「性同一性障害」で
女性から男性に性別を変更した人の妻が
第三者の精子で妊娠した子について
最高裁は、
法律上 夫の子と見なされるという決定を
12月10日に下した。
民法772条には
「妻が婚姻中に懐胎(筆者注:=妊娠)した子は
 夫の子と推定する」とあり、
「夫が元女性の場合を除く」という法律は
ないのであるから、
当たり前すぎるほど当たり前の判決だ。
むしろ、
国権の最高機関である国会で決められている法律を
無視して
こうした子供を夫の子と認めてこなかった
法務省の見解が
国会軽視、
ひいては国民軽視のものだったのだ。

同様の事例はすでに39例あるという
(朝日新聞12月12日)。
こうした子供が法律通り
夫婦の子と認められるようにしてほしい。

【参考記事】
役所は法律通り出生届の受付を


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by imadegawatuusin | 2014-01-24 16:59 | 暮らし家庭

今日の『朝日新聞』の投書欄に、
「『普通に見える』裏の苦労」という
私の投稿が載りました。

私には「注意欠陥/多動性障害」という障害があります。
「注意欠陥」が特に強く、
財布をなくしたことはこれまでに30回ではすみません。
携帯電話も20回以上なくしました。
子供のころには体育の授業がある時に
体操服を持って行かなかった日の方が多かったりします。
「コンサータ」という治療薬を飲むようになって
物忘れや物なくしは減りましたが、
そうしたことが全くなくなったわけではありません。
2年前には障害者手帳も頂きました。

私の頭は
一度に二つ以上の物事を同時に考えることが
難しい仕組みになっているようです。
たとえば、
駅の自動販売機で切符を買います。
切符が出てくると、
「切符を取ろう」と考えます。
そのとたん、
持っていた財布のことは
たちまち頭から抜け落ちてしまうのです。

ところが
人と話したりものを書いたりといったことには
問題がありません。
知能テストでも、
テストだけに集中すればいい点が取れます。
ですから、
「物忘れや物なくしがひどい」と言っても
気が緩んでいるだけとしか思ってもらえませんでしたし、
自分でもそう思っていました。
しかしさすがにおかしい、
若年性痴呆症か何かではと思い病院に行ったところ、
「注意欠陥/多動性障害」とわかったのです。

私は今、
財布と携帯電話にヒモをつけ、
ズボンにくくりつけて暮らしています。
そうしなければ
これらの大切なものをたちまちなくしてしまうからです。
ですがこれが格好悪く見えるのか、
「ヒモに頼ってはいけない。
 財布や携帯電話は
 『心のヒモ』でつなぎとめておくべきだ」などと
言われることがあるのです。

私が、
物忘れや物なくしをしないように
気をつけていないわけではありません。
むしろ人一倍 気をつけて生きてきました。
ですが、
私のこの頭では
「気をつける」だけではダメなのです。
さらに進んで、
大事なものはヒモでつるすなどの
創意工夫が要るのです。

足の悪い人が杖をついているのを見て、
「杖に頼るな。
 『心の杖』で歩くべきだ」という人はいません。
目の悪い人がメガネをかけているのを見て、
「メガネに頼るな。
 『心のメガネ』で ものを見ろ」という人もいません。
「注意欠陥/多動性障害」を持つ私にとって
財布や携帯電話をつるすヒモは、
足の悪い人の杖や
目の悪い人のメガネのようなものなのです。

世の中には自分の持つ障害を
工夫や努力で補っている人がいます。
そうした人の中には、
少し見ただけだと
どこが障害者なのかわからない人もいます。
けれどだからといって
その人が障害に苦しんでいないわけではないのです。
「普通に見える」・「障害者に見えない」裏で
普通の人には必要のない
苦労や努力や工夫をしている人がいることを、
ぜひ知っていただきたいと思います。


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by imadegawatuusin | 2014-01-22 17:59 | 暮らし家庭

ニュージーランドの先住民族マオリの女性が
口元のタトゥーを理由に
北海道の温泉施設で入浴を断られた件について、
「マニュアル通りの画一的な応対は……
 『おもてなし』の対極にある」とする
「おもてなしの心は大丈夫か」(9月20日)と、
「例外は認められない……と説明した……施設の説明を
 是としたい」とする
「入れ墨認めない側にも一理」(10月17日)とを
朝日新聞の投書欄で相次いで読んだ。

マオリ民族のタトゥーはごく一般的な風習であり、
暴力的なものでは全くない。
他方、
入浴施設にある注意書きには大抵、
「入れ墨をされた方の入浴はお断りします」と
あるだけで、
暴力団員を連想させるかどうかは
判断基準になっていない。
英和辞書を引くと"tatoo"は「入れ墨」とある。
規定を素直に解釈する限り、
「入浴お断り」となってしまうのも無理はない。
今回の件を受けて問われるべきは
施設の「応対」の是非ではなく、
入れ墨をもって一律に入浴を断る規定自体の是非である。

近年では
若者がファッションでタトゥーを入れることもある。
国際化・多文化共生の進展にともない、
「入れ墨=暴力団」という
日本社会の狭い認識そのものを
変えていく必要があるのではないか。
入れ墨自体は善でも悪でもない単なる文化現象だ。
入れ墨をもって施設の利用を一律に断る規定そのものを
見直していくべきだろう。

【参考記事】
「入れ墨お断り」規定見直せ


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by imadegawatuusin | 2013-10-26 17:17 | 暮らし家庭

ニュージーランドの先住民族・マオリの女性が、
口元の「タトゥー」を理由に
北海道の温泉施設で入浴を断られた件について
9月20日の朝日新聞の投書欄に投稿があった
(「おもてなしの心は大丈夫か」)。
投稿者は女性のタトゥーを、
「暴力団員を連想させる『刺青』ではない。
 伝統文化の『タトゥー』だ」という。

確かに
マオリ民族のタトゥーが
暴力団員を連想させるものでないことは明らかだ。
だが、
温泉施設などによくある注意書きには大抵、
「入れ墨をされた方の入浴はお断りします」などと
書いてあるだけで、
暴力団員を連想させるかどうかは
判断基準になっていない。
手元の英和辞書を引くと、
"tatoo"は「入れ墨」と訳されている。
主観を入れず、
規定を純粋に解釈する限り、
これでは
やはり「入浴お断り」とならざるをえないのではないか。

投稿者は、
「マニュアル通りの画一的な応対は……
 『おもてなし』の対極にある」という。
だが、
規定がある以上、
現場の従業員はそれに従って応対せざるをえない。
問題は応対にではなく
規定そのものにあると考えるべきだ。

最近では
若者がファッションでタトゥーを入れることもある。
多文化共生社会の進展で、
「入れ墨=暴力団」という図式そのものを
改める時がきたのではないか。
入れ墨をもって
施設利用を一律に拒絶するような規定は
見直す必要があるだろう。

【参考記事】
入れ墨お断り規定自体の是非を


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by imadegawatuusin | 2013-09-20 16:25 | 暮らし家庭

――犠牲者にも「働く貧困層」――

■容疑者:住居転々「生きるの嫌に」
大阪・ミナミの個室ビデオ店で
1日未明に火災があり、
15人が死亡、10人が負傷した。
大阪府警は同日午後、
利用客の無職・小川和弘容疑者を
放火の疑いで逮捕。
電器関係の下請会社をリストラで退職後、
最近は住居を転々として生活に困窮していたという
46歳の容疑者は、
「生きるのが嫌になった」などと供述しているという。

■被害者:訪問介護、個室ビデオ店から「出勤」
だが、
実際に死んだのは小川容疑者の方ではなく、
その他の客の方だった。
特に、
「個室エリア」内の奥の部屋に犠牲者は集中。
15人の死亡者のうち、
12人が小川容疑者の部屋より奥で見つかっている。
うち9人は部屋の中で死亡しており、
「仮眠」中に被害に遭ったと見られている。
残る3人は廊下で、
うち1人は突き当たりで発見されており、
逃げ出す途中に「袋小路」に迷い込み、
息絶えた模様だ(毎日新聞9月3日)。

注目すべきは犠牲者の中に、
「住所不詳」の50代男性がいることだ。
事業を経営していたが、
巨額の借金を抱え、
個室ビデオ店を住まいにするようになった。
「午後11時以降なら料金が安い」と話していた。
現在は訪問介護会社に勤務。
「まじめでよく働いてくれていた」、
「お年寄りの入浴など
 体力が必要な仕事を
 進んで引き受けてくれた」と
同僚も語る(読売新聞9月3日)。
事件当日も、
夜が明ければ大阪市西成区の高齢者宅に
個室ビデオ店から「出勤」し、
訪問介護をする予定だった。
ヘルパー2級の資格を習得し、
職場の貴重な戦力だったといい、
次は介護福祉士の資格を取ろうと
勉強を続けていた(朝日新聞9月3日)。
個室ビデオ店がまさに、
こうした働く貧困層の
仮の宿と化していたことがわかる。

■深夜営業の個室店舗は「宿泊施設」
しかし、
個室ビデオ店はあくまで
「ビデオ鑑賞施設」という建前だ。
火事などがあっても
客は基本的に起きているという前提で
施設が設計されている。
それが証拠に個室ビデオ店には、
「ソファ」や「リクライニングチェア」はあっても
ベッドはない。
布団が置いてあるわけでもない。

とはいえ実際には、
「座るソファ」とは別に「足かけソファ」も
同じ個室の中にあり、
頭をソファに、
足を「足かけソファ」に横たえれば
横になることは可能である。
また、
「布団」はなくても
「ひざかけ用」の毛布はある。
内側から鍵もかけられる。

大体、
午前3時に利用客全員が
「ビデオ鑑賞」をしているなどという前提が
どだい馬鹿げているのである。
事件現場は1晩1500円で宿泊できる、
「現代版のドヤ」だったのだ。

一定規模以上のホテルには
スプリンクラーの設置などが義務づけられている。
だが、
「ビデオ鑑賞施設」である事件現場には、
この規制が及ばなかった。
店側が、
定期的に利用客の避難誘導訓練などを
店員に対して行なっていたのかどうかも
はなはだ疑問だ。

はっきり言って、
深夜に営業する個室店舗は
すべからく事実上の宿泊施設と見なすべきだと
私は思う。
不特定多数の人々が
寝泊まりしている実態がある以上、
一般の娯楽施設より厳しい管理体制が求められるのは
当然だ。

最悪なのが、
「横になれるから宿泊施設」、
「毛布があるから宿泊施設」というような
小手先の定義の新設をもって対応し、
結果として、
インターネットカフェや個室ビデオ店から
リクライニングチェアや足かけソファ、
毛布などを撤去させてしまうことである。
そこには、
1日の労働を終え、
明日へのリフレッシュのために睡眠を取る、
働く貧困層がいる。
そのことだけは、
絶対に忘れてほしくない。
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by imadegawatuusin | 2008-10-02 23:12 | 暮らし家庭

世界の「食器の洗い方」

――洗剤を「すすがない論理」――

■背景には風土の違い
今日の『朝日新聞』朝刊に、
「食器すすがないお国柄?」という記事が掲載された。
「ニュージーランドの牧場に滞在したとき、
 現地の人はシンクにためた洗剤液に鍋や食器をつけた後、
 よごれをこすり、
 水ですすがずそのままふきんで拭いて、
 しまっていた」という読者からの質問に答えたものだ。

記事によると、
世界の食器の洗い方は大きく2つに大別できる。
一つは、
北米やヨーロッパ・オーストラリアなどで主流の、
洗濯液に食器をつけて洗い、
すすがない やり方。
もう一方が、日本・インド・ブラジルなどで主流の、
洗剤をスポンジに付けて洗い、
その後 水で すすぐ やり方だ。

日本人はすぐに、
「すすがないと洗剤が口に入って危険では」と考えてしまうが、
食器用洗剤の成分は万国共通である。
欧米流の洗い方をされることも最初から想定されており、
健康・環境問題に敏感な欧米でも
「食器に残った洗剤」が問題になることは まずないとのことだ。

この記事が面白かったのは、
この違いを単に「清潔観念」などに還元せず、
「風土の違い」にまで考察を深めている点である。

一般にヨーロッパでは水が豊富とは限らない。
オランダでホームステイした女性の、
「食器をすすいでいたら
 『水がもったいない』としかられた」という
体験談を挙げている。
(「皿は食べない」と言われたという体験談も)。

また、
ヨーロッパでは水の性質がミネラルを多く含む硬水であるので、
すすぐと器に「水のあと」が残ってしまう。
水を「清浄」の象徴と考えがちな日本人には、
「水で洗うと あとが残る」という発想自体が
乏しいかもしれない。
(そもそも「水はきれいなもの」という前提自体、
 世界万国共通とは言えないかも。
 水の安全性が完全に確立されているわけではない地域では、
 むしろ「洗剤入りの水で洗う方が安全」という感じ方も
 あるはずだ)。

また、
欧米の「ナイフ・フォーク・皿」に比べ、
日本のハシや漆器は汚れが落ちにくい。
こうした違いが洗い方の違いに反映されているのではと
記事は見ている。
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by imadegawatuusin | 2008-01-21 16:56 | 暮らし家庭

――民主党は性的少数者への差別的諸規定撤廃に主導的役割を――

■民主党小沢代表らからも祝電
大阪府議として在職中に
同性愛者であることをカミングアウトした尾辻かな子さんが、
パートナーの木村真紀さんと、
愛知県名古屋市中区の池田公園で
女性同士の「結婚式」を行なった。
夏の参院選比例区で
民主党からの立候補が決定している尾辻さんのもとには
小沢一郎民主党代表や鳩山由紀夫幹事長、
さらには大阪府の太田房江知事からも祝電が到着。
仮説ステージ最前列の双方の家族にも見守られ、
参加者からライスシャワーや拍手を浴びる中、
二人は満面の笑みで応えていたという(朝日新聞6月4日)。

僕もこの式典にはぜひとも出席したいと思っていたが、
労働組合の合宿関係団体の総会が重なり、
残念ながら出席できなかった。
お二人の「結婚」を心からお祝いし、
改めて同性愛者をはじめとする性的少数者の人権が尊重される社会の構築に向け、
力を尽くしてゆくことを表明したい。

■僕と尾辻かな子さん
実は僕は、
2003年に尾辻さんが大阪府議会議員選挙への立候補宣言をしたときに、
その場に居合わせていた人間の一人である。

それは川田龍平さんの講演会と尾辻さんの出馬宣言が
セットになったような集会で、
僕は尾辻さんというよりは、
むしろ川田さんの講演を聴きに行ったのだ。
(じつは、尾辻さんのことは全く何も知らなかった)。

まず集会前半が川田さんの講演で、
集会後半に前職府議の山中きよ子さんが、
「私のバトンを、尾辻かな子さんに託そうと思います」と後継者指名。
その後 尾辻さんが決意表明をするという流れだったと記憶している。

その際、尾辻さんの公約が配られ、
その中に「セクシャルマイノリティの人権尊重」というコーナーが、
他の項目とは別に、
それ自体で1つの項目として設けられていたのである。
(「私たちの社会には、
  同性愛者や性同一性障害者・半陰陽者などの性的少数者が
  一定の割合で生活しています」というような「基礎知識」からはじまり、
 「違いを認め合い、共に生きてゆく社会を築いてゆくために、
  尾辻かな子は力を尽くします」というような内容だったように思う)。

で、これを読んで僕は、
「こういうことをちゃんと主張する政治家さんがついに現れたんやなと、
 いま、僕、ホンマちょっと感動してます。
 応援してます。ぜひ、頑張ってください」と発言した。

だから、尾辻さんが正式に立候補表明をした後、
尾辻さんのセクシャルマイノリティ政策を応援・激励した
(事情を何も知らない)市民第1号は僕である、と、
自分で勝手に満足したりしてきたのである。
(今でも、「事情を知らない市民第1号の声」が、
 「なんやこれは。
  こんなこと書いてたら通るもんも通らんようになるぞ」といったものでなくて、
 本当によかったと思っている)。

さて、今にして思えば奇妙な話なのであるが、
僕はこのとき、
(というかその後ずっと)
「尾辻さん自身がセクシャルマイノリティである」という可能性は
まったく考えていなかった。
「いやあ、『理解のある』議員さんが出てきてよかったよかった」と、
そんな感じに捉えていたのだ。
(後援会の名称が「尾辻かな子とレインボーネットワーク」で、
 「六色の虹」がそのシンボルマークであったにもかかわらず、
 その2年後、2005年の「カミングアウト」まで、
 僕は尾辻さん自身がセクシャルマイノリティであるという発想には
 まったく思い至らなかった)。

その後 尾辻さんとは、
反戦集会やメーデー、
「性同一性障害者」の性別変更の法制化を求める集会などでも
お会いすることがあった。
いつも はつらつとしていて、パワフルで、
「凄い人やなぁ」と驚かされてばかりであった。
(僕はその後 愛知県に引っ越した関係で、
 基本的に、
 「カミングアウト前の尾辻かな子」しか知らないので、
 その後どうされたかはあまり知らなかったりするのであるが……)。

■民主党は憲法第24条の「論憲」を!
さて、尾辻さんと木村さんの「結婚」であるが、
現在の法体系のもとでは法律上、
実は有効性をもたない。
わが国の最高法規・日本国憲法第24条には、
「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し」と規定されており、
民法も同性同士の婚姻を現段階では想定したものとはなっていない。

なお、日本国憲法制定時に日本共産党が発表した
「日本人民共和国憲法(草案)」でも、
「婚姻は、両性の合意によってのみ成立し、
 かつ男女が平等の権利をもつ完全な一夫一婦を基本とし、
 純潔な家族生活の建設を目的とする」とされていた。
憲法第24条は、
革新政党ですらこうしたことを平然と書いて恥じない時代に書かれた条文であり、
同性同士の「結婚式」が執り行われるようになった今では
明らかに「時代遅れ」の遺物である。

民主党は「論憲」を唱えている。
僕は、「論憲」にあたってはこの憲法第24条を議論の対象に加えることを
強く希望するものである。

公営住宅において、
事実婚の関係にある男女が「家族」として同居できるにもかかわらず、
結婚したくてもすることのできない同性同士のカップルが
同居することを拒否されるといった差別的な規定(およびその運用)の撤廃も
急務である。
民間の住宅においても、
こうした差別はやはり禁止されなくてはならない。

尾辻さんを公認候補とした以上、
民主党が尾辻さんを単なる「広告塔」として扱うことは許されない。
多用な性のあり方を認め合う国家・社会の建設に向けて、
積極的な政策提案を党として行なってゆくことこそが
今後の民主党の責務となるだろう。

【関連記事】
朝日新聞:尾辻かな子さんの記事を掲載

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by imadegawatuusin | 2007-06-04 16:01 | 暮らし家庭

――背景に政治家の安易な祝電乱発――

■安倍氏事務所:「担当者に注意」
統一教会系の団体が5月に福岡市内で開催した集会に、
安倍官房長官の地元事務所が官房長官の肩書で
祝電を送付していたことが19日、確認された(朝日新聞6月20日)。
安倍氏の事務所は、
「誤解を招きかねない対応であるので、
 担当者にはよく注意した」とコメントしている。

■この集会は「合同結婚式」を兼ねていた?
この集会では、
統一教会が「真のお母様」と規定する教祖夫人や
その四男が基調講演を行ない、
「合同結婚式」がとりおこなわれたと
光文社が発行する写真週刊誌『FLASH』(7月4日号)は報じている。
また統一教会が発行する『中和新聞』(6月1日)には、
この集会で教祖夫人と四男との「お二人が主礼として
聖水儀式、聖婚問答、祝祷、聖婚宣布を行われ、
参加者を祝福してくださ」ったと報じられている↓。
http://www.kogensha.com/products/magazines/C681.htm
統一教会側は、
「大会の中に『国際合同結婚式』というプログラムは行われておりません」、
「祝福式は『健全な家庭を築く決意』を
 様々な文化、思想、宗教背景の方々が参加し行われるものであり、
 特定の宗教団体の儀式ではありません」などと主張している↓。
http://www.iifwp-jp.org/inform.html

だが、
「教祖夫人と四男との『お二人が主礼として
 聖水儀式、聖婚問答、祝祷、聖婚宣布を行』」なったこの式典は、
参加カップルが「聖なる婚姻関係」に入ったことを宣言し、
祝福する目的で行なわれた
一種の「婚姻儀礼」であったことは間違いない。
たとえ「合同結婚式」という名称ではなかったのだとしても、
外部の人間から見れば、
この「祝福式」なるものは
「合同結婚式」変種とでもいうべき意味合いを持った儀式であったと
言わざるを得ない〔注1〕。

大体この統一教会(正式名称:世界基督教統一神霊協会)という団体は、
「基督教」を僭称しながら
インチキな霊感商法で壷や仏像(!)などを法外な高額で売りつけるといった
犯罪的なやり方で資金集めを繰り返してきた
実にデタラメな集団なのだ。
このような犯罪集団と事実上 表裏一体の関係にある集会を「祝」うのは、
どうひいき目に考えても、
見識のある政治家のすることとは言えないだろう。

■よく知らない政治家の「祝電」・「弔電」の披露は止めよう
このような問題が起こる背景には、
政治家が売名や支持者対策を目的として、
有権者の結婚式や葬式に
「祝電」や「弔電」を乱発する日本の風潮が存在する。
その意味で、
今回はたまたま安倍氏が問題となったが、
ある意味ではこれは、
「祝電」や「弔電」を乱発している日本の政治家 誰もに
降りかかりうる問題であると言えなくはない。

またさらに元をたどれば、
政治家から「祝電」や「弔電」が届けられることで、
自らの冠婚葬祭に「箔」が付くなどと考える
日本の有権者の権威主義的な傾向にも
問題があると言わざるをえない。

大体 僕は、
冠婚葬祭における「祝電披露」・「弔電披露」なるものには
大いに疑問を感じている。
そもそも式典の出席者はみな、
それぞれ多忙な生活の中でスケジュールを調整し、
わざわざ式場まで足を運んでいるのである。
そのような出席者を差し置いて、
式典に出席もしなかった人間の名前をわざわざ読み上げるのは、
実際に出席した人々に対してずいぶんと失礼な話ではないだろうか。

それも、
当事者の本当に親しい友人や恩師が、
例えば病気のためにどうしても出席できないとかいう場合に
それを読み上げるとでもいうのであれば話は別だが、
結婚式や葬式を開くと、
(そもそもそれをどこで聞きつけたのか知らないが)
ほとんど面識のない、名前ぐらいしか知らない政治家から
祝電や弔電が送りつけられてきたり、
秘書が押しかけてきたりするのである。

はっきり言ってこのようなものを、
わざわざ式典で紹介してやる必要はない。
有権者の側がありがたがって紹介したりしてやるから、
政治家の側はバカバカしい売名行為を繰り返し、
本来 国政や地方自治の政策立案に携わって
国民・市民に奉仕するべき政治家秘書が
アホらしい「結婚式回り」や「葬式回り」に
忙殺されることになるのである。

そこで僕は提案する。
結婚式や葬式で、
よく知らない政治家の「祝電」・「弔電」を披露するのは
そろそろやめにしようではないか。
僕たち有権者一人ひとりが「祝電」・「弔電」の披露を止めれば、
政治家の側も無駄なことに金を使うことはなくなる。
やがてこうした風習自体が
廃れてゆくことになるだろう。

〔注1〕統一教会の公式教義では、
信者は清く「純潔」を保ち、
再臨のメシアである文鮮明氏の指名した相手と「聖なる婚姻」を結ぶことにより、
その身を清く保ったまま無原罪の子供を生むことができるとされている。

しかしこの教義は、
「純潔」な青年や乙女たちには魅力的なものだが、
「すでに純潔でなくなってしまった」既婚者たちには
非常に厳しい内容である。

統一教会の教えにめぐり合う前に「純潔」を汚してしまった人は、
一体どうすればいいのだろうか。
どんなに統一教会に帰依しても救われることはないのだろうか。

ところがそれは、大丈夫なのだ。
安倍晋三先生も祝電を送った
「天宙平和連合」の大会に参加して、
「真のお母様」から「聖水儀式、聖婚問答、祝祷、聖婚宣布」を受けると、
あら不思議、
たちまち合同結婚をした「純潔」な人々と同様の
聖なる婚姻関係の仲間入りを果たすことができるのだ。
(何か堕落期のローマカトリックがやった「免罪符」販売を思い起こさせるが)。

言ってみれば今回日本で開かれた「祝福式」なるものは、
統一教会の教えに出会う前に「不純な」結婚をしてしまった人たちのための、
「合同結婚式やり直し大会」とでも言うべきものだったのである。
統一教会側が
「参加者はすでに結婚したカップル、またはその家族であ」った等と反論しているのは、
実はこういうことなのだ。
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by imadegawatuusin | 2006-06-20 13:49 | 暮らし家庭

5月1日の記事に対して、
おまさぼうさんからいただいたコメントの中に、
次のような言葉があった。

韓国のことわざ
「もう遅いと思ったときが一番早いときなんだよ」という言葉をたよりに、
この4月から、
ある勉強を再開しました。
それと、
毎日ブログを更新することが現在の目標です。


僕はまったく知らなかったが、
「もう遅いと思ったときが一番早いときなんだよ」ということわざ
実にすばらしい言葉だと僕も思う。

「もう遅いと思ったとき」に、
踏みとどまって(少しずつでも)がんばれるか、
それともすべてを放棄してあきらめてしまうかに
人生の成否はかかっていると僕は思う。

僕の好きな三重野瞳さんの名曲「がんばって」の中にある、

もうだめだと思ったときが始まり


という言葉も、
きっとこのことを言っているのだ。

「全てをあきらめ何もしない」のと
「少しずつでもがんばる」のとでは大違いである。
例え結果が同じく「失敗」におわっても、
日ごろの区々たる努力に数倍する差が
そこで生まれることになる。

ピンチのときこそ差をつけるチャンスだ。
常に最善を尽くすとは、
自分がベストの状態にないときでも、
その中でなおがんばり続けるということである。
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by imadegawatuusin | 2006-05-03 18:02 | 暮らし家庭

■勉強は「どれだけ持続し続けたか」が肝心だ
僕の尊敬する予備校講師・出口汪先生は、
「人間の能力は、
 人が思っているよりもすごいものである。
 自分が不可能だと思ったことも、
 いざやってみれば何とかなることが多い」と主張する(出口汪『出口汪の大人のための超スピード勉強法』青春出版社 30ページ)。
しかし、
それを可能にするためには、
「生涯にわたって勉強しなければならない」のだという(本書31ページ)。
それも、
「毎日」することが必要なのだ(本書128ページ)。
「勉強のコツは、
 どれだけ毎日持続し続けたか、である」(本書138ページ)。

■締め切りを作れ
ただし、
漫然と続けるだけでは効率が悪い。
勉強には、
「締め切りを作る」必要がある(本書135ページ)。
そして、
「一度決めたことは、
 どれほど苦しくても絶対に逃げてはいけない」(本書136ページ)。
勉強も仕事も
「期限を設定し、
 逃げないと覚悟すること」が大切なのだ(本書137ページ)。

■知的生産に必要な3つの力
僕は人生の指針の一つに、
「生活のあらゆる局面における自己表現」を掲げている。
中でも、
このブログの執筆を中心とする知的生産活動は、
自己表現の最も重要な手段の一つである。
出口汪先生は
「知的生産を可能にするために、
 どうしても必要」なのは、
言語力・論理力・想像力の3つの力であるという。
「この三つさえ身につければ、
 この現代社会の状況、
 さらには人間の奥深いところや文学、芸術に至るまで、
 深く認識し、考え、
 表現することができる」ようになるそうだ(本書43ページ)。

■言語力が全ての基本
そしてこの3つの能力のうちでも、
言語力こそが、
全ての能力の基本となる。
なぜなら私たちは、
「『言語』を通してしか……この世界をとらえることができない」からだ(『ことばはちからダ! 現代文キーワード―入試現代文最重要キーワード20―』河合出版 63ページ)。
「人間を取り巻いているこの世界は、
 言葉を与えられる前は混沌……とした、
 漠然としたものである。
 そして、
 人間はこの世界に言葉を与えることで、
 分節化……し、整理し、
 秩序あるものと」して把握するのである(前掲書61ページ)。
言い換えると、
自然という連続の世界を私たちは、
「言語という文化装置によって、
 不連続なものに」区切って意味を与えていくことで、
はじめて認識しているのである(前掲書62ページ)。
「私たちが言語でものを理解し、
 言語でものを考えている限り、
 言語と思考は切り離すことができない」(出口汪『出口のシステム現代文「ベーシック編」』水王舎 2ページ)。
「私たちは……、
 無意識のうちに言葉を使って、
 ものを考え、感じているのだ」(前掲書12ページ)。
よって、
「論理も感性も、
 言語力で鍛えられる」(出口汪『出口汪の大人のための超スピード勉強法』青春出版社 75ページ)。
「言葉を……漠然と使ってい」る人は、
「漠然としかものを考えることができない。
 曖昧な言葉の使い方をしている人は、
 曖昧にしか考えることができないのだ」(出口汪『出口のシステム現代文「ベーシック編」』水王舎 13ページ)。 
要するに「言葉の扱い方は、そのまま
私たちの世界に対する整理の仕方、認識の仕方を表わしている」のである(前掲書14ページ)。

■言語力……毎日評論を読もう
言語力を身につけるには、
評論文を、
「ほんの少しの時間でいいから毎日読むこと」だという(出口汪『出口汪の大人のための超スピード勉強法』青春出版社 102ページページ)。
「毎日十分でもいいから、
 評論文を読むことを習慣づけ」ることで
「論文の用語(特に抽象語)や文体を手に入れる」ことができ、
これが
「生涯有益な勉強の第一歩」になる(本書105ページ)。

■論理力……主張の論証法をつかみ取れ
次に論理力を身につけるには、
評論を読むにあたって、
「著者の主張の部分にアンダーラインを引きながら読む」ことだという(本書107ページ)。
「一つのパラグラフごとに筆者の主張をつかみ取」り、
「それがどのように論証されているかを考え」ながら読むのである(本書110ページ)。
こうすることで「論理脳」が鍛えられ、
論理力を養成する第一歩となるそうだ(本書108ページ)。

新聞を読むにあたっても、
毎日、コラム、社説などに目を通すことが大切だ。
「その際、
 筆者のたった一つの主張は何か、
 それがどのように論証されているのかを考え」ながら読むといいという(本書109ページ)。

■想像力……文学的文章を毎日読もう
最後に想像力を養成するためには、
「文学的文章を絶えず読み込むしかない」という(本書118ページ)。
特に小説をその描写から、
登場人物の心情を正確に把握・分析してゆくことで、
人間理解を深めることができるという(本書112~117ページ)。
文学的文章を毎日読むことで、
「豊かな想像力が身につき、
 現実の人間関係が驚くほど円滑になることは、
 何万人もの生徒を見ながら
 私自身が実践してきて確信することだ」と出口汪先生は言う。

■ブログで「話し言葉禁止の日記」を
知的生産にあたっては、
「一日一つ、得た知識を人に説明する」ことを
出口先生は薦めている(本書153ページ)。
そのためには、
ブログで「『話し言葉禁止の日記』を書いてみる」のがいいという。
「意識して論理的な用語を使って論理的な文章を」書くことで、
「冗漫な日常を綴る日記群の中で、
 うまくすればそれは
 異彩を放つ存在になるだろう」と出口先生は教えている(本書155~157ページ)。

話をするにあたっても、
「相手に正確に伝えるためには、
 どのように話せばいいのか」ということを
「絶えず意識する」ことが大切だ。
「ただ思うがままに垂れ流すように喋らない」ことである(本書155ページ)。

■毎日、必ず決まった時間に起きること
なお、
その他本書では、
「頭がよくなる睡眠時間のとり方」として、
「起床時間を一定にする」ことが提言されている。
「夜遅くなっても、
 必ず決まった時間に起きる」ことで、
規則正しい生活を送ることが可能となるのだ(本書171~172ページ)。

■今や本はすぐ消える
また本は、
「欲しいと思ったら躊躇することなくすぐに買う」のがよいとされている。
「今や書店では数多くの本が山積みとなり、
 売れない本はすぐに姿を消してしまう」からである(本書151ページ)。


《参考サイト》
「ブログで『知を耕す』」
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by imadegawatuusin | 2006-05-01 12:25 | 暮らし家庭