板野博行『語句ナビ690』について(その9)
そもそも矛盾する事態を抱えることは
飛躍へのチャンスのような
気がするのだ。
なぜなら、
どうでもいいことならば、
少々矛盾していても気にならないものだが、
真剣に考えざるをえない
矛盾した事態というのは、
その時点で
解決へ向けてのやる気やエネルギーを
もっていることの証明だと
思えるからだ。

つまり
「矛盾して悩んでいる時こそが
 解決のチャンスであり、
 飛躍できる時なのだ」
と考える方が前向きでいい。

そしてそのときの解決法としては、
この「弁証法」をオススメする。
やり方としては、
矛盾するものを
両方いっぺんに手に入れるべく
努力し考えるのがベストだ。(本書78~79ページ)


矛盾に直面したときに、
単なる折衷で済ませれば、
人間も社会も進歩がない。
矛盾は折衷によってではなく、
弁証法的により高度に止揚することで
克服するのでなければ、
新しい世界は開けない。


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# by imadegawatuusin | 2009-08-06 21:35 | 日本語論 | Trackback | Comments(0)
板野博行『語句ナビ690』について(その8)
本書72ページに掲載されている
四コマ漫画には、
「西欧に旅行するときは
 気をつけよう
 ホテルのろうかは屋外といっしょ
 パジャマで歩いちゃいけないよ」
とある。
73ページの解説には、
「西欧においては
 『部屋』が『内』であり、
 そこを出ればすべて『外』である」と
指摘されている。

それに対して日本はどうかというと、
「日本ではっきりと
 『内と外』のはっきりしている
 境界としては、
 『家』の『内と外』の区別だろう。
 『家』に入るのには
 靴を脱がなければならないことが
 象徴しているように、
 『家の内と外』の区別は
 歴然としている。
 それに対して
 『家』の『内』での各部屋の区別は
 西欧ほどはっきりとはしていない」
とある。

この違いは、
「個人」を基本単位と見る西欧の個人主義と、
「イエ」を基本単位と見る
日本の「イエ中心主義」の違いに
対応しているのではないだろうか。


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# by imadegawatuusin | 2009-08-05 21:20 | 日本語論 | Trackback | Comments(0)
板野博行『語句ナビ690』について(その7)
本書54~55ページに、
恋人から
「あたしのこと
 どれぐらい
 好き?」とたずねられた男が、
「日本海溝
 くらいかな…」と答える
エピソードが載っている。

恋人は
「わか
 らん!!」と言っているが、
要するにこの男は
恋人を「海よりも深く愛している」と
言いたかったのであろう。
(比喩として成功しているかどうかは
 別問題であるが)。


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# by imadegawatuusin | 2009-08-04 23:25 | 日本語論 | Trackback | Comments(0)
板野博行『語句ナビ690』について(その6)
――仏教とキリスト教の死生観の違い――

■キリスト教は「死は敵である」と見る
板野博行『語句ナビ690』に、
西洋と日本の「自然観」の違いは
キリスト教仏教
世界観が反映した部分が
大きいとあり、
特に死生観における違いが
強調されている箇所がある。

『語句ナビ690』には、
「キリスト教では生と死が
 対比概念である」とある(本書53ページ)。
実際、
キリスト教の聖典・『聖書』は、
「死」を「敵」として教えており(コリントの信徒への手紙一15章26節)、
死は人間に対する敵対概念として
登場する。

それに対して仏教においては、
生と死は連続概念である。
全ての生けとし生きるものは死ぬ。
それは実に当たり前のことであり、
ことさら悲しいことであったり
悪いことであるとは
教えない。
克服すべきは「死」そのものではなく、
「死への恐れ」であると説くのが
一般的だ。

この2つの教えの根底にある、
世界観――死生観の違いは
たしかに小さなものではない。


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# by imadegawatuusin | 2009-08-03 10:53 | 日本語論 | Trackback | Comments(0)
板野博行『語句ナビ690』について(その5)
――仮面は「顔」=「個性」を消去する――

■モザイクは「顔」を隠す
本書26ページから27ページの「仮面」の項は、
本書の最も難解な部分だ。
何度読み返しても意味がわからない。

まずのっけから、
「仮面=ペルソナ」の存在価値を論じることは、
とりもなおさず
近代的「自我」について論じることになる。(本書26ページ)

とくる。
何で?

次はこうだ。

「仮面」のもつ逆説的意味としては、
一件無表情に見える「仮面」の裏側にある
「有機的宇宙」の存在にある。(本書26ページ)


「意味としては
 ……存在にある」って、
文法的に係り結びがおかしくないか。

そもそも「仮面」の裏側に
何で「有機的宇宙」があったりするのか。

まず整理してみよう。
本書は仮面の裏側に
「有機的宇宙の存在」があるという。
これは、
おそらく何かの比喩なのだろう。
では、
仮面の裏側には何があるのかを考えてみれば、
答えは以外に簡単だ。
仮面の裏側には「人間」があるのである。
「有機的宇宙」とは、
究極の有機生命体である「人間」の世界を
象徴しているのだ。
それは「かつて人間がまだ
『近代的自我』をもつ前にあった世界のことで」あると
本書は述べている(本書26ページ)。
しかし
「近代に入ってからの人間は、
 自由という名の孤独にさらされた『自我』を
 もってしまい、
 かつての共同的な存在から
 個々に分断された存在へと変化した」(本書27ページ)。

仮面は人間の顔を隠す。
顔は人間の最も個性的な部分である。
その証拠に、
テレビなどで個人の特定を避けたいときには
必ず「顔」にモザイクをかける。
顔を映しながら
手にモザイクをかけたりすることはない。
人間の個性を最もよく表すのは顔であり、
手ではないからだ。
言い換えると、
顔は「孤独にさらされた『自我』」=近代的自我の
象徴である。

「その近代的自我を覆い隠し、
 再び人間を有機的宇宙へとつなげるものとして
 『仮面』はある」と本書は説く。
「人間のもっとも重要な(筆者注:個性的な)部分である
 顔を覆い隠すことで」(本書27ページ)、
人は「顔」を失い、
「個人」ではありえなくなる。

「個性」=近代的自我を消去し、
人を近代以前の共同体的存在へと誘う
象徴として、
仮面が捉えられているのである。
(そんな大層なものなのだろうか、
 仮面って……)。


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# by imadegawatuusin | 2008-12-05 17:46 | 日本語論 | Trackback | Comments(0)
板野博行『語句ナビ690』について(その4)
――「型」がないとはじまらない――

■「型」があっての「型破り」
「人間は環境の動物なので、
 結局何をどう『まねる』かが、
 その人を大きく決定していることになる」。
「『型』がないと
 はじまらない」(本書22ページ)。

無から有を生み出せる人はいない。
人間の活動はすべて、
あらかじめあるものを我が物とし、
加工し、改良を加えることによって
発達・発展してきたのである。

「『型』があってこその
 『型破り』」であり、
「『基本』があって
 こその
 『応用』」なのだ(本書23ページ)。

「『学ぶ』とは『まねる』こと」である(本書22ページ)。
何ごとに付けても、
まずは基本の習得・定型の習得から
はじめたい。


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# by imadegawatuusin | 2008-12-05 09:11 | 日本語論 | Trackback | Comments(0)
板野博行『語句ナビ690』について(その3)
――「エゴイズム」と「わがまま」の違い――

■「おもちゃ買って~」はエゴイズムでない
本書では「エゴイズム」を「利己主義」と定義、
「西欧近代社会が生んだ『個人主義』が
 悪い形であらわれたもの」と説明している。
「いわゆる『わがまま』というニュアンスに近いが、
 あくまで『近代的自我』を前提としている点に
 注意してほしい」とのことだ(本書16ページ)。

よって、
たとえばおもちゃ屋の前で
子供が「買って買って~」と
駄々をこねているのは「エゴイズム」ではない。
「近代的自我」ではなく、
むしろ「家族の一体性」・「親との一体性」を前提として
物をねだっているからである。


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# by imadegawatuusin | 2008-12-04 23:01 | 日本語論 | Trackback | Comments(0)
板野博行『語句ナビ690』について(その2)
――「因果関係」と接続語――

■「なので」の用法
本書の「因果関係」欄の四コマ漫画は
非常に示唆的である。

1.国語が苦手だった。
  なので、
2.「楽しく覚える方法が
   あればなぁ」と思った。
  だから、
3.4コマとゴロで、楽しく
  しっかり勉強。
  したがって、
4.大学
  合格!
  結果のあるところには
  必ず原因があるのだ!(本書14~15ページ)


1から2、
2から3、
3から4がすべて、
「なので」・「だから」・「したがって」と
順接の接続語でつながっている。
「AだからB」、「BだからC」、
「CだからD」という流れである。

ところが、
こうした因果関係を形成しているのなら、
「よってAだからD」と言えるかと考えると、
そうはいかないのである。
Aは「国語が苦手だった」であり、
Dは「大学合格」なのだ。

「国語が苦手だったから大学合格」というのは
論理的に考えて明らかにおかしい。

よくよく考えると、
AとBとの間に
一種の飛躍があるのではないか。
「国語が苦手だった」けれども(逆接)
「『楽しく覚える方法が
  あればなぁ』と思った」というのが
実際のところではないだろうか。

ただ、一般的な理屈として、
「国語が苦手だった。
 なので、
 『楽しく覚える方法が
  あればなぁ』と思った」というのは
よくわかるような気もする。

散文における順接の接続語は、
純粋論理学の「順接」とは
微妙にズレがあるのかもしれない。


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# by imadegawatuusin | 2008-12-04 22:51 | 日本語論 | Trackback | Comments(0)
板野博行『語句ナビ690』について(その1)
――「アイデンティティー」=「自己自認」――

■「自己の存在証明」なんて意味不明!
「アイデンティティー」の意味として、
本書では
「自己同一性・自己の存在証明」との語釈が
掲載されている(本書12ページ)。
自分でそう説明しておきながら、
「『アイデンティティー』という語自体が
 まだ日本語として根付かない」(本書13ページ)ためであろうか、
それを四コマ漫画で
「『自己の
  存在証明』
 なんて
 わかんないよ」と
自分で突っ込む場面がある(本書12ページ)。

これではかえって訳がわからなくなりそうだ。

私の理解するところでは、
「アイデンティティー」という言葉は
「自己自認」とか「自己理解」、
あるいは
「自分の自分たる拠り所」などと言い換えてみると、
かなりしっくりくると思う。

自分で自分のことを、
「私は○○だ!」と自認するところのもの、
「僕は○○だ」と理解するところのもの、
そしてそのことが
自分の生き方・生活の仕方の
拠り所となっているところのものが、
この「アイデンティティー」というものなのだ。


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# by imadegawatuusin | 2008-12-01 22:56 | 日本語論 | Trackback | Comments(0)
英語は「心づかい」のない言語か
■公正さを欠いた日英言語比較
小学生用の国語教材・『読解の基礎』(JESDA)の
「書きぬき問題9」の項に、
国語学者・金田一春彦氏の著書『日本語』から取った問題が
収録されている。
「お茶が入りました」という表現に、
「自分の手がらは極力かくそうとする、
 ……日本人の心づかい」を見出すという文化論である。

確かに、問題を解くという作業を通じて
文化論や言語論に触れることは、
文化や言語といったものについて考えをめぐらせる良い機会となる。
単に子供たちの読解力を向上させるというだけでなく、
そうしたものに対する興味・関心を高め、
自分なりの思想を芽生えさせるきっかけにもなるはずだ。

しかしこの文章は、
今日の目から見ると非常に問題点が多いように
思われてならない。
小学生の子供たちが「国語」を学習する教材として、
明らかに不適切であると僕は思う。

この文章は、
「お茶がはいりました」に代表される
「自分の手がらは極力かくそうとする」表現を
「何と美しい言葉であるか」と絶賛する。
ここまでは、まあいい。
看過できないのは、
これと対比される形で「アメリカ」の例が
次のように記載されている点である。

日本人がアメリカへ行って
色の黒いお手伝いさんをやとう。
その人間が台所でコーヒー茶わんを割った。
何と言うか。

 「お茶わんが割れたよ」

と言うのだそうだ。
「お茶わんを割った」とは言わない。


そして、

日本人は違う。
……自分の責任にして、

 お茶わんを割りました

と表現するのである。


と続けるのだ。

つまり、「日本人」は
「お茶を入れた」という「自分の手がら」を「極力かくそうとする」ために、
「お茶がはりました」と
あたかもお茶がひとりでに入ったかのような表現をする。
その反対に「アメリカ」の「色の黒いお手伝いさん」は、
「茶わんを割った」という自分の落ち度を「極力かくそうとする」ために、
「お茶わんが割れたよ」と
あたかも茶わんがひとりでに割れたかのような表現をすると言うのである。
(日本人ならこのようなとき、
 「お茶わんを割りました」と表現するとも)。

これは、
日本とアメリカとの文化比較、
あるいは日本語と英語との言語比較の例として、
あまりに公正さを欠いたやり方だ。

まず、中学生レベルの英語の知識さえあればわかると思うが、
英語(特に英米において話される英語)において、
茶わんを割ったときに「お茶わんが割れたよ」などと言うことは
まずありえない。
そもそも英語には、
「割れる」などという動詞自体が存在しない。
(細かく探せばもちろんあるかもしれないが、
 あまり一般的な表現でないことは確かであろう)。

英語にあるのは"brake"(「割る」)と"be broken"(「割られる」)だけである。
そして英語は日本語と違い、
文に必ず主語を必要とする。
したがってアメリカの「お手伝いさん」には、
うっかり茶わんを割ってしまい、
「何があった!?」と聞かれたときには、
次の2通りの答え方しか存在しない。

1つは"I"(「私」)を主語とする答え方、

"I broke your cup."(「私があなたの茶碗を割りました。」)


もう一つは"cup"(「茶わん」)を主語とする答え方、

"Your cup was broken (by me)."(「あなたの茶わんが(私によって)割られました。」)


である。
「割れる」に当たる動詞がなく、
かつ、
「主語」を明示せずに「茶碗を割りました」などと言うことができない以上、
「お手伝いさん」は上のどちらかの表現を選択しなければならない。

そしておそらく、
この「お手伝いさん」は2番目の表現を選択したのであろう。
まず伝えるべきは「何があったか」である。
「私」について伝えるべきなのか、
それとも「茶わん」について伝えるべきなのか。
何よりも先に伝えなければならないのは
やはり後者であろう。
(筆者の想定する「日本人」も、
 「お茶わんを割りました」と、
 「お茶わん」を枕にして話をしている)。

したがって「お手伝いさん」は、
「茶わん」を主語にして言ったのだ。

"Your cup was broken."「あなたの茶わんが割られました。」


と。

しかし、筆者の友人である日本人は、
「茶わん」を主語にしたこの文を、
とっさにこのように訳して理解してしまったのだ。

「お茶わんが割れたよ」


日本人は「茶わん」のような「もの」を「主語」にする文に
なじみが薄い。
だから、
「茶わんが割られた」というような表現が
とっさには受け入れがたかったのであろう。

そもそも、
「あなたの茶わんが割られました。」というのは、
どう考えても日本語としては悪訳である。
だから、
"Your cup was broken."と聞いてとっさに
「お茶わんが割れたよ」と理解したこの人物は、
ある意味では非常に健全な日本語力を有しているわけだ。

しかし、それを元に、
『日本人は責任を引き受けるがアメリカ人は無責任だ』というようなことを言うのは、
明らかに不公正だ。

「お茶わんを割りました」という表現に「私が」という意味が潜在しているのと同様、
"Your cup was broken."には"by me"という意味が潜在している。
どちらが責任があるとか、無責任だというような問題ではないのである。

しかし、この文章にはさらに見過ごせない問題点がある。

■黒人に対する偏見を助長させかねない記述
茶碗を割ってその責任を免れようとするお手伝いさんについて、
「色の黒い」と書かれている点である。
「色の白い」お手伝いさんならこのようなことはしないのだろうかと
意地悪なことを考えてしまう。

少なくともこのケースにおいて、
唐突に肌の色を持ち出す必要はなかったはずだ。
関係のない「肌の色」を
どうして持ち出したりしたのだろうか。
僕はどうも、
ここに黒人に対する「悪意」のようなものを感じてならない。

言語に関する不正確な情報を元に、
一方の言語を用いる民族の「心づかい」を褒め上げたり、
特定の肌の色の人たちに対する偏見が垣間見られる文章を、
そうした点について何の説明もないまま小学生の学習教材として使用することは
好ましくないと僕は思う。

本教材の発行元であるJESDAは、
本書の再版にあたっては、
「書きぬき問題9」の掲載の是非について、
もう一度検討し直すべきであると考える。
# by imadegawatuusin | 2007-02-09 19:13 | 日本語論 | Trackback | Comments(0)
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名古屋ふれあいユニオン運営委員長・酒井徹の日記帳。反戦平和・人権擁護・社会のあらゆる領域における民主主義の徹底を目指す。派遣ユニオン東海職員。
by imadegawatuusin
メモ帳
酒井徹:名古屋ふれあいユニオン運営委員長。
派遣ユニオン東海職員。
1983年8月22日生まれ。
現在26歳。
住所
〒465-0048
愛知県名古屋市名東区藤見が丘36番地 コーポ名東401号
電話番号
090-4901-9364
電子メール
sakaitooru1983@excite.co.jp
所属団体は、
名古屋ふれあいユニオン(コミュニティーユニオン東海ネットワーク・コミュニティーユニオン全国ネットワーク加盟)、
名古屋労災職業病研究会全国労働安全衛生センター連絡会議参加)、
TMCのベトナム人実習生6人の裁判闘争を支える会
トヨタ・デンソー過労うつ病裁判を支援する会、
フィリピントヨタ労組を支援する会
愛知県生活と健康を守る会連合会(「全生連」傘下、「愛知社保協」「中央社保協」安保破棄中央実行委員会 構成)、
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