カテゴリ:政治( 89 )

――「憲法九条を守ろう 県民のつどい」で――

■「守る運動」で守りきれるのか

日本国憲法の交付から65年目となる11月3日に、
「あいち九条の会」の主催する
「憲法九条を守ろう 2011愛知県民のつどい」で
貧困問題活動家の雨宮処凛さんと
対談させていただいた。

雨宮さんは僕がホームレスになったとき、
社会民主党の機関紙・「社会新報」や
雑誌・『学習の友』などで
僕の問題を唯一報道して下さった方だ。

昔、右翼をやっていた雨宮さんは、
読みもせずに憲法を毛嫌いしていたらしいけど、
どうも左翼の中には
読みもせずに憲法を
やたらあがめ奉っている人が少なくないんじゃないかと
思うことがしばしばある。

今回の集会でも生存権の大切さが強調されていたが、
今の憲法で生存権が保障されているのは日本人だけ。
憲法第25条に
「すべて国民は、
 健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」
とあるとおり、
生存権の主体はあくまで「国民」であり、
日本に何年(生まれたときから)住んでいようと
外国人住民は一切蚊帳の外なのだ。

参政権などについて、
国籍によって一定の差別があることはまだ理解できる。
だが、
生存権に差別があっていいのだろうか。
生存権は日本に住む人間である限り、
日本人だろうと外国人だろうと
当然保障されるべきではないのだろうか。

実際、
生活保護を申請したとき、
もしも間違った審査がされて不支給扱いになった場合も、
外国人住民には不服申立の権利さえない。
生存権は日本人にとっては権利だが、
外国人にとっては恩恵であり、
もらえなかったときに文句を言う権利は
ないというわけだ。

税金は同じように取るくせに、
これはちょっと酷いのではないか。

憲法第24条
「婚姻は、
 両性の合意のみに基いて成立し……」も変な規程だ。
両性、
つまり男と女の合意によっては婚姻は成立するが、
男と男、女と女では
結婚はできないというのである。
誰と誰とが結婚するかなんて、
そんなのは人の勝手だろう。
何で憲法でそんなことが決められなければならないのか。
はっきり言って大きなお世話だ。

国の象徴を血筋で決める、
封建的な血族世襲の天皇条項(1条~8条)も
おかしいし、
他にもよくわからない規程は色々ある。
こういうところを見て見ぬふりして
「憲法を守ろう」はないんじゃないの? と
僕は思うのである。

そんな「改憲論者」の僕を対談に呼んでくれた
「あいち九条の会」も懐が深い。
本当はもっとそんな話がしたかったのだが、
他にも対談者がたくさんいたので、
さらりと触れるだけにしておいた。
(ただし意外なことに、
 会場ではこうした僕の発言に
 拍手をしてくれた人もいた。
 社民党の某議員さんの前でこの話をしたときは
 こっぴどく怒られたけど)。

現実に今すぐ、
僕の望むような方向で憲法を変えられる可能性が
ほぼゼロなのは事実である。
だから、
「じゃぁとりあえず『憲法を守ろう』でいいじゃないか」
とよく言われる。

今の日本国憲法が、
外国人住民とか同性愛者とかを
抑圧している側面があることを
きちんと理解した上で、
「とりあえず、
 現時点においては戦略的に『護憲』と言っているんだ」
という自覚があるのなら、
まぁ、
それはそれでいいのかもしれない。

が、
どうも左翼の中には、
個別の条文をきちんと読みもしないまま、
「日本の憲法はすばらしい」・「憲法を守れ」と
言葉だけが上滑りする傾向が
なきにしもあらずではないかと危惧するのである。
右翼時代の雨宮さんが、
憲法も読まずに
憲法を「諸悪の根源」だと思っていたのと同じように、
だ。

できあいの憲法に寄りかかって
ものを言っていていいのか。
それで人々の共感が得られるのなら、
(戦術的には)それもありかもしれないが、
正直、難しいのではないかと僕は思う。

本当に九条を守りたいと思うなら、
むしろ一人一人が自分の言葉で
「自分が理想とする憲法はこうだ」ときちんと打ち出し、
その中に九条を
積極的に位置づけ直す取り組みをしていくべきでは
ないだろうか。

脱原発の運動がこれほど盛り上がっているのは、
癒着・腐敗の今の原発体制を
「変えよう」という意識があるからだ。
大阪の橋本や名古屋の河村が
これほど人気を集めているのも、
(方向性はともかくとして)
具体的に現状を「変えよう」としているからだと
僕は思う。
小泉が
「自民党をぶっこわす」と旋風を巻き起こしたのも、
民主党が「政権交代」を唱えて大勝利したのも、
そうした国民の「変革願望」のあらわれではないか。

そんな中、
「憲法を守ろう」という「守る運動」で、
本当に大切なものが守りきれるのか。
僕は疑問を持っている。

むしろ革新陣営の側こそが、
「今の憲法をこう変えよう」と積極的にぶちあげる。
そのくらいの発想の転換が
必要とされているのではないかと思うのである。


【参考記事】
「守る」運動から「変える」運動へ

2人の「左翼」が僕を改憲論者に転向させた
憲法記念日に際して
左からの改憲提言はタブーか

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by imadegawatuusin | 2011-11-03 20:22 | 政治

鉢呂発言問題について

――「死の町」と「放射能付ける」とは区別せよ――

■実態の直視を恐れてはならない

9月30日の朝日新聞で、
時事問題解説家の池上彰氏が、
鉢呂前経済産業大臣のいわゆる「発言問題」について、
「安易な批判で問題隠すな」と主張している。
福島第一原子力発電所の視察後に、
周辺の町を「死の町」と評したことについて、
「英語メディアは『死の町』を
 『ゴーストタウン』と訳しました。
 この表現、
 これまで日本のマスコミ各社も使ってきました。
 英語ならよくて、
 日本語だと問題になるのか。
 それなら、
 政治家たちは今後、
 問題になりそうな表現は
 英語で言っておいたほうがいい、などと
 なりそうではありませんか」と言うのである。
そして、
東京新聞に寄せられた反応として、
「誰が見ても人がいない町は死の町です、
 ゴーストタウンと言えば良かったのか!」・
「死の町は人間であれば率直な感想。
 (中略)批判されるべきは
 死の街をつくった人たちです」などの感想を
紹介している。

私も、
「死の町」発言へのマスコミ総がかりの批判については
違和感を覚えた。
いまの福島の惨状を「死の町」と評することが
それほど悪いことなのか。

気を悪くした被災者や
傷ついた被災者がいたことは事実であろう。
しかし、
その発言自体が「事実無根である」とか
「名誉を棄損している」とかいったものでないにも
かかわらず、
「傷ついた人がいる」という論法で
発言が規制されるのはいかがなものだろうか。
あらゆる人の心性をおもんぱかって発言することは
不可能である。
極端な言い方をすれば、
失恋したときに
愛する人への思いを高らかに歌う歌を聴いた場合も、
人は傷ついてしまう生き物なのだ。

もしもその発言を聞いて、
自分が傷ついたのであれば、
理由を明らかにしたうえで
「傷ついた」と堂々と訴えればいい。
また、
その発言が不条理なものであり、
自分もそれが間違っていると思うのであれば、
第三者が糾弾してもいいだろう。

だが、
ただ説明なしに
「傷ついた人がいる」ということだけで、
他人の発言を批判する態度は
間違っていると私は思う。
「鉢呂発言を受けたマスコミがすべきなのは、
 『人が住めるようになるのはいつか、
  もし住める展望がないなら、
  それを住民に告げるべきではないか』との問いを
 政治家や行政に投げかけることではないでしょうか。
 ……深刻な事態はなるべく見ないようにして、
 それに触れた発言だけを問題にする。
 これでは、
 事態に正面から取り組む人は出ません。
 結局は事態を解決することを
 遅らせることになりませんか」という池上氏の指摘は
まさに正論であろう。

鉢呂発言で問題とするべき点があるとすれば、
むしろ「放射能付ける」発言の方だ。
福島第一原子力発電所を視察勅語に取材記者らに、
「(自分の)放射能を付けちゃうぞ」などと
じゃれついたというものである。

大臣辞任に値するかどうかについては
議論はあろう。
だが、
福島周辺に住む人たちへの差別・偏見を助長しかねない
極めて不用意な発言であることは間違いない。
特定の人間のおびた放射能が、
他人に影響を与えるほどに
「伝染」したり「うつ」ったりするとの
荒唐無稽な認識を広げかねない。
悪ふざけにしても悪趣味であることは間違いない。

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by imadegawatuusin | 2011-09-30 18:44 | 政治

――人と思想、コンパクトにまとめた入門書――
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■「社会主義国」への批判的視点の欠如が難点

本書は、
「科学的社会主義」の創始者・カール=マルクスの
伝記である。
1966年に出版されたということもあり、
いささか「古さ」を感じる部分がないわけではない。
「こんにちの世界の三分の一が、
 すでにマルクス主義による社会体制をとっている」
などという記述が
アッケラカンと出てくるのを見ると、
時代の違いを感じずにはいられない。

特に、
当時存在したいわゆる「社会主義国」に対して
批判的視点が抜け落ちている点には驚かされる。
たとえば本書は、
マルクス主義を称揚する趣旨で、
こんなエピソードを紹介するのである。

わたしが、数年前、西欧のある大学にいたころ、
自由主義圏のなかのかれら学生たちも、
ねっしんにマルクス主義を勉強していた。
かれらは、
マルクス主義に対してどういう態度をとるにしろ、
とにかく、
この主義をよく勉強しなくては、という思いに
せまられていた。
そうでなければ、
世界の平和の問題を論じる資格はない、と
考えているようだった。


「だからマルクス主義はすごいんだぞ」という意味で
書かれた文章なのであろう。
が、
今にして思えば、
このエピソードは「社会主義圏」ではなく、
むしろ自由主義圏の強さのひけつを
示すものだったのではなかったか。
国家としては資本主義体制をとりながら、
マルクス主義の学習や研究を大いに許容し、
学生たちが
こぞって対立陣営の主義主張を学ぶことを許すような
懐の深さは、
残念ながら当時の「社会主義国」では
全く考えられなかった。
一党独裁の支配体制の下、
学問の世界までが統制的・指令的に一元化される傾向が、
ソ連をはじめとする「社会主義国」の
決定的な弱点となったのではないかと
私は思う。
本気で社会主義の実現を目指すなら、
その大前提として、
自由や多元性をいかにして制度的に保障してゆくのかを
今後は考えてゆかなければならないだろう。

とはいえ、
本書がマルクスの全体像をつかむ上で
便利な入門書であることは間違いない。
朝日新聞社が発行した『マルクスがわかる。』では、
「マルクスの人となりを伝える書簡や
 エピソードなどを交えながら、
 彼の生い立ちから死までがその著作との関連で
 コンパクトに解説されている」と紹介されている。


【本文校訂】
本書62ページ6行目に
「ドクトル=クブラ」という記述がある。
だがこれは、
本書61ページの表題や62ページ10行目にあるとおり、
「ドクトル=クラブ」の誤りであろう。

小牧治『マルクス』清水書院(評価:3)


【参考記事】
『社会民主党宣言』を読む
新しい社会主義像を求めて
レーニン「マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分」を読む

『唯物論哲学入門』(森信成)を読む

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by imadegawatuusin | 2011-09-03 11:16 | 政治

――民主党代表選に思う――

■5氏、きょう立候補

筆者はこれまで一貫して、
菅内閣を支持してきた。
仮に菅首相を引き摺り下ろした場合、
菅直人より革新的・進歩的な政治姿勢の首相が
民主党から出てくるとは到底思えなかったからである。

市民運動出身で、
社民連で初当選、
現在も江田五月のグループに所属する菅直人は、
「保守かリベラルか」で分類すれば
間違いなくリベラルな政治姿勢の持ち主だった。
東海地震の想定震源域の真上にある浜岡原発の停止を
要請した菅首相の決断は、
その後、
「脱原発」を具体的な政治の焦点にまで押し上げる
大きなきっかけとなったことは間違いない。

それに対して本日、
後継の民主党代表選に立候補した五人はどうか。

自民党出身の鹿野氏は論外として、
松下政経塾出身の前原氏や野田氏も
間違いなく保守系の議員である。
馬淵氏も野田グループに一時所属していたというから、
保守かリベラルかといえば保守派だと思う。

かろうじて「リベラル」に分類できなくはないのは、
「市民リーグ」出身の海江田万里氏くらいだろうか。
しかし報道を見る限り、
小沢氏の影がちらつくのは気になる。
いずれにしても「菅よりまし」には全く見えない。

しかしながら、
この5人の中から
「次の首相」を選ばなければならないことも事実である。
朝日新聞8月27日の夕刊に掲載された
「候補者5氏の公約」や「推薦人名簿」などを頼りに、
検討をしてゆきたい。

■無原則な「大連立」には反対!

5人のうち、
失礼だが鹿野氏は論外だと思う。
「原発事故による避難者の早期復帰に向け、
 子どもや妊娠中の女性を最優先に
 放射能対策を推進する」とか
「地域経済活性化のため、
 6次産業化を通じて農林漁業を発展させる」
などというのは
「スローガン」ではあっても「公約」ではなかろう。
具体的でないのはもちろん、
政治の方向性を示すものとさえ言えない。
「子どもや妊娠中の女性を最優先に」した
「放射能対策」とは何なのか。
それを明らかにしてもらわないことには
検討のしようもない。
(子どもや妊婦に限って
 「自主疎開」した場合にも補助金を出す、とか?
 しかしだとすれば、
 「原発事故による避難者の早期復帰に向け」
 という枕詞と矛盾する。
 除染対策などについて言っているのなら、
 相手は人ではなく土壌であって、
 「子どもや妊娠中の女性を最優先に」行なうことなど
 できないはずだ。
 あるいは学校とか病院を優先して
 除染するという意味なのか?)

残る4人の公約を見ると、
野党との距離の取り方について、
候補者間で明らかな違いが見受けられる。
前原氏が
「各党政策協議会設置など
 与野党の信頼関係を構築する」、
野田氏が
「与野党間で対話を進める」といった主張を
行なっているのに対し、
海江田氏・馬淵氏は
あくまで自らの理念や考えを語っている。
野党(主として自民党)とのいわゆる「大連立」に
積極的な前原・野田氏に対し、
懐疑的な海江田氏・馬淵氏という構図が浮かび上がる。

私は、
いわゆる「大連立」には反対である。
衆院選で中心となる小選挙区制のもとでは、
私たち選挙民は事実上、
第一党と第二党、
すなわち「自民党か民主党か」という選択肢しか
与えられない。
その第一党と第二党が手を組んで
連立政権を樹立してしまうのであれば、
何の選挙をしたのかさっぱりわからなくなってしまう。

「国難のおり、力をあわせるべきだ」というような
もっともらしい主張もあるようだ。
だが、
力を合わせてことにあたるべきは
政府をはじめとする行政機関などである。
国会においてはむしろ、
意見の違う政党はそれぞれ自らの主張を鮮明にして
よりよい復興の方策を国民の前で討議することこそが
本来のあり方ではないのか。
国会議員の仕事はまさに「議論をすること」であり、
具体的な仕事を一緒に現場ですることではない。
意見が違うのであれば「力をあわせる」のではなく、
「意見を闘わせる」べきなのである。

そして「力をあわせる」べき内閣は、
意見の隔たりのあるもの同士の大連立でなく、
意見の近い勢力が寄り集まってつくるべきである。
もし参議院での与党の「過半数割れ」を補う、
いわゆる「ねじれ対策」を考えるのなら、
先の選挙の際の原点に立ち戻り、
自民党ではなく、
社民党との協力関係の再構築をこそ追求すべきだ
(民主・国民新党に社民党の議席を合わせれば、
 参議院で法案が否決されても
 衆議院での再可決が可能となる)。

■「脱原発」でも各候補に違い

では、
「大連立」に否定的な海江田氏と馬渕氏について
見てゆきたい。
世間では「原発推進派」と目されてきた海江田氏だが、
「公約」では
「20年代初頭までに原発依存度を20%以下に。
 原発の新規建設は原則凍結し、
 40年以内に原発ゼロ」と、
以外にも数値目標を具体的に設定した
脱原発を唱えている。
このことは、
「安全性を確認した原発の活用で
 電力の安定供給を確保」などとしている野田氏の公約や、
「原子力依存を中長期的に低下させ、
 安全性を確認できた既存原発は
 再稼動させる」としている前原氏と比べると
一目瞭然である。

一方、
具体的な数値目標こそあげないが、
馬淵氏も原発への姿勢はかなり厳しい。
「原発再稼動に厳格な規制体制で臨み、
 核燃料サイクル政策は抜本的に見直す」としている。

東日本大震災の際、
1号機から6号機まであった福島第一原子力発電所のうち
4機が制御不能になってしまった事実から考えても、
地震大国・日本における原子力発電の継続は
危険性が高すぎると筆者は思っている。

その意味からも筆者は、
「脱原発」方向での公約を唱える
海江田氏・馬淵氏を評価したいと思うのである。

■「推薦人名簿」から考える

「小沢系中心」と報道されている海江田氏だが、
推薦人名簿を見ると
社民主義・リベラル系の政治理念を持った議員が
推薦人の中に少なくない。
旧社会党で若手改革派の旗手と言われた赤松広隆氏や
狭山事件・石川さんの弁護人を務める辻恵氏、
部落解放同盟を支持基盤とする中川治氏や
「現代社会民主主義研究会」の代表を務める山花郁夫氏、
参議院からは
愛知県で反貧困運動などに積極的な谷岡郁子氏などが
推薦人となっている。

一方、
馬淵氏に関しては、
筆者とリベラルな政治理念を共有できそうな推薦人は
少ない。
愛知県選出の大西健介氏や磯貝香代子氏などが
良心的そうだ、という程度である。

こうしたことから総合的に考え、
筆者としては今回の民主党代表選において、
海江田氏を応援したいと思っている。

むろん、
いずれの候補者が代表に選ばれた場合でも、
民主党は与党第一党として
結束して新代表を首相に指名すべきである。
筆者もまた、
「与党第一党・民主党、野党第一党・自民党」という構図が
変わらない限り、
いずれの候補者が民主党代表となった場合も、
旧弊な自民党政治からの脱却、
よりリベラルな政治の実現を求め、
あくまで民主党中心の政権を
相対的に支持してゆきたいと考えている。


【参考記事】
「最小不幸社会」菅新総理に期待
保守勢力主導の内紛に社民党はきっぱりNOを!

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by imadegawatuusin | 2011-08-27 19:14 | 政治

「自民党をぶっ壊す」と言った小泉は総選挙で大勝し、
郵政民営化を実現した。
ところが次の総選挙では、
「政権交代」を掲げた民主党に大敗した。

名古屋の河村現象や大阪の橋本現象にも共通するのは、
「とにかく何でもいいから変えたい」という
「変えたい願望」である。

どのように変えるのかということなどは
とりあえず二の次なのである。
とにかく今の現状はよくないという不満が先に来る。
だから変えたい。
そして選挙においては、
「この人なら、この党なら現状を変えてくれる」と
思えるところに投票する。
キーワードとしては、
「既成のありかたへのNo!」である。

その証拠に、
現状に不満を言う人たちに
どんな政治を求めているのかとたずねても、
「もっと市民の方を向いた政治」とか
「迅速で機敏な対応をする政治」とか、
心構えや やる気の問題のようなものばかりで、
具体的な政治方針
(「もっと高福祉高負担の福祉社会」とか、
 「総理大臣に権限を集中した、
 機敏で迅速な対応の取れる中央集権的な体制」とか)が
出てくることはほとんどない。

こうした中で私たち「革新陣営」と言われる勢力は
どうだろうか。
実のところ「革新」と言いながら、
戦後「革新陣営」は一貫して、
「○○改悪反対闘争」や「××阻止闘争」しか
できてこなかったのが現状ではないか。
「現状に不満を持つ人たち」の目には、
「○○改悪反対」や「××阻止」だけでは
「現状保守」にしか映らない。

「革新陣営」の人たちはよく、
「護憲」と言う。
「憲法を守れ」と言う。
だがこうしたスローガンは、
「革新陣営」内部の人たちに対しては
説得力があるかもしれないが、
「現状に不満を持つ人たち」に
訴える力が薄いのではないか。

戦後66年が経ち、
戦争体験者はどんどん減っている。
「戦争反対」・「戦争はいけない」というだけで、
理屈を超えて
「そうだ、そうだ」と共感してもらえる時代は
終わったのである。

無論わたしは、
「だから9条を変えろ」と言いたいのではない。
ただ「守ろう」というだけでは、
もはやアピールできないと言いたいのである。

「憲法9条を守りたい」。
それはいい。
だったらそのために
「護憲」・「憲法を守れ」という言い方でいいのだろうか。

実際、
細かく見ていけば、
私たち革新陣営の目線から見ると、
今の憲法には文句をつけていい点が
いくらでも見えてくる。

例えば、
いま世界的に保守とリベラルの政治的焦点となっている
同性婚問題。
実は、
日本の民法は実に進歩的で、
同性婚を認めている。
民法によれば婚姻は、
「当事者双方」が署名した書面を届け出ることで
成立することになっている(民法739条)。
もっとも、
「男は、十八歳に、
 女は、十六歳にならなければ、
 婚姻をすることができない」とか、
「配偶者のある者は、
 重ねて婚姻をすることができない」など、
731条から737条までには禁止規定が並んでいるが、
ここには「男性同士・女性同士がダメ」という規定は
全くないのである。

だったらなぜ民法で認められているのに、
日本では同性婚が実現しないのか。
より上位の法律である憲法で
認められていないからとしか言いようがない。
憲法第24条には、
「婚姻は、
 両性の合意のみに基づいて成立し……」と書いてある。
両性の合意「のみ」に基づいて成立する以上、
男同士・女同士の合意によっては成立しない。
民法と同様に、
「当事者双方」の合意としておけばいいものを、
「両性の合意のみ」などと書くから
ややこしいことになるのである。

あるいは、
今の憲法では基本的人権に関する条項が、
「全て国民は……」という文言で始まっている。
選挙権とかそういったものには
議論があるかもしれない。
だが、
生存権のような「超基本的な人権」でさえ、
権利の主体は「国民」であって、
外国人に対してはそれが「準用」されているにすぎない。
日本国民の基本的人権は権利だが、
外国人の人権は
あくまで恩恵で認めてやっているに過ぎないという
立場である。

天皇制条項を定める1条から8条も含め、
「本当にこの憲法は完全なのか」という視点を失った
「憲法守れ運動」では、
なかなか共感を得られないのではないか。

確かに昔、
いわゆる「護憲派」勢力が
国会で3分の1を占めていた時代は、
「憲法を変えることはできないが、
 護ることはできる」ということで、
ただひたすら
「憲法を守れ」という言い方をするというのも
戦略上「あり」だったかもしれない。
だが、
今はもうそういう状況にないのである。

だったらむしろ、
私たち革新陣営の側からこそ、
「私たちは憲法をこういうものにしていきたい」と
提起して、
その中に9条をきちっと位置づけていくという積極性が
必要とされていくのではないか。

現行のものを
ただひたすら「守ろう」というだけの運動では
もはや人々の理解は得られない。
これからは「守る」運動から「変える」運動に
シフトしていかなければならない。
守るべきものを守るためにも
積極的に「変えよう」という攻めの姿勢を取り、
その中に守るべきものを
きっちりと位置づけるということが
大切になってくるのではないかと思うのである。


【参考記事】
2人の「左翼」が僕を改憲論者に転向させた
憲法記念日に際して
左からの改憲提言はタブーか
「九条の会」で雨宮処凛さんと対談
「改憲派」社民党員の提言
改憲、社民党での論議を歓迎

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by imadegawatuusin | 2011-08-18 20:47 | 政治

――日本キリスト教団洛陽教会で――

■講師、「『護憲』から『共和制』へ、自由に議論を」

66回目の終戦の日となる8月15日に、
京都市上京区の洛陽教会で、
日本キリスト教団京都教区
「教会と社会」特設委員会などが主催する
「第32回『8・15』を問い続ける京都集会」が開催され、
約60人の市民らが参加した。

集会では最初に、
「いま、『共和制日本を考える』」というテーマで
『天皇条項の削除を!』などの著作のある堀内哲さんが
講演を行なった。

堀内さんはまず、
子供のころからの天皇の存在への違和感や、
大学在学中、
母校の野球試合を天皇が見に来るというので
仲間と一緒にビラをまきに行ったところ、
先に行った仲間がたちまち逮捕され、
自分もまだ何もしていないのに警察署に連行されて
「雪隠詰め」にされた経験などを語ったあと、
問題提起を始めた。

「私も9条改憲反対という意味の意思表示として、
 『9条の会』に参加しました。
 ところがそこで、
 どうしても出てくるのが『護憲』という言葉。
 『(天皇条項のある)1章はどうするんだ』というと、
 『その話はまぁいいじゃないか』とか、
 『その話題はやめよう』とか、
 『今はその時期じゃない』とか、
 みんな変な自主規制が働いているとしか
 思えない反応をするんです」。

「これまでにも辻本清美さんとか、
 1章の削除を主張した人はいました。
 けれどそれは、
 あくまで辻本さん個人の意見、
 個人の良心の問題としてスルーされ、
 流されてきたと思います」。

「敗戦から66年間、
 この国では『立憲君主制』という国の在り方が
 まともに問い返されることがありませんでした。
 敗戦という事態になっても
 天皇を退位させられなかった無責任体制のツケ、
 そのツケがいま、
 無策・無責任を露呈する震災対応や
 原発事故といった形で
 現れてきているのではないでしょうか」。

堀内さんは、
天皇制一般は批判しても憲法第1章を批判しない左翼や、
「共和政は国民国家の解体につながらない」などと
話をすり替えてきたアナーキストなどにも、
「共和制論議を意識的に避けてきた」と
批判の矢を向ける。
かつて大学で
「黒ヘル」(アナーキスト)として活動してきた
自らの経験も踏まえ、
「天皇制国家も共和制国家も
 同じ『国民国家』とひとくくりにしてきたが、
 まずは、
 共和制国家と天皇制国家の微妙な違いを
 明らかにする作業が必要ではないか」と主張した。

堀内さんは
戦後イタリアが国民投票で王制を廃止した例なども挙げ、
「そろそろ共和主義を媒介に日本国憲法を相対化し、
 憲法を社会制度の問題として考える試みが
 なされてもいい」と提起し、
「第1章の判断を留保したまま
 『改憲反対』ということが、
 結果的に天皇制を『守ってしまう』ことには
 自覚的でありたい」と参加者らに訴えた。

刺激的なテーマであっただけに、
講演が終わると会場からは
賛否両論の様々な意見が飛び出した。
堀内さんは質問や意見に一つ一つ回答した後、
「憲法や天皇制問題を、
 もっと平場で自由に議論できるものとしていきたい」
と語った。

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by imadegawatuusin | 2011-08-16 18:16 | 政治

(2011年9月26日掲載)
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66年前、
広島に原子爆弾が投下された8月6日、
名古屋では市民団体・「東海民衆センター」が
「8・6原爆の日行動」に取り組んだ。

午前7時30分から金山駅前に集合した十数人の市民が、
駅前広場に横断幕やパネルを掲示。
その後、
チラシや演説で核廃絶を訴え、
8時15分には「ダイ・イン」で
原爆投下に抗議の意思をあらわした。

「66年前の今日、
 広島に落とされた原子爆弾は
 14万人の命を奪っただけではない。
 戦争が終わった後も放射能が、
 ガンや肝炎などの原爆症を引き起こし、
 生き残った被爆者たちの命を奪い続けてきた。
 これを見れば、
 核兵器は絶対に使ってはいけないし
 作ってもいけない。
 今ある核もなくしていかなければならない」。 

参加者たちは口々に
核兵器の非人道性と核廃絶を訴えた。

今回の行動を主催した東海民衆センターは、
「私たちは2年前まで、
 毎年8月6日は
 広島での平和行動に取り組んできた。
 しかし、
 アメリカのオバマ大統領が
 プラハで核軍縮を提案するなど、
 世界の反核機運が高まる中で、
 私たちも昨年から
 自分たちの住んでいる地域で
 反核・反戦平和の行動をと、
 金山駅前での行動に取り組むことにした。
 ヒロシマ・ナガサキを経験した日本こそ、
 核廃絶の運動の先頭に立つべきだ」と
記者に語った。


【参考記事】
被爆66年 8月6日「原爆の日」
原水禁、一致点軸に共闘続けて

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by imadegawatuusin | 2011-08-07 18:08 | 政治

――核兵器全面禁止アピール署名を広げよう!――

66年前の今日・8月6日に、
広島で人類の頭上に初めて原爆が落とされました。
この原爆は
14万人といわれる膨大な市民の命を奪った
非人道的な兵器でした。
しかしそれだけではなく、
原爆は戦争が終わった後も放射能による後遺症で、
生き残った人々をも苦しめ続けてきたのです。

しかし広島の被爆者たちはこの苦しみの中、
再び過ちを繰り返してはならないと戦後、
全世界の原水爆禁止運動の先頭に
立ち続けてきました。
毎年8月には広島で、
原水爆禁止世界大会が開かれています。

去年の「被爆65周年原水爆禁止世界大会広島大会」は、
いかなる国のいかなる核兵器も認めないという
原水禁運動の原則的な立場から、
「核兵器を作らず、持たず、持ち込ませず」の
非核三原則を明記した非核法の一日も早い制定や、
北朝鮮を含む東北アジアの非核地帯化、
臨界前核実験など
すべての核実験を完全になくすことなどを
決議しています。

下の「核兵器全面禁止アピール署名」は
日本平和委員会などが呼びかけ、
今年秋の国連総会に提出されるものです↓。
http://j-peace.org/2011/pdf/2011shomeiA4.pdf
署名にご協力いただけた方は、
愛知県平和委員会
(愛知県名古屋市東区葵1丁目22−26 愛知民主会館 4F)
または筆者の住所までお送りください。

「核と人類は共存できない。
 反原発の運動は人間が核を否定するか、
 核に人間が否定されるかの戦いだ」
(原水禁初代議長 森滝市郎)


今年の「被爆66周年原水爆禁止世界大会」は、
3月11日の福島第一原子力発電所の事故を受け、
7月31日に福島市でスタートしました。
いま、
広島・長崎の被爆者たちの反核・反戦の願いと、
脱原発を求める運動が
ひとつに結びつこうとしています。

「原発も基地も戦争も、
 合意なき『国策』として、
 私たち一人ひとりの『命』を軽んじてきたのです。
 もうこれ以上『命』が粗末にされてはなりません」
(原水禁世界大会福島大会アピール)。

原水禁などが呼びかける「脱原発1000万人署名」と、
震災から半年となる9月に全国で展開される
「9月脱原発アクションウィーク」の大成功で、
浜岡原発などの原発の廃炉、
原子力依存のエネルギー政策の転換を実現しましょう!
これ以上被爆者・被曝者を生み出してはなりません。

広島被爆から66年、
8月6日の「原爆の日」にあたり、
あらためて訴えたいと思います。
「ノーモア ヒロシマ、ノーモア ナガサキ、
 ノーモア フクシマ、ノーモア ヒバクシャ!」


【参考記事】
愛知でも8・6原爆の日行動
原水禁、一致点軸に共闘続けて

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by imadegawatuusin | 2011-08-06 02:19 | 政治

――解放運動の理念との整合性はどこに――

放言問題で辞任した松本龍前復興担当相が、
入院先の九州大学病院で、
「軽度の躁(そう)状態」と診断されたようである。

確かに、
マスコミの目もある中での
被災地知事に対する居丈高な物言いや態度は
尋常なものとは思えない。
震災対応への期待と重圧の中で
こうした症状を引き起こしてしまったのだと
考える方が自然であろう。

ただ、
今回の松本龍氏の発言の中には、
単に「躁状態」では説明の付かないものが
含まれていることに注意したい。

態度が大きかったり、
物言いが「上から目線」だったりしたのは
確かに病状の影響が大きいと言える。

だが、
こうした発言が問題視された際に彼の口から出たのは、
「私は九州の人間」とか、
「私はB型で短絡的なところがあ」るなどと、
自分の失敗を出生地や血のせいにする発言だった。
私が最もショックを受けたのは、
実はこれらの発言だった。

もちろん、
一般的にはこうした発言はさして珍しいものではない。
「○○生まれの人間は××」とか、
「B型は大ざっぱ」といった発言は
しばしば会話の中で聞かれるものである。
それらの多くは、
特段の悪意があってのものではない。

だが、
松本龍氏は門地・血統による差別・偏見と闘ってきた
部落解放同盟の副委員長なのである。
そんな立場にある人間が、
こうもいとも簡単に、
自分の失敗の原因を生まれや血液型に帰するのかと、
私は非常にショックであった。

「態度」や「物言い」は
「躁状態」のせいだったのだと信じたい。
だが、
「九州」発言・「B型」発言は
彼の世界観の根底にそうした発想が全くなければ
出るはずのない発言である。
「軽度の躁状態」になったからと言って
血液型占いのような迷信に
突如としてとらわれるということはありえない。

もともと、
部落解放運動を象徴する「解放の議席」が、
3代にわたって世襲されるということ自体が
語義矛盾であると私は思ってきた。
ただそうであっても、
松本龍氏が
それなりに優れた解放運動家だということであれば、
結果として「世襲」ということになっても
まぁ仕方ないかなぁと
私は自分を納得させてきたのである。

だから私は、
衆院選のたびに福岡1区の情報には注目して、
彼の当選にはいつも喜んできた。
前回の参院選で松岡徹氏(部落解放同盟書記長)が
比例区で落選したときは
とても残念に思ったものだ。
松本龍氏が環境大臣になった際も、
「左派・人権派」から閣僚が出たことを
喜んだ。
それは、
まさしく彼が「優れた解放運動家」であることが
前提であったのだ。
(そうでなければ、
 松本龍など一介の建設会社の社長に過ぎない)。

ところが「九州B型」発言である。
まっとうな解放運動家であるならば、
差別・偏見につながりかねないこの種の因習や迷信を
決して相手にはしないものである。
逆に言えば松本龍氏の発言は、
「まっとうな解放運動家」なら到底ありえないような
理解しがたい発言なのだ。

政治家全体を見渡せば、
「A型は○○、B型は××」といった発言を
いまだにする者はいるだろう。
だが、
よりにもよって解放の議席を占めている
部落解放同盟の副委員長がこんな発言をするものなのか。

私はショックだった。


【参考記事】
朝日新聞声欄に「3代世襲の『解放の議席』疑問」

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by imadegawatuusin | 2011-07-15 23:20 | 政治

――失態を出生地や血のせいにする松本氏――

■解放運動の理念と相いれず

朝日新聞名古屋版7月10日の「声」欄に、
「3代世襲の『解放の議席』疑問」と題する
筆者の投書が掲載されました。

投書はまず、
被災地知事への放言問題などで
松本龍復興担当相が任命後わずか9日で
辞任に追い込まれたことを指摘。
「部落解放の父」とうたわれる祖父の松本治一郎氏以来、
国会で3代にわたる彼の議席が
「解放の議席」と呼ばれていることを紹介しています。

その上で、
政治家の親族を持つ者が
結果として政治家となることが
絶対に悪いとまでは言わないが、
松本氏にその適格性があったのか
疑問だとしています。

岩手県庁での「助けない」発言に始まり、
宮城県庁での「何もしない」発言。
復興担当相である自らを「お客さん」と言う勘違いに、
マスコミに対する
「書いたら、その社は終わりだから」という
言論弾圧発言も大問題です。
何より、
問題が指摘されると
「私は九州の人間」とか、
「私はB型で短絡的なところがあ」るなどと、
自らの失態の理由を出生地や血に求めた点は
絶対に納得できるものではありません。
松本氏自身、
祖父の治一郎氏が初代委員長を務めた
部落解放同盟の幹部だといいますが、
門地・血統による差別・偏見と闘ってきた
解放運動の理念と
松本氏の発言が相容れるとは思えません。

そもそも、
部落解放同盟はその綱領で、
「身分意識の強化につながる天皇制、
戸籍制度に反対する」と明言しています。
その一方で
「解放の議席」は松本家が世襲するというのでは
全く筋が通りません。
3代にわたり世襲される「解放の議席」というもの自体が
語義矛盾でしかないのではないでしょうか。


【関連記事】
「軽度の躁」では説明できぬ「九州B型」発言

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by imadegawatuusin | 2011-07-10 19:35 | 政治