「ほっ」と。キャンペーン

心がボロボロになりそうな人や、
心がボロボロになって立ち直ろうとしている人に
何か1冊薦められる本があるかと聞かれれば、
私はこの本を挙げたい。
この本のキャッチコピーには、
「つらい気持ちが消えていく、
 すっきり心が軽くなる」とある。
対人関係療法という、
その効き目が科学的に明らかにされている心理療法の
わが国における第一人者である
医師・水島広子さんが書いた本だ。

世の中にはつらいことや苦しいことがたくさんある。
そうしたつらさや苦しさを
すべて無くせるなどとはこの本は言わない。
たとえば、
パワハラ上司に罵倒されたとする。
不愉快な経験であることは間違いない。
だが、
本当に心をボロボロにするのは
上司の暴言「そのもの」だけではないとこの本は言う。
その証拠に、
同じ暴言を浴びた人でも、
周りに
「あの上司ひどいよね。君も苦労するよな」と
言ってくれる仲間がいるのといないのとでは、
その人が心を病んでしまうかどうかに
雲泥の差があるのである。
パワハラ上司から暴言を受けた瞬間に
強い衝撃を受けるのは
人という生き物に備わった当たり前の生理的機能である。
ただし、
それを受けてそのことを何度も思い返し、
「自分が否定された!」・
「自分が攻撃された!」・
「誰も自分のことをわかってくれない!」と
嘆き悔やみ苦しみ続ける負の力は
自らの心の中で生み出されるものであり、
パワハラ上司の暴言「そのもの」とは
分けて考えられるべきものである。
そしてとどのつまり、
自らを追い詰め、
心を蝕んでいくにあたっては、
そうした自らの心が生み出している負の力の影響が
色濃いのである。

もちろん、
だからといってパワハラ上司の責任が
免責されるわけではない。
「騒音がどこまでいっても騒音であるのと同じように、
 その
 (暴力的な態度をとられたことの)ストレスだけは
 なくすことができませんが、
 反対に言うと、
 そのストレス『だけ』に減らすことは目標にできる」
とこの本は言う。

つらい思いをしたならばそれでもう十分なのだ。
何度もそのことを思い返して
そのたびに腹を立てたり、
自分で自分を責めたりして
ますます自分を苦しめ続ける必要はない。
これは、
「人生は苦である」としながらも、
悟りを開くことにより苦しみを「単なる苦」に転換でき、
それ以上の苦しみを味わわずに済むと説く
仏教にも通じる考え方ではないだろうか。

またこの本は、
未来への不安に自分を乗っ取られるのでも
過去を思い返して苦しむのでもなく、
今この瞬間を丁寧に生きろと説く。
この点も上座部仏教や禅の教えに通じるものがある。

この本を読み終わった人は、
同じ水島広子さんが書いた
『なんだか「毎日しんどい…」がスッキリ!晴れる本』や
『すべての「イライラ」を根っこから絶ち切る本』に
手を伸ばしていけばいいだろう。
いずれも、
心安らかに人生を生きていくための
優れた手がかりがたくさん詰まった名著である。
ぜひ一読を薦めたい。

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by imadegawatuusin | 2013-12-06 16:13 | 倫理

正しい努力を少しずつ

――『PHP』誌11月号テーマ・「努力」に寄せて――

■泥棒もヤクザも「努力」はしている
とんち話で名高い
一休という室町時代の座禅仏教の法師に、
「一寸の線香 一寸の仏 寸々積み成す丈六の身」
という歌があります。
「線香を一寸たく間 座禅をしたら、
 その間だけ仏のようになることができる。
 それを一寸一寸と日々積み重ねていったら、
 ついにはその身が
 全くの仏(丈六の身)になっていく」ということです。
立正佼成会という仏教団体の長沼基之という人は、
『法華経実践の道のり』という本で
この歌を引いています。
そしてその上で、
「毎日、
 少しでもいいから仏さまのような気持ちになって、
 人さまのためになることを繰り返していけば、
 いつかは仏になることができる」、
「日常の中でも、
 一寸(ちょっと)だけ仏さまのような心を起こし、
 善い行いを積み重ねていくことはできるはずです。
 そうして日々、
 努力していけば、
 どんな人にも仏となる可能性が
 ある」と言います〔注1〕。

『PHP』11月号のテーマは
「『努力』が人生を変える」でした。
私は先ほどの一休の歌について、
日々少しずつ努力を積み重ねていくことが
大きな実りをもたらすのだという教えだと思っています。
日々の努力が明日を開いていくのです。

ただし、
ただ張り切って努め励むだけでは
正しい努力とは言えません。

腕のいい泥棒は
人に見つからずお巡りさんに捕まらないで
物を盗み取るために
色々と努め励んでいることでしょう。
大きなヤクザの親分も
自らの組を強く大きくするために
努め励んでいるに違いありません。
けれどそれは、
やはり正しい努力とは違うのです。
ただ励み努めるだけで、
そこに人の道というスジが一つ通っていなければ、
それは正しい努力ではありません。
目指すべきでないものを求めるそのような励みは
世を悩ませて人々を苦しめることにしかならないのです。

■なぜ「努力が報われない」のか
まじめに努め励んでも
実りがもたらされないということは確かにあります。
しかしそれは、
どこかに少し誤りがあったということなのだと
思うのです。

目指す所が元々間違っていたのかもしれません。
自らの励みだけでは届かないものにこだわっていても
それを成し遂げるのは難しいでしょう。
できないことはできないのです。
不可能を可能にするのは魔術であって、
努力ではありません。
努力とはすべて、
やればできることをやり抜くことに他ならないのです。

あるいは、
もっと足元から始めなければならなかったのかも
しれません。
自らの努め励みを実らせるに足る元々の力が
足りていなかったということです。

もしくは、
努め励むそのやり方がまずかったのかもしれません。
どれほど努め励んでも、
そのやり方が悪ければ
それに値する実りは得られません。

そうではなく、
正しい地点から、
正しい目標に向けて、
正しい努力を少しずつ積み重ねていくならば、
何らかの形でそれは必ず自らの身となり、
豊かな実りに結びつくものです。

〔注1〕ここでいう「仏」とは、
「悟りを開いて道に目覚めた人」という、
仏教の元々の意味での「仏」のことです。
神のような、
人には持ちえない力を持つ者ではありません。
仏とは生きた人がなるものであり、
なろうと目指すべきあり方です。
死んでから仏になっても仕方がありません。
わが国の仏教の法師の多くは、
生きている私たちに背を向けて、
死んだ人の位牌に向かってお経をあげます。
しかも今の日本語ではなく、
今の人々にはわけのわからない
昔の中国語でお経を読みます。
そういうことをしても何の役にも立ちません。
「ひと握りの知識人しかわからない言葉には、
 社会を動かす力はありません」
橋爪大三郎『世界がわかる宗教社会学入門』197ページ)。
優れた教えは生きている間に、
わかる言葉で聞かなければものの役には立たないのです。
人は死ねばもう何一つ知ることはできません。
死んだ人にはもはや意識はないからです。
死んだ人は何を考えることも行なうこともできません。
だからお経は、
死んでから聞かされても遅いのです。
優れた教えは生きている間に自らのわかる言葉で学び、
生きている間に行ないに移して
努め励まなければならないのです。
実践に結びつかないお経などは死んだものなのです。

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by imadegawatuusin | 2013-10-09 17:26 | 倫理

心をひらいて生きるには

『PHP』誌9月号の特集テーマは
「さあ、心をひらこう」だった。
リード文には
「オープンマインドが、人生を広げる」とある。

だが、
心ほどつかみどころのないものはない。
手のひらや腕と違って
自分の意思で開いたり閉じたりできるものではない。
どんなに心をひらこうとしても、
心はなかなかついてきてくれないときがある。

そんなときの秘訣は、
「オープンマインド」を
先に体で表現してしまうことである。

普通なら、
嬉しいことがあったときに人は微笑む。
しかし私は、
先に微笑みを浮かべることで
「嬉しいこと」を自らの身に呼び込みたい。
心の状態がどうであれ、
誰に対してもハキハキとあいさつをしたいし、
明るく会話をはずませたい。
「オープンマインドに見せる」こと、
まずは「外面(そとづら)」から始めることで、
心は後から付いてくる。
そして、
そうした姿勢で生きることは、
周りの人々への
最大の社会貢献ではないかと思うのである。

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by imadegawatuusin | 2013-09-03 13:45 | 倫理

「予定論」

中学生のとき、歴史の授業で、
(ヨーロッパの)宗教改革における
カルヴァンの「予定説」について
習ったときのことだ。
先生は、
「いや、正直オレ、
 今でもこれについてはピンとこないから、
 うまく説明できるかどうかわからんけど……」
と前置きしてから、
次のように解説した。

「人間の救いは、
 全知全能の神によって、
 その人が生まれる前に
 すでに「予定」(決定)されている。
 しかし、
 神によって救いが約束されている人は、
 きっと敬虔な生活を送っているに違いない」。
これが、
カルヴァンの唱えた「予定説」の
基本的な考え方です。
従来は、
その人が敬虔な生活を『することによって』、
神様に救われるかどうかが
決まるとされていたのですが、
「予定説」ではこれを逆転させ、
救われるかどうかはあらかじめ決まっており、
救われる人が敬虔な生活をするのだと
説いたのです。


先生は自分で解説しておいて、
「今でもこれについてはピンとこない」と、
今ひとつ納得の行かないという顔をしていた。
だが、
その説明を聞いた僕には
ものすごく「ピンときた」のだ。
僕が小さいころからずっと考えてきたことが
その瞬間、
初めて鮮やかに整理された感触を得た。

僕が小さいころから考えていたこと
――それは、
「人間の行動というものは
 すべてあらかじめ決まっているのではないのか」
ということだった。

これを他人に説明するのは非常に難しい。
僕がこの考えを話すと、
人によっては、
「人間の運命なんて生まれる前から決まっている」という
いわゆる「運命論」と
一緒にされてしまうことすらある。

僕の考え(「予定論」とでも名づけよう)と
いわゆる「運命論」との違いはこうである。

例えば僕の人生に今、
Aという選択肢とBと言う選択肢とがあるとする。
「運命論」によれば、
人間の人生はあらかじめある運命の下にあり、
選択肢Aを選ぼうと選択肢Bを選ぼうと
結果は同じであると説く。
それに対して僕の考えた「予定論」では、
選択肢Aを選ぶのと選択肢Bを選ぶのとでは、
その後の人生はおそらく変わってくるだろうと
考える。
だが、
そのとき僕が選択肢Aを選ぶのか
選択肢Bを選ぶのかは、
僕の今までの生育環境とか、
両親から遺伝した性格とか、
もっと細かく言えば
その日の気温とか精神状態とか、
そういったもろもろの原因に規定されて
あらかじめ決まっている、
と考えるのだ。

僕は決して運命論者ではない。
自分の運命は自分の手で切り開くものだと信じるし、
自分の選択が
自分の人生を決定することも承認する。
(だから、
 「どんなに努力したって結果は同じさ」
 というような考え方には全く組しない)。
だが、
その「自分の選択」というものも結局は、
脳の中で起こっている
電気化学的変化の結果に過ぎない。
究極的にはこれも、
この世界の物理的・科学的法則にしたがって、
その法則に合致する
ただひとつの動きを行なっているに過ぎない。
もちろん、
脳の中で起こっている思考の仕組みは
あまりにも複雑であるため、
人類はおそらく永遠に
その仕組みを完全に理解することはできないだろう。
だが、だからと言って
人間の脳だけが
この世界の物理的・科学的法則から外れる動きが
できるわけではないはずだ。
結局 人間は
最初から「それ以外にありえない」選択を、
淡々と積み重ねていくことしかできない。
一見 選択肢が2つ以上あるように見えても、
それは世界の必然のすべてを
人間が認識できないことからくる錯覚に過ぎず、
その人がそのどちらを選ぶのかは、
究極的にはこの世界の物理的・科学的諸法則に基づいて
あらかじめ決まっている……と
僕は考えていたのだ。

いや、
「考えていたのだ」というのは正確ではない。
僕は、
「予定説」について解説する中学の先生の話を聞いて、
ようやくいま上で言ったような形に
僕の「予定論」をまとめることができたのだ。

カルヴァンは決して、
「敬虔な生活を送るものが救われる」
ということ自体は否定しない。
彼の教えに従っても、
結果だけを見れば、
敬虔な生活を送るものは救われ、
そうでないものは救われないのだ。
だが、
その人が敬虔な生活を送るのかどうかが
神様にもわからないのだとすれば、
神様は「全知全能」ではなくなってしまう。
彼の考えでは、
(ある人が敬虔な生活を送り、
 救われるのかどうかも含めて)
神様はすべての事柄を知り、
すべての事柄を決定していなければ
「唯一・万能の神」ではなくなってしまう。

僕は無神論者であるが
(というより、徹底して無神論者であるからこそ)、
この点の考え方に関しては
カルヴァンにとてもよく似ている。
カルヴァンの予定説における「神様」という部分を
「世界の物理的・科学的諸法則」と置き換えれば、
そのまま僕の意見になってしまいそうなくらいだ。

僕もまた、
「努力をした人が報われる」のだということを承認する。
だが、
その人が努力をするのかしないのかが、
この世界の物理的・化学的諸法則から
断絶したところで決まっているのであれば、
僕の信奉する唯物論は成り立たなくなってしまう。
唯物論では、
(人間の心の働きも含めて)
すべての事柄は
物理的・化学的諸法則に則って
動いていると考えるからだ。

徹底した無神論と徹底した有神論では、
結論が驚くほど似てしまうことがままある。
カルヴァンは神様の絶対性を守ろうとした結果、
「予定説」を打ち出さざるを得なかった。
僕は、
世界の物理的・科学的法則の絶対性を守ろうとした結果、
「予定論」にたどり着かざるをえなかったのだ。
どちらも、
人間の意志というものを認めつつも、
その「人間の意志」さえもが
その背後にある「偉大な力」によって
すべて決定されていると考える点では
共通していると思うのだ。
『鈴木邦男をぶっ飛ばせ!』「酒井徹の今週の裏主張」No.103より転載)
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by imadegawatuusin | 2004-07-19 23:37 | 倫理

新興宗教団体「ラエリアン・ムーブメント」〔注1〕は、
米国出身の30代の女性が
クリスマスにクローン人間を出産すると発表した。
新聞報道などによるとこの女性は、
夫との間に子供ができなかったため、
自らの体細胞を使ってクローン技術で妊娠したという〔註2〕。

現段階では、
彼らは科学的に検証可能なデータを示しておらず、
事の真偽は必ずしも明らかではない。
専門家の間では懐疑的な見方が強いという。

ただ、はっきりと言えることが一つある。
それは、
「クローン羊やクローン牛を誕生させることが可能となった今、
 いつクローン人間が生まれてきてもおかしくない」ということだ。

しかし、
すべての人間が有性生殖によって生まれることを
当然の前提としてきた今の社会には、
クローン人間に対するさまざまな偏見がはびこっている。
まるでクローン人間は
人間の尊厳を脅かす存在であるかのような物言いまでが
大手を振ってまかり通っている。
本当にクローン人間は、
人間の尊厳を脅かす存在といえるのだろうか。
〔注1〕「他の惑星からきた科学者たちが
DNAを使って地球上のすべての生命を創造した」と彼らは主張しており、
いわゆる「神」の存在は信じない。
そのため彼らは「宗教団体」と呼ばれることを好んでおらず、
自らは「無神論で非営利の精神的団体」と称している。

〔註2〕「ラエリアン・ムーブメント」は、
クローン技術の安全性が十分に確認されたとは言えない現段階で
クローン技術を人間に適用した。
このようなやり方に対しては、
『噂の真相』の投書欄(2001年3月号・2001年5月号)や
高校の学年通信(『天王寺玉手箱』第67号)を通じて
僕は一貫して反対を表明している。


(1)クローン人間は「コピー人間」ではない
クリスマスに生まれてくるとされるこの赤ちゃんを、
「世界初のクローン人間」と呼んだマスコミがいくつかあった。
しかし彼女は、
厳密に言うと「世界初のクローン人間」ではない。
実を言うと、
クローン人間なんて世界中どこにでもいる。
大昔からいたし、
この文章を書いている今日も、
世界のどこかで必ず生まれているはずだ。

そもそもクローンとは、
「同じ遺伝子を持つ生物」のことである。
つまり、
世界に同じ遺伝子を持つ人間が2人いれば、
彼らは立派な「クローン人間」ということになる。
本当にそのような人たちがいるのだろうか。

実は、いる。
「一卵性双生児」といわれる人たちだ。

「双生児」とは、
平たく言えば双子のことだ。
双子なんて、
さして珍しくもないだろう。
ただ、
この双子には2種類ある。
一卵性の双子と二卵性の双子である。

一卵性の双子とは、
受精卵が何らかの事情で母親の胎内で分裂し、
それぞれがそのまま別々に成長して生まれてきた
双子のことだ。
同じ受精卵から分裂したので、
両者は互いに同じ遺伝子を持っている。
つまり彼らはクローン人間なのだ。
それに対して二卵性の双子とは、
2つの別々の卵子が2つの別々の精子とそれぞれ受精し、
それぞれが成長して生まれてきた双子のことだ。
当然この場合、
両者は別々の遺伝子を持っている。
2人はほぼ同時に生まれてくるが、
遺伝的にはごく一般の兄弟姉妹と変わらない。

二卵性の双子はよくいるが、
一卵性の双子もそれほど珍しくはない。
ノルディックスキーの荻原兄弟の顔がそっくりなのも、
彼らが一卵性の双子、
つまりクローン人間だからなのだ。

「ラエリアン・ムーブメント」などが誕生を目指しているクローン人間も
一卵性の双子も、
どちらも生物学的にはクローン人間なのである。
いま話題となっている前者のクローン人間を
特に区別したいときには
「体細胞クローン人間」と呼ぶ。
ただ、
これでは少々長ったらしいので、
ここから以後は世間の慣例に従い、
前者を「クローン人間」、
後者を「一卵性の双子」と呼ばせていただく。

さて、
以上のことを踏まえれば、
世間でよく聞く次のような意見が
どれほど こっけいであるのかが
すぐにわかるはずである。

クローン人間が生まれると、
同じ人物が世界に2人いることになる。
そのようなことになれば、
かけがえのない唯一の存在であるはずの
人間の尊厳が失われる。


確かにクローン人間は、
その遺伝子の基となった人物
(この人物を以後、
 鍵カッコつきの「親」と表記する)と
同じ遺伝子を持って生まれてくる。
しかし、
「同じ遺伝子を持つこと」と「同じ人物であること」とは
全く別のことなのだ。
もしこれが同じであれば、
荻原健司選手と荻原次晴選手とは
「同じ人物である」ということになってしまう。
そんなおかしな話はないだろう。
彼らは明らかに、
異なる個性を持った別人なのである。

同じ時代に生まれ、
同じ環境で育つ一卵性の双子同士でさえ
別人になる。
まして、
「親」とは別の時代に生まれ、
「親」とは別の環境で育つクローン人間が
「親」と同じ人間になるはずがない。
 
クローン人間もまた、
いかなる人間からも独立した人格を持つ
「個人」なのである。
決して「親」のコピーではない。

人間の性質は遺伝子のみによって決まるのではない。
教育や、環境や、食べ物・運動……などなどの
さまざまな影響因子が絡み合って、
一人の人間を形成してゆく。
たとえ同じ遺伝子を持っていたとしても
クローン人間は、
「親」とは育つ時代や環境が異なる以上、
性格や知性に関しては
全く異なる人間にならざるを得ないのである。

(2)死んだ人間は生き返らない
上で挙げたような意見と並んでよく聞くものに、
次のようなものがある。

クローン技術が人間に応用されると、
死んだ我が子をクローン技術によって
よみがえらせる親が出てくるだろう。
そのようなことがおきれば、
人命のかけがえのなさが奪われ、
人間の尊厳は傷つけられる。


どうやらクローン人間は、
何が何でも人間の尊厳を傷つけなければならないらしい。

まず、
当たり前のことではあるが、
一度死んだ人間がよみがえることは絶対にない。
人間は、
死んだらそれでおしまいである。
ただ、
何らかの事情で
「死んだ我が子」の細胞が冷凍保存されていたりした場合、
その子のクローンを作ることは不可能ではないかもしれない。

しかし、
そのようなことをしても、
その親はおそらく期待を裏切られるだけだろう。
どんなに姿が似ていても、
そうして生まれてきた子はもう、
「死んだ我が子」ではない。
なぜなら、
クローン人間とその遺伝子の基となった人物とは
全くの別人だからである。

そもそも、
「特定個人の代用」として誕生させられるなんて、
クローン人間にしてもいい迷惑である。
クローン人間は
いかなる人間からも独立した人格を持つ個人なのである。
それなのに、
すでに死んでしまった人間の役割を押し付けるようなやり方は、
クローン人間の個性を抑圧するものであり、
断じて許されるべきではない。

許されるべきでないのはクローン人間の存在ではない。
クローン人間を「特定個人の代用」としかみなさず、
独立した個人として扱おうとしないそうした姿勢こそが
まさに「人間の尊厳を傷つける」ものなのだ。

一度死んだ人間は、
決してよみがえることはない。
クローン技術は死者を復活させる技術ではないのだということを
僕たちは改めて認識しなければならない。

(3)個性がなくても尊厳はある
ここまででは主に、
クローン人間は「親」から独立した個性を持つ
個人であることを中心に論じてきた。
クローン人間が個性や独自性を持つ以上、
クローン人間もまたかけがえのない個人であると
主張してきたのだ。
しかし僕は、
こうした考え方にも本当は疑問を持っている。
もし、
万が一クローン人間が何の個性も独自性も持たない、
単なる「親」のコピー人間であった場合は、
彼は、
かけがえのない尊厳を持った個人であるとは
認められないのだろうか。

もし僕が、
他の誰かと全く同じ性格で、
全く同じ思想を持ち、
声も体格も遺伝子も、
すべての性質が全く同じコピー人間であったとしても、
そのことによって
僕のかけがえのなさが傷つくことはありえない。
たとえすべての性質が同じでも、
彼と僕とは『明らかに違う』のである。
なぜなら僕は僕であり、
彼は僕ではないからだ。
これほど根本的な違いは他にない。
極端な話、
この『僕であるもの』と『僕でないもの』との違いに比べれば、
中核派と一水会と統一教会との違いなど
微々たるものにすぎないと思う。

僕は、
彼が痛い思いをしているときに
代わりに痛んであげることはできない。
彼がひもじい思いをしているときに
代わりに腹を減らしてあげることもできない。
僕は、
彼の人生を代わりに生きてあげることもできなければ、
彼の代わりに死んであげることもできないのである。
たとえ僕が、
世界に2つとない個性を持った存在ではなくても、
僕は僕の人生しか生きることはできない。
僕と全く同じ性格・全く同じ体質のコピー人間が生きていたって、
やっぱり彼は僕ではない。
僕が死んでしまえば、
そんなコピー人間がいるのだということ自体、
僕には感知できないし、
何の意味もなくなってしまう。
たとえ僕のコピー人間が世界に100人いたとしても、
『僕』と残りの99人とは全然違う。
僕にとっての『僕』は
間違いなく『かけがえのない存在』であり、
他の99人に代えることのできない特別な存在だ。
そして、他の99人にとっても、
それぞれ自分が『かけがえのない存在』なのだろう。

一人一人の人間は
すべてかけがえのない存在として生きている。
これは決して、
一人一人の人間が他の人にはない個性や独自性を
持っているからではない。
たとえ全く同じ人間が二人いたとしても、
それが二人である以上、
二人はそれぞれかけがえのない存在なのだ。

(4)クローン人間は人間である
「自分が病気になったときの臓器の予備として使うために
 クローン人間を作っておこう」・
「クローン人間を『本物』の人間の代わりに働かせて
 奴隷にしよう」・
「戦争になったときには
 クローン人間に自分の代わりに戦争に行かせ、
 『人間兵器』として利用しよう」……。
残念ながら、
このような考えを平然と述べる人は少なくない。

確かに、
SF映画や小説の中には
そうした内容を持つものもある。
しかし、
たとえ同じ遺伝子を持ってはいても、
クローン人間は自分の意思や人格を持つ存在であり、
「親」の所有物ではない。
このようなことが許されるべきでないのは
当然のことである。

そもそも、当たり前のことではあるが、
クローン人間は人間である。
人間である限りは、
当然 国家権力によって人権が保障されるのだ。
人間を奴隷として扱うことは憲法で禁じられている。
人間を傷つければ傷害罪に問われるし、
殺せば殺人罪になる。
この当たり前の原則が守られてさえいれば、
クローン人間が「臓器の予備」や「奴隷」・「人間兵器」などにされることは
あまり心配する必要はない。
「臓器」や「奴隷」・「人間兵器」として使える年齢になるまで
十数年間も自分のクローンを
世間から隠して育てるなどということは
現実的にはまずもって不可能である。

クローン人間は、
僕たち有性生殖人間と同じく人間なのだ。
ただ、精子と卵子で生まれてきたか、
クローン技術でうまれてきたかという
「生まれ方の違い」があるにすぎない。
人間的・倫理的な価値において
両者の間に差があるわけではないのである。
彼らの人権が保障されるべきことは、
言うまでもないことなのだ。

もしかすると、
この「裏主張」が掲載される頃には、
「ラエリアン・ムーブメント」の計画が成功し、
すでにクローン人間が誕生しているかもしれない。
僕がいま一番恐れていることは、
クローン人間に「反倫理」のレッテルを貼り付ける今の風潮が、
クローン人間に対する差別を
正当化するのではないかということだ。
このままでは生まれてくるクローン人間が、
クローン人間であるというだけで
いわれのない差別や偏見に苦しめられることになりかねない。

クローン人間は人間である。
いかなる個人からも独立した個性と人格を持つ
一人の人間である。

クローン人間が生まれてくれば僕たちは、
有性生殖人間とクローン人間とが互いの存在を認め合い、
共存し、共生してゆく社会を
築いてゆかなければならない。
『鈴木邦男をぶっ飛ばせ!』「酒井徹の今週の裏主張」No.19より転載)
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by imadegawatuusin | 2002-12-30 03:59 | 倫理