カテゴリ:政治( 89 )

「居てやっている」と言われて「思いやり予算」
「出て行ってやる」と言われて「移転費用」


■米国防副次官が記者会見で
アメリカのローレス国防副次官は4月25日、
国防総省で記者会見し、
在日米軍再編に伴う日本側負担が
計約260億ドル(約2兆9900億円)に上るとの見通しを
明らかにした(毎日新聞4月26日夕刊)。
いわゆる「日本側負担3兆円発言」である。
3兆円と言えば国民一人当たり約2万5千円。
4人家族で約10万円の負担になるという
実にとんでもない金額だ。

■日本の防衛事務次官も
防衛庁の守屋武昌事務次官も
その前日・24日の講演の中で、
在日米軍再編経費の日本側負担は
「グアム移転経費を除き8年間で2兆円と試算している」と述べている(毎日新聞4月27日)。

この試算で除かれているグアム移転経費の日本側負担は、
4月23日の額賀・ラムズフェルド合意によると
総額102億7000万ドルのうちの59パーセントにあたる
60億9000万ドル(約7100億円)である(毎日新聞4月25日)。
これを含むとローレンス国防副次官の言う「日本側負担3兆円」も、
「細かく積み上げた数字ではない」ということではあるが、
あながちデタラメというわけでもなさそうだ。

■理不尽な日本側負担を阻止しよう
そもそも日本は、
年間約2300億円もの「思いやり予算」
在日米軍に払い続けている。
これはいわば、
『居てやっているんだから金をよこせ』という米軍の要求に答えた
「みかじめ料」のようなものである。
これに対して今回の在沖縄海兵隊のグアム移転費用は、
言うなれば、
『出て行ってやるんだから金を出せ』というものだ。
海兵隊が常駐することで、
沖縄県民がこれまで多大な負担を被ってきたのは事実であるが、
アメリカの軍隊がアメリカ国内に基地を作るのに
その費用の半分以上を日本側に負担しろというのであるから、
実に理不尽な話である。

■なりふり構わぬ対米追随
政府・与党は「日米同盟のため」といって、
こうした負担を正当化しようとする。
しかし、いかなる軍事同盟も、
条約上の権利と義務で組み立てられているものである。
「思いやり予算」も「基地移転費用」も、
そもそも日米安保条約には一切規定されてはいない。
にもかかわらず、
とにかく「日米同盟のため」ということであれば、
いかなる名目であれ なりふり構わず金を出す……。
これはまともな主権国家ではありえない、
異常な「言いなり」の姿ではないか。

僕は、
今回の米軍再編にともなう
アメリカ言いなりの「日本側負担」の支出に反対する。
戦争支持・対米追随の小泉政権を打ち倒し、
理不尽な日本側負担を阻止しよう!
このような税金の無駄遣いを改め、
真の国民福祉のための民主的政権を打ち立てよう!

《第7号》


《関連記事》
「思いやり予算」、バーの人件費も負担
[PR]
by imadegawatuusin | 2006-05-20 20:35 | 政治

■「居てやっている」と言われて「思いやり予算」、
 「出て行ってやる」と言われて「移転経費」
アメリカのローレス国防副次官は4月25日、
国防総省で記者会見し、
在日米軍再編にともなう日本側負担が
計約260億ドル(約2兆9900億円)に上るとの見通しを
明らかにした(毎日新聞4月26日夕刊)。
いわゆる「日本側負担3兆円発言」である。
3兆円と言えば国民一人当たり約2万5千円。
4人家族で約10万円の負担になるという
実にとんでもない金額だ。

防衛庁の守屋武昌事務次官も
その前日、24日の講演の中で、
在日米軍再編経費の日本側負担は
「グアム移転経費を除き
 8年間で2兆円と試算している」と述べている(毎日新聞4月27日)。

この試算で除かれているグアム移転経費の日本側負担は、
4月23日の額賀・ラムズフェルド合意によると
総額102億7000万ドルのうちの59パーセントにあたる
60億9000万ドル(約7100億円)である(毎日新聞4月25日)。
これを含むとローレンス国防副次官の言う「日本側負担3兆円」も、
「細かく積み上げた数字ではない」ということではあるが、
あながちデタラメというわけでもなさそうだ。

そもそも日本は、
年間約2300億円もの「思いやり予算」
在日米軍に払い続けている。
これはいわば、
『居てやっているんだから金をよこせ』という米軍の要求に答えた
「みかじめ料」のようなものである。
これに対して今回の在沖縄海兵隊のグアム移転費用は、
言うなれば、
『出て行ってやるんだから金を出せ』というものだ。
海兵隊が常駐することで、
沖縄県民がこれまで多大な負担を被ってきたのは事実であるが、
アメリカの軍隊がアメリカ国内に基地を作るのに
その費用の半分以上を日本側に負担しろというのであるから、
実に理不尽な話である。

政府・与党は「日米同盟のため」といって、
こうした負担を正当化しようとする。
しかし、
いかなる軍事同盟も、
条約上の権利と義務で組み立てられているものである。
「思いやり予算」も「基地移転費用」も、
そもそも日米安保条約には一切規定されてはいない。
にもかかわらず、
とにかく「日米同盟のため」ということであれば、
いかなる名目であれ なりふり構わず金を出す……。
これはまともな主権国家ではありえない、
異常な「言いなり」の姿ではないか。

僕は、今回の米軍再編にともなう
アメリカ言いなりの「日本側負担」の支出に反対する。
戦争支持・対米追随の小泉政権を打ち倒し、
理不尽な日本側負担を阻止しよう!
このような税金の無駄遣いを改め、
真の国民福祉のための民主的政権を打ち立てよう!


《関連記事》
「思いやり予算」、バーの人件費も負担
[PR]
by imadegawatuusin | 2006-05-12 15:12 | 政治

「イラクに大量破壊兵器」の
偽情報(=ガセネタ)に騙されて
アメリカの対イラク先制攻撃を支持した小泉首相の責任は、
偽メール事件で辞任した
前原前民主党代表よりも
はるかに重い!


■民主党新代表に小沢一郎氏
民主党は7日、
偽メール問題をめぐって前原前代表が辞任したことを受け、
両院議員総会を開き、
党代表の選出を行なった。
投票の結果、
民主党前副代表の小沢一郎氏が同党元代表の菅直人氏を破り、
新代表に選出された。

■国民を欺き続けた前原前代表
偽メール問題においては、
民主党の永田前衆議院議員が国会質問の中で、
偽情報(=ガセネタ)を根拠として特定個人を誹謗中傷するという、
許しがたい行為を行なった。
永田前議員のこの国会質問を了承し、
その後もこの偽情報について「根拠はある」などと言い続けて
国民を欺き続けてきたのが前原前代表である。
前原前代表の責任は非常に重いと言わざるを得ない。
日本最大の労働組合中央組織・連合(日本労働組合総連合会)
古賀伸明事務局長は、
「ここまで1ヶ月半もの間、
 事件の真相を明らかにすることができず、
 国会を混乱させ、
 国民の信頼を失墜させた民主党の責任は極めて重大であり、
 その対応も遅きに失したと指摘せざるを得ない」と厳しく批判している↓。
http://www.jtuc-rengo.or.jp/news/danwa/2006/20060331_1143803676.html
前原代表の辞任は当然だ。
古賀事務局長はまた、
民主党の小沢一郎新代表に対し、
「格差と二極化が拡大する社会のなかで、
 勤労者・国民が、野党第一党たる民主党に真に期待しているものは何かを
 的確にとらえ、
 小泉構造改革路線との対抗軸を明確にした、
 後半国会におけるダイナミックな論戦に挑むことを求める」
との談話を発表した↓。
http://www.jtuc-rengo.or.jp/news/danwa/2006/20060407_1144400745.html

■米偽情報に騙され居直る小泉首相
偽情報に騙され、
国民を欺き続けた前原民主党前代表は辞任した。
しかし、
「イラクが大量破壊兵器を保有している」というアメリカの偽情報に踊らされ、
米英軍による対イラク先制攻撃を真っ先に支持した小泉首相は、
いまだに何の謝罪も反省もしていない。
国連決議も得ないままに開始された対イラク侵略戦争の正当化に
我が国の首相が加担してしまった責任は、
ことが一国内の問題に留まらず、国際法秩序にも関わるだけに、
前原前代表の「偽メール」責任よりも実ははるかに重大なのではないだろうか。
今こそ、「戦争支持・対米追随」の小泉政権を打ち倒そう!

(第4号)
[PR]
by imadegawatuusin | 2006-04-10 19:49 | 政治

――女児殺害事件関連の質疑で――

■失礼だ! 市議にも、今市にも、遺族にも 
和歌山市の大橋建一市長が、
広島や栃木で相次いだ女児殺害事件に関連する市議会質疑の中で、
「(事件のあった)栃木の今市もいまいちのまち」などと
答弁していたことが明らかになった(「朝日新聞」12月6日)。

報道によると、
12月5日、和歌山市議会本会議で ある市議が、
相次ぐ女児殺害事件を受けて、
和歌山市における子供の安全対策について
大橋市長に質問した。
これに対して大橋市長は、
「(事件のあった)広島もかなり郊外ですし、
 栃木の今市もいまいちのまちであります。
 そういうところで事件が相次いで起こる。
 我々のまちもまったくひとごとではない」などと答弁したという。

質問した市議の側はまじめに訊いているのである。
それに対して、
「今市はいまいち」などと下らないダジャレでごまかそうとするとは、
あまりにも失礼ではないだろうか。
議会で質問した市議にも、
今市市に住む市民にも、
そして何より、被害者遺族に対しても。

大橋市長は、
「まちの規模を表現したつもりが、
 つい口が滑った」などと釈明しているという。
土地柄などについて差別したわけではないと言いたいのだろうが、
規模が大きくないことをもって
そのまちを「いまいち」などと評価する感性自体、
そもそも問題とされてしかるべきであろう。

第一、意味不明な発言である。
どういう脈絡で、
事件があったのが広島の「かなり郊外」であったことと、
栃木の今市が「いまいちのまち」であることと、
「我々のまちもまったくひとごとではない」こととが
つながっているのか。
「和歌山にも
 広島と同じく郊外があり(当たり前だ!)、
 和歌山も今市と同じく(規模が?)いまいちなまちなので、
 まったくひとごとではない」という意味だろうか。
だとしたら、
自分が市長を務める和歌山の人々に対しても、
随分と失礼な発言に聞こえる。

■問題発言は「議事録から削除」でいいのか 
大橋市長は6日の市議会本会議の冒頭、
「昨日、
 不適切な発言がありました。
 こころからおわびします」と謝罪し、
市議会は議事録から、
当該発言の部分を削除することを決めたという(「朝日新聞」12月6日夕刊)。
市長の言う通りこの発言は明らかに「不適切」であり、
謝罪するのは当然だ。
しかし、
議事録から当該発言を削除するというのは
いかがなものであろうか。

もちろん、
問題発言をした事実そのものを消し去ることはできない。
しかし、議事録から発言が削除されるということは、
公的な記録からその発言が抹消されるということであり、
公にはその発言が「なかったこと」にされるということだ。

確かに、
発言を議事録から削除する方が
適切な場合というものもあるだろう。
例えば、
議員や首長が質疑の中で、
私人のプライバシーや個人情報に関わる発言を
うっかりしてしまった場合などである。
このような場合には、
発言者の同意を得た上で、
その発言を議事録から削除した方がいいと思う。
発言を議事録に残したままだと、
その情報が公的な記録としてそのまま公開されてしまい、
一般の目に触れてしまうことになるからだ。

しかし、
今回の件はそのようなケースには当たらない。
何か問題発言をしたときに、
すぐその発言を議事録から削除し、
そのことをもって反省の証とするかのような傾向が日本にはあるが、
これは間違いだと僕は思う。
むしろそのような問題発言こそ、
市民の判断の材料として、
また後世への検証の材料として、
つつみ隠さず きちんと公に記録して
残しておくべきではないだろうか。

問題発言をしてしまったときに、
それを反省して謝罪するのはいいことだ。
しかし、
その発言を「なかったことにする」のは間違っている。
問題のある発言をしてしまったときは、
問題のある発言をしてしまった事実を背負った上で、
反省し、謝罪するのが筋だと思う。
[PR]
by imadegawatuusin | 2005-12-06 04:21 | 政治

■「単ナル神話ト伝説」への逆戻り 
皇族の三笠宮寛仁(ともひと)親王が、
女系天皇容認に異議を唱える随筆を
発表した(「朝日新聞」「読売新聞」11月4日)。
これがなかなか「凄い」内容なのである。

寛仁親王はこの随筆の中で、
「二六六五年間の世界に類を見ない我が国固有の歴史と伝統」(!)を
「平成の御世(みよ)でいとも簡単に変更して良いのか」と問いかける。

そして、
「万世一系、一二五代の天子様の皇統」(!)が「貴重な理由」は、
「神話の時代の初代・神武天皇」(!)から
「連綿として一度の例外も無く、
 『男系』で今上陛下迄(まで)続いて来ているという厳然たる事実」(!)
にあるのだと言う。

そして最後に、
「国民一人一人が、
 我が国を形成する、
 『民草』の一員として、
 二六六五年の歴史と伝統」(!)に対し
「きちんと意見を持ち発言をして戴かなければ、
 日本国という、『国体』」(!)の
「変更に向かうことになりますし、
 いつの日か、
 『天皇』はいらないという議論に迄発展するでしょう」
として文章を締めくくるのである。

今どきここまで露骨に復古主義的な主張を目にすることも珍しい。
「二六六五年の歴史と伝統」(!!)に、
「国体」(!)に「神武天皇」(!!)に「天子様」(!!!)である。

先代の昭和天皇のいわゆる「人間宣言」にすら、

朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、
終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、
単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。


つまり、
「天皇と国民との間の絆は、
 お互いの信頼と敬愛とによって結ばれているのであって、
 単なる神話と伝説とによって生じるものではない」
と明記されているのである。
少なくとも僕は、
現代の皇室制度とは
こうした理念の下に存在するのだと認識してきたのだが、
寛仁親王の主張はまさしく、
皇室制度の根拠を、
先代の昭和天皇が否定した「単ナル神話ト伝説ト」に
もう一度 置き直そうとするものに見える。
いくら何でも時代錯誤も甚だしいのではないか。

大体、今から「二六六五年」前と言えば、
歴史の教科書の年表には「縄文時代」と書かれている時代、
つまりは石器時代である。
現在の皇室につながる「大和朝廷」の記述が登場するまでには、
縄文時代の次の弥生時代の
そのまた次の大和時代まで待たなければならない。
「二六六五年の歴史と伝統」や「一二五代の天子様の皇統」などというものは、
まさしく「単ナル神話ト伝説」に過ぎないのである。
そのようなものを持ち出して、
「初代・神武天皇から
 連綿として一度の例外もなく、
 『男系』で今上陛下迄(まで)続いて来ているという厳然たる事実」
などと胸を張られては、
こちらとしては、
「皇族の中には、いまだにこういう考えの人間もいるんだ」と、
正直、驚くしかない。

■「Y1染色体」についての記述はあまりに粗雑 
――「生物学的に言うと」間違っている――
「読売新聞」によればこの随筆には、
最近一部で流行している(らしい)例の「八木理論」も登場する。
寛仁親王は随筆の中で、
「生物学的に言うと、
 高崎経済大学の八木秀次助教授の論文を借りれば、
 神武天皇のY1染色体が継続して
 現在の皇室全員に繋がっている」と言うのである。

「Y1染色体」とは男子が父親から受け継ぐ遺伝子である。
もっとも、
寛仁親王自身がこの理論をどの程度理解しているのかという点については、
「読売新聞」に掲載された随筆の要旨から察する限り、
かなり怪しいと言わざるを得ない。
少なくとも寛仁親王の言い分は、
「生物学的に言うと」間違っているし、
八木助教授の理論の正確な引用にもなっていない。

文の冒頭に
「高崎経済大学の八木秀次助教授の論文を借りれば」とある通り、
自らの意見を正当化するために、
内容をあまり吟味しないまま、
取りあえず「借り」てきただけではないかとすら思わせる。

先ほども書いたとおり、
「Y1染色体」とは『男子が』『父親から』受け継ぐ遺伝子なのである。
よって、
皇太子・徳仁親王とその妻・雅子皇太子妃との間に生まれた
敬宮愛子内親王は、
女性であるため「Y1染色体」を持っていない。
また、
皇室の外から嫁いできた女性である雅子皇太子妃もまた、
「Y1染色体」を持ってはいない。

寛仁親王は、
「神武天皇のY1染色体が継続して
 現在の皇室全員に繋がっている」と言う。
だが、
(神武天皇の実在性はさておくとしても)
敬宮愛子内親王は「現在の皇室全員」には含まれないと言うのだろうか。
雅子皇太子妃は「現在の皇室全員」には含まれていないと言うのだろうか。
いかに「随筆」であるとはいえ、
女性を家族の一員とは見なさないかのようなこの論理展開は
あまりに粗雑すぎはしないか。

■天皇は「遺伝学上の骨董品」か 
大体、
「神武天皇のY1染色体」云々という話自体が、
よくよく考えてみれば「それがどうした」という話でしかない。
「Y1染色体」などというものは、
人間の男性が持つ46個の遺伝子の中の1つでしかなく、
これのみを そうも神聖視するべき いわれは特にない。

同じ男系の先祖を持つ一族の男性同士が
同じ「Y1染色体」を持っているのは、
別に皇族に限った話ではないはずだ。
世の男性は誰でも、
その直系の男系の先祖の「Y1染色体」を
連綿と保持しているのである。

それとも、
(そもそもその実在すら疑わしい
 「石器時代の天皇」?である)神武天皇の「Y1染色体」とやらは、
例えば小泉首相やビートたけしや、
あるいは麻原彰晃や僕の持つ「Y1染色体」と比べて、
何か特別優れた特質を持っているのか。
世の男性ならだれでも持っている「Y1染色体」と比べて、
日本国の象徴たるにふさわしい何らかの特質を
備えているとでも言うのだろうか。
(念のために言っておくと、
 「神武天皇のY1染色体」は、
 妊娠した女性の腹を割いて胎児を見たり、
 人の生爪を抜いて山芋を彫らせたという あの武烈天皇も
 持っていた、とされる染色体のはずである。)

あるいは、
現在も「徳川家康の男系子孫」や「夏目漱石の男系子孫」は存続しているが、
そのY1染色体について云々されることはまったくない。
「神武天皇のY1染色体」とやらだけに、
「徳川家康のY1染色体」や「夏目漱石のY1染色体」と比べて、
特別に国家がこれを保護し、
永久にこの保持に努めるに値する、
歴史学上の、あるいは生物学上の意義を
どうすれば主張できるというのだろうか。
もしそのような、
人間男子の46個の染色体の1つでしかないこのY1染色体の由来によって
皇位の正当性が主張されるというのであれば、
天皇とは単なる「遺伝学上の骨董品」にすぎないことになってしまう。

少なくとも、
遺伝子の解析技術が飛躍的に進み、
「Y1染色体」などというものが知られるようになったのは、
歴史の中ではごく最近に属する出来事であり、
我が国の長い「歴史と伝統」の中で
このようなものに価値が置かれてきたことは、
過去に一度もなかったのだということは
はっきり確認しておく必要がある。

■強い違和感を感じる内容 
僕は、
皇族と言えども言論の自由は認められてしかるべきだと考えている。
たとえ皇族であっても、
一個人として広く社会の問題に関心を持ち、
これについて自らの見解を明らかにしようとするのは
人間として自然なことで、
当然の権利だと考えている。
一個人が一個人として、
一個人の見解を述べることは、
公権力の行使には当たらず、
皇族が国政に関する権能を有しないこととは何ら矛盾するものではないと
僕は思う。

ただし、
実に当然のことながら、
権利の行使には責任を伴う。

僕は、
特に政治的な発言・行動をしない限りは、
皇族個人に対する批判は行なわないことにしている。
皇室制度自体に対する批判はしても、
それは決して、
皇室に属する一人一人に
何らかの個人的責任があると考えてのことではない。

しかし、
ある皇族が自らの言論の自由を行使して
反動的言動をとるのであれば、
こちらも言論の自由を行使して
これを論難することもありうる。
(無論、
 その言動の内容によっては
 これを支持することもあるかもしれない)。

三笠宮寛仁親王が今回発表した随筆の論理は、
先代の昭和天皇ですら否定した
「単ナル神話ト伝説」への逆戻りを指向するものであり、
極めて反動的なものである。
僕はこれに強い違和感を覚えたことを
ここに率直に表明する。

【関連記事】
「憲法改正で皇室制度を廃止しよう」
[PR]
by imadegawatuusin | 2005-11-05 04:15 | 政治

――人権と民主主義を重んじる左派こそ改憲の提起を――

■血筋や家柄で ものを決めない国にするために  
最近、
皇室制度のあり方についての議論が盛んである。

皇室では現在、
皇太子である徳仁親王にも、
その弟の秋篠宮文仁親王にも男の子供がいない。
「天皇は男系男子に限り、
 皇族は養子を迎えることができない」という今の規定を護り続けるかぎり、
このままでは天皇の位を継ぐ人がいなくなる。
女帝の即位を認めるべきか、
それとも戦後になって民間人となった旧皇族の子孫の男子を
皇族に復帰させるべきか……、と
活発な議論が行なわれている。

確かに、
日本国憲法が国家および国民統合の象徴として
天皇の存在を規定している以上、
現憲法のもとでは、
長期にわたって天皇が不在となる事態は
法治国家として許されない。
天皇になる人が将来いなくなることが想定されるにもかかわらず、
国会が何の対策もとらず、
実際にそのような事態が起こった場合、
国会は憲法上当然取るべき措置を怠ったとして
不作為による違憲行為の責任を問われるだろう。
しかし今、
わが国最大の政党である自民党が新憲法草案を発表するなど、
その日本国憲法自体を改正する機運が高まっている。
今こそ、
憲法改正の議論の中で、
皇室制度という制度そのものの是非を問い直すべきなのではないだろうか。

そもそも僕は、
国家の象徴である「天皇」という役職を
血筋によって世襲する
皇室制度に反対である。
民主主義の世の中に、
生まれながらに法律によって
職業や身分を規定されてしまう個人がいるのはおかしいと思う。
社会学者の上野千鶴子さんは、
皇室制度(天皇制)について次のように言っている。

戸籍も住民票もなく、
参政権もなく、
そして人権さえ認められていない皇族のひとたちを、
その拘束から解放してあげることだ。
住まいと移動を制限され、
言論の自由も職業選択の自由もなく、
プライバシーをあれこれ詮索され、
つねに監視下に置かれている。
こんな人生をだれが送りたいと思うだろうか。
失声症や適応障害になるのも無理はない。

天皇制という制度を守ることで、
日本国民は、
皇族という人間を犠牲にしてきたのだ。(「朝日新聞」2005年8月17日夕刊)


僕たちはこのような非人道的な「犠牲」を、
今後も皇族の人々に強いてゆくつもりなのであろうか。
このような「犠牲」を前提とする憲法を
今後も護り続けるつもりなのだろうか。

少なくとも僕は、
自由と人権と民主主義を重んじる一人の「左派」として、
皇室制度を規定する現在の憲法の改正・皇室制度の廃止こそが、
今回の「皇位継承問題」への答えであると訴えたい。
左派陣営の中にはとかく「改憲」をタブー視する風潮もある。
だが、
人は血筋や家柄ではなくその 行ないによって評価され、
処遇されるべきだと主張してきた僕たち左派の人間にこそ、
より民主的・より平和的・より人権擁護的な改憲案を提起し、
世論を喚起してよりよい社会を築くべき責任があるのではないかと思うのだ。


【関連記事】
2人の「左翼」が僕を改憲論者に転向させた
三笠宮寛仁親王の随筆は時代錯誤だ
憲法記念日に際して
「守る」運動から「変える」運動へ
「改憲派」社民党員の提言
改憲、社民党での論議を歓迎

[PR]
by imadegawatuusin | 2005-10-29 04:13 | 政治

靖国神社問題について

8月15日は終戦記念日である。
魂の不滅も天国も信じることのできない僕には、
先の大戦で命を落とされた方々の
冥福(=冥界での幸福)を祈ることはできない。
ただ、
戦争によって命を奪われた人々・
失わざるを得なかった人々のことを思い、
二度と戦争の惨禍を繰り返させまいと
心に誓うだけである。

8月15日はまた、
国会議員や閣僚の靖国神社への参拝が
話題となる日でもある。
僕は2年前、
当時話題になっていた
小泉首相の靖国神社への参拝問題について
次のような文章を書いた。

僕は、
信教の自由は百パーセント
守られなければならないと考えている。
どこのどいつがどんな神様を拝もうと、
それは一切自由である。
したがって、
一個人小泉純一郎氏が麻原彰晃を拝もうと、
東条英機を拝もうと、
そんな事は知った事ではない。

もちろん、
公式参拝となれば話は別だが、
一個人小泉純一郎氏がどんな宗教を信じても、
僕が文句を言う筋合はどこにもないと考えている。

ただし、
もし一個人小泉純一郎氏が
オウム真理教の神殿を参拝したりした場合、
オウム事件の被害者達から
猛烈な反発をくらう事は覚悟しなければならない。
それでもいい、と言うのなら、
僕は別に止めはしないが、
小泉純一郎氏がまともな人物であるならば、
まさかそのような事はしないだろうと
僕は確信している。

同様に、
もし一個人小泉純一郎氏が
靖国神社を参拝したりした場合、
先の大戦の犠牲者達から
猛烈な反発をくらう事は
覚悟しなければならない。
それでもいい、と言うのなら、
僕は別に止めはしないが、
小泉純一郎氏がまともな人物であるならば、
国策を誤り、
多くの国民を
苦しみのどん底に落し入れた人物を祀る神社に
参拝するなどと言う事は、
まさかしないだろうと僕は確信している。

幸い、
小泉純一郎氏は
国民の八十パーセント以上から
支持されるほどの人物である。
支持率から推測するに、
史上まれにみる偉大な指導者であるに違いない。
さぞかし深い見識と
的確な判断力をお持ちでいらっしゃるのであろう。

間違っても、
誤った国策の被害者であり、
戦争行為の加害者として
死んでいかざるをえなかった戦死者達を
「英霊」としてほめ讃えるような人物では
ないはずだ。(月刊『噂の真相』2001年9月号134ページ)



読み返してみて思い出したのだが、
2年前には小泉政権の支持率が
80パーセント以上もあったのだ。
今から考えれば
あのときの世間の空気は
どこか異常だったんじゃないかという気がする。
(僕自身、
 こんな「誉め殺し」みたいな文章しか
 書くことができなかったのだから、
 到底ひとのことは言えないのだが。
 反省反省……)。

とはいえ、
靖国神社に対する僕の考え方は、
基本的にはこの頃から大して変わっていない。
僕は決して、
国会議員や閣僚が
靖国神社に参拝すること自体を否定はしない。
(また、
 たとえ相手が議員であろうと大臣であろうと、
 その人個人の内心・信仰心に
 僕ごときが踏み込むことなど
 できるわけがないとも思っている)。
あとは、
どのような国会議員・閣僚が
靖国神社に参拝したのかを
しかと記憶にとどめた上で、
来るべき選挙での投票行動に
生かしていこうと思うだけだ。

ところが、
靖国神社を信仰する個人個人の信仰心を
国家権力でもって踏みにじろうとする政治家がいる。
いわゆる「A級戦犯分祀論者」の方々だ。
「A級戦犯」さえ「分祀」すれば、
中国・韓国などの「外圧」が
弱まるのではないかというのである。

しかし、
国家権力が特定の宗教団体に対し、
「この神様と、この神様と、
 この神様はケシカランから、
 さっさとどっかへ移してしまえ」などというのは、
れっきとした宗教弾圧に他ならない。
東条英機を祀ろうと、麻原彰晃を祀ろうと、
アドルフ=ヒトラーを祀ろうと、
それはその宗教の自由である。
もちろん市民一人一人には、
宗教を信じる自由があるのと同様、
宗教を批判する自由もある。
だが、
たとえ圧倒的多数の市民によって排斥され、
忌み嫌われているような思想・信仰であったとしても、
その思想・信仰そのものに
国家権力が介入することは許されない。

僕は、
国家と宗教は
完全に切り離されるべきだと考えている。
当然、
特定宗教への首相の公式参拝等にも
断固反対である。
しかし、
「A級戦犯分祀」論の害悪は、
首相の公式参拝の比ではない。
首相の公式参拝等は、
一般国民に直接、被害を与える行為ではない。
だが、
国家権力が特定の神様のあり方に
ケチをつけるような事態が起きれば、
その宗教の信者の信仰心を
直接的に深く傷つけることになる。

宗教法人・靖国神社は
国家権力のしもべではない。
総理大臣の都合によって
信仰を曲げさせられる筋合いは
どこにもないのである。

僕は、
その団体の思想や教義がどのようなものであれ、
あらゆる政治・宗教団体への
国家権力の介入・弾圧に反対する。
それは、
たとえその団体がオウム真理教であれ、
パナウェーブ研究所であれ、
宗教法人・靖国神社であれ変わりはない。

以上の立場から僕は、
いわゆる「A級戦犯分祀論」に反対する。
『鈴木邦男をぶっ飛ばせ!』「酒井徹の今週の裏主張」No.54より転載)


【参考記事】
靖国問題:国は信仰を裁いてはならない
[PR]
by imadegawatuusin | 2003-08-18 20:13 | 政治

『憲法は9条から始めればよい』。
そう主張したのは、
あの辻元清美前議員であった。
辻本前議員のこの文章を読んだとき、
僕は正直 かなりの衝撃を受けた。
つまり彼女は「憲法改正」を主張しているのだ。
「改憲論者」なのだ。

当時の僕は「護憲派」だった。
日本国憲法は理想の憲法だと信じていた。
それなのに、
「平和主義者」であるはずの彼女が
どうしてこんなことを言うのか。
こんなことを言うと、
右翼の改憲論者どもを利するだけではないか……。
そう思った。

しかし当時、
僕は反天皇論者だった。
天皇制は打倒されなければならないと考えていた。
そして、
あと10年もすれば
おそらく天皇制は潰れるだろうと
(何の根拠もなく)かなり虫のいい期待を抱いていた。

冷静に考えれば奇妙な話だ。
天皇制をつぶすには、
その法的根拠である日本国憲法を叩き潰さない限り
どうにもならない。
少し考えればすぐにわかる話である。
しかし当時の僕の心の中では、
「護憲論」と「反天皇論」とが
何の矛盾もなく同居していた。

そんなときに、
辻元前議員の
『憲法は9条から始めればよい』という意見を読んだのだ。
はっきり言って、
僕の心の平穏がぶち壊された思いがした。
僕の心の中にごく当たり前に共存してきた「護憲論」と「反天皇論」とが、
急に相容れないものに見えてきた。
「護憲論者・酒井徹」と「反天皇論者・酒井徹」とが
僕の右手と左手に縄をくくりつけ、
それぞれその両端を引き合って綱引きをしているような
妄想を見た。
本当に、
僕が2つに引き裂かれるような思いがした。

このままでは、
僕の心の健康が危うい。
こんなケシカラン意見は
なんとしてでも論破しなければならない。
僕はそう決意した。
頭の中で何度も僕は、
「辻元改憲案」を攻撃した。
何度も何度も攻撃を挑んだ。
しかし、
ついに勝利することはできなかった。
僕はついに、
「護憲論」と「反天皇論」を、
自分が納得いくように心の中で両立させることが
できないことに気付いてしまったのだ。

気付いてはいけないことに気付いてしまった……。
当時の僕はそう思った。
だって、
このことに気付いてしまった以上、
僕は「護憲論者」か「反天皇論者」かのどちらかを
やめなければならない。
僕には、
「護憲論者としての誇り」があった。
「反天皇論者としての誇り」もあった。
どちらも、
絶対に譲れない僕の思想だと信じていた。
「ガキのくせに何をえらそうな」と思われるかもしれないし、
事実いま僕も自分で書いておきながら
そう思ったりしているのだが、
当時の僕にしてみれば、
「護憲論」も「反天皇論」も
僕の大事な「拠り所」だと思っていたのだ。
そして、
僕が「左の人間」であることの一種の「証明書」だとも思っていた。
そのどちらかを、
僕は捨てなければならない……。

それもこれも、
辻元清美が余計なことを書くからだ。
こんな本、
読まなければよかったのだ。
そうとも。
読まなかったことにしてしまおう!

こうして僕は、
自分の出した結論に
「気付かなかったふりをする」ことにした。
このことについては、
今後一切考えないことにした。
思い出しそうになったら目をそらすことにした。

こうした態度を僕はかなり長い間続けていた。
僕が改憲論者に転向したのは、
つい最近のことである。

そのきっかけとなったのは、
鈴木先生の『闘う日本語』という本を読んだときのことだ。
この本に収録されている
「愛欲戦争の最前線レポート」という文章の中で
鈴木先生は、
『遠藤誠の知らなきゃ損する男と女の法律相談』(21世紀書院)
という本の書評をやっている。
その書評の中に、
こんな部分があったのだ。

この本で一番面白かったのは
「男と男、女と女の結婚は可能か」とあるところ。
ある日、
オカマの東郷健が主催する
月刊誌『ザ・ゲイ』の記者の取材を受けたそうだ。
その記者に開口一番
「男と男、女と女が結婚してはならないという規定は、
 何という法律の何条に書いてあるのですか?」と聞かれ
ハテと返事に窮したらしい。
……(中略)……
ズバリ「同姓は結婚しちゃいけない」と書いてる条文はないが
憲法第二十四条には
「婚姻は、
 両性の合意のみに基づいて成立し、
 夫婦が同等の権利を有することを……」と書いてある。
この両性、夫婦はどうみても男と女だろう。
他に民法にもそういうふうな表現がある。


「理想の憲法」であると信じてきた日本国憲法が、
実は同性愛者を差別している……。
この事実を知って僕は愕然とした。
僕は、
民法とその周辺の諸法さえ改正すれば、
同性結婚の実現は可能であると信じていた。
事実、
月刊『創』2001年10月の投書欄に載せていただいた
「同性愛結婚の承認を」という投書のなかで僕は、
このようなことを書いていたのだ。

我が国では数年前から民法改正が議論されているが、
議論の対象に「同性愛結婚の法的承認」を
ぜひとも加えていただきたい。


民法とその関係の諸法さえ改正すれば
同性結婚は可能であると、
当時の僕(といっても、つい1年ほど前の僕だけれど)は
固く信じこんでいた。
けれど、それは違うのだ。
日本国憲法自身が明白に
同性結婚を禁止している。
「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立」するということは当然、
同性間の合意によっては成立しないということだ。
国の最高法規である憲法が禁止している以上、
いくら民法を改正しても、
同性結婚は実現しない。
憲法に反する法律はすべて無効であるからだ。

どうしてこんな当たり前のことに
今まで気付かなかったのだろう。
僕は、
この憲法第24条を知らなかったわけではない。
それまでも何度も読んできたはずだ。
けれど、
この条文の差別性に
僕は全く気づくことができなかった。
それどころか僕は、
この憲法第24条を
「性差別から人々を解放する条文である」とまで思っていたのだ。

もちろん、
おそらくこの条文を書いた人も、
同性愛者を差別しようと思ってこんな文章を書いたわけではないだろう。
「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立」するというのも、
「結婚に関しては本人たちの合意が大切であって、
 親が勝手に本人たちの意思を無視して
 無理やり結婚させたりしてはいけない」
という意味だったのだと思う。
この条文は、
おそらく「善意」で書かれたものであったと
僕は信じたい。
当時としては画期的な条文であったとは思うのだ。

けれど、
たとえ「善意」で書かれていたとしても、
たとえ同性愛者を差別する意図はなかったのだとしても、
この条文が明らかに同性同士の結婚を禁止していることには
変わりはない。
僕は絶対にこのような差別的な条文を
認めるわけにはいかない。

こうして僕は改憲論者となった。
言ってみれば、
辻元清美前議員と遠藤誠弁護士という
二人の「左翼」が僕を改憲論者に転向させたのだ。

いったん日本国憲法に疑問を持ち始めると、
他にも問題点が目に付いてくる。
たとえば憲法第96条。
この条文がある限り、
日本国憲法は「押し付け憲法」だと言われても仕方がないと思う。
ここで「押し付け憲法」と言ったのは、
「アメリカをはじめとする戦勝国に憲法を押し付けられた」
という意味ではない。
もちろんそういう面があったことも否定はしないが、
それ以上に、
55年前の人たちが現代を生きる僕たちに
憲法を「押し付けている」のではないかと思うのだ。
僕は、
法律とか憲法というものは、
「その時代を生きる人」の過半数の意思によって
成立すべきものであると思う。
ところが、憲法第96条によると、
憲法を改正するには
「各議員の総議員の3分の2以上の賛成で、
 国会が、これを発議」しなければならないことになっている。
つまり、
現代の人間の66%がおかしいと思っている条項であっても、
残り34パーセントが反対すれば
改正は不可能となってしまうのだ。
(もちろん、
 現在の小選挙区制中心の選挙制度では
 必ずしも議会の成員割合が
 民意を正確に反映しているわけではないのだが)。
これはやはりおかしいと思う。
憲法にしても法律にしても、
「その時代を生きる人間の過半数」によって
改正されるべきである。

まとめて見ると、僕の改憲論は次のようなものとなる。

1.憲法に出てくる「天皇」または「皇室」という言葉を
  「大統領」という言葉に置き換え、
  憲法第2条を
  「大統領は、
   国会の議決した大統領選挙法に基づいて
   国民投票により選出される。」と改正する。
  また、
  憲法第88条(皇室財産と費用)を削除する。
2.憲法第24条第1項を
  「婚姻は、両者の合意のみに基づいて成立し、
   両者が同等の権利を有することを基本として、
   相互の協力により維持されなければならない。」
  と改正する。
3.憲法第96条第1項を
  「この憲法の改正は、
   各議員の総議員の過半数の賛成で国会がこれを発議し、
   国民に提案してその承認を経なければならない。
   この承認には、
   特別の国民投票または国会の定める選挙の際行なわれる投票において、
   その過半数の賛成を必要とする。」と改正する。
4.旧仮名は新仮名に改め、
  送り仮名もわかりやすいものとする。
  (例:「行う」→「行なう」 「基く」→「基づく」)。
5.参議院が成立していないことを前提とする
  第100条第2項から第102条までは削除する。

細かく見ていけば
他にも改正の必要なところはあるかもしれないが、
とりあえず今考えているのはこんなところだ。
僕たち「左の人間」も、
「憲法を守れ」と言っているだけでは
どんどん「保守派」・「守旧派」になってしまう。
僕の改正案には、
おそらくほとんどの左翼の人たちは
賛成してくれるのではないだろうか。
スローガン的に「憲法を守れ」と言っているだけでは
政治は何も変わらない。
これからは左の勢力こそが、
より民主的・より人権的・より平和的な憲法を創り出すために
闘っていかなければならないのではないかと思うのだ。
『鈴木邦男をぶっ飛ばせ!』「酒井徹の今週の裏主張」No.13より転載)


【参考記事】
憲法記念日に際して
左からの改憲提言はタブーか
「守る」運動から「変える」運動へ
「九条の会」で雨宮処凛さんと対談
「改憲派」社民党員の提言
改憲、社民党での論議を歓迎

[PR]
by imadegawatuusin | 2002-11-18 20:00 | 政治

鈴木先生と私

中学生のときに、
僕は初めて鈴木先生に出会いました。
学校の図書室で、
筑紫哲也さんの対談集を読んでいたときのことです。

僕は、
日教組地方支部の専従役員をやっているような父親に育てられたせいか、
小さいころから少し左がかった人間でした。
もちろん、
「左がかった」といっても、
別にマルクスとかレーニンとかの思想を持っていたわけではありません。
筑紫哲也が大好きで右翼が嫌いな子供だった、
くらいの意味だと理解してください。
 
まあそんなわけで
筑紫哲也の対談集なんてものを読んでおりましたところ、
その対談相手の一人が鈴木先生だったのです。
読後の第一印象は……、
はっきり言って「最悪」でした。
今から考えると何でこんなに腹が立ったのか分からないくらいに
とにかく腹が立ちました。
多分、
「右翼」という先入観を持って読んでしまったというのも理由の一つだと思うのですが、
やたらと高圧的・独善的・暴力的な人間に見えたのです。

たとえば、鈴木先生はこんなことを言っています。

天皇を批判する人間に度胸がない、と。
もし、本当に思想に命をかけるというのならば、
殺されたっていいじゃないですか。
それくらいの覚悟でやるべきですよ。
こっちだってその覚悟でやってるんですから。


読んだ後、
しばらく言葉も出ませんでした。
唖然とした、というか……
(今読めば、それほどひどい発言とも思わないのですが)。
当時の僕は、
確かこんなことを考えていたと思います。

「殺されたっていいじゃないですか」って……、
「いい」訳無いやないか! 
お前ら右翼が天皇制に命を懸けるんは勝手やけれども、
何で『たかが』天皇制を批判するのに命まで懸けなアカンねん。
そんな事せんでもこんな訳分からん制度、
そのうち潰れるに決まってる。
まあ、お茶の家元制とか、
歌舞伎の襲名制みたいな感じで民間の制度としては
残っていくかもしらへんけどな。

今から考えれば、
ずいぶん皇室制度を甘く見ていたことが分かります。
「『たかが』天皇制」は「そのうち潰れる」と
本気で信じていたのですから。
そのくせ自分は「護憲派」だと思っていたのですから、
相当いい加減な人間だったということが分かりますね
(結局、
 僕が改憲派に転向したのは皇室制度が原因ではなく、
 同性愛者に対する結婚差別規定=憲法第24条
 「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し」を改正しなければ、
 真の意味での同性愛者解放はありえないと考えたことがきっかけでした)。

その後、
「現代用語の基礎知識」や「知恵蔵」で左翼の項を見るのが大好きだった僕は
(中核派はヘルメットが白で機関紙は『前進』……ってなことを
 小学生のころから暗記して、
 メーデーでその党派を見つけては大喜びするような変な子供でした)、
少し手を広げて右翼の項も読んでみました。
それによると、
「鈴木邦男」氏は「野村秋介」氏と並ぶ新右翼の代表的指導者である、
ということでした。
そして中でも「鈴木邦男」氏は、
新右翼を代表する理論家であるということです。
それを読んだ結果、
「野村秋介」氏は「右翼の宮本顕治みたいなもん」で、
「鈴木邦男」氏は「右翼の黒田寛一みたいなもん」だと
僕の頭にはインプットされてしまいました。
こうして、
「鈴木邦男」=「怖くて厳しく頭が固い」というイメージは
ますます補強されたのです。

ところが、
そんな印象があっさり粉砕されてしまったのが、
例の「朝日新聞インタビュー事件」でのことでした。
もちろん、
これが「事件」になっていたことを知ったのはずいぶん後のことなのですが……。

たしか、
鈴木先生の前日には、
沖縄反戦地主の知花昌一さんがこのコーナーに登場していたと思います。
そのインタビューがとてもおもしろかったので、
「このシリーズは今後も逃さず読むことにしよう」と
僕は決意したのです。
ところが、
翌日登場したのはあの恐ろしい右翼・「鈴木邦男」氏ではありませんか! 
最初は怖かったのですが、
一応『読んでやる』ことにいたしました。

で、結局、
むちゃくちゃおもしろかったのです。
いわゆる「朝日新聞インタビュー事件」で問題となったのは、
「国旗が『赤旗』になって、
 国歌が『インターナショナル』になるなら、
 それでもいい」という鈴木先生の発言だったそうですが、
僕はその部分よりむしろ、
「国の歌や旗なんだから、
 少なくとも国家を代表する大会や集会だけで使えばいいんです」・
「それ(筆者注―日の丸・君が代)に代わる、
 みんなが尊敬できる歌や旗とかいっても、
 その歌や旗のもとに一致団結したら危ない」・
「日本の歴史で国旗や国歌が出てきてまだ百数十年。
 明治維新で西欧の影響を受けてからです。
 『極右』の人なら、
 西欧をまねて作った国歌や国旗なんて捨てて
 『本来の日本に戻れ』と主張してもいい」
などといった部分に心ひかれる思いがしたのです。

僕の思っていたような「右翼」とは、
少し違うのかもしれない。
たとえ思想が違っても、
この人となら何かが共有できるのではないか……。
そう思い始めた僕は、
その後本屋で鈴木先生の本を立ち読みし、
買いあさり、
掲示板にまで書き込みをはじめ……、
そして現在に至っているというわけです。

鈴木先生の御本を読むようになって、
一番の収穫だなと思っていることは、
右系(保守系・右翼系・民族派系を問わず)の人の書いた文章を
冷静に読めるようになったということです。
それまでは、
そうした文章を読むときには、
「こいつは右翼だ、反動だ。
 きっと裏から金をもらって嘘八百を並べ立て、
 善良な市民をだまくらかそうとしているに違いない」という心構え(?)が先にあって、
とても冷静に読めたものではありませんでした。
けれど鈴木先生の御本を読んでからは、
「ウソや間違いもあるかもしれないけれど、
 この人にはこの人なりの信念があって頑張ってるんだ」という
穏やかな気持ちで幅広く文章を読むことができるようになったのです。
「右も左も宗教も、
 やり方は違っても『よりよい世界』を目指して
 頑張っている」という当たり前の事実に、
ようやく気づくことができたのです。

最後に、鈴木先生の御本に触れて作った短歌を置いておきます。

●外ゲバはないんだ 左右の「外ゲバ」は政治おたくの内ゲバなんだ


『鈴木邦男をぶっ飛ばせ!』「酒井徹の今週の裏主張」No.1より転載)
[PR]
by imadegawatuusin | 2002-08-16 05:14 | 政治