「ほっ」と。キャンペーン

新興宗教団体「ラエリアン・ムーブメント」〔注1〕は、
米国出身の30代の女性が
クリスマスにクローン人間を出産すると発表した。
新聞報道などによるとこの女性は、
夫との間に子供ができなかったため、
自らの体細胞を使ってクローン技術で妊娠したという〔註2〕。

現段階では、
彼らは科学的に検証可能なデータを示しておらず、
事の真偽は必ずしも明らかではない。
専門家の間では懐疑的な見方が強いという。

ただ、はっきりと言えることが一つある。
それは、
「クローン羊やクローン牛を誕生させることが可能となった今、
 いつクローン人間が生まれてきてもおかしくない」ということだ。

しかし、
すべての人間が有性生殖によって生まれることを
当然の前提としてきた今の社会には、
クローン人間に対するさまざまな偏見がはびこっている。
まるでクローン人間は
人間の尊厳を脅かす存在であるかのような物言いまでが
大手を振ってまかり通っている。
本当にクローン人間は、
人間の尊厳を脅かす存在といえるのだろうか。
〔注1〕「他の惑星からきた科学者たちが
DNAを使って地球上のすべての生命を創造した」と彼らは主張しており、
いわゆる「神」の存在は信じない。
そのため彼らは「宗教団体」と呼ばれることを好んでおらず、
自らは「無神論で非営利の精神的団体」と称している。

〔註2〕「ラエリアン・ムーブメント」は、
クローン技術の安全性が十分に確認されたとは言えない現段階で
クローン技術を人間に適用した。
このようなやり方に対しては、
『噂の真相』の投書欄(2001年3月号・2001年5月号)や
高校の学年通信(『天王寺玉手箱』第67号)を通じて
僕は一貫して反対を表明している。


(1)クローン人間は「コピー人間」ではない
クリスマスに生まれてくるとされるこの赤ちゃんを、
「世界初のクローン人間」と呼んだマスコミがいくつかあった。
しかし彼女は、
厳密に言うと「世界初のクローン人間」ではない。
実を言うと、
クローン人間なんて世界中どこにでもいる。
大昔からいたし、
この文章を書いている今日も、
世界のどこかで必ず生まれているはずだ。

そもそもクローンとは、
「同じ遺伝子を持つ生物」のことである。
つまり、
世界に同じ遺伝子を持つ人間が2人いれば、
彼らは立派な「クローン人間」ということになる。
本当にそのような人たちがいるのだろうか。

実は、いる。
「一卵性双生児」といわれる人たちだ。

「双生児」とは、
平たく言えば双子のことだ。
双子なんて、
さして珍しくもないだろう。
ただ、
この双子には2種類ある。
一卵性の双子と二卵性の双子である。

一卵性の双子とは、
受精卵が何らかの事情で母親の胎内で分裂し、
それぞれがそのまま別々に成長して生まれてきた
双子のことだ。
同じ受精卵から分裂したので、
両者は互いに同じ遺伝子を持っている。
つまり彼らはクローン人間なのだ。
それに対して二卵性の双子とは、
2つの別々の卵子が2つの別々の精子とそれぞれ受精し、
それぞれが成長して生まれてきた双子のことだ。
当然この場合、
両者は別々の遺伝子を持っている。
2人はほぼ同時に生まれてくるが、
遺伝的にはごく一般の兄弟姉妹と変わらない。

二卵性の双子はよくいるが、
一卵性の双子もそれほど珍しくはない。
ノルディックスキーの荻原兄弟の顔がそっくりなのも、
彼らが一卵性の双子、
つまりクローン人間だからなのだ。

「ラエリアン・ムーブメント」などが誕生を目指しているクローン人間も
一卵性の双子も、
どちらも生物学的にはクローン人間なのである。
いま話題となっている前者のクローン人間を
特に区別したいときには
「体細胞クローン人間」と呼ぶ。
ただ、
これでは少々長ったらしいので、
ここから以後は世間の慣例に従い、
前者を「クローン人間」、
後者を「一卵性の双子」と呼ばせていただく。

さて、
以上のことを踏まえれば、
世間でよく聞く次のような意見が
どれほど こっけいであるのかが
すぐにわかるはずである。

クローン人間が生まれると、
同じ人物が世界に2人いることになる。
そのようなことになれば、
かけがえのない唯一の存在であるはずの
人間の尊厳が失われる。


確かにクローン人間は、
その遺伝子の基となった人物
(この人物を以後、
 鍵カッコつきの「親」と表記する)と
同じ遺伝子を持って生まれてくる。
しかし、
「同じ遺伝子を持つこと」と「同じ人物であること」とは
全く別のことなのだ。
もしこれが同じであれば、
荻原健司選手と荻原次晴選手とは
「同じ人物である」ということになってしまう。
そんなおかしな話はないだろう。
彼らは明らかに、
異なる個性を持った別人なのである。

同じ時代に生まれ、
同じ環境で育つ一卵性の双子同士でさえ
別人になる。
まして、
「親」とは別の時代に生まれ、
「親」とは別の環境で育つクローン人間が
「親」と同じ人間になるはずがない。
 
クローン人間もまた、
いかなる人間からも独立した人格を持つ
「個人」なのである。
決して「親」のコピーではない。

人間の性質は遺伝子のみによって決まるのではない。
教育や、環境や、食べ物・運動……などなどの
さまざまな影響因子が絡み合って、
一人の人間を形成してゆく。
たとえ同じ遺伝子を持っていたとしても
クローン人間は、
「親」とは育つ時代や環境が異なる以上、
性格や知性に関しては
全く異なる人間にならざるを得ないのである。

(2)死んだ人間は生き返らない
上で挙げたような意見と並んでよく聞くものに、
次のようなものがある。

クローン技術が人間に応用されると、
死んだ我が子をクローン技術によって
よみがえらせる親が出てくるだろう。
そのようなことがおきれば、
人命のかけがえのなさが奪われ、
人間の尊厳は傷つけられる。


どうやらクローン人間は、
何が何でも人間の尊厳を傷つけなければならないらしい。

まず、
当たり前のことではあるが、
一度死んだ人間がよみがえることは絶対にない。
人間は、
死んだらそれでおしまいである。
ただ、
何らかの事情で
「死んだ我が子」の細胞が冷凍保存されていたりした場合、
その子のクローンを作ることは不可能ではないかもしれない。

しかし、
そのようなことをしても、
その親はおそらく期待を裏切られるだけだろう。
どんなに姿が似ていても、
そうして生まれてきた子はもう、
「死んだ我が子」ではない。
なぜなら、
クローン人間とその遺伝子の基となった人物とは
全くの別人だからである。

そもそも、
「特定個人の代用」として誕生させられるなんて、
クローン人間にしてもいい迷惑である。
クローン人間は
いかなる人間からも独立した人格を持つ個人なのである。
それなのに、
すでに死んでしまった人間の役割を押し付けるようなやり方は、
クローン人間の個性を抑圧するものであり、
断じて許されるべきではない。

許されるべきでないのはクローン人間の存在ではない。
クローン人間を「特定個人の代用」としかみなさず、
独立した個人として扱おうとしないそうした姿勢こそが
まさに「人間の尊厳を傷つける」ものなのだ。

一度死んだ人間は、
決してよみがえることはない。
クローン技術は死者を復活させる技術ではないのだということを
僕たちは改めて認識しなければならない。

(3)個性がなくても尊厳はある
ここまででは主に、
クローン人間は「親」から独立した個性を持つ
個人であることを中心に論じてきた。
クローン人間が個性や独自性を持つ以上、
クローン人間もまたかけがえのない個人であると
主張してきたのだ。
しかし僕は、
こうした考え方にも本当は疑問を持っている。
もし、
万が一クローン人間が何の個性も独自性も持たない、
単なる「親」のコピー人間であった場合は、
彼は、
かけがえのない尊厳を持った個人であるとは
認められないのだろうか。

もし僕が、
他の誰かと全く同じ性格で、
全く同じ思想を持ち、
声も体格も遺伝子も、
すべての性質が全く同じコピー人間であったとしても、
そのことによって
僕のかけがえのなさが傷つくことはありえない。
たとえすべての性質が同じでも、
彼と僕とは『明らかに違う』のである。
なぜなら僕は僕であり、
彼は僕ではないからだ。
これほど根本的な違いは他にない。
極端な話、
この『僕であるもの』と『僕でないもの』との違いに比べれば、
中核派と一水会と統一教会との違いなど
微々たるものにすぎないと思う。

僕は、
彼が痛い思いをしているときに
代わりに痛んであげることはできない。
彼がひもじい思いをしているときに
代わりに腹を減らしてあげることもできない。
僕は、
彼の人生を代わりに生きてあげることもできなければ、
彼の代わりに死んであげることもできないのである。
たとえ僕が、
世界に2つとない個性を持った存在ではなくても、
僕は僕の人生しか生きることはできない。
僕と全く同じ性格・全く同じ体質のコピー人間が生きていたって、
やっぱり彼は僕ではない。
僕が死んでしまえば、
そんなコピー人間がいるのだということ自体、
僕には感知できないし、
何の意味もなくなってしまう。
たとえ僕のコピー人間が世界に100人いたとしても、
『僕』と残りの99人とは全然違う。
僕にとっての『僕』は
間違いなく『かけがえのない存在』であり、
他の99人に代えることのできない特別な存在だ。
そして、他の99人にとっても、
それぞれ自分が『かけがえのない存在』なのだろう。

一人一人の人間は
すべてかけがえのない存在として生きている。
これは決して、
一人一人の人間が他の人にはない個性や独自性を
持っているからではない。
たとえ全く同じ人間が二人いたとしても、
それが二人である以上、
二人はそれぞれかけがえのない存在なのだ。

(4)クローン人間は人間である
「自分が病気になったときの臓器の予備として使うために
 クローン人間を作っておこう」・
「クローン人間を『本物』の人間の代わりに働かせて
 奴隷にしよう」・
「戦争になったときには
 クローン人間に自分の代わりに戦争に行かせ、
 『人間兵器』として利用しよう」……。
残念ながら、
このような考えを平然と述べる人は少なくない。

確かに、
SF映画や小説の中には
そうした内容を持つものもある。
しかし、
たとえ同じ遺伝子を持ってはいても、
クローン人間は自分の意思や人格を持つ存在であり、
「親」の所有物ではない。
このようなことが許されるべきでないのは
当然のことである。

そもそも、当たり前のことではあるが、
クローン人間は人間である。
人間である限りは、
当然 国家権力によって人権が保障されるのだ。
人間を奴隷として扱うことは憲法で禁じられている。
人間を傷つければ傷害罪に問われるし、
殺せば殺人罪になる。
この当たり前の原則が守られてさえいれば、
クローン人間が「臓器の予備」や「奴隷」・「人間兵器」などにされることは
あまり心配する必要はない。
「臓器」や「奴隷」・「人間兵器」として使える年齢になるまで
十数年間も自分のクローンを
世間から隠して育てるなどということは
現実的にはまずもって不可能である。

クローン人間は、
僕たち有性生殖人間と同じく人間なのだ。
ただ、精子と卵子で生まれてきたか、
クローン技術でうまれてきたかという
「生まれ方の違い」があるにすぎない。
人間的・倫理的な価値において
両者の間に差があるわけではないのである。
彼らの人権が保障されるべきことは、
言うまでもないことなのだ。

もしかすると、
この「裏主張」が掲載される頃には、
「ラエリアン・ムーブメント」の計画が成功し、
すでにクローン人間が誕生しているかもしれない。
僕がいま一番恐れていることは、
クローン人間に「反倫理」のレッテルを貼り付ける今の風潮が、
クローン人間に対する差別を
正当化するのではないかということだ。
このままでは生まれてくるクローン人間が、
クローン人間であるというだけで
いわれのない差別や偏見に苦しめられることになりかねない。

クローン人間は人間である。
いかなる個人からも独立した個性と人格を持つ
一人の人間である。

クローン人間が生まれてくれば僕たちは、
有性生殖人間とクローン人間とが互いの存在を認め合い、
共存し、共生してゆく社会を
築いてゆかなければならない。
『鈴木邦男をぶっ飛ばせ!』「酒井徹の今週の裏主張」No.19より転載)
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by imadegawatuusin | 2002-12-30 03:59 | 倫理

「ソドム問題」について

12月15日に、
「ソドムとゴモラ」と題する
次のようなご意見をメールにていただきました。

ソドムとゴモラについての議論
読ませていただいています。
他の方と同じ内容のメールでしたら
ご免なさい。
私自身はキリスト教信者ではなく、
クィアですが
(かつてはレズビアンを自称してましたが、
 セクシュアリティに加えてジェンダー関係についてよく考えると、
 そもそも同性とは誰の事だという疑問が出てきて
 自分が同性愛者であるとは言えなくなってきた(笑)) 
聖書のこの部分についてははっきりと
「同性愛を否定している」と判断しています。
というのも、
ロトの家に押しかけて来た男たちを
ロトが追い払うシーンの直後に
こんな事が書かれてあるからです
(引用は、
 スタンダードな英訳であるKing James Versionです)。

Genesis 19:7
> And said, I pray you, brethren, do not so wickedly.
Genesis 19:8
> Behold now, I have two daughters which have not known man; let
> me, I pray you, bring them out unto you, and do ye to them as
> is good in your eyes: only unto these men do nothing; for
> therefore came they under the shadow of my roof.

客人である男性とのセックスを守りつつ、
「自分には男を知らない娘が2人いるから、
 好きなようにしなさい」とまで言ってます。 
ヒドい話でしょ? 
これを読めば分かる通り、
「ここでは同性愛の是非ではなく
 強姦の是非を問題としているのだ」という解釈は
不可能です。 
自分の娘に対する強姦なら
容認しているわけですからね。
最後の文を読む限り、
男性を出すのを拒否したのは
「彼らが客人だから」であって、
性別とは関係ないという解釈も可能と思われるかも知れません。 
しかしその場合、
ロトが自分の息子でなく娘の提供を申し出ている点や、
彼らの要求を「wicked」と呼んでいる点に説明が付かないので、
やはり「同性愛だから駄目」と解釈するのが
一番自然ではないかと思われます。
もっとも、
ソドムの町全体が同性愛者だったとは
到底考えられませんが、
背景に同性愛に寛容な現地の文化と
非寛容な文化の対立があったと見れば、
聖書の記述として
ソドムの町が滅ぼされた理由の1つが
「同性愛」だったとされるのは不自然ではないです。


ソドムの物語の背景に
「同性愛に寛容な現地の文化と
 非寛容な文化の対立があった」という見方には、
非常に興味をそそられました。

ただ、
「男性を出すのを拒否したのは
 『彼らが客人だから』であって、
 性別とは関係ないという解釈」が適当ではないとする理由として
「ロトが自分の息子でなく
 娘の提供を申し出ている点」を挙げられたことにつきましては
少々異論がございます。
なぜならこのとき彼の家には、
ロト・ロトの妻・ロトの娘2人の計4人と
客人たちしかいなかったと思われるからです。
家に息子はいなかったのですから、
息子の提供を申し出ることは不可能だったと思います。

その証拠に『創世記』には、
ロトの家族がソドムの町を脱出する場面が
次のように描かれています。

夜が明けるころ、
御使いたちはロトをせきたてて言った。

「さあ早く、
 あなたの妻とここにいる二人の娘を
 連れて行きなさい。
 さもないと、
 この町に下る罰の巻き添えになって
 滅ぼされてしまう。」

ロトはためらっていた。
主は憐れんで、
二人の客に
ロト、妻、二人の娘の手をとらせて
町の外へ避難するようにされた。(『創世記』19・15~16)

And when the morning arose, then the angels hastened Lot, saying, Arise, take thy wife, and thy two daughters, which are here; lest thou be consumed in the iniquity of the city.

And while he lingered, the men laid hold upon his hand, and upon the hand of his wife, and upon the hand of his two daughters; the LORD being merciful unto him: and they brought him forth, and set him without the city.(Genesis 19:15,16)


これを見る限り、
当時この家にいたロトの家族は
「ロト・妻・二人の娘」の4人であったと考えるのが
妥当でしょう。

しかしこの方もおっしゃるとおり、
これは本当に「ヒドい話」です。
ロトが本当に「義人」だったというのであれば、
「自分はどうなってもいい。
 客や家族は助けてくれ」と
言ってほしいものです。
それを彼は、
『娘はどうなってもいい』と言っているのです。
これではこの方のおっしゃるとおり、
ロトは「自分の娘に対する強姦なら容認してい」たと言われても
仕方がないと思います。

古代ユダヤ社会において、
客人を大切にしないことが
どれほど「wicked」(悪い・不道徳な)なことであったかは
前回述べたとおりです。
あとは、
読者のみなさまの判断にお任せしたいと思います。
(なお、
 今回僕は『旧約聖書』の引用に関しまして、
 日本語訳では日本聖書協会版新共同訳を、
 英語訳ではメールをお送りくださった方がお使いになった
 King James Versionを使用いたしました)。
『鈴木邦男をぶっ飛ばせ!』「酒井徹の今週の裏主張」No.18より転載)


【関連記事】
西洋における男性同性愛者観の移り変わり
ソドムとソドミーと同性愛
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by imadegawatuusin | 2002-12-23 03:42 | 歴史

先週の「裏主張」について12月10日、
求是さんから次のようなご意見を掲示板にていただきました。

今週の裏主張読みました。
主題とは関係ない、
末節的なことですが、
気になる点がありましたので一言。
酒井さんが、
ソドムの人たちが同性愛ゆえに滅ぼされたことを否定しているのか、
そもそも同性愛者であったこと自体を否定しているのか
迷うのですが、
少なくともソドムの人たちが同性愛者であったと
考えていいと思います。
『創世記』19章5節では、
ソドムの人たちがロトに
「今夜おまえのところにやって来た男たちは
 どこにいるのか。
 ここに連れ出せ。
 彼らをよく知りたいのだ」と
言っています(日本聖書刊行会版による)。
これだとよく意味は分かりませんが、
zondervan BIBLE publishers版聖書によりますと、
この部分は
「Where are the men who came to you tonight?
 Bring them out to us so that we can have sex with them」と
なっています。
つまり、
「知りたい」とは「セックスをしたい」という意味と考えて
いいでしょう。
ですから、
ソドムの人たちは同性愛者であったと考えられます。
ロトは男たちを守るために代わりとして
娘を差し出そうとしますが、
ソドムの人たちは娘には手を出しません。
しかし、
ソドムは「好色にふけり、
不自然な肉欲を追い求めたので、
永遠の火の刑罰を受けて、
みせしめにされて」(『ユダの手紙7節』)いるわけで、
同性愛が滅亡の原因の一つであったとも考えられます。
以上、どうでもいい末節的なことですが、
ご参考まで。


ご指摘ありがとうございます。
確かに前回の裏主張は、
「ソドミー」・「ソドミータ」といった言葉の由来について、
きちんとした説明もしないままに
「俗説」の一言で片付けてしまう
軽率なものでした。
読者のみなさまに深くお詫び申し上げます。

ただ、
ロトの家に押しかけたソドムの町の人々が
同性愛者であったとは
断定できないのではないかと僕は考えております。
また、
ソドムの町が同性愛を理由として滅ぼされたという説が
間違っているという僕の考えも
やはり変わることはありません。

今回は、
「ロトの家に押しかけたソドムの町の人々は
 本当に同性愛者だったのか」という問題と
「ソドムの町は本当に同性愛ゆえに滅ぼされたのか」という問題とを
前回より深く突っ込んで考えてみたいと思います。

(1)ロトの家に押しかけたソドムの町の人々は同性愛者だったのか。
求是さんによりますと、
日本聖書刊行会版の新改訳聖書では
「ここに連れ出せ。
 彼らをよく知りたいのだ」となっている部分が、
zondervan BIBLE publishers版聖書では
“Bring them out to us so that we can have sex with them”と
なっているということです。

こういうときは、
直接原典にあたってみるより他ありません。
『旧約聖書』の原典は古代ヘブライ語聖書です。
これを見ると、
それぞれの部分の原典は次の通りであったことがわかります。
ホツィエム エレーヌ ヴェネドゥアー オタム(ヘブライ語がワープロでは出ないので、カタカナで表記させていただきます)


逐語訳していきます。
「ホツィエム」とは、
主体が一人の男性であるときに使う、
「外へ出す」という意味の言葉の命令形と、
「ム」という、
語尾につける接尾語との複合語。
「エレーヌ」とは、
「~に」という意味の前置詞である「エル」と
「エーヌ」という接尾語との複合語。
「ヴェネドゥアー」とは、
「そして」という意味の接続詞である「ヴェ」と、
主体が「私たち」であるときに使う、
「知る」という意味の動詞「ヤダー」の願望形・「ネドゥアー」との
複合語。
そして「オタム」とは、
「~を」をという意味の前置詞である「オタ」と、
語尾に付ける接尾語である「ム」との複合語
……だそうです。

ですから、
直訳すると次のようになるかと思います。

おまえ(=ロト)は(来た連中を)外へ出せ。
私たちはそして(その者たち)を知りたい。


このように見ていきますと、
zondervan BIBLE publishers版聖書よりむしろ
日本聖書刊行会版新改訳聖書の方が
原典に忠実であることがわかります。
ただここで問題になるのが、
「知る」という意味の動詞である「ヤダー」という言葉は
単に「知る」というだけではなく、
「(肉体的に)知る」という意味で使われることも
あるのだということです。

この場合、
「彼らを外に連れ出せ。
 私たちはその者たちについてよく知りたい」
という意味にも取れますし、
「彼らを外に連れ出せ。
 私たちはその者たちとセックスがしたい」という意味にも
取れないわけではありません。

もし前者ならロトは、
自分の迎え入れた客人を
ソドムの人たちの尋問(と称するおそらくリンチ)から守るために
自分の娘を差し出そうとしたということになります。
もし後者なら、
自分の迎え入れた客人を強姦しようとする
ソドムの人たちの性欲を静めるために
自分の娘を差し出そうとしたことになるでしょう。
日本聖書刊行会版新改訳聖書と
zondervan BIBLE publishers版聖書との違いは
この点をめぐる解釈の違いなのです。

少なくとも、
聖書の他の箇所に、
この暴行未遂事件について
同性愛的性格があったと主張している記述はありません。
ですから僕は、
ロトの家に押しかけてきたソドムの町の人々が
同性愛者であったとは断定できないと思います。

(2)ソドムの町は同性愛ゆえに滅ぼされたのか
「ソドムの町は同性愛ゆえに滅んだ」という説を
僕は支持することはできません。
なぜならソドムの話は、
両者の合意に基づく一般的な同性愛行為について
書かれた話ではないからです。
この話は、
本来ならば大切に迎えて庇護しなければならなかった客人に対して
ソドムの人たちが集団暴行を働こうとした話なのです。

たしかに求是さんもご指摘の通り、
ロトの家に押しかけてきた男たちが同性愛者であり、
ロトに対して客人とセックスをさせろと迫っていたのだという説は
否定できないかもしれません。
しかし、
たとえそうだとしても、
それは「同性愛」というよりは
むしろ「強姦」の問題です。
相手が同性であろうが異性であろうが、
強姦が悪いことであることは言うまでもありません。
この話は、
合意の上で行なわれる
一般的な同性愛行為の是非については
何も言っていないのです。

ここで『ユダの手紙』を、
求是さんが引用なさったところより少し前の部分から
引用いたします。
(なお、
 前回僕は聖書の語句の引用に
 日本聖書協会版新共同訳聖書を使用いたしましたが、
 今回は求是さんのお使いになった
 日本聖書刊行会版新改訳聖書を
 使用させていただきます。
 ただし、
 『旧約聖書続編』(カトリックの第二聖典)につきましては、
 日本聖書協会版新共同訳聖書を
 使用させていただきます)。

主は、
自分の領域を守らず、
自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、
大いなる日のさばきのために、
永遠の束縛をもって、
暗やみの下に閉じ込められました。

また、
ソドム、ゴモラおよび周囲の町々も
彼らと同じように、好色にふけり、
不自然な肉欲を追い求めたので、
永遠の火の刑罰を受けて、
みせしめにされています。(ユダの手紙6~7)


これをご覧になればおわかりいただけると思いますが、
「好色にふけり、
 不自然な肉欲を追い求めた」のは
ソドムだけではありません。
ゴモラや周辺の町々も
そうであったと書いてあるのです。
また、
これは非常に重要なことなのですが、
「好色」や「不自然な肉欲」とは
具体的にどのような行為を指しているのか、
ここには何も書かれていません。
もちろん、
それを同性愛と確定することもできません〔注1〕。

さて、
堕落した天使の例を持ち出している点でも
『ユダの手紙』と非常によく似ている
『ペテロの手紙 第二』では
次のように書かれています。

神は、
罪を犯した御使いたちを、
容赦せず、地獄に引き渡し、
さばきの時まで
暗やみの穴の中に閉じ込めてしまわれました。

(中略)また、
ソドムとゴモラの町を破滅に定めて灰にし、
以後の不敬虔な者へのみせしめとされました。

また、
無節操な者たちの好色なふるまいによって悩まされていた
義人ロトを救い出されました。

というのは、
この義人は、
彼らの間に住んでいましたが、
不法な行ないを見聞きして、
日々その正しい心を痛めていたからです。(『ペテロの手紙 第二』2・4~8)


これを見れば、
ソドムの町の人々の退廃に、
ロトは(ある一時ではなく)継続的に悩まされていたことが
わかります。
ソドムだけではなく
ゴモラやその周辺の町々も
「好色にふけり、
 不自然な肉欲を追い求め」ていたのだという記述と総合しますと、
『ユダの手紙』で書かれている
「好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めた」というのは、
ソドムの町の男たちが
ロトの家に押しかけてきたその時のことを指しているとは
考えにくいことがわかります。
「好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めた」というのは、
神が調査のために天使を派遣するきっかけとなった
ソドムの住民全体の道徳的退廃の一例と見るのが
妥当ではないでしょうか。
そもそも神は、
ロトの事件の以前から、
すでにソドムを罰することを
考えていたのです(『創世記』18・17~33)。

ソドムの町が滅んだ説明としては、
次の4つが挙げられるかと思います。

その1.ソドムの町が滅びたのは、
    神が調査のために天使を派遣するきっかけとなった
    ソドムの住民全体の道徳的退廃のせいである

その2.ソドムの町が滅びたのは、
    ソドムの男たちが天使たちに
    セックスを強要(または暴行)しようとしたからである

その3.ソドムの町が滅びたのは、
    ソドムの男たちが天使たちと
    同性同士でセックスをしようとしたからである

その4.ソドムの町が滅びたのは、
    ロトを除くソドムの人たちが
    神に遣わされた訪問者たちを邪険に扱ったからである

当たり前のことですが、
「その2」と「その3」とは同一問題ではありません。
「その3」は確かに同性愛の問題ですが、
「その2」は強姦(または暴行)の問題です。
どう考えても僕には、
「その1」や「その2」の説明の方が
はるかに納得しやすいのですが、
なぜか世間的には「その3」ばかりが
強調されているように思われてなりません。

『ユダの手紙』や『ペテロの手紙 第二』の記述は、
「その1」を裏付ける有力な証拠だと思います。

その他、
「その1」を根拠付けるものには、
前回あげた『旧約聖書』の『エゼキエル書』の他に
次のような史料があります。

主は、
ロトが住む町を見逃されなかった。
人々の高慢を忌み嫌われたからである。(『旧約聖書続編』「シラ書(集会の書)」16・8)


『旧約聖書続編』は、
紀元前3世紀から紀元1世紀の間に成立した
ユダヤ教の宗教的文章です。
カトリックでは「第二聖典」として重視されていますが、
プロテスタントの間には
その権威を認めない宗派もあります。
しかし、
当時のユダヤ人がソドムの滅亡について
どのように認識していたかをよく示す文章であることは
間違いありません。

「その4」については
意外に思う方がいらっしゃるかもしれませんが、
どうやらイエス=キリストは
「その4」の理由で理解していたようなふしがあるのです。

どんな町や村にはいっても、
そこでだれが適当な人かを調べて、
そこを立ち去るまで、
その人のところにとどまりなさい。

(中略)もしだれも、
あなたがたを受け入れず、
あなたがたのことばに耳を傾けないなら、
その家またはその町を出て行くときに、
あなたがたの足のちりを払い落としなさい。
 
まことに、
あなたがたに告げます。
さばきの日には、
ソドムとゴモラの地でも、
その町よりはまだ罰が軽いのです。(『マタイの福音書』10・11~15)


町にはいっても、
人々があなたがたを受け入れないならば、
大通りに出て、こう言いなさい。

『私たちは足についたこの町のちりも、
 あなたがたにぬぐい捨てて行きます。
 しかし、神の国が近づいたことは承知していなさい。』

あなたがたに言うが、
その日には、その町よりも
ソドムのほうがまだ罰が軽いのです。(ルカの福音書10・10~12)


また、
『旧約聖書続編』の『知恵の書』にも、
「その4」の説を補強する記述があります。

罰が罪人たちの上に下った。
激しい雷による警告の後のことである。
彼らはその罪のゆえに当然の苦しみを受けた。
他国人を敵意をもってひどく扱ったからである。(『旧約聖書続編』「知恵の書」19・13)


訪問者を冷遇したことが
町が滅ぼされるほどの罪なのかと思う方は
多いと思います。
しかし、
古代世界には
大都市以外には宿屋などほとんどなく
(事実、ソドムにきた天使たちも最初は野宿を覚悟していた)、
旅行者たちは
住民の善意ある歓待に
頼らざるを得ませんでした
(ジョン=ボズウェル『キリスト教と同性愛』 国文社 113ページ参照)。
訪問者を冷遇することが
いかに大きな罪とみなされていたのかは、
『旧約聖書』の次の記述をご覧になれば
うかがい知ることができるでしょう。

アモン人とモアブ人は
主の集会に加わってはならない。
その十代目の子孫でさえ、
決して、主の集会に、はいることはできない。

これは、
あなたがたがエジプトから出て来た道中で、
彼らがパンと水とをもってあなたがたを迎えず、
あなたをのろうために、
アラム・ナハライムのペトルから
ペオルの子バラムを雇ったからである。(『申命記』23・3~4)


よく考えてみますと、
ロトは自分の迎え入れた旅人を
(強姦または暴行から)助けるために、
自分の娘を差し出そうとしたのです。
これを見る限り、
当時の倫理観では「性的貞操」などよりも
「旅人をもてなすこと」の方が
ずっと大事だったのだとも考えることができます。

さて、
その他さまざまな聖書の箇所で
ソドムは悪の象徴として描かれていますが、
ソドムの住民の罪を同性愛だと特定している箇所は
一つたりともないのです。
またその聖書の中でも、
ソドム滅亡の話がある
『創世記』の成立から時代を隔てて成立したものほど
(『ユダの手紙』や『ペテロの手紙 第二』)、
ソドムの滅亡と「性的退廃」(同性愛であるとは書かれていないが)とを
結びつける傾向があることも
注目に値します。

以上を踏まえて考える限り、
「ソドムの町は同性愛がはびこったので滅亡したのだ」という説は、
後の時代に作られた俗説であると
考えるのが妥当でしょう。
そして、
たとえ同性愛とソドム滅亡との間に
関連性があるのだとしても、
それは今挙げた
「その1」・「その2」・「その4」の理由に
付随する問題にすぎなかったと考えられます。
〔注1〕『ユダの手紙』の新改訳(日本聖書刊行会版)は、
「サラコス ヘテラース」という古代ギリシア語を
「不自然な肉欲」と訳したために、
『ローマの信徒への手紙』1・26~27の印象とあいまって
「同性愛のことを指しているのだ」という印象を
与えやすくなっています。
しかし原文に
「自然」・「不自然」などという言葉は
一切使われておりません。
「サルコス」は「別の」、
「ヘテラース」は「肉体」を表す言葉であり、
英語の『新改訂標準訳』ではこの部分に、
「見知らぬ肉体」という意味であるとの脚注が
ついているということです。


最後に、
アメリカの首都・ワシントンで開かれた学会で、
ある神学者が行なったスピーチの最初の部分を引用して、
この文章を締めくくらせていただきます。

私は今日、
重い気持ちでワシントンに参りました。
というのも、
政府の高官に
ソドミーを行っている人がいるという確信が
あるからです。
上下両院にも多くのソドミーを行う人がいます。
大統領の顧問団は、
ソドミーを行う人々で一杯です。
さらに悲しいことに、
大統領自身も頻繁にソドミーを実践しているようです。
さて、
ここでみなさんに
「ソドミー」とは何かを説明したいと思います。
聖書の中でこの罪をもっとも明確に定義しているのは、
「創世記」の物語ではなく、
預言者エゼキエルの書です。
「お前の妹ソドムの罪はこれである。
 彼女とその娘たちは高慢で、
 食物に飽き安閑と暮らしていながら、
 貧しい者、乏しい者を
 助けようとはしなかった」(エゼキエル十六・四九)。
みなさん、これがソドミーです。
ソドミーとは、社会的不正義であり、
寄る辺なき者を冷遇することです。
(『キリスト教は同性愛を受け入れられるか』日本キリスト教団出版局128ページ)


【参考文献】
ジョン=ボズウェル(大越愛子・下田立行訳)『キリスト教と同性愛―1~14世紀のゲイ・ピープル』、国文社、1990年。
ジェフリー=S=サイカー編(森本あんり監訳)『キリスト教は同性愛を受け入れられるか』、日本キリスト教団出版局、2002年。
『鈴木邦男をぶっ飛ばせ!』「酒井徹の今週の裏主張」No.17より転載)


【関連記事】
西洋における男性同性愛者観の移り変わり
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by imadegawatuusin | 2002-12-16 03:04 | 歴史

《はじめに》
同性愛に対しては、
さまざまな偏見や差別が存在する。
幼稚園や保育所の子供たちでさえ、
「ホモ」・「レズ」・「オカマ」といった言葉を、
相手を蔑み からかうために使っている。
しかし、それを注意する人は少ない。
「同性愛は『異常』であり、『変態』である」。
これが、
現代日本における同性愛の一般的認識であろう。
これは、
古今東西 普遍のものであるのだろうか。

今回僕は特に、
「西洋精神文化の源泉」と言われる
古代ギリシア・ローマ時代と聖書を中心に
西洋における男性同性愛者観の移り変わりを調べることで、
この問題に取り組みたい。

(1)古代ギリシア時代……男同士の恋愛は「男らしい」ものなのだ!
古代ギリシア社会では、
男性同性愛
(特に「大人と少年」・「市民と奴隷」などといった
 上下関係のある間柄での男性同性愛)が
盛んに行なわれていた。
「世の中には男性を愛する男性もいれば
 女性を愛する男性もいる」という事実を、
当時の人々は当然のこととみなしていた(プラトン『饗宴』191e~192a)。

また現代日本では、
男性同性愛者はしばしば「オカマ」などという言葉で呼ばれ、
「男らし」くない人々であると考えられる傾向にある。
しかしギリシア社会においてはむしろ、
男を愛する男はますます男らしさに磨きがかかり、
女を愛するような男は
女に似てどんどん女みたいになると考えられていたようだ。
古代ギリシアの哲学者・プラトンは、
『同性愛の恋人同士がペアを組めば最強の戦士になる』
との意味のことを論じているし(プラトン『饗宴』178e~179a)、
都市国家・テーバイでは
実際にそのような部隊が編成され、
結果は大成功だったという(プルタルコス『プルターク英雄伝』「ペロピダース」18)。

(2)古代ローマ時代……男に恋をするなんて、まるで「女みたい」じゃないですか
古代ローマの英雄・カエサルは、
エジプトの女王・クレオパトラを恋人にしたことで
知られている。
しかし彼は、
小アジアの王国・ビテュニアの男王・ニコメデスの
恋人でもあった。
このため彼は
「女王」・「妾」などと呼ばれていた。
また、
カエサルのガリア征服を讃える凱旋式のときには、
カエサル軍の兵隊たちは、
「カエサルはガリアを、
 ニコメデスはカエサルを押えつけた」という歌を歌っていた。
カエサルのことを
「あらゆる男の女」などと言った人もいたそうだ(スエトニウス『ローマ皇帝伝』「カエサル」49~52)。

さて、この文章は、
「人々の男性同性愛者に対する視線の変遷をたどる」ことを目的とする。
したがって、
カエサルが同性愛者であったという事実は
ここではさして重要ではない。
問題は、
人々がカエサルのことを「女王」・「妾」と呼んでいたり、
「ニコメデス」に「押えつけ」られたと言ったりしたということだ。
つまり、
『同性愛者のカエサルは弱々しい』・
『同性愛者のカエサルは女みたいだ』と言って
からかっていたわけである。

先にも触れたがギリシア時代には、
男の同性愛は「女みたい」であるとは考えられていなかった。
歴史学者のジョン=ボズウェルによると、
むしろ異性愛者の男ほうが、
同性愛者の男から「女みたい」だと非難されることが
多かったくらいなのである(ジョン=ボズウェル 大越愛子・下田立行訳 『キリスト教と同性愛』50ページ参照)。

ところがカエサルは、
ニコメデスと恋人同士であることが
「女みたい」だと言われていた。
「ニコメデス」に「押えつけ」られたとまで言われている。

もちろん僕は、
男が「女性的」であることを悪いこととは思わない。
まして、
女は弱々しいなどと考えているわけでは決してない。
ただ、
『男の同性愛者は女みたいだ』と考えられたところから
男性同性愛者への差別が始まったのは
紛れもない事実である。
つまり、
「女みたい」だということは悪いことだという前提の上に、
男性同性愛者への差別は始まったのだ。
このことは、
男性同性愛者差別が実は女性差別と
表裏一体の関係にあることを示唆している。

とはいえ、
後の時代に比べれば、
ローマ時代は一般に同性愛者に寛大だった。
事実、
アウグストゥス(ローマ帝国の初代皇帝。カエサルの養子)をはじめとする
何人もの男性同性愛者(スエトニウス『ローマ皇帝伝』「アウグストゥス」68)が
皇帝の位にまで上り詰めたのである。

しかし五賢帝以降、
ローマ帝国の没落にしたがい、
西洋世界は同性愛者に対する優しさを
しだいに失ってゆく。
これは、
ユダヤ人や異端者などへの差別の歴史とも
見事に重なり合うのである。
戦乱により交通が遮断され、
多様な価値観に出会う機会が失われたためだろうか。

(3)聖書……この分厚い聖書の中で、同性愛を非難しているのはたったの5箇所
『旧約聖書』で同性愛を批判している箇所は、
『レビ記』という書の中の2箇所だけだ〔注1〕。
「女と寝るように男と寝てはならない。
 それはいとうべきことである」(『レビ記』18・22)という箇所と、
「女と寝るように男と寝る者は、
 両者共にいとうべきことをしたのであり、
 必ず死刑に処せられる。
 彼らの行為は死罪に当たる」(『レビ記』20・13)という箇所とである。

「死罪」というと大事だと思われるかもしれない。
しかしこの文の直後には、
生理期間中の女と寝てこれを犯した者は
死刑だというような記述もある(『レビ記』20・18)。
またこの『レビ記』には、
血液や脂肪を含む肉を食べてはいけないとの記述もある。
これにいたっては
「代々にわたって守るべき不変の定め」(『レビ記』3・17)とまで
書かれているのだ。
今のキリスト教徒がどれほどこれを守っているかは
大いに疑問である。

以上のことからもわかる通り、
キリスト教徒の間では、
『旧約聖書』の戒律はあまり重視されていない。
これは、
『旧約聖書』・『新約聖書』という名前にも表れている通り、
『旧約聖書』というのは「旧い契約」であると
考えられているからだ。
イエス=キリストが遣わされ、
人類と神の間には新しい契約が結ばれたのだから、
『旧約聖書』の戒律はそれほど杓子定規に守る必要はないという考え方が
浸透していたからなのだ。
だから、
『レビ記』のこの部分が理由で同性愛者は差別されたのだと言っても
説得力はない。

では、
『新約聖書』ではどうなのだろう。
まず、
イエス=キリストは同性愛を批判したりはしていない。
『新約聖書』の中で同性愛を批判しているのは、
イエスの弟子のそのまた弟子のパウロである。
パウロが同性愛を批判していると考えられている箇所は
全部で3箇所だ(『コリントの信徒への手紙』6・9~11)(『テモテへの手紙』1・9~10)(『ローマの信徒への手紙』1・26~27)。

ただ、
それぞれの文脈を見ればわかることだが、
パウロは別に同性愛を批判するために
このような文章を書いたわけではない。
いずれのケースにおいても、
同性愛者はあくまで、
他の何らかの悪人を批判するために登場させられただけなのだ。

キリスト教が同性愛者を迫害した理由を
パウロの手紙にもとめる意見は多い。
しかし、
これのみを同性愛者迫害の根拠とすることは
妥当性を欠いている。
先の『旧約聖書』同様、
このパウロの手紙も
一字一句守られてきたとは言いがたいのだ。
たとえば先の『コリント信徒への手紙』では、
女性は祈りをする際に
頭に物をかぶるよう求められている(『コリントの信徒への手紙』11・5~6)。
しかし、
この記述がキリスト教徒の間で遵守されることは
ほとんどなかった。

要するに、
聖書の記述のみが原因で同性愛者が迫害されたわけではない。
むしろ同性愛者という少数派への偏見・嫌悪が先にあり、
それを正当化するために聖書の語句が利用されたと見るほうが
妥当なのである。

そしてその後の歴史は、
同性愛者への差別と迫害の方向へと動いてゆくことになる。
〔注1〕同性愛のことを
「ソドミー」(あるいは「ソドミータ」)と呼ぶことがしばしばある。
これは、
「『旧約聖書』に登場するソドムの町は、
 同性愛がはびこったので神によって滅ぼされたのだ」という
俗説によるものだ。
しかし、
『旧約聖書』の当該部分(『創世記』18・20~19・15)に
そのような記述があるわけでもないし、
それ以外の部分にそうした記述があるわけでもない。
それどころか、
『旧約聖書』の『エレキゼル書』には、
「ソドムの罪は」、
「高慢で、食物に飽き安閑と暮らしていながら、
 貧しいもの、乏しい者を
 助けようとしなかった」ことなどである(『エレキゼル書』16・49~50)と、
ソドム滅亡の具体的な原因まで書いてあるのだが、
そこでも同性愛には一切触れていないのだ。

(4)その後の西洋……同性愛者はハイエナでユダヤ人でイスラム教徒でもあり…… 
『バルナバの手紙』という文章がある。
西暦70年から140年ごろに成立した、
『使徒教父文書』と呼ばれる諸文書の一つである。
「手紙」といってもその実態は一種の神学論文であり、
『旧約聖書』から膨大な引用をして
キリスト教を擁護する内容になっている。
そしてこの文章が、
『兎には年の数だけ肛門がある』ことを「根拠」として、
『旧約聖書』の『兎を食べてはならない』との意味の文章(『レビ記』11・6)は
「子供を犯す」ことを禁じたものであると断定した。
そしてその直後の文章で、
ハイエナやいたちも食べてはならないとしたのである(『バルナバの手紙』10・6~8)。
その後 西洋では、
ここにある「子供を犯す」ことと男性同性愛とが、
同一視されるようになってしまった。
おそらく、
古代ギリシアなどで多く見られた
「少年愛」からの連想だったのであろう。
さらに、
この文章に出てきた兎・ハイエナ・いたちなどは
「男性同性愛の象徴」として
その後の西洋において扱われるようになるのである。

ハイエナと男性同性愛との不快な連想は、
「ハイエナは墓を暴き死体を貪り食う」といった伝説と相まって
ますます強化されることになる。
こうして、
「まるでハイエナのようだ」の一言で
同性愛者を非難することが可能となった。
12世紀になると、
同性愛者をハイエナと結び付けた上、
そのハイエナをユダヤ人と結び付けるような文章まで登場する(ピルパント・モーガン文庫、ms832,fol.4)(ジョン=ボズウェル 大越愛子・下田立行訳 『キリスト教と同性愛』10ページ参照)。
またこの12世紀は
第2回・第3回の十字軍が派遣された世紀でもあり、
イスラム教徒に対する憎悪が西洋では高まっていた。
キリスト教陣営はしばしば、
『イスラム世界では男性同性愛がはびこっている』などという論陣を張って
イスラム教を批判したのである(ジョン=ボズウェル 大越愛子・下田立行訳 『キリスト教と同性愛』285ページ参照)。

男性同性愛者に対する敵意は
やがて社会の諸制度へと浸透した。
そしてこれは、
先に見てきた通り、ユダヤ教徒・イスラム教徒などの
「異端者」一般に対する不寛容の拡大と
決して無関係ではなかった。
そして、
このようにして形成されてきた偏見が、
西洋文化の伝播した世界各地域の
男性同性愛者観の下地となったのだ。
もちろん、我が国もその例外ではない。

《おわりに》
あいまいな根拠に支えられた同性愛者嫌悪は、
長い間多くの人々を苦しめてきた。
『同性愛者解放』ということがようやく公然と主張されるようになったのは、
20世紀の後半・1969年6月に
アメリカで、「ストーンウォールの叛乱」(別名「ゲイ革命」)と呼ばれる事件が
あってからのことなのだ。

ナチス=ドイツがユダヤ人を虐殺したことはよく知られている。
しかし、
それにも劣らない残虐なやり方で、
多くの同性愛者が強制収容所に送り込まれ虐殺されたことは
あまり知られていない。
本来なら、
ナチス=ドイツによるユダヤ人差別が批判された終戦後に、
同性愛者差別も批判されるべきであったと僕は思う。
今では一応、
「ユダヤ人を差別するのは悪いことだ」という認識は
世界的にみてだいぶ一般的になりつつある。
しかし同性愛者に対しては、
いまだに堂々とからかい、蔑んでもよいというような風潮がある。
けれどこれは、
決して切り離して考えるべき問題ではない。
なぜなら歴史的にみれば、
ユダヤ人・「魔女」・異端者などに対する差別と
同性愛者に対する差別とは
時期的にも思想的にも見事に重なりあうからだ。
社会が排外主義的になり、
異質な人々を受け入れる余裕がなくなってしまった時代に、
ユダヤ人は迫害され、「魔女」は差別され、
そして同性愛者は抑圧されてきたのである。
さらに、
こうした差別は互いに結び付けられあうことによって強化され、
再生産されてきた。
今こそ、その悪循環を断つべきときではないのだろうか。


【参考文献】
ジョン=ボズウェル(大越愛子・下田立行訳)『キリスト教と同性愛―1~14世紀のゲイ・ピープル』、国文社、1990年。
デイヴィッド=M=ハルプリン(石塚浩司訳)『同性愛の百年間』、法政大学出版局、1995年。
ハインツ=ヘーガー(伊藤明子訳)『ピンク・トライアングルの男たち―ナチ強制収容所を生き残ったあるゲイの記録』、パンドラ、1997年。
キース=ビンセント・風間孝・河口和也『ゲイ・スタディーズ』、青土社、1997年。

『鈴木邦男をぶっ飛ばせ!』「酒井徹の今週の裏主張」No.16より転載)


【関連記事】
ソドムとソドミーと同性愛
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by imadegawatuusin | 2002-12-09 22:54 | 歴史