「ほっ」と。キャンペーン

僕の家から歩いて5分くらいのところに
赤留比売神社(あかるひめじんじゃ)という神社がある。
境内があまりにも狭すぎて、
端から端まで30歩で歩けてしまうということから、
地元では普通、
三十歩神社(さんじゅうぶじんじゃ)と呼ばれている。
ぼくの町には、
この神社の祭神である赤留姫(あかるひめ)に関して、
昔から語り伝えられた伝説がある。
この伝説がかなり ぶっ飛んでいておもしろいので、
今回はそれを紹介する。

もともとこの赤留姫という人は、
むかし朝鮮半島に存在した
新羅(しらぎ)という国の皇太子殿下が
小さいときから大事にしていた
赤いルビーの宝石だった。
ところがこのルビーは、
長年大事にされているうちに、
なんと皇太子殿下のことを好きになってしまったのだ。
そこでこのルビーは、
夜空に昇った月に向かって
「お月さま、お月さま、どうか私を人間にしてください……」
と願いをかけて、
ついに人間にしてもらった。
ロマンチックなお話だ。

そして、
皇太子殿下と恋に落ちるわけなんだけど、
二人の結婚に王妃様が反対するのだ。
そんな身元の分からない女と結婚したら
王家の血が穢れるとか何とか、
わけの分からないことをわめきまくったそうなのだ。
余計なことをする奴だ。

そこで、また赤留姫は月を見上げて、
「お月さま、お月さま、どうか私たちを結婚させてください」
と願いをかけた。
するとその夜、
王妃様の枕元に月が現われ、
「あの娘のことはワシが保障する。
 いいかげんに、意地を張ってないで結婚させてやれよ」
と、王妃様を説得してくれたのである。

こうして赤留姫と皇太子殿下は
結婚できることになったのだ。
めでたしめでたし

……と、ここで終わればいいのだが、
話はまだまだ続くのだ。

なんとこの皇太子、
赤留姫と結婚したとたんに態度が変わって、
家庭内暴力をふるうようになってしまったのだ。
赤留姫のことを殴って蹴って、
タバコの火を押し付け……たかどうかは知らないが、
とにかくひどいものだったらしい。
そこで、
赤留姫はまたまた月にお願いをはじめるのだ。
「お月さま、お月さま、どうか私たちを離婚させてください……」
と。
すると月は、
「お前が結婚したいと言うから結婚させたったんやんけ。
 そんなんお前が勝手に自分で何とかせーや、
 ボケーッ!」
っと、
逆ギレしてしまったそうなのだ。
そりゃそうですよね。

そこでようやく、
赤留姫は反省したのだ。
今まで自分は、
お月さまにお願いをするばっかりで、
自分から積極的に何かをやったことは一つもなかった……と。

そして、
赤留姫は家出をすることに決めたのだ。
もちろん、
「家出」といっても
最近はやりの「プチ家出」ではない。
命がけの家出である。
なにしろ、相手は一国の皇太子なのだ。
国中の どこに逃げたって、
最後の最後にはつかまってしまう。
もちろん、時代が時代なので、
外国の大使館に駆け込むわけにもいかない。
逃げるためには国外に脱出しなければならないのだ。

赤留姫は決死の覚悟で宮殿を脱出。
闇にまぎれて何とか海まで逃げたのだ。
そして、
そこに止めてあったボートを盗んで日本海を渡り
(朝鮮では「日本海」じゃなくて「東海」って言うんでしたっけ)、
ついに大阪市の東南部にある平野の町まで
一生懸命ボートをこいで逃げてきたのだ。
赤留比売神社の隣に「平野川」という川が流れていて、
大阪湾からそこを上ってきたそうだ。
すごい根性である
(余談だが、
 戦前、この平野川の改修工事をするために、
 朝鮮半島から多くの人が連れてこられて
 改修工事に従事した。
 この人々が戦後、
 一ヶ所に集まって定住したのが、
 日本一のコリアタウン・生野である)。

しかし、
すごかったのは赤留姫のほうだけではない。
皇太子のほうもすごかった。
自分の妻が家出したことを知ったとき、
自分のやったことを泣いて後悔して、
次の王位も何もかも捨てて、
日本まで追ってきたのである。
まあ、
ストーカーの元祖みたいなものだろう。
それを知った赤留姫はびっくりして、
「別れた夫がしつこく追ってくるんです!」
と言って、
住吉大社に駆け込んだのだ。
結局、皇太子は、
住吉大社の神さんにボコボコにされて、
兵庫県に追い返されてしまうのだ。

こうして赤留姫は、
世界で初めてストーカーを撃退した女になったのだ。
皇太子は今でも、
兵庫県の出石神社(いずしじんじゃ)というところに居座って、
復縁を迫っているという噂である
(ちなみに、この出石というところは そばがおいしいらしい)。

「国境を越えた愛」というのはいくらでもあるが、
「国境を越えたストーカー騒動」というのは
そうそうあるものではない。
神の存在を断じて信じない僕ではあるが、
一応、この赤留姫が僕の「氏神」ということになるらしい。
離婚とストーカー退治にご利益があるらしいが、
恋愛成就のお願いなどは絶対に聞いてくれないという噂である。

なかなかおもしろい話だとは思いませんか?

ちなみにこの話は、
『古事記』にもちゃんと載っている。
最近、文芸春秋社から発売された
『口語訳古事記〈完全版〉』という本が
全国の書店で平積みにされているが、
訳文が読みやすくておもしろい
(それでいて、
 一語一語かなり忠実に訳しているらしい)。
平野に伝えられている伝説とは多少食い違う部分もあるが、
大体のあらすじは同じである。
本の最後に付いている索引で
「アカルヒメ」という言葉を引くとこの話が出てくるので、
読み比べてみるとおもしろいかもしれない
(ちなみに、
 古事記のほうではこの皇太子は
 さらにえげつない人物として描かれている)。

そして、
『日本書紀』にも載っている。
さらにその部分が、
鈴木先生の御本に引用されて載っている。
『こんな日本 大嫌い!』(青谷舎)という
辛淑玉さんとの対談本の中で、
辛さんが「帰化」という言葉の起源を説明するために引用しているのだ。
 
(新羅の王子、天の日槍)己が国を以て弟の知古に授けて化帰す。
〈垂仁三年、「一云」〉(『こんな日本 大嫌い!』134ページ)


この「新羅の王子、天の日槍」(あめのひぼこ)というのが、
今回の話に出てきた新羅の皇太子のことである。
王位を弟に譲り、
赤留姫を追って日本にやってきて、
後に日本に「化帰」したことがここで描かれているわけだ。
これが、外国人が日本の国籍を取ることを
「帰化」と呼ぶようになった始まりである。

もちろん、
この話自体が史実であるかどうかは
かなり疑わしいのも事実である。
ただ、
こういう話が生まれてくる背景には、
もちろんそれなりの事情がある。
僕の住む町・平野には、
古代から朝鮮渡来人が多く住みついていたという。
その証拠に、
平野の周辺には、
杭全(くまた)・百済(くだら)・加美(かみ)・喜連(きれ)などと、
はっきり言って読みにくい地名が少なくない。
これらはどうやら、
古代朝鮮語に由来する知名だといわれている。

また、
「平野」という地名のもとになったといわれる
坂上広野麻呂
(さかのうえのひろのまろ:
 蝦夷「討伐」で有名な坂上田村麻呂の息子で、
 「ひろのまろ」の「ひろの」がなまって
 「ひらの」となったといわれている)も、
元をたどれば朝鮮渡来人の子孫である。
この坂上家の一族は江戸時代になっても平野で勢力をふるい、
分家の一つ・末吉家は
朱印船貿易でベトナムと交易して大もうけしたそうだ。
ちなみに、
東京の「銀座」を作ったのも
この末吉家の人間だ。
坂上家の本家は戦後、北海道に移住したそうだが、
分家の末吉家は今でも神社の氏子総代をやっている。

この話は、
おそらくそうした渡来人によって
作られたのではないかといわれている。

また、
赤留姫が住吉大社にかくまってもらったのも、
住吉の神と関係の深い朝鮮半島にあったもう一つの国・百済と、
皇太子の母国である新羅との対立関係が
背景にあるとも言われている。
赤留姫は新羅からの弾圧を避けるために、
対立関係にあった百済系の施設に駆け込んだのだ。
そう考えれば、
「大使館駆け込み」に通じるような部分もあるのかもしれない。

さて、この赤留姫と天の日槍(皇太子)、
最近ついに顔を合わす機会があったそうなのだ。
2000年ぶりの再会だ。
これは「歴史的会談」である。
そして、
二人は仲良く笑顔を振りまきながら一つの写真に写っている。
「歴史的和解」だ。

この写真は、
「ハナマトゥリ」というフェスティバルの
パンフレットの表紙を飾っている。
「ハナマトゥリ」とは朝鮮語で「一つの祭り」という意味だ。
「ハナ」が「一つ」、
「マトゥリ」が「祭り」を表す。
韓国系の在日団体「民団」と、北朝鮮系の在日団体「総連」が
合同で行なう画期的なお祭りだ。
この、長年対立してきた二つの団体が合同で一つの祭りを開くなんて、
ちょっと前までは考えられなかった。
その、「歴史的和解」の象徴としてパンフレットの表紙を飾ったのが、
赤留姫と天の日槍だったのだ。

天の日槍は過去の家庭内暴力について
「率直に謝罪」したのだろうか。
それとも、
祖国統一のために赤留姫が「大幅に譲歩」したのだろうか。
パンフレットにはそのあたりについて、
何の説明もない。
どうやら、「玉虫色の決着」であったような気がする。
『鈴木邦男をぶっ飛ばせ!』「酒井徹の今週の裏主張」No.6より転載)
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by imadegawatuusin | 2002-09-30 19:03 | 文芸

『ロックンロール・ニューズメーカー』という雑誌を買ってきた。
2002年10月号だ。
ここに、
人気ヒップホップグループ・「キングギドラ」の
インタビューが載っている。
彼らのことは、
この「裏主張」で3週間前に取り上げたばかりだ。

『UNSTOPPABLE』という彼らのCDに収録された
『ドライブバイ』という曲の歌詞は、
はっきり言ってひどかった。

ニセもん野郎にホモ野郎 
一発で仕止める言葉のドライブバイ 
こいつやってもいいか 
奴の命奪ってもいいか


これが、この曲のサビの部分だ。
サビの部分だから、何度も繰り返されるのだ。
「ホモ野郎」を「ニセもん野郎」と同列視したあげくに、
「こいつやってもいいか 
 奴の命奪ってもいいか」などと殺人を煽り立てる、
こんな歌詞が何度も繰り返されるのだ。

それだけではない。
この歌はそのあと、

だってわかってやってんだろう 
そのオカマみたいな変なの 
だいたいわかる居そうなとこ 
いつでも行ける行こうかそこ 
おめえの連れたアバズレのレズに 
火の粉かけたくなきゃパッくれろMC 
どうしたビビったか 
ママの選んだパンツにチビッたか
(中略)死になクズが


と続く。

僕は、
この歌詞を見たとき、
はっきり言って途方にくれた。
言葉が何も出てこなかった。
そして、
このようなCDが
オリコンチャートで6位を獲得していると知ったとき、
寂しさと、悔しさと、
そのほかにもいろいろ、
言葉にできないような恐ろしい気持ちに包まれた。

けれど、
「言葉が出ない」・「言葉にできない」なんて、
そんな甘っちょろいことを言っていることはできないのだ。
言語に絶するこの曲に、
それでも僕は言葉でいどんでゆかなければならない。

もとより僕は、
言論の自由を重んじる。
当然、
「キングギドラ」のメンバーたちにも
言論の自由を認めなければならない。
彼らがこの曲を発表したことによって
法的に罰せられるような事態が起こることを
僕は断じて認めない。
だから、
国家権力の介入を期待することは許されない。

権力の介入を許せないなら、
個人的「肉体言語」で対決するか? 
けれど、
平和主義者の僕は、
暴力をふるうことも許せない。
そもそも、
それを実行するだけの体力も根性も持ち合わせていない。
第一、
「キングギドラ」のメンバーを殺しても、
結局は彼らを「言論弾圧と闘った英雄」に祭り上げてしまうだけだ。

だから、
僕に残された武器は、
言葉しかないのだ。
出てこない言葉を搾り出してでも、
僕は声を上げなければならない。
その、ようやく搾り出された言葉が、
『週刊金曜日』5月31日号に掲載された投書であり、
「今週の裏主張」に載せていただいた投稿だ。

同性愛者は信じられないほど弱い立場に立たされている。
もちろん、
いま日本には同性愛者差別のほかにもさまざまな差別が存在する。
在日外国人差別・少数民族差別・被差別部落の人たちに対する差別……。
これらはもちろん、
僕たちが全力を尽くして無くしていかなければならない不当な差別だ。

けれど、
これらの差別と同性愛者への差別とが決定的に違う点が
一つある。
在日外国人も、少数民族も、被差別部落民も、
そのお父さんやお母さん、
そして兄弟・親戚など、
近しいところに「同胞」がいる。
けれど同性愛者は違う。
よほどのことがない限り、
同性愛者のお父さんやお母さんは異性愛者だ。
兄弟、親戚にも同性愛者がいることはまれだろう。
彼らは、
世間の中で差別を受けるだけではない。
最後の最後に頼るべき家族の中にも、
彼らを理解するものがいないという悲劇が往々にして起こる。

僕は、そんな状況を変えたい。
同性愛者はからかわれ、
いじめられても当たり前だという世の中を変えていきたい。
男同士・女同士の恋人たちが、
東京ディズニーランドで堂々と手をつないでデートをするのが
当たり前になる世の中を創りたい。
その思いで、僕は「同性愛者解放」を叫ぶのだ。

しかし、
そんな声は、
「キングギドラ」のメンバーたちには
まったく届いていなかったようだ。
今日買ってきた『ロックンロール・ニューズメーカー』の中で、
「キングギドラ」のメンバーの一人、
「K DUB SHINE」氏は、
CDが発売停止に追い込まれたことについて次のように述べている。

どこがいけないんだろう?っていうのはいまだにあるよ。
普通の日常会話でしゃべってることを、
そのまま曲にするのがラップだからさ



「どこがいけないんだろう?」……って、
あなた、あの歌詞を見て、
それでもどこがいけないか分かりませんか? 

「普通の日常会話でしゃべってることを、
そのまま曲にするのがラップ」って、
つまりあなたは、
「ホモ野郎」をつかまえては、
「こいつやってもいいか」・「奴の命奪ってもいいか」などと
「日常」的に「会話」しているわけなんですね! 
よく分かりました。

CD発売元の親会社・(株)ソニー・ミュージックエンタテインメントによると、
あなた方は「反省し、深くお詫び申し上げ」ているというお話でしたが、
やっぱり反省なんかしていなかったのですね
(ソニーは、
 キングギドラ」が反省し、謝罪していることを
 「紛れもなく本物」であるとまで太鼓判を押していたはずなんですが)。
あの事件についての初めての公式コメントであるにもかかわらず、
「反省」という言葉も「お詫び」という言葉も、
インタビューを見る限り、
まったくどこにも見当たらないではありませんか。

とりあえず、
「どこがいけない」かについては、
「キングギドラのCD回収を振り返って」という原稿に
詳しく書いておきましたので、
お送りしたいとおもいます。
おそらく、
読んでいただけることはないと思いますが、
「K DUB SHINE」さんは

一般の人、
つまりゲイでもないし
ゲイを嫌いでもない普通の人に判断してもらいたい、
っていうのはあるよね。
そういう人がどう思ったか?っていうのは、
わかんないで終わってるから。
そこが、なんか煮え切らない


ともおっしゃってますので、
「ゲイでもないし
 ゲイを嫌いでもない普通の人」であるところの僕の意見を、
もしかしたら聞いてくれるかな、という希望を
少しは残しておきたいと思います
(でも、「一般の人」って何? 
 「普通の人」って何? 
 ゲイは「特殊」で「特別」な人なわけ? 
 ついでに言っとくと、
 まずはこの歌詞によって心を傷つけられた同性愛者の意見に
 しっかりと耳を傾けたうえで、
 自分で「判断」するのが筋だと思う。
 「ゲイでもないし
 ゲイを嫌いでもない普通の人」に決定権があり、
 当事者である「ゲイ」の意見はあまり重要でないかのようなこの発言には、
 やっぱり疑問を覚える)。

あといくつか、言わせてほしい。

たぶん回収騒ぎがなければもっと行ったと思うから、
全然不本意だよ。
セールス的にはいままでよりもいいのかもしれないけど、
あの登場の仕方だったら、
トップ10に何週も入るもんだと思うし、
ほんとにちゃんとヒットするべきだったと思うんだよね(「K DUB SHINE」氏)


たしかに、
回収騒動がなかったらトップ10に何週も入る勢いでした。
このような曲が我が国のオリコンで上位を占めてしまったことが、
僕もたいへん不本意です。

作ってる段階では、
いいか悪いかっていうのは、
たとえばオレらがまったく問題ないと思って出しても、
DefSTARからこれはダメだって言われることもあるわけで、
そこの判断は、
プロフェッショナルな人にまかせたいっていうのもあって。
(中略)単純に言葉狩り的な部分でダメならば、
それはもうしょうがないのかもしれないし(「ZEEBRA」氏)


おかしいですね。
「DefSTAR」さんのほうでは、
 この歌詞が「社内で問題になったが、
 本人たちが『差別するつもりで作ったのではない』と言っているので
 発売した」と言っているのですが……。
「DefSTAR」側の言い分を信じると、
「ダメ」かどうかの「判断」は皆さんがしたということになります。
皆さんの言い分を信じると、
「ダメ」かどうかの「判断」は
「プロフェッショナルな」「DefSTAR」の社員に
「まか」されたということになりますね。
どちらかが嘘をついているということでしょうか。

それから、
今回のこの件のことを言っているのかどうかはよくわかりませんが、
今回のこの事件は断じて「言葉狩り」ではありません。
あなた方は「ホモ野郎」を
「やってもいいか」・「命奪ってもいいか」と言ったのです。
これを、どのように「適切」な言葉に言い換えたとしても、
事態は何も変わりません。
一つ一つの言葉ではなく、
この歌全体に流れる同性愛者蔑視の思想そのものが問われているのです
(もちろん、
 いわゆる「言葉狩り」的な視点から見ても、
 とんでもない言葉があふれているのも事実ですが)。

とはいえまあ、
皆さんの主張の中で、
共感できる部分も一応挙げておきたいと思います。
皆さんはこのたび、
『911』というCDを発表なさったそうですね。
昨年9月11日の同時多発テロ事件などに対して、
音楽を通じて発言していこうという皆さんの姿勢は立派だと思いますよ。

ZEEBRA  
オレらは日本にいて
それを見て、っていうスタンスが基本なんだけど。
だからメディア批判みたいなことも言ったし、
どっち側でもないからこそ冷静に見えてる部分もあると思うし。
でも日本は、どっち側でもなくないでしょ?

インタビュアー 
自動的にアメリカ側に入っちゃいますね。

ZEEBRA   
そうでしょ?
自動的なのはなぜなんだ?って思うよね。

K DUB SHINE 
日本人も、
一般のレベルではもっといろんな意見があるはずなんだよ。
でもマスコミとかの論調がどうしてもアメリカ寄りだし。
政治的に仕方がないとは思うけど。
でもアメリカの報道よりは、
日本の報道のほうが中立だとは思うし。

ZEEBRA 
たとえば、ことイスラム教に関しては、
日本では認知度が低いと思うし、
イスラム教って聞いただけで
狂信者みたいに思われちゃいそうだけどさ


このあたりは、
なかなかいいところを突いていると思いますね。

では最後に、
ちょっとした話をご紹介して、
今回の文章を終えたいと思います。
「ZEEBRA」さんがおっしゃるように
「イスラム教って聞いただけで狂信者みたいに思われ」ていたのは、
何も現代の日本だけではありません。
中世のヨーロッパでもそうでした。
中世のキリスト教勢力は、
イスラム教を悪く見せるためなら何でもやったといっても過言ではないくらいです。
そしてこのとき、
イスラム教徒を悪く見せるために利用され、
とばっちりを受けたのが同性愛者だったのです。
たとえばこんな風に。

(マホメットは)自然の敵であり、
彼の民族の間にソドミー(酒井注―男性同性愛)という悪徳を
普及させた人である。
彼は男女両性と性的淫交に耽った(『オリエントの歴史』 ジャック=ド=ヴィトリ)


サラセン人の宗教(酒井注―イスラム教)によれば、
どんな性的行為でも何でも許されるのみならず、
是認され、承認される。
(中略)彼らはその身体を堕落させ、
人目にさらしている。
「男と男と恥ずべきことを行い」、
彼らは「己が身に」罪と過ちの報いを受け取る。
サラセン人は人間の尊厳を忘却して、
これらのオカマたちのもとへ自由に通い、
私たちの間で男と女が公然と一緒に暮らすように、
彼らと一緒に暮らしている(『サラセン人撲滅論』 アダのウィリアム)


つまり、
当時のイスラム教が、
キリスト教と比べると
一般的に同性愛者に寛大であったという素晴らしい事実を
逆手にとったうえに誇張して、
「イスラム教徒はけしからん。
 なぜなら、イスラム教徒は同性愛者だからだ」と、
むちゃくちゃな論理を展開してイスラム教徒を貶め、
返す刀で同性愛者を貶めているのです
(「同性愛はケシカラン」ということには、
 もはや「前提条件」として何の疑いも差し挟まず、
 論証しようとする努力すら見せようとしない横暴さに注目!)。

そして当時、
同性愛者に「寛大」であったイスラム教と、
「厳格」であったキリスト教、
どちらが「人道的」であったかは歴史が証明しています。
十字軍はエルサレムを占領したときに
大勢のイスラム教徒・ユダヤ教徒を虐殺しました。
そして、イスラム教徒がこれを奪還したときは、
捕虜にしたキリスト教徒をほとんど祖国に帰らせたと言われています。

同性愛者への偏見が、
同性愛者への偏見にとどまらず、
たとえばイスラム教徒への偏見を
助長する結果を生むこともあるのだということを、
イスラム教徒への偏見に憤りを表明される皆さんに
ぜひ知っていただきたいと思います。
『鈴木邦男をぶっ飛ばせ!』「酒井徹の今週の裏主張」No.5より転載)
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by imadegawatuusin | 2002-09-23 05:40 | 差別問題

同時多発テロ事件が去年アメリカで起きてから
ついに一年が経過した。
死後の世界も天国も信じることのできない僕には、
この残虐な無差別テロで亡くなった人々の
「冥福」(=冥界での幸福)を祈ることは出来ない。
しかし、
これを機会に改めて同時多発テロ事件について
考えを深めることが、
この大きすぎる犠牲を今後の世界に生かしてゆくことのできる
唯一の方法であると考えて、
この文章を書くことにした。

たしかに世界貿易センタービルは、
世界の発展途上国に飢えと貧困を押し付ける
グローバリズムの象徴的存在であった。
しかし、
9月11日のあの瞬間にそこにいたのは、
私利私欲のために
世界経済を混乱に陥れる金融投機家だけではなかった。
ビルの食堂労働者・清掃作業員、
そしてビルの中で行なわれていた建設工事に従事していた
建設作業員をはじめとする大勢の労働者たちが
日々の暮らしの糧を得るためにそこで働いていたのである。
その中には、
世界の飢餓や貧困と闘うために
反グローバリズム運動に参加していた
アメリカ労働総同盟産別会議の組合員も
千人以上いた。
彼らは当時、
国際通貨基金や世界銀行の総会にデモ行進をかけるために
数百台のバスを手配し、
イスラム世界をはじめとする発展途上国に対する債務の帳消しや
投機的金融取引への課税を求める闘いに
合流しようとしていたのである。
そうした人々までもが無差別に同時多発テロ事件で殺されたのだ。
そして、
たとえ殺されたのが
独占資本家としてグローバリズムの一翼をになう人物であったとしても、
高級軍人としてアメリカ覇権主義の一翼をになう人物であったとしても、
非武装の状態にいるときにいきなり命を奪うという
非人道的な行為が正当化されるはずがないことはいうまでもない。
何より、
世界貿易センタービルを破壊するために用いられた手段そのものが、
民間航空機を乗っ取り、
乗客もろともビルに突入・自爆するという
残虐極まりないものであったのである。

もちろん、
たび重なる国連決議を無視して占領地に居座り、
パレスチナ人を殺害するイスラエルに対して
莫大な軍事・経済援助を行なってきたのはアメリカだ。
しかし同時多発テロは、
このような事態を解決するどころか、
アメリカの世論をかえって危険な方向へと押しやってしまった。

大統領選挙での勝利すら疑わしく、
正当性が疑問視されていたブッシュ大統領の支持率は、
テロ事件の影響で大幅にはね上がった。
同時多発テロは、
京都議定書への調印拒否などで
ますます自国優先主義的な傾向を強めていたブッシュ大統領のもとに、
アメリカ国民を団結させてしまったのである。
犯行声明などの形で自分たちの政治的主張を明らかにすることすらせず、
やるだけやってだんまりを決め込んだこのようなテロを、
いかなる意味でも僕は容認しない。

アメリカ政府はこのテロを、
イスラム原理主義勢力・アルカイダの指導者である
オサマ=ビンラディン氏の仕業であると決め付けた。
そして、
彼が住んでいるとされたアフガニスタンを事実上支配していた
タリバン政権に対し、
彼を無条件で引き渡せと要求した。
さらに、
それが実現されないと見るやいなや、
アフガニスタンにおいて空爆攻撃を行なったのである。

たしかに、
「同時多発テロ事件で多くの人が殺されたのだ。
 タリバン政権が犯人を引き渡さない以上、
 空爆攻撃もやむをえない」との意見も分からないではない。
また、
タリバン政権は同性愛者を、
「同性愛者である」というたったそれだけの理由で処刑していた。
「女性に教育を受けさせる必要はない」などということを公然と主張し、
職場からも女性を閉め出していた。
はっきり言って、
とんでもない非民主的政権であったことは事実だ。

けれど空爆攻撃は、
最大限の外交努力を積み重ねた上で、
それでもどうしようもない場合の最後の手段であるべきだ。
報復攻撃で真っ先に犠牲になるのは
アフガニスタンの一般庶民なのだから。
犯人や首謀者だけを殺す爆弾などというものは
どこにもないのである。
しかし、
最大限の外交努力をアメリカが行なったとは、
どうしても僕には思えない。

タリバン側は空爆開始直前まで、
曲がりなりにも「対話による解決」を呼びかけてきた。
しかしアメリカは、
「話し合いの余地はない」などとして、
対話のテーブルに着こうとすらしなかった。

またアメリカは、
「オサマ=ビンラディン氏を引き渡せ」と言いながら、
彼が事件の犯人である証拠さえタリバン側には開示しなかった
(タリバン政権が崩壊した後になって、
 オサマ=ビンラディン氏が
 同時多発テロへの関与を認めるような発言をしている
 ビデオテープが公開されはしたが、
 そのテープが収録されたのは
 アメリカが空爆攻撃を開始した後のことであったとされている)。
「自国に滞在する人間を
 証拠もなしに外国に引き渡すことはできない」というのは、
自称「主権国家」のタリバンにとっては当然の論理であった。
オサマ=ビンラディン氏の引き渡しを
話し合いによって実現するつもりがあるのなら、
アメリカは対話のテーブルに着き、
彼が犯人である証拠をタリバン側に突きつけるべきであったのだ。

以上の手続きを経ないままに空爆攻撃に踏み切ったアメリカが
「最大限の外交努力」を行なったとは言いがたい。
だから僕は、
アメリカによるアフガニスタンでの空爆攻撃に反対した。
その判断は、
今でも間違ってはいなかったと信じている。
このような論理がまかり通れば、
アメリカは自分の攻撃したい国を
いつでも攻撃することが許されることになってしまう。
極端な話、
「この事件の犯人は日本に住む○○という人物だ。
 証拠を示すことはできないが、
 とにかく彼が犯人なのだ。
 彼を無条件で引き渡せ。
 言うことを聞かなければ日本を空爆する」などとして、
日本に空爆攻撃を行なうことも可能だったのである。

アメリカは一方的に世界の警察官となり、
なおかつ裁判官と死刑執行人の権限をも兼ね備え、
世界中に自分たちの決定を押し付けようとしている。
そして、
この「法廷」では弁護人はおろか、
第三者的な傍聴人の存在すら許されない。
「敵か味方か」・「中立はありえない」などという二分法をもって
世界各国を恫喝し、
自分たちへの同調を強制しようとするからだ。
一方でアメリカは、
国際刑事裁判所問題でも明らかになったように
自分自身を国際法の上に置き、
自らを国際的司法権の及ばない位置に据えようとしている。
その最も顕著な例が
このアフガニスタンにおける空爆攻撃だったのだ。

さて、
今回の卑劣なテロ事件には、
いまだに解決への希望が見えないパレスチナ問題や、
経済のグローバル化の進展によってますます拡大する
南北格差が背景にあると言われている。
それはおそらく事実だと思う。

そもそもイスラエルは、
国連決議224号や338号によって、
東エルサレムやガザ地区をはじめとする占領地から
撤退することが決められている。
パレスチナ紛争の原因は、
こうした国連決議を30年以上にわたって無視し続け、
いまだにパレスチナの独立を認めようとしないイスラエルの側にある。
そして、
そうした事態を事実上容認し、
支援してきたのがアメリカだ。
パレスチナ人のキャンプや町は、
今もアメリカからイスラエルに供給された
F16戦闘機や戦闘ヘリコプターによって
粉々に破壊されている。
このようなイスラエルやアメリカの態度が、
パレスチナの人々を絶望的な自爆テロへと
駆り立てているのである。

もちろん僕は、
パレスチナ人による民間人を標的にした自爆テロにも
賛成しない。
このようなテロは
イスラエル人とパレスチナ人の間の憎しみを深め、
隔たりを大きくするものでしかない。
イスラエル軍に侵略・再占領の口実を与えるだけであり、
パレスチナ問題の解決には寄与しない。
しかし、
こうした自爆テロを批判する前に、
まずはイスラエルの側から、
不法な暴力で作られた入植地を撤去し、
国連決議に従ってすべての占領地から撤退し、
パレスチナ国家の樹立を承認するべきなのである。

しかしアメリカはイスラエルに甘い。
アメリカは、
クウェートを侵略したイラクに対しては直ちに軍事攻撃を開始し、
十数万とも言われるイラクの人々を殺害した。
そして、
イラク市民の生活を支えてきた電力や水力のシステムを破壊した。
撤退後も、
国連の数字によっても毎月約5000人の子供が死亡するほどの
厳しい経済封鎖を科しているにもかかわらず
(この毎月の犠牲者数は、
 同時多発テロの犠牲者数を上回る)、
パレスチナを30年以上占領し続けるイスラエルに対しては、
軍事攻撃どころか経済制裁すら行なおうとはしない。

そして、
アメリカが主導する経済のグローバル化は、
世界の富のほとんどを
アメリカを筆頭とする先進国に集中させ、
発展途上国の対外債務を急激に膨張させている。
国際通貨基金や世界銀行は、
そうした国に資金を供給する見返りとして
その国の政府に医療や自国産業への補助金のカット、
そして多国籍企業の進出を容易にするための規制緩和を強制し、
発展途上国の民衆の生活を窮地に追いやっている。

こうして、
アメリカのパレスチナ政策や経済のグローバル化は、
イスラム諸国の民衆の間に反米感情を植えつける土壌を広げている。
こうした「テロの土壌」に目を向け、
解決への努力を行なわない限り、
アメリカに対する自爆テロの志願者が絶えることはないだろう。
そのことを忘れ、
軍事攻撃によってテロを根絶しようとすると、
イスラム諸国の反米感情にますます火をつけるだけである。

そして今アメリカは、
大量破壊兵器を開発していることを理由に
イラクへの先制攻撃に踏み切ろうとしている。
しかし、
少し考えれば分かることだが、
世界最大の大量破壊兵器保有国はアメリカなのである。
世界で最初に核兵器を作ったのもアメリカであるし、
使用したのもアメリカだ。
そして、
今までに蓄積した膨大なデータを基にして、
今も核爆発をともなわない核実験・「未臨界核実験」を続けているのも
アメリカだ。

そもそも、
イラン・イスラム革命の拡大を恐れるあまり、
フセイン政権を増長させたのはアメリカだ。
イラン・イラク戦争中の1988年に
フセイン政権がハラブジャ事件を起こしたときも
アメリカは、イランへの対抗上、
フセイン政権との友好関係を保つため、
事実上これを黙認したのである。
このとき、
フセイン政権の使用した化学兵器によって
5000人とも言われるクルド人が虐殺されていたにもかかわらず
(子供や老人も含めて村ごと皆殺し、といった状況だった)、
アメリカはこれを見殺しにしたのである。
それが、
今頃になってクルド人たちに、
フセイン政権打倒の反乱を起こして親米政権を作るように
話を持ちかけている。

イラク民衆の間に民主主義思想を広めることによってではなく、
外国勢力による軍事介入によって
フセイン政権を打倒しようとするこのやり方は、
まさしくテロそのものである。
リビアの最高指導者・カダフィ大佐は8月31日、
次のように述べている。
「イラクが攻撃されて体制が崩壊すれば、
 イスラム世界が西洋に脅かされているというビンラディンの説が
 正しかったことになってしまう」。
イラクへの先制軍事攻撃は、
イスラム原理主義者たちにテロの大義名分を
与えることになるだろう。
また、
逆説的な話だが、
こうしたアメリカの態度こそが、
「アメリカは、
 我が国への軍事侵略を公然と主張している。
 世界一の軍事大国であるアメリカに対抗するには、
 核兵器を保有するしかない」と、
大量破壊兵器開発を正当化する口実を
イラクに与えているのである。

フセイン独裁政権の打倒は、
イラク民衆の主体的な意志に基づく行動によって
なされるべきだ。
アメリカの軍事先制攻撃は
明らかに「国家の自衛権」を逸脱した介入攻撃であり、
許されるべきではない。
これがもし、
国連決議も取らないアメリカの単独攻撃となった場合は
なおさらである。
アメリカは、
イラクの体制をその一存で決定する権利を
持っているわけではないのだから。

また、イラクの側も、
大量破壊兵器を持っていないと言うのなら、
国連による査察を無条件で受け入れることを
ただちに表明してほしい。
「無条件での受け入れ」には
たしかに理不尽な部分も多いのかもしれないが、
イラクの側も、
多くの民衆を巻き添えにする戦争を回避するために、
最大限の努力をしてほしい。

僕は、
同時多発テロ事件から1年を迎えるにあたって、
改めてテロリズムに反対することを表明し、
合わせて、
アメリカによる戦争政策にも反対する。
『鈴木邦男をぶっ飛ばせ!』「酒井徹の今週の裏主張」No.4より転載)
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by imadegawatuusin | 2002-09-15 18:44 | 国際

僕たちの国には、
人権によって護られるべき人間と
そうでない人間がいるのだろうか。
何の罪もない(少なくともまだ何もしていない)人々を、
信じている宗教によって差別する……、
こんなことが許されてもいいのだろうか。
もちろん許されるはずがない。
思想や信仰の自由は最も大切な人権だからだ。
他の人権は「公共の福祉」に服する可能性があるのに対し、
思想や信仰の自由だけは「公共の福祉」の介入を許す余地のない人権であり、
たとえ死刑囚であっても100パーセント護られるべき
絶対的な人権だからだ。
こんなことは当然のことだ。
当然のことであるはずだった。
けれど現実には、決してそうではなかった。

最近、
「人権」という言葉がどんどんカッコ悪くなっていく。
人権なんて、
自分のエゴイズムを正当化するためのものでしかない。
ダサくて、汚くて、そして卑怯だ……、と。
けれど僕は人権思想を、
つまり「どんなに自分と意見の違う人の人権でさえも認める」という考え方を
エゴイズムの対極にある思想だと信じたい。
自分と違う思想を持つ人や、
自分と違う信仰を持つ人の人権を擁護することは、
決して偏狭なエゴイストに出来ることとは思えない。
深くて、そして大きな心を持つ人だけに
出来ることだと思うから……。

今回は森達也さんの書いた
『「A」撮影日誌』という本を取り上げたい。
森さんは、
13ヶ月にわたってオウム真理教の荒木浩広報副部長に密着し、
ドキュメンタリー映画『A』を制作した監督だ。
取材の順番をめぐって大ゲンカを始める民放記者。
大勢の市民の前で堂々と暴力をふるう警察官。
そして何より、それをはやし立てる市民……。
信じられない、いや、信じたくない映像の数々を
森監督は突きつける。
けれど、その映像に対する解釈を
森監督は押し付けない。
後は自分で考えろと、あえて見る人を突き放す。

この本は、そんな『A』の撮影日誌だ。

確かに、
一連の事件を引き起こしたオウム信者の罪は極めて重い。
定められた手続きに従って
厳しい制裁を受けるのは当然だと思う。
これは何も、
「お前はオウムを擁護するのか」と言われたくなくて、
弁解のために一応言っているわけではない。
僕は彼らを憎んでいる。
心の底から憎んでいる。
彼らは、僕の大好きな日本を
僕から奪い取ったのだ。

オウム事件が起こるまでのこの国を
僕はとっても好きだった。
おそらく、森監督もそうだったのだ。

僕は日本を愛していた。
この国に生まれたことを誇りに思っていた。
この土地を、この町を、この山河を、人々を、
何よりも愛おしく思っていた。
南京で虐殺された人の数が
3000だろうが30万だろうがどうでもよい。
慰安婦が実は志願したのか強制されたかもどうでもいい。
数字や記録にこだわらず、
ひたすら謝罪し反省する日本を、
僕は誇りに思っていた。
徹底した自虐史観に誇りを持っていた。
国旗国歌を持たないことに誇りを持っていた。
戦争放棄を宣言して
非武装中立と言う夢を持ち続けることを誇りに思っていた」(森達也 「ポストオウム・1999年11月29日に思うこと」 『ドキュメントオウム真理教』)。


ここに引用した「僕」(=森監督)の気持ちは、
そのまま僕に当てはまる。
オウム事件が起こるまで僕は、
自分がこんなにこの国のことが好きだったなんて知らなかった。
「何が日本だ、愛国心だ。
 こんな国、さっさと滅べばいいんだよ」と
平気な顔で言っていた。
でも、本当はそれは違っていた。
「日本なんて嫌いだ」と平気な顔で言えるこの国を
僕は本当は好きだったのだ。
僕は、オウム事件が起こった後で、
ようやくそのことに気がついた。
そして、そのときにはもう遅かった。
「親孝行したいときには親はなし」っていう川柳があるけど、
そんな気持ちだ。
ケンカばかりしていた恋人と別れた後で、
実はその恋人をものすごく好きだったことに気付く、
って筋書きの少女まんががよくあるけど、
なんかそれにも似ている。
謙虚で平和で自由な空気が日に日に薄れていく中で
ようやく僕は気がついたのだ。
僕がどんなに「嫌いだ」と言っても許してくれるこの国を
僕は心底好きだったのだ、と
(日本国への告白なんてとてつもなく恥ずかしい。
 読んだ人は今すぐ忘れるように)。

そんな愛すべき祖国・日本をすっかり変えてしまったのが
オウム事件だったのだ。
オウム事件は、
「個人の自由ばかりを重視して国家がきちんとしていなければ
 大変なことになってしまう」という認識を
みんなの心に植えつけた。
オウム事件は日本の世論を
僕の嫌いな方向へと押しやってしまったのである。
自虐史観も、一国平和主義も、個人主義も、
「戦後民主主義」と言う言葉で一括りにされて一蹴された。
それに代わって、
自由主義史観や祖国防衛主義・公共主義が
大手を振ってまかり通るようになってしまった。
それもこれも、
松本(麻原)被告をはじめとするオウム事件の
実行犯たちのせいである。
彼らは、
僕の愛すべき祖国を殺したのである。
だから、僕は彼らが嫌いだ。
河野さんが無実の罪を着せられたのも、
何の罪もない子供たちが
「麻原の子供」であるというだけで学校に入れてもらえなかったのも、
もとはといえば彼らのせいだ。
僕は彼らを許せない。

しかし今、何の罪もない人々が、
彼らと同じ信仰を持っている、というたったそれだけの理由で
堂々と人権を侵害されている。
中でも、この本の中に出てきた、
警察官による暴力シーンはショックだった。
オウム信者を押し倒し、
後頭部をコンクリートに叩き付けて気絶させる。
そのとたん、
打ち付けてもいない膝を抱えて悲鳴を上げるという
なんともくさい演技を始め、
公務執行妨害罪でオウム信者を逮捕する。
知識として、
「転び公妨」と言われるこういう手法が存在するのは知っていたが、
白昼堂々 多数の見物人がいる中で、
それもカメラが回っている中でやっているとは思わなかった。
人目につかないところでこっそりと、
隠れてやるくらいの後ろめたさは
どこの警察でも持ち合わせていると思っていた。
恐ろしい。

けれど、もっと恐ろしいのは
それを見ていた一般市民の反応だ。

「人間じゃねえんだからよ、こいつら。
 殺されても文句なんかいえねえんだからよ」
と、嬉しそうに言う中年男性。
「ざまあみろバカヤロウ」
と叫ぶ野次馬。
「全部死刑にしちまえばいいんだよなあ」
「ポアされて本望だろ」
などと言う通行人……。

荒木さんは森監督に、
信者の無実を証明するため、
映像を貸してほしいと訴える。
森監督は拒絶した。
監督の映像がオウムに利用されたとなると、
『A』の中立性が疑われ、
作品としての命取りになりかねない。

オウム信者を押し倒した警察官は
「加療3週間」との診断書を提出し、
信者は公務執行妨害罪に加えて傷害罪にも
問われることになってしまった。
起訴直前のギリギリの段階で、
ついに監督は信者の弁護士にフィルムを提供。
慌てた警察は翌日信者を釈放した。
「加療3週間」の警官は、
事件後数日で署内を元気に走り回っていたそうだ。
こんな悪徳警察官こそ逮捕されるべきだろう。

自分の人権さえ護られれば、
他人の人権なんかどうだっていいという考え方は、
結局自分の人権を脅かすことになる。
善良なる市民の人権さえ護られれば、
オウム信者の人権なんてどうだっていいという考え方は、
結局善良なる市民の人権を脅かすことになるだろう。

教団信者への住民票転入届の受理拒否は
今なお全国で続いている。
特定の宗教の信者であることを理由に
住民票が受理されないのである。
これほどあからさまな法律違反が他にあるだろうか。
これほどあからさまな人権侵害が他にあるだろうか。
全国の裁判所で
自治体がたが十何連敗をきっしている事実を見るまでもなく
明らかに法律違反の人権侵害が、
全国で堂々とまかり通っているのである。

転入届不受理といえば、
興味深い話を何かの雑誌で読んだことがある。
あるとき、森監督が役所を訪ねたときのお話だ。
役所の正面には3つの垂れ幕が下げられていた。
右端が
「ふれあいと、対話が築く明るい社会」。
真ん中が
「人権は、みんな持つもの守るもの」。
そして、左端にある、ひときわ新しい垂れ幕には
「オウム信者の転入・転居届けは受理しません」と
書いてあったそうだ。
森監督は、
『この3つの垂れ幕が共存していることに誰も違和感を覚えないのか。
 オウム信者の転入届を受理しないというのなら、
 「人権」の垂れ幕は下ろしてしまえ』といった意味のことを
どこかの雑誌(確か『創』だったと思う)に書いたのだそうだ。
すると数日後、
本当に「人権」の垂れ幕のほうが
そこから下ろされてしまったのだそうなのだ。
転入届不受理の垂れ幕のほうではなく。

そもそも国や自治体は、
特定の思想や宗教の正邪を判定することの許されない、
価値中立的な存在であるはずだ。
たとえ圧倒的多数の市民によって排斥され、
忌み嫌われているような思想・信仰であったとしても、
それを理由に不利益を課したり
差別的な取り扱いをしたりすることは許されない。

しかし現在、
全国各地の自治体が
公然とオウム信者に対する住民票転入届の受理を
拒否している。
住民票転入届の受理を拒否されるということは、
健康保険証がもらえなくなるということであり、
選挙権が剥奪されるということだ。
これはもはや
行政による嫌がらせとしか言いようがない。
そして、
こうした行為が
「オウムには何をやっても許される」という風潮を
助長したのだ。

オウムに対する住民運動は
どんどんエスカレートした。
オウム信者に対する不売運動に始まり、
ごみの回収の拒否までが
ごく当然のことであるかのように行なわれた。
住民たちがオウム信者の乗った車をパンクさせ、
投石し、
電話工事まで妨害した地域もあった。
挙句の果てには、
松本被告の幼い子供たち
(彼らはもはやオウム信者ですらなかった)にまでデモ行進をかけ、
「悪魔のお前たちに人権はない」などと
こぶしを突き上げるところにまで至ったのである。

オウム信者に対する転入届受理拒否は、
価値中立的であるべき自治体の立場を踏み外す行ないである。
大体、
「転入届の受理を拒否されるのが嫌で
 私はオウムをやめました」という人の話を
僕はいまだに聞いたことがない。
むしろ、
「それみたことか。
 やっぱり俗世はむちゃくちゃだ。
 なりふりかまわず我々を弾圧しようとしているではないか」として、
彼らの信仰を一層かたくなにしているようにすら見える。

そもそも、
転入届の受理拒否にどれほどの効果があるのか、
僕は疑問に思っている。
オウム信者の転入届の受理を拒否しても、
信者がそこに住んでいる事実は拒否できない。
オウム信者に対する転入届の受理拒否は、
自治体や住民の
単なる自己満足に過ぎないのではないだろうか。
いい加減にやめるべきだと僕は思うが。
 
僕は、
悔しいことだが
オウム真理教の「日本社会を根底から覆す」という馬鹿げた企みは、
「物の見事に成功した」と言えるのではないかと思っている。
転入拒否、就学拒否……、
「法の下の平等」という日本社会の大原則は、
オウム真理教の前にあっけなく崩れ去ったのである。
東京拘置所の中から
誰かさんの勝ち誇ったような高笑いが聞こえてくるようだ。

人権は、
「最悪の人間」にも適応出来るものでなければ
「人権」ではない。
「オウム信者でさえ」人権が守られてこそ、
僕たちの人権は大丈夫なのだ。

人権は、
決して神様に与えてもらったものじゃない。
僕たちや、僕たちの先祖が
少しずつ、少しずつ築き上げてきたものだ。
だからこそ、
今、僕たちが守らなければ、
誰も代わりに護ってはくれない。
今、僕たち自身の手で護りぬかなければ、
あっという間になくなってしまうものなのだということを、
絶対に忘れてはならないと思う。
『鈴木邦男をぶっ飛ばせ!』「酒井徹の今週の裏主張」No.3より転載)
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by imadegawatuusin | 2002-09-09 09:32 | 差別問題