタカナで表記した時点で、
 これは完全に「日本語の発音体系」に組み込まれている)。

しかしそれを、
たとえば「ペトロ」は「石」・「岩」という意味だからといって、
この人の名前を「岩男(いわお)」とか「石人(いしと)」などと
勝手に訳し変えるならば大問題だ。
“YHWH”が神の「御名」である以上、
固有名詞としてその発音に沿った翻訳をするべきだ。

世の多くの翻訳聖書はこの点で誤っており、
この点に関して言えば本書は正しい。
しかしだからと言って、
世の「多くの宗教は,
『神』あるいは『主』が名前だと答え」ているなどという認識は
明らかに誤っている。

「多くの宗教」と言いながら、
ユダヤ教・キリスト教・イスラム教など、
聖書に関係する、
いわば(広い意味での)「同根宗教」しか検討の対象にしておらず、
ヒンドゥー教・日本神道・中国道教などの世界各地の多神教は
最初から一切視野に入れようともしていないのではないかと、
このような記事を目にすると疑わざるをえなくなる。

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by imadegawatuusin | 2006-07-09 18:23 | キリスト教