「ほっ」と。キャンペーン

――修養団・國分正明理事長に反論――

■政治と宗教のけじめと公私のけじめ
元文部省事務次官で、
精神修養団体・修養団の理事長を務める國分正明氏が
修養団機関誌・『向上』2014年1月号に
「『遷御の儀』に参列して」という文章を発表した。
この中で國分正明理事長は、
伊勢神宮の祭神である天照大神の「ご神体」を
20年に一度 新たに建てた神殿に移す
「遷御の儀」について、
「私は参列してみて、
 これは日本文化の源泉、
 日本人の心のふるさとだ、
 決して宗教行事という性格のものではないと
 改めて感じました」とした。
そしてその上で、
安倍総理以下数名の官僚がこれに参列したことを
菅官房長官が
「私人としての参列」と記者会見で述べたことについて、
「官房長官は議論になるのを避けて
 『私人としての参列』と述べたのでしょうが、
 総理が総理として閣僚が閣僚として参列したとしても、
 多くの国民は、
 千三百年前から続く
 我が国の伝統的な行事への参加と
 とらえるのではないでしょうか」と
述べているのである。

國分正明理事長は、
「西洋の絶対的な唯一神と
 神道の八百万の神とは
 同じ神という言葉でも全く異なる概念ですし、
 同じく宗教という言葉でくくってしまうことに
 私はいささか違和感を覚えます。
 折から憲法改正論議が盛んですので、
 現行の政教分離の規定自体を
 日本の実情も踏まえて
 再検討すべきではないでしょうか」と言う。

確かに、
「西洋の絶対的な唯一神と
 神道の八百万の神とは
 同じ神という言葉でも
 全く異なる概念」だということは
事実であろう。
だが、
だからといって、
「同じく宗教という言葉でくくってしまうことに」
問題があるとは思えない。
和食と洋食とでは
料理といってもその背景にある考え方や作り方が
全く異なっているかもしれないが、
だからといって
『同じく料理という言葉でくくってしまうことに
 違和感を覚え』る人はいないであろう。
どれほど さまざまな部分が違ったとしても、
「食べるために食材に手を加えたもの」という点では
和食も洋食も共通しており、
どちらも料理であると言わざるを得ないからである。
同じく、
たとえ「神」の概念がどれほど違っていようとも、
「実在が証明できない霊的な存在に祈り、祭る」
という点では
キリスト教やユダヤ教も日本の神道も共通している。
その点をとらえて、
両者を同じ「宗教」という概念で把握するのは、
和食と洋食とを
同じ「料理」という言葉でくくるのと同じ
自然なことだ。

そもそも、
伊勢神宮やその上部団体である神社本庁は
自ら望んで
「宗教法人」という法人格を取得したのであって、
誰かがそれを強制したわけではない。
自分たちは
キリスト教やユダヤ教と同じ「宗教」という枠には
当てはまらないというのであれば、
あえて任意の団体として活動してもよかったのであるし、
あるいは社団法人や財団法人として
登記してもよかったのである。
にもかかわらず、
伊勢神宮や神社本庁は
自ら望んで宗教法人として登記している。
(税金がかからないようにするためであろうか)。
理由が何であれ、
伊勢神宮や神社本庁が
自ら望んで宗教法人として登記している以上、
伊勢神宮や神社本庁が宗教として扱われるのは
実に当然のことなのである。

だいたい、
「絶対的な唯一神」の概念を持つ宗教は、
世界的に見ても
キリスト教・ユダヤ教・イスラム教など、
その信者数は多くても、
宗教の数としてはごく少数に限られる。
世界の圧倒的に多くの宗教は、
神道と同様の「八百万」型の多神教である。
これが宗教でないのだとすれば、
中国やアフリカやインドや東南アジアの多くの人々は
宗教を持たないということになる。
ついでに、
アジアに拠点を置く宗教の中にも
イスラム教など
「絶対的な唯一神」の概念を持つ
典型的な大宗教があるのに、
「絶対的な唯一神」は「西洋の」ものと決め付けるのも
乱暴だと思う。
(イスラム教は
 「アラブの宗教」という印象が強いのかもしれないが、
 ――実はアラブも
   れっきとしたアジアなのであるが――
 世界で最もイスラム教徒が多い国は
 東南アジアのインドネシアである)。

「これは日本文化の源泉、
 日本人の心のふるさとだ、
 決して宗教行事という性格のものではない」
というのもおかしな文章だ。
ここでは
「日本文化の源泉、
 日本人の心のふるさと」であるということと、
「宗教行事」であるということとが
対立するかのように書かれている。
けれども、
これはずいぶんと「宗教」に対して
失礼な物言いではないだろうか。
宗教行事の中に、
「日本文化の源泉、日本人の心のふるさと」が
あらわれるということは当然ありうる。
神道のように
日本民族(大和民族)の歴史と伝統に密着した
宗教の場合は なおのことである。
だから、
「日本文化の源泉、
 日本人の心のふるさと」だからといって
その行事が宗教行事ではないということには
ならないはずだ。

また、
「日本人の心のふるさと」というが、
ここでいう「日本人」に、
アイヌ民族や沖縄の人々は含まれるのだろうか。
どう考えても
伊勢神宮がこうした人びとの
「心のふるさと」であるとは思えない。
ここで言う「日本人」というのは
あくまで日本民族(大和民族)のことなのだろう。

もちろん、
内閣総理大臣にも
個人としての信教の自由がある。
一人の神道の氏子として伊勢神宮に参拝したい、
神事に参加したいというならそれは自由だ。
だがそこには、
おのずと公私のけじめがなければならない。
この点をあいまいにしないことが大切である。
 
日本人みんなが神道の氏子ではない。
日本民族(大和民族)のすべてが
神社参拝をするわけでもない。
日本で最も大きな仏教宗派である浄土真宗は
「神祇不拝」を掲げ、
神社には参拝しないことを宗旨としているし、
日本で最も大きな新宗教である創価学会も
「神天上の法門」を掲げ、
神社には参拝しないことを宗旨としている。
もちろん、
キリスト教などの一神教に入信している日本人も
存在している。
内閣総理大臣はそうした日本人すべての代表なのである。
「総理が総理として閣僚が閣僚として」
伊勢神宮の神事に参列すれば、
公私のけじめがあいまいになり、
政治と宗教とのけじめがつかなくなってしまう。
総理個人が神社神道を奉じているからといって、
その信条で国を私(わたくし)してはならないのである。

以上の理由で私は、
特定宗教の神事に
「総理が総理として閣僚が閣僚として参列」することには
断固反対である。
また、
憲法改正論議においても、
私自身は同性婚禁止規定(憲法第24条)の削除や、
国の象徴を血筋で決める皇室制度の廃止を求める
改憲論者であるけれども、
政治と宗教とのけじめをあいまいにする
政教分離の緩和には断固反対だ。

國分正明氏は文部省の元事務次官である。
文部省(現在の文部科学省)は
宗教行政をつかさどる役所でもある。
総理や閣僚の伊勢神宮の神事への参列を
「私人としての参列」と説明した
官房長官の見解について、
「官房長官は議論になるのを避けて
 『私人としての参列』と述べたのでしょう」としか
とらえられない見識の人物が
宗教行政をつかさどる文部省の事務方のトップを
務めていたのかと思うと、
そら恐ろしい気がしてならない。

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by imadegawatuusin | 2014-01-14 13:55 | 宗教

――主要新宗教を見渡せる好著――

■熱心な信者の多い新宗教は無視できない

日本の主な新宗教をざっと眺め渡すことのできる新書が
本書・『日本の10大新宗教』(島田裕巳)である。
世界の主な宗教を眺め渡すことのできる本としては、
『完全教祖マニュアル』著者の架神恭介氏も薦める
『世界がわかる宗教社会学入門』橋爪大三郎)などの
よいものがある。
だが、
今の日本で現実に、熱心に活動している新宗教について
ほとんど触れていないのが難点であった。
『日本の10大新宗教』は
『世界がわかる宗教社会学入門』の
そうした弱点を補うことのできる
良い本である。

題名には
「日本の10大新宗教」と書かれているけれども、
この本で紹介される新宗教は
10教団だけではない。
「立正佼成会と霊友会」や
「世界救世教、神慈秀明会と真光系教団」など、
系統を同じくする新宗教が
まとめて「1つ」と数えられて紹介されているので、
日本の主な新宗教のほとんどを
見渡すことができるのだ。

■成功のカギは「カリスマ+実務家」のコンビ?

精神科医の和田秀樹氏はこの本を読んだ感想として、
「女性の教祖と
 それを支える男性の参謀という形が多いこと……など、
 不可解なことの整理に役立つ」と述べている。
立正佼成会の長沼妙佼と庭野日敬、
霊友会の小谷喜美と久保角太郎、
大本の出口なおと出口王仁三郎、
真如苑の伊藤友司と伊藤真乗、
璽宇の長岡良子と山田専太などが
その典型といえるだろう。
(立正佼成会では庭野日敬、
 霊友会では久保角太郎、
 真如苑では伊藤真乗の側が
 「教祖」という扱いになっているが、
 それぞれ長沼妙佼・小谷喜美・伊藤友司の方が
 「神がかりする霊能者」で、
 男性の「教祖」はむしろ
 教義を整えた理論的な支柱であり、
 組織の大成者である)。

天理教もその初期の段階では、
神がかりする教祖・中山みきの言葉を
世間に受け入れてもらうための
「応法の理」を整えるにあたっては、
みきの長男である中山秀司の働きが大きかった。
秀司はさまざまな迫害を避けるため、
まずは「神社の総元締めである吉田家に入門する」。
これが
「天理教を
 神道系の新宗教教団として組織化していく上で
 大きな影響を与えていくこととなった」という。
具体的には、
「秀司は、
 そこで、
 中臣六根、御清めの祓いといった
 神道式の儀礼を営む方法を学んだ。
 中山家に戻ってきてからは、
 神主の格好をして、
 それを実践した」という。
「みきは、
 周囲の人間たちに、
 七十歳になってから、
 自分は立って踊るようになったと語っており、
 天理教の儀礼で用いられる『みかぐらうた』が作られ、
 それにあわせて踊る『おてふり』が
 教えられるようになるのは、
 これ以降のことである。
 おそらくみきは、
 秀司が行っている神道式の儀礼に刺激を受け、
 そこから
 天理教独自の儀礼の方法を
 編み出していったのであろう」ということで、
天理教はこうした形で形成されていったのである。

しかし、
江戸幕府が倒れると吉田家は
「神社の総元締め」としての地位を失い、
お墨付きは意味を成さなくなる。
すると秀司は、
今度は「既成仏教宗派である真言宗の傘下に入ることで、
迫害を避けようとした。
/具体的には、
高野山真言宗光台院の末寺である
金剛山地福寺へ願い出て、
転輪王講社を結成した」という。

本書によれば、
「秀司という人物について、
 天理教の教団のなかでの評価は
 必ずしも高くはない」らしい。
天理教では戦後、
権力の弾圧を避けるためのこうした「応法の理」は
否定された。
かわって今では、
教祖・中山みきの「純粋な」教えに立ち返ろうという
「復元の理」が提唱されている。
したがって、
権力におもねる「応法の理」を推進した中山秀司などが、
体制に迎合して権力にへつらい
「教祖様の純真な教えを捻じ曲げた」と評価されるのは
ある意味やむをえない面がある。
だが本書も指摘するように、
「彼は教団の中心を担っていた。
 秀司がいなければ、
 天理教の教団はもっと厳しい取り締まりを
 受けていたかもしれない」のである。

また、
天理教の現在の教理である「復元の理」を推進して
「その先頭に立った」のも、
「東大の宗教学科でも学んだインテリ」であった
「二代目真柱、中山正善」であった。
土俗的で混沌としていた天理教の教義を
一神教的で洗練された現在の姿に整えたのは、
実質的にはこの正善であると言ってもいい。
「正善は、
 皇族とも付き合いがあり、
 庶民である信者とは対極に位置していた」という。

こうした例を見ると、
教団の大成のためには
神がかりする教祖だけでは十分ではなく、
教義をきちんと体系づけたり
教団組織を整えたりする
知的な実務者の存在が欠かせないことがわかってくる。

古くは、
イエスに対するパウロのような例もある。
長岡良子を教祖とする璽宇の例を見ても、
組織宣教者である「山田が教団の本部を去ると、
……活動は停滞し、
世間からは完全に忘れられてしまった」ということだ。

■創価・牧口は「日蓮仏法の解説者」

さてそうなると、
「そういうタイプに当てはまらない」新宗教は
どうなっているのかが気になってくる。
特に、
日本最大の新宗教である創価学会は
明らかにこの例に当てはまらない。
初代会長の牧口常三郎は
神がかりしたり霊感を用いたりする人物ではなかった。
この本によると牧口は、
「小学校の校長を歴任した教育者であった上、
 地理学に強い関心をもち、
 地理学関係の大部の著作も残している。
 地理学を学んだ関係から、
 柳田国男や新渡戸稲造がかかわった
 『郷土会』という民俗学の研究団体にも入っていて、
 柳田や新渡戸とも交流があった。
 /牧口は、
 新宗教の教祖としてはめずらしく、
 知識人、インテリであった」とのことである。

立正佼成会や霊友会・真如苑の場合も、
確かに初代創立者自身は
理論家・実務家タイプではある。
けれど彼らは、
それぞれ長沼妙佼・小谷喜美・伊藤友司といった
女性の霊能者とコンビを組んでいた。
しかし、
創価学会の牧口には、
そうした相方が見当たらないのである。

ここで注目するべきことは、
創価学会は他の新宗教と違って、
既成仏教教団である日蓮正宗の在家信者による
講組織だったということだ。

教祖には確かに神がかりするカリスマが多い。
けれども、
その教祖の教えをもとに一派を成す宗祖や、
衰えていた教団を再び盛んにする「中興の祖」には
インテリの実務者が意外に多い。
日本で言えば天台宗の最澄・
浄土宗の法然・
浄土真宗中興の祖の蓮如といった人たちである。
(一般的にはカリスマタイプと見られることの多い
 真言宗の空海も、
 その教養や業績などに注目したとき、
 実はインテリ・実務者タイプだったのではないかと
 私は思っている)。

これに対して日蓮宗の日蓮などは、
宗祖としては珍しく
明らかにカリスマタイプの宗教者だ。
創価学会はその組織そのものは新しい。
だが、
既成仏教教団である日蓮正宗の
在家信者の講組織であることを見れば、
牧口を教義上の「教祖」と捉えることは
必ずしも正しくない。
彼はあくまで「日蓮仏法の解説者」であり、
「新宗教の教祖」というよりもむしろ、
日蓮宗の一派の「宗祖」あるいは
「中興の祖」と見た方がよいのではないか。
創価学会にとってのカリスマ教祖は
あくまで日蓮なのである。
(創価学会では日蓮を「日蓮大聖人」と呼び、
 「末法の御本仏」として
 現代においては釈迦よりも優先する存在として
 あがめたてまつる。
 これは、
 あくまで日蓮を
 「釈尊の脇士・上行菩薩」と位置づけて
 釈迦を第一義的にあがめたてまつる
 他の日蓮宗系各教団とは対照的だ。
 創価学会は他の日蓮宗系教団と比べ、
 極めて突出した日蓮崇拝の姿勢を示す教団なのだ。
 日蓮がカリスマタイプの宗教者であったことが、
 彼を「教祖」的地位にまで押し上げたのかもしれない)。

■カリスマと実務家の両立の秘密は「鎮魂帰神法」!?

では、
本書に登場する世界救世教の岡田茂吉などは
どう見ればいいのだろう。
この問題は、
大本の出口王仁三郎にも通じることだ。
神がかりする教祖である出口なおに対し、
教義大成者である出口王仁三郎もまた、
偉大なカリスマを持っていた。
しかし、
教義を大成して
組織を整える実務家・インテリとしての側面と、
神がかりするカリスマの側面とは、
一人の人物の中で
はたして両立可能なのだろうか。

その問題を解くカギは、
出口王仁三郎が学び、
一時 大本の信者であった岡田茂吉も修得したという
「鎮魂帰神法」にあるのではないか。
この本によると、
「王仁三郎は、
 修験道の修行をしたこともあり、
 心霊と交わり、その力を活用する
 『鎮魂帰神』の方法を学んでいた」という。
初期の大本は
「鎮魂帰神の方法による
 神憑りの修行が実践できることが
 売り物で」あったといい、
世界救世教の岡田茂吉もその中に含まれていた。
岡田茂吉は
「大本で説かれた鎮魂帰神法の修得に
 心血を注」いでいたとされている。
「すると周囲の人間が、
 茂吉の身辺に観世音菩薩が出現していると言い出し、
 彼自身も
 自らの腹のなかに光の玉が宿っているのを
 感じるようにな」ったというのだ。

鎮魂帰神法はおそらく、
神がかり的な精神状態とカリスマ的な雰囲気とを
一時的に作り出すことを可能とする行法なのだと
私は思う。
だから、
修行によって後天的にこれを身につけた人物は、
あるときはこれを行なうことで
「神がかりするカリスマ」の状態になることができ、
そうでないときは
実務家としての腕を普段通りに振るうことが
できるということなのだろう。

もっとも本書では、
主に晩年の出口王仁三郎の奇行なども紹介されている。
それを考えると、
この「鎮魂帰神法」も、
長期的には普段の精神状態に影響を及ぼす可能性に
気をつけた方がよいだろう。
実際、
かつては
「鎮魂帰神の方法による神憑りの修行が
 実践できること」を
「売り物」にしていた大本でも、
現在はこれを行なっていないということである。


【おすすめ参考サイト】
書評:『完全教祖マニュアル』(架神恭介・辰巳一世)
書評:世界がわかる宗教社会学入門(橋爪大三郎)
橋爪大三郎『世界がわかる宗教学社会学入門』を読む

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by imadegawatuusin | 2012-06-03 18:07 | 宗教

――各宗教の基本構造、わかりやすく解説した好著――

■宗教を学ぶ上での基本書

どんな分野にも、
その世界を知るにあたって大前提となる知識を
ざっとまとめた基本書がある。
私は仮にこうした本を
「教科書」と呼んでみたいと思うが、
「宗教」という分野における絶好の教科書が
本書・『世界がわかる宗教社会学入門』である。

ユダヤ教・キリスト教・イスラム教・
仏教・儒教に関する知識が
実にわかりやすくまとめられている。
特に、
各宗教の基本構造や主要な論点を
大づかみに理解するには
本書ほどよい教科書はない。

めっぽう面白い宗教入門書である
『完全教祖マニュアル』の著者・架神恭介氏も、
「各宗教についての知識をコンパクトにまとめた本」
として本書を推奨している。
「全くの初心者は
へらへらっと『教祖マニュアル』を読んで
軽く体を慣らしてから、
『宗教社会学入門』を読むと楽かな、と思います。
この2冊だけでも
社会に出てから宗教関係は
90%まではいけると思います」と述べており、
本書との併読は必須である。

ただ本書について一つだけ残念なことは、
現代日本で実際に最も力強く活動している
新宗教についての言及がないことだ。
この点は、
島田裕巳の『日本の10大新宗教』で補うのがよい。
「橋爪大三郎『世界がわかる宗教学社会学入門』を読む」に進む→

橋爪大三郎『世界がわかる宗教学社会学入門』
評価:4(おすすめ)



【参考記事】
橋爪大三郎『世界がわかる宗教学社会学入門』を読む

書評:『完全教祖マニュアル』(架神恭介・辰巳一世)

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by imadegawatuusin | 2011-11-05 08:37 | 宗教

社会学者・橋爪大三郎さんの
『世界がわかる宗教社会学入門』(ちくま文庫)は、
世界の主要宗教の「何が焦点なのか」が
とてもコンパクトに解説されている良い本である。

ところがこの本の「講義10」、
「尊王攘夷とはなにか」で
何度読んでもよくわからない部分が私にはあった。
橋爪さんに
何とかその意味をお教えいただけないかと思い、
メールで質問をしたところ、
秘書の方から返事があり、
疑問に思っていたことが氷解した。

私がわからなかったのは、
文庫本265ページにある次の部分である。

ヨーロッパでは、
封建領主が実際に土地を所有していて、
子孫がそれを相続する。
相続のたびに国境線を
引きなおさなければならない。
そんな時代が長く続きました。
しかし日本の領主制は、
刀狩と兵農分離を通じて領主権が名目化し、
官僚制化した。
戦国から江戸にかけて、
そうした大きな変化が起こりました。
禄高は、
名目的なもので、
実際の所領と関係がない。
したがって、
相続の問題は起こらない。


「封建領主が実際に土地を所有していて、
 子孫がそれを相続する」
ヨーロッパの領主制と、
「刀狩と兵農分離を通じて領主権が名目化し、
 官僚制化した」日本の領主制とが
ここでは比較されている。

まず、浅学にして日本の領主制が、
「刀狩と兵農分離を通じて領主権が名目化」したという
ところからして
私にはよくわからなかったのだ。

あと、
「封建領主が実際に土地を所有していて、
 子孫がそれを相続する」のは
日本もヨーロッパも同じだったように
私には思えたのであるが、
それがどうして
刀狩・兵農分離のなかったヨーロッパに限って
「相続のたびに国境線を
 引きなおさなければならない」
ことになるのだろうか。

また、
日本の幕藩体制の下での
「禄高は、
 名目的なもので、
 実際の所領と関係がな」かったことは
私も聞いたことはあったが、
しかし
「実際の所領」は厳然として
存在したのではないかと思った。
(「加賀藩百万石」の「百万石」は
 名目的なもので、
 実際の収入を表すものではなかっただろうが、
 加賀が前田家の所領であった事実は
 動かないと思ったのだ)。

だからそのことが、
「したがって、
 相続の問題は起こらない」
ということになぜつながるのかもよくわからなかった。

橋爪さんの大学研究室に
メールで質問をしたところ、
研究室秘書のKさんから
以下のご返事をいただくことができた。

酒井様のご質問につきまして、
私が調べました結果、
「大名は家臣団を従えて、
知行○○○石を与えている。
が、
知行地(所領)は名目であって、
知行米を与えるのみである。
これは家臣が領主でなく
棒給生活者であることを
意味している。」
ということだと御理解下さい。


なるほど。
ここでいわれている「封建領主」とは、
大名のことではなく、
大名家に使える武士たちが
日本では封建領主から棒給生活者に
なったのだということを意味していたわけだ。


【さらに読むべき本】
「宗教」というものを
大づかみに理解するのに適した
優れた本としては他に、
架神恭介・辰巳一世
『完全教祖マニュアル』がある。
また、本書ではあまり触れられていない
江戸期以降の日本の新興宗教の概要を大づかみするためには、
島田裕巳『日本の10大新宗教』がおすすめ。


橋爪大三郎『世界がわかる宗教学社会学入門』
評価:4(おすすめ)



【参考記事】
書評:世界がわかる宗教社会学入門(橋爪大三郎)

書評:『完全教祖マニュアル』(架神恭介・辰巳一世)

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by imadegawatuusin | 2010-07-12 17:25 | 宗教

――「宗教を作る側」の視点からの宗教入門書――

■「宗教」をザックリ理解するために
宗教には、
それを信じない外部の人間にとっては
不可解な現象が多い。
重箱の隅をつつくような煩瑣な教義論争もそう。
意味不明な食物規制やしきたりもそう。
ヘンテコな宗教建築もそうである。

しかし、
ここで「理解不能」といってしまえば
相互理解は永遠に不可能だ。
だからといって信者や教祖にインタビューしても、
「これは神のご意思なのです」とか、
「聖典の第○○節第×章に
 ……と書いてあります」とか、
「何だかわからんが
 昔からそうすることに決まっている」
とか言うだけで、
まともな回答はおよそ期待できそうにない。

ひとつここは、
私たち一人一人が
「宗教を作る側」の立場に立ってみよう。
あれやこれやの不可解な現象が
意外にすっきり理解できるかもしれない……。

そうした考えで書かれた宗教入門書が
本書である。
そのため本書は、
「誰にでも新興宗教の教祖として
 サクセスできるマニュアル」(実用書)
という体裁をとる。

教祖は決して難しいものではありません。
本書を読めば誰でも簡単に
教祖になることができます。
本書は
さまざまな宗教の分析から構築された
極めて科学的なマニュアルです。
科学ですから決して怪しい本ではありません。
皆さん、
本書を信じて、
本書の指針のままに行動して下さい。
本書の教えを遵守すれば、
きっと明るい教祖ライフが開けるでしょう。
教祖にさえなれば人生バラ色です! 
あなたの運命は、
いままさにこの瞬間に変わろうとしています! 
本書を信じるのです。
本書を信じなさい。
本書を信じれば救われます――。(本書9ページ)


何だこれは、と思うかもしれないが、
こうした物言い自体についても
親切なことに「マニュアル」の中で
きちんと自己言及されている。

なにも馬鹿正直に
「私がやっているのは宗教です」
などと言う必要はありません。
「私は科学的な話をしているのです」と
しれっと言い放ってやれば良いのです。
……大丈夫、
普通の人は
「これは科学です」とさえ言っておけば
絶対に疑いません。
これを巧くやれば、
信者を引っ掛けることなど
全く造作もないことです。
普通の人は
新興宗教の言ってることは
頭から疑ってかかりますが、
科学だと言い張りさえすれば、
無条件で信じるところから
スタートしてくれるのです。(本書121ページ)


これを読めば、
やたら「科学」を標榜したがる
「○○の○○」や「日本×××」の言説の意味が
非常に理解しやすくなる。
また、
通常は「宗教」とは理解されていない、
私たちの身近にある
さまざまな事象や習慣についても、
実は宗教と大差ない原理で
成り立っているものが多数あることに
気づかされる。

はっきり言って
本当に「教祖になる」ための実用性は
限りなくゼロに近い本書であるが
(こんな本を真に受けて
 この本のとおりに教祖になろうとするような人間が
 仮にいるとすれば、
 おそらくその人は間違いなく、
 「教祖」より「信者」向きの体質だ)、
「笑いながら読み進めて、
 いつの間にやら宗教についての知見が
 身についてしまう」(ジャッキー氏書評
という意味では
「一回り回った実用書」であるといえよう。

■さらに興味のある人は……
本書は私たち日本人が
「宗教という現象」を理解するための入門書として
うってつけの好著である。
なお、
本書を読んでさらに宗教について知りたい人には、
本書の著者自らのブログで、
「各宗教についての知識を
 コンパクトにまとめた本」として
橋爪大三郎
『世界がわかる宗教社会学入門』(ちくま文庫)を
推奨している。
「全くの初心者は
 へらへらっと『教祖マニュアル』を読んで
 軽く体を慣らしてから、
 『宗教社会学入門』を読むと
 楽かな、と思います。
 この2冊だけでも
 社会に出てから宗教関係は
 90%まではいけると思います」と述べており、
興味を引かれた読者はぜひ挑戦を。
また、同書であまり触れられていない、
江戸期以降の日本の新興宗教の概要を大づかみするには、
島田裕巳『日本の10大新宗教』がおすすめである。
JanJan blog 6月3日より加筆転載)


『完全教祖マニュアル』(架神恭介・辰巳一世)
評価:5(超おすすめ)



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by imadegawatuusin | 2010-06-03 19:44 | 宗教

■合祀取り消しを求める遺族
靖国神社に合祀された
戦没者の遺族が合祀取り消しを
求めている裁判がある。
靖国神社は
戦没者遺族が合祀を止めるよう求めても、
一切耳を貸そうとはしない。
戦争指導者と肉親とが
ひとつ所に祀られることを望まぬ人、
肉親を「神」とされることを
宗教的理由から拒む人、
朝鮮・台湾など旧植民地の遺族など、
その理由は様ざまだが、
靖国神社はそんなことにはお構いなしに
一方的に「英霊」を合祀し続けている。

遺族が祀ってほしくないと
必死で訴えている戦没者を
無理矢理「神」として祀っている、
その一点だけとっても、
この神社の非常識さが分かる。
自らが信仰しない、
場合によっては反対する宗教に
勝手に肉親を「神」扱いされて
崇め奉られる遺族の苦しみに、
靖国神社は驚くほど無神経である。

筆者の肉親が、
もしオウム真理教に勝手に
「神」として祀られたら、
どう考えても いい気持ちはしない。
やめてくれと抗議するのも当然だろう。
「一度合祀したものは、
 もはや混然一体となっており、
 再び分離することは不可能だ」などと
独自の「宗教理論」を振りかざして
居直られたりした場合には、
激怒するのは当たり前である。

その意味で、
合祀取り消しを求める遺族の訴えには
社会的正当性があると筆者は思う。

■裁判で解決できる問題なのか
靖国神社のこの傍若無人な振る舞いを
社会的に暴露し、
抗議し、心を入れ替えるよう
靖国神社に求めること、
これは間違いなく正当であり、
必要である。
しかし筆者は、
その遺族が靖国神社に
合祀の取り消しを求めるために
裁判所に提訴するという行動には
賛成できない。

いかにろくでもない信仰であろうと、
信仰は信仰である。
もし裁判所が
原告肉親の合祀取り消しを命令すれば、
それは靖国神社という一宗教法人の
信仰対象そのものを
禁止することになってしまう。
国家権力が
「この人物は
 信仰対象として拝んではならない」と
民間の一宗教法人に
命令することになるのである。

「Aという人は
 お国のために死んだので英霊となり、
 今も護国の神として
 我が国の平和を守っている」
という信仰を持つ人が現に存在する中で、
国家権力が
「Aという人を神として拝んではならない、
 祀ってはならない」と
特定宗教の信仰を禁圧することは
許されない。
ある存在を「神」と信じる人の心を、
国が裁くことはできないのである。

先のオウムの例でいえば、
筆者の肉親がオウムによって、
麻原彰晃と並ぶ神として祀られた場合、
筆者は当然抗議し、糾弾し、
その取り消しを求めて社会的に訴えるだろう。
しかし、
それでもオウムの人たちが
悔い改めようとしないなら、
その信仰を禁止することは、
やはりできないということだ。

では、
その場合の筆者にできることは何か。
オウム真理教が遺族の心情をないがしろにする
実にけしからん集団であると、
その事実をありのままに
社会に暴露することができる。
その実態を知ってもらうことによって、
オウムに引き寄せられそうな人間を
1人でも2人でも引き留めることができる。
そうすることで、
オウムがこの社会において存在できる
社会的基盤を掘りくずしてゆくことができる。

これは靖国神社の場合でも同じなはずだ。
(インターネット新聞JANJAN8月27日号より
 加筆転載)


【参考記事】
靖国神社問題について


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by imadegawatuusin | 2009-08-27 23:01 | 宗教