カテゴリ:日本語論( 34 )

――「チェリー」にも複雑な文化的背景あり――

本書『語句ェ門777』38ページの「言語論3」で、
著者の板野博行氏は、
「アメリカ人が『チェリー』という単語を口にしても
 特別な思い入れはない。
 しかし、
 日本人が『桜』と言う時には、
 『合格』の象徴であったり、
 『同期の桜』を歌ったりと、
 特別な感情が存在する。
 これは
 英語と日本語の意味が異なっているのではなく、
 『チェリー』と『桜』の語における
 歴史や文化に根ざした意味が異なっているのだ」と
言っている。

日本語の「桜」という言葉に、
単なる植物としての「桜」を超えた
文化的なニュアンスが付随していることは
否定できない。
だが実は、
英語の「チェリー」の背後にも、
日本語の「桜」とはまた別の
独特の文化的ニュアンスが存在する。

『ジーニアス英和辞典』によると、
"cherry"は「陽気さ・純潔・豊産の象徴」であり、
"lose one's cherry"(「チェリー」を失う)で
「処女を失う」という意味を表すことすらあるという。
こうした「チェリー」の複雑怪奇なニュアンスは、
日本語の「桜」や「さくらんぼ」という言葉では
到底表現することはできない。
(そもそも英語の"cherry"は
 「桜(の木)」をあらわすと同時に
 「桜の実(さくらんぼ)」をも意味する)。

「アメリカ人が『チェリー』という単語を口にしても
 特別な思い入れはない」というのは、
日本語の「桜」の背景にある
文化的ニュアンスを強調するあまり、
英語の「チェリー」の背後にある
文化的ニュアンスを軽視する
勇み足だったのではないかと思うがどうだろう。


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by imadegawatuusin | 2011-11-30 18:07 | 日本語論

――「近い」かどうかは潜在対象との比較で決まる――

本書『語句ェ門777』36~37ページの「言語論2」で、
「言葉はあいまいだからよい」として
「近い」という言葉が取り上げられている。

以前テレビで
「駅から近い」というのは
人によってどのくらい差があるかを検証していたが、
「近い」という語の幅は
人によって100mくらいから1kmくらいまでの
広さがあることがわかった。
ここから「近い」という言葉の定義は
人によってずいぶん異なっていることがわかる。
しかし、
「近い」という語を完全に定義してしまったならば、
逆に日常生活は不便になる。
「近い」という語は
定義があいまいであるからこそ実用的なのだ。


ここでは「近い」という語の語感が
「人によって」異なっている例を挙げている。
だが、
同じ人でも時と場合によって、
「近い」という言葉が使える距離は
大きく変化するはずだ。

例えば、
日本全体を考えたときには、
千葉県や神奈川県は
(およそ1kmの距離で済むはずはないが)
「東京から近い」ということになるだろう。
世界単位で考えたときには、
たとえ物理的な距離としては
1000km以上離れていたとしても、
「中国は日本から近い国だ」と言うことに
何の躊躇もないだろう。

すなわち「近い」とは、
潜在的に「遠い」とされるものとの比較によって
決まるのであり、
「○メートル以内」などと単純な距離で定義することは
そもそも不可能な言葉なのである。


【読書案内】
現代文のキーワードを、
頻出作家の考え方などを紹介しながら
コンパクトにかつ深く解説した本としては、
河合出版の
『ことばはちからダ! 現代文キーワード』
最も優れていると思う。
本書で現代文用語の基礎力を身につけた人は、
この本に進むとよいだろう。

日本語文の構造理解についての最良の入門書は、
本多勝一『日本語の作文技術』(朝日文庫)であろう。
日本語の文章について勉強がしたい、
わかりやすい文章が書きたいという人は
ぜひ読んでみてほしい。



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by imadegawatuusin | 2011-11-29 17:35 | 日本語論

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日本語の文章が読めない……。
日本語を母語としない人や
識字能力に難のある人でなければ、
原因はまず、
出てくる単語の意味がわからないということにある。

知的な文章を読むために
最低限必要なキーワードを集め、
これを解説した本はさまざまある。
その一つが本書・
『風呂で覚える現代文キーワード』である。
大学別入試過去問集・「赤本」を出版している
教学社が出している。

「有名私大・国公立大とセンター試験の過去問」から
50のキーワードを厳選したというのが売りである。
ただその中には、
「身分け」とか「遠近法」など、
「これが現代文キーワードなのか?」と
疑問の残るものもないではない。

むしろ本書の特色は、
各キーワードについている豊富な読書案内ではないか。
序文にあたる「はじめに」で、
新聞の社説や文化欄を読むことを薦めている点も
評価できる。

この本を読んだことをきっかけに、
さまざまな問題に興味・関心を広げ、
深めてゆく。
そんな「知の原点」とすることが
本書の理想的な使い方であろう。


【読書案内】
現代文のキーワードを、
頻出作家の考え方などを紹介しながら
コンパクトにかつ深く解説した本としては、
河合出版の
『ことばはちからダ! 現代文キーワード』
最も優れていると思う。
これが難しすぎるという人は、
漫画と短い文章とで
現代文キーワードをやさしく解説する
板野博行『語句ェ門777』(アルス工房)を経由して
読むとよいだろう。

日本語文の構造理解についての最良の入門書は、
本多勝一『日本語の作文技術』(朝日文庫)であろう。
日本語の文章について勉強がしたい、
わかりやすい文章が書きたいという人は
ぜひ読んでみてほしい。


『風呂で覚える現代文キーワード』(評価:3)

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by imadegawatuusin | 2011-09-18 18:25 | 日本語論

――事務所への出入りにおいて――

労働組合の事務所には、
さまざまな人が出入りする。
そのたびに、
「おつかれさまです」、
「おつかれさまでした」とのあいさつが
飛び交う。
その様子を見て、
ある日系ブラジル人が言った。
「出て行く人に
 『おつかれさまです』って
 いう人もいるし、
 『おつかれさまでした』って
 言う人もいるけど、
 どっちが正しいの?」

確かに、
出ていく人に声をかけるとき、
「おつかれさまです」とも言うし、
「おつかれさまでした」ともいう。
僕は、
「日本語は現在形と過去形とを
 あまり詳しく区別しないから、
 どっちでもいいよ」と言った。
ブラジル人は、
「どっちでもいいの?
 それ楽だね」と言った。

ところが。
事務所を出て行く人に声をかけるときは
どちらでもいいのだが、
入ってくる人に声をかけるときは
「おつかれさまでした」は
おかしいのではないかと
言う人がいた。
確かに、
事務所に入ってきた人に言う言葉は
やはり「おつかれさまです」でないと
おかしいだろう。
(よほど遠路はるばる来た人とか、 
 重い荷物を抱えてきた人の場合は
 「おつかれさまでした」と言えるかも)。

また、
自分が出入りする側の場合は、
入るときも出るときも
「おつかれさまです」しか使えない。
してみるとやはり、
「おつかれさまです」と
「おつかれさまでした」は違うのであり、
「どちらでもいい」ということは
できない。

まとめるとこうだ。


■自分が入るときに言う言葉
「おつかれさまです」○
「おつかれさまでした」×

■自分が出るときに言う言葉
「おつかれさまです」○
「おつかれさまでした」×

■入る人にかける言葉
「おつかれさまです」○
「おつかれさまでした」×

■出る人にかける言葉
「おつかれさまです」○
「おつかれさまでした」○

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by imadegawatuusin | 2010-06-20 15:04 | 日本語論

――弁証法:「矛盾は飛躍へのチャンス」――

そもそも矛盾する事態を抱えることは
飛躍へのチャンスのような
気がするのだ。
なぜなら、
どうでもいいことならば、
少々矛盾していても気にならないものだが、
真剣に考えざるをえない
矛盾した事態というのは、
その時点で
解決へ向けてのやる気やエネルギーを
もっていることの証明だと
思えるからだ。

つまり
「矛盾して悩んでいる時こそが
 解決のチャンスであり、
 飛躍できる時なのだ」
と考える方が前向きでいい。

そしてそのときの解決法としては、
この「弁証法」をオススメする。
やり方としては、
矛盾するものを
両方いっぺんに手に入れるべく
努力し考えるのがベストだ。(本書78~79ページ)


矛盾に直面したときに、
単なる折衷で済ませれば、
人間も社会も進歩がない。
矛盾は折衷によってではなく、
弁証法的に より高度に止揚することで
克服するのでなければ、
新しい世界は開けない。


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by imadegawatuusin | 2009-08-06 21:35 | 日本語論

本書74ページに掲載されている
四コマ漫画には、
「西欧に旅行するときは
 気をつけよう
 ホテルのろうかは屋外といっしょ
 パジャマで歩いちゃいけないよ」
とある。
同じ著者の『語句ナビ690』73ページでは、
「西欧においては
 『部屋』が『内』であり、
 そこを出ればすべて『外』である」と
指摘されている。

それに対して日本はどうかというと、
「日本において内と外のはっきりしている境界もある。
 それは『家』の内と外の区別だ。
 家に入るのに玄関で靴を脱がなければならないことに
 象徴されるように、
 『家の内と外』の区別は歴然としている。
 一方、
 一歩家の中に入ると
 各部屋の仕切りは『襖(ふすま)』や『障子』に象徴されるように、
 西欧ほどはっきりとは
 壁や扉で区切られていない」。
「西欧では
 自分の部屋から一歩外に出れば、
 家の中でも『外』の意識になるのとは
 対照的だ」。

この違いは、
「個人」を基本単位と見る西欧の個人主義と、
「イエ」を基本単位と見る
日本の「イエ中心主義」の違いに
対応しているのではないだろうか。
本書では、
「西欧では
 あくまで個と個とは区切られた別の存在」、
「日本の場合、
 一家は運命共同体であり、
 強固な自我の意識が発達しなかった」とある
(本書75ページ)。


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by imadegawatuusin | 2009-08-05 21:20 | 日本語論

本書48~49ページに、
恋人から
「あたしのこと
 どれぐらい
 好き?」とたずねられた男が、
「日本海溝
 くらいかな…」と答える
エピソードが載っている。

恋人は
「わか
 らん!!」と言っているが、
要するにこの男は
恋人を「海よりも深く愛している」と
言いたかったのであろう。
(比喩として成功しているかどうかは
 別問題であるが)。


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by imadegawatuusin | 2009-08-04 23:25 | 日本語論

――仏教とキリスト教の死生観の違い――

■キリスト教は「死は敵である」と見る
板野博行『語句ナビ690』に、
西洋と日本の「自然観」の違いは
キリスト教仏教
世界観が反映した部分が
大きいとあり、
特に死生観における違いが
強調されている箇所がある。

『語句ナビ690』には、
「キリスト教では生と死が
 対比概念である」とある(本書53ページ)。
実際、
キリスト教の聖典・『聖書』は、
「死」を「敵」として教えており(コリントの信徒への手紙一15章26節)、
死は人間に対する敵対概念として
登場する。

それに対して仏教においては、
生と死は連続概念である。
全ての生きとし生けるものは死ぬ。
それは実に当たり前のことであり、
ことさら悲しいことであったり
悪いことであるとは
教えない。
克服すべきは「死」そのものではなく、
「死への恐れ」であると説くのが
一般的だ。

この2つの教えの根底にある、
世界観――死生観の違いは
たしかに小さなものではない。


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by imadegawatuusin | 2009-08-03 10:53 | 日本語論

――仮面は「顔」=「個性」を消去する――

■モザイクは「顔」を隠す
本書26ページから27ページの「仮面」の項は、
本書の最も難解な部分だ。
何度読み返しても意味がわからない。

まずのっけから、
「仮面=ペルソナ」の存在価値を論じることは、
とりもなおさず
近代的「自我」について論じることになる。(本書26ページ)

とくる。
何で?

次はこうだ。

「仮面」のもつ逆説的意味としては、
一件無表情に見える「仮面」の裏側にある
「有機的宇宙」の存在にある。(本書26ページ)


「意味としては
 ……存在にある」って、
文法的に係り結びがおかしくないか。

そもそも「仮面」の裏側に
何で「有機的宇宙」があったりするのか。

まず整理してみよう。
本書は仮面の裏側に
「有機的宇宙の存在」があるという。
これは、
おそらく何かの比喩なのだろう。
では、
仮面の裏側には何があるのかを考えてみれば、
答えは以外に簡単だ。
仮面の裏側には「人間」があるのである。
「有機的宇宙」とは、
究極の有機生命体である「人間」の世界を
象徴しているのだ。
それは「かつて人間がまだ
『近代的自我』をもつ前にあった世界のことで」あると
本書は述べている(本書26ページ)。
しかし
「近代に入ってからの人間は、
 自由という名の孤独にさらされた『自我』を
 もってしまい、
 かつての共同的な存在から
 個々に分断された存在へと変化した」(本書27ページ)。

仮面は人間の顔を隠す。
顔は人間の最も個性的な部分である。
その証拠に、
テレビなどで個人の特定を避けたいときには
必ず「顔」にモザイクをかける。
顔を映しながら
手にモザイクをかけたりすることはない。
人間の個性を最もよく表すのは顔であり、
手ではないからだ。
言い換えると、
顔は「孤独にさらされた『自我』」=近代的自我の
象徴である。

「その近代的自我を覆い隠し、
 再び人間を有機的宇宙へとつなげるものとして
 『仮面』はある」と本書は説く。
「人間のもっとも重要な(筆者注:個性的な)部分である
 顔を覆い隠すことで」(本書27ページ)、
人は「顔」を失い、
「個人」ではありえなくなる。

「個性」=近代的自我を消去し、
人を近代以前の共同体的存在へと誘う
象徴として、
仮面が捉えられているのである。
(そんな大層なものなのだろうか、
 仮面って……)。


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by imadegawatuusin | 2008-12-05 17:46 | 日本語論

――「型」がないとはじまらない――

■「型」があっての「型破り」
「人間は環境の動物なので、
 結局何をどう『まねる』かが、
 その人を大きく決定していることになる」。
「『型』がないと
 はじまらない」(本書22ページ)。

無から有を生み出せる人はいない。
人間の活動はすべて、
あらかじめあるものを我が物とし、
加工し、改良を加えることによって
発達・発展してきたのである。

「『型』があってこその
 『型破り』」であり、
「『基本』があって
 こその
 『応用』」なのだ(本書23ページ)。

「『学ぶ』とは『まねる』こと」である(本書22ページ)。
何ごとに付けても、
まずは基本の習得・定型の習得から
はじめたい。


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by imadegawatuusin | 2008-12-05 09:11 | 日本語論