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龍馬ブームに異論あり

――「変革」「若さ」無条件肯定の風潮に疑問――

■政治家の「龍馬気取り」にはうんざり
10月5日の朝日新聞「異議あり」欄に、
高知出身の精神科医・野田正彰さんの
「龍馬にしがみつくのは成熟拒否の表れ」と題する
インタビューがのっていた。

「坂本龍馬はなぜ、
 こんなに人気があるんでしょうか」という
記者の質問に対して野田さんは、
「龍馬とは青春像そのものです。
 30代前半で暗殺されてしまって、
 中年以降がない。
 もし龍馬が明治維新後も生きていたら、
 時代を切り開く若々しいイメージを投影することは
 難しかったと思います。
 三菱財閥をつくった岩崎弥太郎に
 こういうイメージを持つことは無理でしょう」と
答えている。

龍馬が暗殺されることなくそのまま生き続けていたら、
明治以降も
それなりの活躍をした可能性はある。
中でも最も可能性が高そうなのは、
岩崎弥太郎のように
政商として大もうけした道だろう。
後に自由民権運動の指導者となった
土佐藩出身の板垣退助は、
「龍馬もし不惑の寿を得たらんには
 恐らくは薩の五代、土の岩崎たるべけん
 (龍馬がもし40歳まで長生きしていたら、
  おそらく薩摩の五代友厚や土佐の岩崎弥太郎のような
  経済人になっただろう)」と
言ったという(千頭清臣『坂本龍馬伝』)。
でも多分、
そんな龍馬は見たくないという人が多いと思う。

政治家で坂本龍馬が好きという人も少なくないが、
坂本龍馬の本質は政治家ではなく商売人だ。
彼が政治に関わったのは、
卑近な言い方をすれば商売のため。
イギリスから買い付けた武器を薩長に供与して、
ブローカーとして一儲けするためであり、
少し志の高い言い方をすれば、
自由経済社会の実現のため。
封建的な束縛の多い幕藩体制を打破して
「自由な商売」が実現できる社会をつくるためである。

そうした目的のために坂本龍馬は
政治に近づいたのであり、
明治維新が実現すれば、
岩崎弥太郎のようにその人脈を用いて商売を広げ、
大財閥をなしたかもしれない。
(逆に坂本龍馬が死ななければ、
 岩崎弥太郎の方こそ生涯「坂本財閥の番頭」で
 終わっていた可能性もある)。

私がどうも、
最近ちらほら散見される
龍馬気取りの政治家志望者を見たときに
いらだちを覚えずにはいられないのは、
「政治家になって日本を改革したい」ということ自身を
最大の目標として掲げる
その姿勢に対する違和感である。

改革思考というか、改革願望というか、
何のために改革したいのか以前に
とにかく改革したいのだという。
そして龍馬にあこがれるといい、
自分はそんな政治家になりたいというのである。

しかしそもそも、
龍馬はあくまでも
商売を成功させたかったのであって、
政治家になりたかったわけではない。
改革自体を目的とする姿勢や
過剰な権力志向・政治家志向は
坂本龍馬には似合わない。

そして何より、
龍馬が理想と言いながら、
政治家として掲げる政策に、
龍馬との思想的関連性がいっこうに見出せないものが
少なくないのだ。

改革自体を目的にし、
とにかく政治家になりたいのなら、
今はやりのフレーズを連呼するのもいいだろう。
しかし、
坂本龍馬が理想だといいながら、
地方分権を推進するとか、
そういう公約を堂々と掲げることには
矛盾を感じないのだろうか。

龍馬の時代、
日本は三百あまりの大名が割拠する
「地方分権」時代であった。
ちょっと隣の藩に行くと、
領主も、政治制度も、
税金の取り方も商売の規則も
全然違っていたりした。
通貨制度自体、
関東は金本位制、関西は銀本位制で
違っていた。
日本の中でも関所があって、
自由に移動することもできない。
これでは不便でややこしくて、
商売がやりにくくて仕方がない。
大体 武士の子は武士、
商人の子は商人、
農民の子は農民というのでは、
自由な商売もへったくれもない。

こうした幕藩体制をぶちこわし、
「日本」という統一市場を作り出す。
北海道だろうが九州だろうが
「円」という統一通貨で買い物ができ、
国内を移動するのに
いちいち関所で審査される必要のない、
長州でも薩摩でも土佐でもない、
「日本」という中央集権的な統一市場と、
労働者にも農民にも商人にもなれる「日本人」を
作り出す。
そのことこそが、
龍馬ら明治維新に駆り立てた目的だった。

だから、
平成の坂本龍馬を気取るなら、
例えば「環太平洋FTAの実現」とか、
「東アジア統一通貨構想」とか、
「移民規制の撤廃」とか、
そういった政策を打ち出すことが筋なはずだ。
(そういった政策がいい、と
言っている訳ではない。
 念のため)。

■青春志向、老いへの蔑視は健全か
また野田正彰さんは、
龍馬のイメージにも通底する、
現代の過剰な「若さ志向」・「青春志向」についても
言及している。

「日本の企業経営者が好きな、
 座右の銘ともいえる詩があります。
 アメリカの詩人サムエル・ウルマンの
 『青春』です。
 『青春とは人生の一時期ではない、
  青春とは心のあり方である、
  志の高さであり、
  思いの質であり、
  生き生きとした感情であり、
  人は年を重ねるだけでは老いはしない。
  ただ理想を失うことによって老いるのである』。
 概略、こういう内容です。
 まさに龍馬でしょう。
 会長室や社長室に飾ってあるのをよく見ました。
 日本経団連の大好きな詩です」。

この詩は
パナソニックグループの創設者・松下幸之助が
非常に好んだものであったことで
知られている。

実はこの詩を見たとき、
私が思い出したのは、
どこかの仏教教典に出てきていた逸話であった。
全く同一趣旨でありながら、
正反対のことが書かれていたのだ。

正確な引用はできないのであるが、
おおむねこういう話だ。
「ある時ブッダはこう言った。
 老人とは
 単に年齢のことを言うのではなく、
 その人の心のあり方である。
 思慮深く、
 分別に優れ、
 智恵があり、
 心の落ち着きを保つ人は
 たとえ年若くとも老人である。
 逆に
 思慮が浅く、
 分別を知らず、
 智恵がなく、
 心が乱れている人は、
 どれだけ年を取っていようと老人とは言えない」。

私はここで、
二つの考え方の優劣を
論じようというのではない。
そうではなく、
現代と古代インドとでは、
「青春」・「老人」という言葉に付随するイメージに
これほどの落差があるのだということを
示したいと思ったのだ。

現代では「青春」というものは
文句なしのプラスイメージであるようだ。
たとえ事実として歳を取っていようとも、
心は青春のままであるべしということらしい。

ところが古代インドでは、
「青春」などという言葉は
「若造」という程度の意味しか持たない。
それに対して「老人」は
圧倒的なプラスイメージであるようだ。
たとえ事実として年若くとも、
思慮・分別・智恵・心の統一を獲得すれば
老人と呼ばれる資格があるとまで
言われるほどなのだ。
たとえ歳は若くとも心だけは老人であれと
いうことだろう。

野田さんは
青春の詩や龍馬人気を指し、
「成熟拒否」であるという。
「本来、
 人は年齢を重ねると
 それなりに成熟していかないといけない。
 なのに青春像にしがみつくのは、
 申し訳ないですが、
 人格的に未熟だからです。
 なぜ経営者は成熟の歌を
 自分の部屋に飾らないのか。
 彼らが龍馬にあこがれるとしたら、
 それは龍馬という青春にこだわることであり、
 幼稚さの表れでしょう」。

ここまで言わなくても
いいのではないかと思う反面、
なぜ所詮人生の一時期に過ぎない「青春」が
これほど過剰に評価されてしまうのか、
老いてなお「心は青春」を強いられるのは
果たして健全なことなのか、
考えさせられる部分は大きい。

確かに「若い」ということは、
「年老いている」ということより、
寿命の残りが長い、ということは言える。
だから「若い」ことは
「年老いている」ことより
好ましいことだ、という理屈は
成り立つかも知れない。
だが、
これは純粋に年齢のことのみに関して
言えることであり、
心のありようの優劣を
示すものではないはずだ。

もちろん、
事実として年老いたからといって、
無理をして老け込む必要もないと思う。
「歳も歳なんだから
 枯れた趣味の一つも持たないと」
なんて他人から言われれば、
はっきり言って
余計なお世話だと思うだろう。

だが一方、
たとえ年老いても
心は若くと強制される社会というのも
またおかしい。
「青春」ばかりが尊ばれ、
老いが正当に評価されない社会というのは
やはりいびつな社会であろう。

心の持ちようなど
人それぞれで良いではないか。
それが私の結論である。
JanJan blog 10月7日から加筆転載 )

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by imadegawatuusin | 2010-10-07 19:43 | 歴史

「ソドム問題」について

12月15日に、
「ソドムとゴモラ」と題する
次のようなご意見をメールにていただきました。

ソドムとゴモラについての議論
読ませていただいています。
他の方と同じ内容のメールでしたら
ご免なさい。
私自身はキリスト教信者ではなく、
クィアですが
(かつてはレズビアンを自称してましたが、
 セクシュアリティに加えてジェンダー関係についてよく考えると、
 そもそも同性とは誰の事だという疑問が出てきて
 自分が同性愛者であるとは言えなくなってきた(笑)) 
聖書のこの部分についてははっきりと
「同性愛を否定している」と判断しています。
というのも、
ロトの家に押しかけて来た男たちを
ロトが追い払うシーンの直後に
こんな事が書かれてあるからです
(引用は、
 スタンダードな英訳であるKing James Versionです)。

Genesis 19:7
> And said, I pray you, brethren, do not so wickedly.
Genesis 19:8
> Behold now, I have two daughters which have not known man; let
> me, I pray you, bring them out unto you, and do ye to them as
> is good in your eyes: only unto these men do nothing; for
> therefore came they under the shadow of my roof.

客人である男性とのセックスを守りつつ、
「自分には男を知らない娘が2人いるから、
 好きなようにしなさい」とまで言ってます。 
ヒドい話でしょ? 
これを読めば分かる通り、
「ここでは同性愛の是非ではなく
 強姦の是非を問題としているのだ」という解釈は
不可能です。 
自分の娘に対する強姦なら
容認しているわけですからね。
最後の文を読む限り、
男性を出すのを拒否したのは
「彼らが客人だから」であって、
性別とは関係ないという解釈も可能と思われるかも知れません。 
しかしその場合、
ロトが自分の息子でなく娘の提供を申し出ている点や、
彼らの要求を「wicked」と呼んでいる点に説明が付かないので、
やはり「同性愛だから駄目」と解釈するのが
一番自然ではないかと思われます。
もっとも、
ソドムの町全体が同性愛者だったとは
到底考えられませんが、
背景に同性愛に寛容な現地の文化と
非寛容な文化の対立があったと見れば、
聖書の記述として
ソドムの町が滅ぼされた理由の1つが
「同性愛」だったとされるのは不自然ではないです。


ソドムの物語の背景に
「同性愛に寛容な現地の文化と
 非寛容な文化の対立があった」という見方には、
非常に興味をそそられました。

ただ、
「男性を出すのを拒否したのは
 『彼らが客人だから』であって、
 性別とは関係ないという解釈」が適当ではないとする理由として
「ロトが自分の息子でなく
 娘の提供を申し出ている点」を挙げられたことにつきましては
少々異論がございます。
なぜならこのとき彼の家には、
ロト・ロトの妻・ロトの娘2人の計4人と
客人たちしかいなかったと思われるからです。
家に息子はいなかったのですから、
息子の提供を申し出ることは不可能だったと思います。

その証拠に『創世記』には、
ロトの家族がソドムの町を脱出する場面が
次のように描かれています。

夜が明けるころ、
御使いたちはロトをせきたてて言った。

「さあ早く、
 あなたの妻とここにいる二人の娘を
 連れて行きなさい。
 さもないと、
 この町に下る罰の巻き添えになって
 滅ぼされてしまう。」

ロトはためらっていた。
主は憐れんで、
二人の客に
ロト、妻、二人の娘の手をとらせて
町の外へ避難するようにされた。(『創世記』19・15~16)

And when the morning arose, then the angels hastened Lot, saying, Arise, take thy wife, and thy two daughters, which are here; lest thou be consumed in the iniquity of the city.

And while he lingered, the men laid hold upon his hand, and upon the hand of his wife, and upon the hand of his two daughters; the LORD being merciful unto him: and they brought him forth, and set him without the city.(Genesis 19:15,16)


これを見る限り、
当時この家にいたロトの家族は
「ロト・妻・二人の娘」の4人であったと考えるのが
妥当でしょう。

しかしこの方もおっしゃるとおり、
これは本当に「ヒドい話」です。
ロトが本当に「義人」だったというのであれば、
「自分はどうなってもいい。
 客や家族は助けてくれ」と
言ってほしいものです。
それを彼は、
『娘はどうなってもいい』と言っているのです。
これではこの方のおっしゃるとおり、
ロトは「自分の娘に対する強姦なら容認してい」たと言われても
仕方がないと思います。

古代ユダヤ社会において、
客人を大切にしないことが
どれほど「wicked」(悪い・不道徳な)なことであったかは
前回述べたとおりです。
あとは、
読者のみなさまの判断にお任せしたいと思います。
(なお、
 今回僕は『旧約聖書』の引用に関しまして、
 日本語訳では日本聖書協会版新共同訳を、
 英語訳ではメールをお送りくださった方がお使いになった
 King James Versionを使用いたしました)。
『鈴木邦男をぶっ飛ばせ!』「酒井徹の今週の裏主張」No.18より転載)


【関連記事】
西洋における男性同性愛者観の移り変わり
ソドムとソドミーと同性愛
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by imadegawatuusin | 2002-12-23 03:42 | 歴史

先週の「裏主張」について12月10日、
求是さんから次のようなご意見を掲示板にていただきました。

今週の裏主張読みました。
主題とは関係ない、
末節的なことですが、
気になる点がありましたので一言。
酒井さんが、
ソドムの人たちが同性愛ゆえに滅ぼされたことを否定しているのか、
そもそも同性愛者であったこと自体を否定しているのか
迷うのですが、
少なくともソドムの人たちが同性愛者であったと
考えていいと思います。
『創世記』19章5節では、
ソドムの人たちがロトに
「今夜おまえのところにやって来た男たちは
 どこにいるのか。
 ここに連れ出せ。
 彼らをよく知りたいのだ」と
言っています(日本聖書刊行会版による)。
これだとよく意味は分かりませんが、
zondervan BIBLE publishers版聖書によりますと、
この部分は
「Where are the men who came to you tonight?
 Bring them out to us so that we can have sex with them」と
なっています。
つまり、
「知りたい」とは「セックスをしたい」という意味と考えて
いいでしょう。
ですから、
ソドムの人たちは同性愛者であったと考えられます。
ロトは男たちを守るために代わりとして
娘を差し出そうとしますが、
ソドムの人たちは娘には手を出しません。
しかし、
ソドムは「好色にふけり、
不自然な肉欲を追い求めたので、
永遠の火の刑罰を受けて、
みせしめにされて」(『ユダの手紙7節』)いるわけで、
同性愛が滅亡の原因の一つであったとも考えられます。
以上、どうでもいい末節的なことですが、
ご参考まで。


ご指摘ありがとうございます。
確かに前回の裏主張は、
「ソドミー」・「ソドミータ」といった言葉の由来について、
きちんとした説明もしないままに
「俗説」の一言で片付けてしまう
軽率なものでした。
読者のみなさまに深くお詫び申し上げます。

ただ、
ロトの家に押しかけたソドムの町の人々が
同性愛者であったとは
断定できないのではないかと僕は考えております。
また、
ソドムの町が同性愛を理由として滅ぼされたという説が
間違っているという僕の考えも
やはり変わることはありません。

今回は、
「ロトの家に押しかけたソドムの町の人々は
 本当に同性愛者だったのか」という問題と
「ソドムの町は本当に同性愛ゆえに滅ぼされたのか」という問題とを
前回より深く突っ込んで考えてみたいと思います。

(1)ロトの家に押しかけたソドムの町の人々は同性愛者だったのか。
求是さんによりますと、
日本聖書刊行会版の新改訳聖書では
「ここに連れ出せ。
 彼らをよく知りたいのだ」となっている部分が、
zondervan BIBLE publishers版聖書では
“Bring them out to us so that we can have sex with them”と
なっているということです。

こういうときは、
直接原典にあたってみるより他ありません。
『旧約聖書』の原典は古代ヘブライ語聖書です。
これを見ると、
それぞれの部分の原典は次の通りであったことがわかります。
ホツィエム エレーヌ ヴェネドゥアー オタム(ヘブライ語がワープロでは出ないので、カタカナで表記させていただきます)


逐語訳していきます。
「ホツィエム」とは、
主体が一人の男性であるときに使う、
「外へ出す」という意味の言葉の命令形と、
「ム」という、
語尾につける接尾語との複合語。
「エレーヌ」とは、
「~に」という意味の前置詞である「エル」と
「エーヌ」という接尾語との複合語。
「ヴェネドゥアー」とは、
「そして」という意味の接続詞である「ヴェ」と、
主体が「私たち」であるときに使う、
「知る」という意味の動詞「ヤダー」の願望形・「ネドゥアー」との
複合語。
そして「オタム」とは、
「~を」をという意味の前置詞である「オタ」と、
語尾に付ける接尾語である「ム」との複合語
……だそうです。

ですから、
直訳すると次のようになるかと思います。

おまえ(=ロト)は(来た連中を)外へ出せ。
私たちはそして(その者たち)を知りたい。


このように見ていきますと、
zondervan BIBLE publishers版聖書よりむしろ
日本聖書刊行会版新改訳聖書の方が
原典に忠実であることがわかります。
ただここで問題になるのが、
「知る」という意味の動詞である「ヤダー」という言葉は
単に「知る」というだけではなく、
「(肉体的に)知る」という意味で使われることも
あるのだということです。

この場合、
「彼らを外に連れ出せ。
 私たちはその者たちについてよく知りたい」
という意味にも取れますし、
「彼らを外に連れ出せ。
 私たちはその者たちとセックスがしたい」という意味にも
取れないわけではありません。

もし前者ならロトは、
自分の迎え入れた客人を
ソドムの人たちの尋問(と称するおそらくリンチ)から守るために
自分の娘を差し出そうとしたということになります。
もし後者なら、
自分の迎え入れた客人を強姦しようとする
ソドムの人たちの性欲を静めるために
自分の娘を差し出そうとしたことになるでしょう。
日本聖書刊行会版新改訳聖書と
zondervan BIBLE publishers版聖書との違いは
この点をめぐる解釈の違いなのです。

少なくとも、
聖書の他の箇所に、
この暴行未遂事件について
同性愛的性格があったと主張している記述はありません。
ですから僕は、
ロトの家に押しかけてきたソドムの町の人々が
同性愛者であったとは断定できないと思います。

(2)ソドムの町は同性愛ゆえに滅ぼされたのか
「ソドムの町は同性愛ゆえに滅んだ」という説を
僕は支持することはできません。
なぜならソドムの話は、
両者の合意に基づく一般的な同性愛行為について
書かれた話ではないからです。
この話は、
本来ならば大切に迎えて庇護しなければならなかった客人に対して
ソドムの人たちが集団暴行を働こうとした話なのです。

たしかに求是さんもご指摘の通り、
ロトの家に押しかけてきた男たちが同性愛者であり、
ロトに対して客人とセックスをさせろと迫っていたのだという説は
否定できないかもしれません。
しかし、
たとえそうだとしても、
それは「同性愛」というよりは
むしろ「強姦」の問題です。
相手が同性であろうが異性であろうが、
強姦が悪いことであることは言うまでもありません。
この話は、
合意の上で行なわれる
一般的な同性愛行為の是非については
何も言っていないのです。

ここで『ユダの手紙』を、
求是さんが引用なさったところより少し前の部分から
引用いたします。
(なお、
 前回僕は聖書の語句の引用に
 日本聖書協会版新共同訳聖書を使用いたしましたが、
 今回は求是さんのお使いになった
 日本聖書刊行会版新改訳聖書を
 使用させていただきます。
 ただし、
 『旧約聖書続編』(カトリックの第二聖典)につきましては、
 日本聖書協会版新共同訳聖書を
 使用させていただきます)。

主は、
自分の領域を守らず、
自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、
大いなる日のさばきのために、
永遠の束縛をもって、
暗やみの下に閉じ込められました。

また、
ソドム、ゴモラおよび周囲の町々も
彼らと同じように、好色にふけり、
不自然な肉欲を追い求めたので、
永遠の火の刑罰を受けて、
みせしめにされています。(ユダの手紙6~7)


これをご覧になればおわかりいただけると思いますが、
「好色にふけり、
 不自然な肉欲を追い求めた」のは
ソドムだけではありません。
ゴモラや周辺の町々も
そうであったと書いてあるのです。
また、
これは非常に重要なことなのですが、
「好色」や「不自然な肉欲」とは
具体的にどのような行為を指しているのか、
ここには何も書かれていません。
もちろん、
それを同性愛と確定することもできません〔注1〕。

さて、
堕落した天使の例を持ち出している点でも
『ユダの手紙』と非常によく似ている
『ペテロの手紙 第二』では
次のように書かれています。

神は、
罪を犯した御使いたちを、
容赦せず、地獄に引き渡し、
さばきの時まで
暗やみの穴の中に閉じ込めてしまわれました。

(中略)また、
ソドムとゴモラの町を破滅に定めて灰にし、
以後の不敬虔な者へのみせしめとされました。

また、
無節操な者たちの好色なふるまいによって悩まされていた
義人ロトを救い出されました。

というのは、
この義人は、
彼らの間に住んでいましたが、
不法な行ないを見聞きして、
日々その正しい心を痛めていたからです。(『ペテロの手紙 第二』2・4~8)


これを見れば、
ソドムの町の人々の退廃に、
ロトは(ある一時ではなく)継続的に悩まされていたことが
わかります。
ソドムだけではなく
ゴモラやその周辺の町々も
「好色にふけり、
 不自然な肉欲を追い求め」ていたのだという記述と総合しますと、
『ユダの手紙』で書かれている
「好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めた」というのは、
ソドムの町の男たちが
ロトの家に押しかけてきたその時のことを指しているとは
考えにくいことがわかります。
「好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めた」というのは、
神が調査のために天使を派遣するきっかけとなった
ソドムの住民全体の道徳的退廃の一例と見るのが
妥当ではないでしょうか。
そもそも神は、
ロトの事件の以前から、
すでにソドムを罰することを
考えていたのです(『創世記』18・17~33)。

ソドムの町が滅んだ説明としては、
次の4つが挙げられるかと思います。

その1.ソドムの町が滅びたのは、
    神が調査のために天使を派遣するきっかけとなった
    ソドムの住民全体の道徳的退廃のせいである

その2.ソドムの町が滅びたのは、
    ソドムの男たちが天使たちに
    セックスを強要(または暴行)しようとしたからである

その3.ソドムの町が滅びたのは、
    ソドムの男たちが天使たちと
    同性同士でセックスをしようとしたからである

その4.ソドムの町が滅びたのは、
    ロトを除くソドムの人たちが
    神に遣わされた訪問者たちを邪険に扱ったからである

当たり前のことですが、
「その2」と「その3」とは同一問題ではありません。
「その3」は確かに同性愛の問題ですが、
「その2」は強姦(または暴行)の問題です。
どう考えても僕には、
「その1」や「その2」の説明の方が
はるかに納得しやすいのですが、
なぜか世間的には「その3」ばかりが
強調されているように思われてなりません。

『ユダの手紙』や『ペテロの手紙 第二』の記述は、
「その1」を裏付ける有力な証拠だと思います。

その他、
「その1」を根拠付けるものには、
前回あげた『旧約聖書』の『エゼキエル書』の他に
次のような史料があります。

主は、
ロトが住む町を見逃されなかった。
人々の高慢を忌み嫌われたからである。(『旧約聖書続編』「シラ書(集会の書)」16・8)


『旧約聖書続編』は、
紀元前3世紀から紀元1世紀の間に成立した
ユダヤ教の宗教的文章です。
カトリックでは「第二聖典」として重視されていますが、
プロテスタントの間には
その権威を認めない宗派もあります。
しかし、
当時のユダヤ人がソドムの滅亡について
どのように認識していたかをよく示す文章であることは
間違いありません。

「その4」については
意外に思う方がいらっしゃるかもしれませんが、
どうやらイエス=キリストは
「その4」の理由で理解していたようなふしがあるのです。

どんな町や村にはいっても、
そこでだれが適当な人かを調べて、
そこを立ち去るまで、
その人のところにとどまりなさい。

(中略)もしだれも、
あなたがたを受け入れず、
あなたがたのことばに耳を傾けないなら、
その家またはその町を出て行くときに、
あなたがたの足のちりを払い落としなさい。
 
まことに、
あなたがたに告げます。
さばきの日には、
ソドムとゴモラの地でも、
その町よりはまだ罰が軽いのです。(『マタイの福音書』10・11~15)


町にはいっても、
人々があなたがたを受け入れないならば、
大通りに出て、こう言いなさい。

『私たちは足についたこの町のちりも、
 あなたがたにぬぐい捨てて行きます。
 しかし、神の国が近づいたことは承知していなさい。』

あなたがたに言うが、
その日には、その町よりも
ソドムのほうがまだ罰が軽いのです。(ルカの福音書10・10~12)


また、
『旧約聖書続編』の『知恵の書』にも、
「その4」の説を補強する記述があります。

罰が罪人たちの上に下った。
激しい雷による警告の後のことである。
彼らはその罪のゆえに当然の苦しみを受けた。
他国人を敵意をもってひどく扱ったからである。(『旧約聖書続編』「知恵の書」19・13)


訪問者を冷遇したことが
町が滅ぼされるほどの罪なのかと思う方は
多いと思います。
しかし、
古代世界には
大都市以外には宿屋などほとんどなく
(事実、ソドムにきた天使たちも最初は野宿を覚悟していた)、
旅行者たちは
住民の善意ある歓待に
頼らざるを得ませんでした
(ジョン=ボズウェル『キリスト教と同性愛』 国文社 113ページ参照)。
訪問者を冷遇することが
いかに大きな罪とみなされていたのかは、
『旧約聖書』の次の記述をご覧になれば
うかがい知ることができるでしょう。

アモン人とモアブ人は
主の集会に加わってはならない。
その十代目の子孫でさえ、
決して、主の集会に、はいることはできない。

これは、
あなたがたがエジプトから出て来た道中で、
彼らがパンと水とをもってあなたがたを迎えず、
あなたをのろうために、
アラム・ナハライムのペトルから
ペオルの子バラムを雇ったからである。(『申命記』23・3~4)


よく考えてみますと、
ロトは自分の迎え入れた旅人を
(強姦または暴行から)助けるために、
自分の娘を差し出そうとしたのです。
これを見る限り、
当時の倫理観では「性的貞操」などよりも
「旅人をもてなすこと」の方が
ずっと大事だったのだとも考えることができます。

さて、
その他さまざまな聖書の箇所で
ソドムは悪の象徴として描かれていますが、
ソドムの住民の罪を同性愛だと特定している箇所は
一つたりともないのです。
またその聖書の中でも、
ソドム滅亡の話がある
『創世記』の成立から時代を隔てて成立したものほど
(『ユダの手紙』や『ペテロの手紙 第二』)、
ソドムの滅亡と「性的退廃」(同性愛であるとは書かれていないが)とを
結びつける傾向があることも
注目に値します。

以上を踏まえて考える限り、
「ソドムの町は同性愛がはびこったので滅亡したのだ」という説は、
後の時代に作られた俗説であると
考えるのが妥当でしょう。
そして、
たとえ同性愛とソドム滅亡との間に
関連性があるのだとしても、
それは今挙げた
「その1」・「その2」・「その4」の理由に
付随する問題にすぎなかったと考えられます。
〔注1〕『ユダの手紙』の新改訳(日本聖書刊行会版)は、
「サラコス ヘテラース」という古代ギリシア語を
「不自然な肉欲」と訳したために、
『ローマの信徒への手紙』1・26~27の印象とあいまって
「同性愛のことを指しているのだ」という印象を
与えやすくなっています。
しかし原文に
「自然」・「不自然」などという言葉は
一切使われておりません。
「サルコス」は「別の」、
「ヘテラース」は「肉体」を表す言葉であり、
英語の『新改訂標準訳』ではこの部分に、
「見知らぬ肉体」という意味であるとの脚注が
ついているということです。


最後に、
アメリカの首都・ワシントンで開かれた学会で、
ある神学者が行なったスピーチの最初の部分を引用して、
この文章を締めくくらせていただきます。

私は今日、
重い気持ちでワシントンに参りました。
というのも、
政府の高官に
ソドミーを行っている人がいるという確信が
あるからです。
上下両院にも多くのソドミーを行う人がいます。
大統領の顧問団は、
ソドミーを行う人々で一杯です。
さらに悲しいことに、
大統領自身も頻繁にソドミーを実践しているようです。
さて、
ここでみなさんに
「ソドミー」とは何かを説明したいと思います。
聖書の中でこの罪をもっとも明確に定義しているのは、
「創世記」の物語ではなく、
預言者エゼキエルの書です。
「お前の妹ソドムの罪はこれである。
 彼女とその娘たちは高慢で、
 食物に飽き安閑と暮らしていながら、
 貧しい者、乏しい者を
 助けようとはしなかった」(エゼキエル十六・四九)。
みなさん、これがソドミーです。
ソドミーとは、社会的不正義であり、
寄る辺なき者を冷遇することです。
(『キリスト教は同性愛を受け入れられるか』日本キリスト教団出版局128ページ)


【参考文献】
ジョン=ボズウェル(大越愛子・下田立行訳)『キリスト教と同性愛―1~14世紀のゲイ・ピープル』、国文社、1990年。
ジェフリー=S=サイカー編(森本あんり監訳)『キリスト教は同性愛を受け入れられるか』、日本キリスト教団出版局、2002年。
『鈴木邦男をぶっ飛ばせ!』「酒井徹の今週の裏主張」No.17より転載)


【関連記事】
西洋における男性同性愛者観の移り変わり
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by imadegawatuusin | 2002-12-16 03:04 | 歴史

《はじめに》
同性愛に対しては、
さまざまな偏見や差別が存在する。
幼稚園や保育所の子供たちでさえ、
「ホモ」・「レズ」・「オカマ」といった言葉を、
相手を蔑み からかうために使っている。
しかし、それを注意する人は少ない。
「同性愛は『異常』であり、『変態』である」。
これが、
現代日本における同性愛の一般的認識であろう。
これは、
古今東西 普遍のものであるのだろうか。

今回僕は特に、
「西洋精神文化の源泉」と言われる
古代ギリシア・ローマ時代と聖書を中心に
西洋における男性同性愛者観の移り変わりを調べることで、
この問題に取り組みたい。

(1)古代ギリシア時代……男同士の恋愛は「男らしい」ものなのだ!
古代ギリシア社会では、
男性同性愛
(特に「大人と少年」・「市民と奴隷」などといった
 上下関係のある間柄での男性同性愛)が
盛んに行なわれていた。
「世の中には男性を愛する男性もいれば
 女性を愛する男性もいる」という事実を、
当時の人々は当然のこととみなしていた(プラトン『饗宴』191e~192a)。

また現代日本では、
男性同性愛者はしばしば「オカマ」などという言葉で呼ばれ、
「男らし」くない人々であると考えられる傾向にある。
しかしギリシア社会においてはむしろ、
男を愛する男はますます男らしさに磨きがかかり、
女を愛するような男は
女に似てどんどん女みたいになると考えられていたようだ。
古代ギリシアの哲学者・プラトンは、
『同性愛の恋人同士がペアを組めば最強の戦士になる』
との意味のことを論じているし(プラトン『饗宴』178e~179a)、
都市国家・テーバイでは
実際にそのような部隊が編成され、
結果は大成功だったという(プルタルコス『プルターク英雄伝』「ペロピダース」18)。

(2)古代ローマ時代……男に恋をするなんて、まるで「女みたい」じゃないですか
古代ローマの英雄・カエサルは、
エジプトの女王・クレオパトラを恋人にしたことで
知られている。
しかし彼は、
小アジアの王国・ビテュニアの男王・ニコメデスの
恋人でもあった。
このため彼は
「女王」・「妾」などと呼ばれていた。
また、
カエサルのガリア征服を讃える凱旋式のときには、
カエサル軍の兵隊たちは、
「カエサルはガリアを、
 ニコメデスはカエサルを押えつけた」という歌を歌っていた。
カエサルのことを
「あらゆる男の女」などと言った人もいたそうだ(スエトニウス『ローマ皇帝伝』「カエサル」49~52)。

さて、この文章は、
「人々の男性同性愛者に対する視線の変遷をたどる」ことを目的とする。
したがって、
カエサルが同性愛者であったという事実は
ここではさして重要ではない。
問題は、
人々がカエサルのことを「女王」・「妾」と呼んでいたり、
「ニコメデス」に「押えつけ」られたと言ったりしたということだ。
つまり、
『同性愛者のカエサルは弱々しい』・
『同性愛者のカエサルは女みたいだ』と言って
からかっていたわけである。

先にも触れたがギリシア時代には、
男の同性愛は「女みたい」であるとは考えられていなかった。
歴史学者のジョン=ボズウェルによると、
むしろ異性愛者の男ほうが、
同性愛者の男から「女みたい」だと非難されることが
多かったくらいなのである(ジョン=ボズウェル 大越愛子・下田立行訳 『キリスト教と同性愛』50ページ参照)。

ところがカエサルは、
ニコメデスと恋人同士であることが
「女みたい」だと言われていた。
「ニコメデス」に「押えつけ」られたとまで言われている。

もちろん僕は、
男が「女性的」であることを悪いこととは思わない。
まして、
女は弱々しいなどと考えているわけでは決してない。
ただ、
『男の同性愛者は女みたいだ』と考えられたところから
男性同性愛者への差別が始まったのは
紛れもない事実である。
つまり、
「女みたい」だということは悪いことだという前提の上に、
男性同性愛者への差別は始まったのだ。
このことは、
男性同性愛者差別が実は女性差別と
表裏一体の関係にあることを示唆している。

とはいえ、
後の時代に比べれば、
ローマ時代は一般に同性愛者に寛大だった。
事実、
アウグストゥス(ローマ帝国の初代皇帝。カエサルの養子)をはじめとする
何人もの男性同性愛者(スエトニウス『ローマ皇帝伝』「アウグストゥス」68)が
皇帝の位にまで上り詰めたのである。

しかし五賢帝以降、
ローマ帝国の没落にしたがい、
西洋世界は同性愛者に対する優しさを
しだいに失ってゆく。
これは、
ユダヤ人や異端者などへの差別の歴史とも
見事に重なり合うのである。
戦乱により交通が遮断され、
多様な価値観に出会う機会が失われたためだろうか。

(3)聖書……この分厚い聖書の中で、同性愛を非難しているのはたったの5箇所
『旧約聖書』で同性愛を批判している箇所は、
『レビ記』という書の中の2箇所だけだ〔注1〕。
「女と寝るように男と寝てはならない。
 それはいとうべきことである」(『レビ記』18・22)という箇所と、
「女と寝るように男と寝る者は、
 両者共にいとうべきことをしたのであり、
 必ず死刑に処せられる。
 彼らの行為は死罪に当たる」(『レビ記』20・13)という箇所とである。

「死罪」というと大事だと思われるかもしれない。
しかしこの文の直後には、
生理期間中の女と寝てこれを犯した者は
死刑だというような記述もある(『レビ記』20・18)。
またこの『レビ記』には、
血液や脂肪を含む肉を食べてはいけないとの記述もある。
これにいたっては
「代々にわたって守るべき不変の定め」(『レビ記』3・17)とまで
書かれているのだ。
今のキリスト教徒がどれほどこれを守っているかは
大いに疑問である。

以上のことからもわかる通り、
キリスト教徒の間では、
『旧約聖書』の戒律はあまり重視されていない。
これは、
『旧約聖書』・『新約聖書』という名前にも表れている通り、
『旧約聖書』というのは「旧い契約」であると
考えられているからだ。
イエス=キリストが遣わされ、
人類と神の間には新しい契約が結ばれたのだから、
『旧約聖書』の戒律はそれほど杓子定規に守る必要はないという考え方が
浸透していたからなのだ。
だから、
『レビ記』のこの部分が理由で同性愛者は差別されたのだと言っても
説得力はない。

では、
『新約聖書』ではどうなのだろう。
まず、
イエス=キリストは同性愛を批判したりはしていない。
『新約聖書』の中で同性愛を批判しているのは、
イエスの弟子のそのまた弟子のパウロである。
パウロが同性愛を批判していると考えられている箇所は
全部で3箇所だ(『コリントの信徒への手紙』6・9~11)(『テモテへの手紙』1・9~10)(『ローマの信徒への手紙』1・26~27)。

ただ、
それぞれの文脈を見ればわかることだが、
パウロは別に同性愛を批判するために
このような文章を書いたわけではない。
いずれのケースにおいても、
同性愛者はあくまで、
他の何らかの悪人を批判するために登場させられただけなのだ。

キリスト教が同性愛者を迫害した理由を
パウロの手紙にもとめる意見は多い。
しかし、
これのみを同性愛者迫害の根拠とすることは
妥当性を欠いている。
先の『旧約聖書』同様、
このパウロの手紙も
一字一句守られてきたとは言いがたいのだ。
たとえば先の『コリント信徒への手紙』では、
女性は祈りをする際に
頭に物をかぶるよう求められている(『コリントの信徒への手紙』11・5~6)。
しかし、
この記述がキリスト教徒の間で遵守されることは
ほとんどなかった。

要するに、
聖書の記述のみが原因で同性愛者が迫害されたわけではない。
むしろ同性愛者という少数派への偏見・嫌悪が先にあり、
それを正当化するために聖書の語句が利用されたと見るほうが
妥当なのである。

そしてその後の歴史は、
同性愛者への差別と迫害の方向へと動いてゆくことになる。
〔注1〕同性愛のことを
「ソドミー」(あるいは「ソドミータ」)と呼ぶことがしばしばある。
これは、
「『旧約聖書』に登場するソドムの町は、
 同性愛がはびこったので神によって滅ぼされたのだ」という
俗説によるものだ。
しかし、
『旧約聖書』の当該部分(『創世記』18・20~19・15)に
そのような記述があるわけでもないし、
それ以外の部分にそうした記述があるわけでもない。
それどころか、
『旧約聖書』の『エレキゼル書』には、
「ソドムの罪は」、
「高慢で、食物に飽き安閑と暮らしていながら、
 貧しいもの、乏しい者を
 助けようとしなかった」ことなどである(『エレキゼル書』16・49~50)と、
ソドム滅亡の具体的な原因まで書いてあるのだが、
そこでも同性愛には一切触れていないのだ。

(4)その後の西洋……同性愛者はハイエナでユダヤ人でイスラム教徒でもあり…… 
『バルナバの手紙』という文章がある。
西暦70年から140年ごろに成立した、
『使徒教父文書』と呼ばれる諸文書の一つである。
「手紙」といってもその実態は一種の神学論文であり、
『旧約聖書』から膨大な引用をして
キリスト教を擁護する内容になっている。
そしてこの文章が、
『兎には年の数だけ肛門がある』ことを「根拠」として、
『旧約聖書』の『兎を食べてはならない』との意味の文章(『レビ記』11・6)は
「子供を犯す」ことを禁じたものであると断定した。
そしてその直後の文章で、
ハイエナやいたちも食べてはならないとしたのである(『バルナバの手紙』10・6~8)。
その後 西洋では、
ここにある「子供を犯す」ことと男性同性愛とが、
同一視されるようになってしまった。
おそらく、
古代ギリシアなどで多く見られた
「少年愛」からの連想だったのであろう。
さらに、
この文章に出てきた兎・ハイエナ・いたちなどは
「男性同性愛の象徴」として
その後の西洋において扱われるようになるのである。

ハイエナと男性同性愛との不快な連想は、
「ハイエナは墓を暴き死体を貪り食う」といった伝説と相まって
ますます強化されることになる。
こうして、
「まるでハイエナのようだ」の一言で
同性愛者を非難することが可能となった。
12世紀になると、
同性愛者をハイエナと結び付けた上、
そのハイエナをユダヤ人と結び付けるような文章まで登場する(ピルパント・モーガン文庫、ms832,fol.4)(ジョン=ボズウェル 大越愛子・下田立行訳 『キリスト教と同性愛』10ページ参照)。
またこの12世紀は
第2回・第3回の十字軍が派遣された世紀でもあり、
イスラム教徒に対する憎悪が西洋では高まっていた。
キリスト教陣営はしばしば、
『イスラム世界では男性同性愛がはびこっている』などという論陣を張って
イスラム教を批判したのである(ジョン=ボズウェル 大越愛子・下田立行訳 『キリスト教と同性愛』285ページ参照)。

男性同性愛者に対する敵意は
やがて社会の諸制度へと浸透した。
そしてこれは、
先に見てきた通り、ユダヤ教徒・イスラム教徒などの
「異端者」一般に対する不寛容の拡大と
決して無関係ではなかった。
そして、
このようにして形成されてきた偏見が、
西洋文化の伝播した世界各地域の
男性同性愛者観の下地となったのだ。
もちろん、我が国もその例外ではない。

《おわりに》
あいまいな根拠に支えられた同性愛者嫌悪は、
長い間多くの人々を苦しめてきた。
『同性愛者解放』ということがようやく公然と主張されるようになったのは、
20世紀の後半・1969年6月に
アメリカで、「ストーンウォールの叛乱」(別名「ゲイ革命」)と呼ばれる事件が
あってからのことなのだ。

ナチス=ドイツがユダヤ人を虐殺したことはよく知られている。
しかし、
それにも劣らない残虐なやり方で、
多くの同性愛者が強制収容所に送り込まれ虐殺されたことは
あまり知られていない。
本来なら、
ナチス=ドイツによるユダヤ人差別が批判された終戦後に、
同性愛者差別も批判されるべきであったと僕は思う。
今では一応、
「ユダヤ人を差別するのは悪いことだ」という認識は
世界的にみてだいぶ一般的になりつつある。
しかし同性愛者に対しては、
いまだに堂々とからかい、蔑んでもよいというような風潮がある。
けれどこれは、
決して切り離して考えるべき問題ではない。
なぜなら歴史的にみれば、
ユダヤ人・「魔女」・異端者などに対する差別と
同性愛者に対する差別とは
時期的にも思想的にも見事に重なりあうからだ。
社会が排外主義的になり、
異質な人々を受け入れる余裕がなくなってしまった時代に、
ユダヤ人は迫害され、「魔女」は差別され、
そして同性愛者は抑圧されてきたのである。
さらに、
こうした差別は互いに結び付けられあうことによって強化され、
再生産されてきた。
今こそ、その悪循環を断つべきときではないのだろうか。


【参考文献】
ジョン=ボズウェル(大越愛子・下田立行訳)『キリスト教と同性愛―1~14世紀のゲイ・ピープル』、国文社、1990年。
デイヴィッド=M=ハルプリン(石塚浩司訳)『同性愛の百年間』、法政大学出版局、1995年。
ハインツ=ヘーガー(伊藤明子訳)『ピンク・トライアングルの男たち―ナチ強制収容所を生き残ったあるゲイの記録』、パンドラ、1997年。
キース=ビンセント・風間孝・河口和也『ゲイ・スタディーズ』、青土社、1997年。

『鈴木邦男をぶっ飛ばせ!』「酒井徹の今週の裏主張」No.16より転載)


【関連記事】
ソドムとソドミーと同性愛
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by imadegawatuusin | 2002-12-09 22:54 | 歴史

『トロツキー研究』(No.35)という雑誌を買ってきた。
副題は「トロツキーと日本」である。
実は、
『虹色のトロツキー』という漫画
(関東軍の石原莞爾が、
 ソ連の独裁者・スターリンに対立しているトロツキーと
 手を結ぼうとして何とか接触を試みようとする話)に
はまってしまい、
トロツキーが日本と手を組むという発想が
どのくらい現実性があるものだったのかを
調べてみようと思ったからだ。
それと、
全共闘運動などの
新左翼運動に興味を持っている人間のくせに
ろくにトロツキーのことを知らないのも
何とかしなければと思っていたので、
これを機会にトロツキーの論文もきちんと読んで
勉強しておこうと思ったのだ。

この本の表紙を見てまずびっくりしてしまった。
そこには一枚の写真が掲載されている。
内藤民治という日本人が、
トロツキーとスターリンとの3人で
仲良く並んで写っている。
トロツキーというのは、
「スターリンに対する最も非和解的な敵対者」
だったはずではなかったのか。
どうしてこんなに微笑みながら
スターリンと1枚の写真に写っているのか。
そもそもこの内藤民治というのは何者なのか。

このことについては、
この雑誌に掲載されている
「トロツキーと会った日本人」という論文の中で
紹介されている。
内藤民治は日本のジャーナリストで、
日ソ間の通商関係の発展に貢献した人物だという。
そして後に、
幻の「トロツキー日本亡命計画」の立案者ともなる。
彼は戦後の回顧録
(「忘れられた人物―内藤民治回顧録(上)・(下)」『論争』1962年12月号・1963年1月号)
のなかで、
トロツキーとの出会いについて次のように語っている。

彼(酒井注:=トロツキー)とわたしが
本当に心から打ち融けるようになったのは、
レストラン・イルミタージュ(?)での会食からです。
彼はタバコも酒も飲まず、
思想問題を論じているうちに、
わたしは、こんなことをいったのです。

“思想というものは、
 水の如く光の如く、空気の如きもので
 円融無碍、停滞することのないもの……”

これがいささか彼に感銘を与えたらしく、
それから共産主義のセクショナリズム論争の花が咲いて、
前のような論旨で、
共産主義必ずしも最高の理想とは思わないと
主張したわけです。
この会食ですっかり仲良くなりました。


「共産主義必ずしも最高の理想とは思わないと
 主張」してトロツキーと「仲良くな」ったと彼は言うのだ。
もし本当だとすれば、
トロツキーは僕が思ってきたよりも
度量の深い人物なのかもしれないと思った。

そして、例の写真の話が出てくる。

わたしが行くと、
(酒井注:トロツキーは)いつも先客に優先して
会ってくれました。
何回目かのときに、
偶然スターリンがやってきました。
その同じ部屋で二人の用談が終ってから、
わたしどもはセン・片山を加えて
四人で記念写真をとりました。
写真屋を呼んで取ってもらったのです。
スターリンはまだ独裁者にはならず、
二人は不仲ではなかったように見受けられましたが、
後に何かでわたしは、
このときのスターリンのトロツキー訪問は、
始めの終わりで、ただ一回だけだったと知りました。


なるほど。
それでスターリンとトロツキーとが
一緒に写っていたわけだ。
でもこの文章では
片山潜も一緒に写ったことになっているが、
この写真には写っていない。
どういうことなのだろう。

それはともかく、
「始めの終わりで、ただ一回」という
スターリンのトロツキー訪問に
日本人が立ち会っていたことは間違いない。
これはすごいことではないだろうか! 
「トロツキーと会った日本人」著者の西島栄さんも
次のように言っている。

トロツキーとスターリンが集団の一部としてではなく、
仲よく二人並んでカメラ目線で写っている写真は、
おそらく、世界でこれただ一枚だろう。
世界のどんな研究所、アルヒーフにも、
これほど二人が仲よく並んで写っている写真はあるまい。
その中に、
日本人、内藤民治がいっしょに写っているのだから、
この写真はなおさら貴重である。
ぜひとも、
各国の『トロツキー写真集』に入れるべきだろう。


さて、
この内藤民治という人は
かなりミーハーな性質らしい。
彼は
トロツキーと一緒に写真を撮ってもらっただけにとどまらず、
トロツキーから直筆サイン入りのブロマイドまでもらって
大喜びするのである。

わたしは今でも、
彼の人間としての持ち味を忘れることができません。
このレーニンと並んでの十月革命の大立者が、
わたしの希望によって、
自分の写真にサインをしたとき、
何と、日本文字(漢字)で、
“日本の国友レオ・トロツキー”と
ハッキリ書くではありませんか。
わたしだけでなく、
その場に居合わせた片山もおどろいていました


内藤はこれがよほどうれしかったらしく、
多分いろんな人に吹聴したのだろう。
戦前の日本共産党最高指導者・佐野学も、
著書の中で次のように書いているという。

ある日、内藤氏は、
昨夜トロッキイに会ったが
彼は片仮名で「ニホンノトモ、トロッキイ」と書いてみせたと云って
感服していた(『スターリン主義と流血粛清』)


どうやら実は、
日本語でサインするというのはトロツキーの持ちネタであったらしく、
佐野学と共に転向した
戦前日本共産党のもう一人の最高指導者・鍋山貞親も
同じような体験をしたそうだ。
鍋山がコミンテルン第六回拡大執行委員会
(西島さんによると「第七回拡大執行委員会の間違いである」とのことだが)
に出席し、
主流派(スターリン派)と反対派(トロツキー派)の大論争を
目の当たりにしたときのことである。

休憩のとき、
廊下に出たら、
ばったりトロツキーに出会った。
初対面なのに、
彼は、ニコニコしながら、
中国の同士かネと呼びかけてくる。
いや、日本人だといったら、
いきなり私の腕をかかえ、
喫煙室に行って、
隅のソファに、わたしを座らせた。
そして、
ロシア語はわかるか、英語はどうだと、
早口に、また人なつかしげに問いかけるのである。
私は、ただ首を振って、
英語をほんのすこし、
ロシア語を二言三言と答えるよりほかなかった。
彼は、
それじゃあしょうがないという面持ちをしながら、
手帳をひろげ、
その空白に、まずい日本字で
『日本ノ友』と書いて見せるのである。

どこで、誰に教えてもらったのか知らぬが、
器用な人である。
(鍋島貞親「非合法下の共産党中央委員会」『文芸春秋・特集』1956年12月号)


「トロツキー」というと、
「良い意味でも悪い意味でも厳しい人」だという印象を抱いていたが、
案外茶目っ気のあるおじさんだったのかもしれない。

さて冒頭で触れた、
スターリンに対立したトロツキーが
「反スターリン」で日本と手を結ぶという可能性についてだが、
はっきり言ってこれはゼロだ。
これを機会にトロツキズムについても多少勉強したのだが、
トロツキーは
「労働者国家無条件擁護」という理論を唱えていたようなのだ。
これは、
『たとえスターリン方の社会主義国であっても、
 それが社会主義国である以上は、
 ファシズムの侵略に対しては
 断固としてこれを擁護する』というような考え方らしい。
日本とソ連との関係についてもトロツキーは、
『東京日日新聞』と『大阪毎日新聞』とを代表する
南条記者の質問に対して
次のように答えている。
(ちなみに、この両新聞は後に合併して今の『毎日新聞』になる)。

日本と中国との闘争において、
私は前面かつ完全に中国の側に立っています。
スターリン体制に対する私の非和解的対立にもかかわらず、
ソ連と日本とが衝突した場合には、
私はソ連が進歩を代表し、
日本が反動を代表するものであると考えています。


またトロツキーは、
「大東亜共栄圏」や「八紘一宇」といった思想に対しても、
心情的には一定の理解を示しながらも
次のようにたしなめている。

日本の若者が東方の非抑圧民族に同情しているということ、
このことは完全に理解できるし、
自然なことであり、喜ばしいことです。
しかし、
この同情が無定形で、無規定で、
センチメンタルなままであるならば、
それは、
抑圧された植民地人民にとって
ほとんど利益とならないでしょう。
それどころか、
ある条件においては、
日本の帝国主義者たちを
無意識的に助けることになるかもしれません。
一見したところ、
こういうことはありそうにもないように見えます。
しかしながら、そうなのです。
……(中略)……日本帝国主義のお気にいりは
「アジア人のためのアジア」という定式です。
しかし、
日本帝国主義はこの定式を、
アジアの各民族が独立する権利を有しているという意味にではなく、
アジアの勤労大衆を搾取する権利を有しているのは
アジアのブルジョアジーだけであり、
その中でも、
最も豊かで強力な
日本のブルジョアジーだけであるという意味に
理解しています。
……(中略)……外見上解放的なスローガンである
「アジア人のためのアジア」は、
「アメリカ人のためのアメリカ」というスローガンが
アメリカ帝国主義の武器になっていったのと全く同じ程度に、
日本帝国主義の武器となってしまっている、ということです。
(「ソヴィエト・ロシアと日本」)


このように「労働者国家無条件擁護」を掲げていたにもかかわらず、
スターリンによって「裏切り者」のレッテルを貼られたトロツキーは
トルコ・フランス・ノルウェーと「旅券のない旅」を続け、
1937年にはメキシコに亡命せざるをえなかった。

しかしそんななかでも、
彼と文通を続けた人物が日本にいた。
先ほどから登場している内藤民治である。
内藤は当時のことをこのように語っている。

トロツキーがわたしに
“JAPAN WILL COMITT SUICIDE”
(日本軍国主義自壊論)というパンフレットを、
亡命先のコンスタンチノープルから送ってよこしたのは、
あれは満州事変のあと一両年たった頃だったでしょうか。
この本がきっかけになって、
彼と私との間に、
手紙の往復が長く続きました。
……(中略)……トロツキーはこの本で、
日本の八紘一宇の思想を強く批判しています。
……(中略)……しかしわたしは、
アメリカの経済封鎖に対しては、
彼の所論に強く反論したのです。
そこで勢い海山幾千里を隔てて、
理論闘争が続けられた次第です。
その間に世界情勢は残念ながら、
トロツキーが予見したように発展していきました。
なにぶん、航空機のない時代、
相手は亡命革命家、
こちらは信書の検閲のきびしい日本のこと、
手紙が相手につく頃には、
情勢が一変しているのです。
間の抜けた論争をやったものだと思います。


そこで内藤は、
トロツキーに次のような提案をした。

わたしは、トロツキーに
一つ日本へ来てみる気にはなれませんか、
日本はそれほど軍国主義で熱狂している人ばかりでは
ありませんよ、と誘ったのです。
何ヶ月かたって
行っていいというメキシコからの返事です


この返事に内藤民治は喜んだ。
彼はトロツキーの受け入れ態勢・
「輸送方法」・住む場所の手配などの準備を整えていく。
西島さんによると内藤は、
トロツキーの住む地域として、
ロシアと気候や風土の似た樺太を
候補として考えていたという。
ジャーナリストとはいえ、
かつては日ソ間の通商関係を動かしたほどの実力者である内藤は
海軍とも話をつけ、
メキシコからの石油タンカーを利用して
トロツキーを日本に運ぶことまで話を進めた。
あとは内藤がタンカーに乗り込み、
トロツキーをメキシコから連れてくるだけのはずだった。

いよいよわたしは
粟林汽船のタンカーに乗り込むチャンスを
待っていたのです。
問題はメキシコにいるトロツキーとの連絡です。

ところが向うの事情は早急に変わってきました。
トロツキー身辺の危険は、
昭和十五年に入って日に日に悪化してきたのです。
……(中略)……五月には二十名の赤色テロ隊が、
メキシコ警察隊の警備するトロツキー邸を襲った。
彼らは巧みに侵入して、
トロツキー夫妻とお孫さんの部屋を外から軽機関銃で乱射した。
幸い三人は助かったが、
八月二十日、
とうとうラモンという青年刺客によって暗殺されました。
わたしはその前年からヤキモキしていたが、
どうにも連絡がチグハグになって、
わたしの乗船が遅れたのです。
トロツキーの暗殺は私の生涯の痛恨事でした。
もう少し早く何とかしておればと、
幾度悔いの涙を流したか知れません


内藤民治の計画は、
わずかの時差でスターリンの放った刺客に
惜しくも先を越されてしまったのである。
もし成功していれば、
それこそ歴史が変わったかもしれない。

しかし、
これが事実とすればすごいことだ。
たとえ失敗であったとしても
歴史に残る出来事だ。
どうしてこの出来事が
世間ではあまり知られていないのだろうか。

それは、
これらの出来事が事実であることを示す史料が
実は何もないからだ。
いや、正確に言うと、
「現時点では何もない」ということになるだろうか。
 
藤は、この出来事に関する史料について
次のように述べている。

とにかく、
トロツキーの日本亡命工作には、
私は数年間、打ちこみ、
見事に失敗しました。
私とトロツキーとの往復の手紙や、
この亡命工作に関する秘密文献は、
一括して長野県の蓼科にある
“百年間秘密史料埋蔵の塔”の地下に
追加の分として埋蔵しました


ちなみに、
この塔の史料が公開されるのは
2032年とのことである。
そのとき、
トロツキーと日本をつなぐもう一つの「虹」が
浮かび上がってくるのかもしれない。
『鈴木邦男をぶっ飛ばせ!』「酒井徹の今週の裏主張」No.14より転載)
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by imadegawatuusin | 2002-11-25 02:58 | 歴史