「ほっ」と。キャンペーン

<   2004年 07月 ( 1 )   > この月の画像一覧

「予定論」

中学生のとき、歴史の授業で、
(ヨーロッパの)宗教改革における
カルヴァンの「予定説」について
習ったときのことだ。
先生は、
「いや、正直オレ、
 今でもこれについてはピンとこないから、
 うまく説明できるかどうかわからんけど……」
と前置きしてから、
次のように解説した。

「人間の救いは、
 全知全能の神によって、
 その人が生まれる前に
 すでに「予定」(決定)されている。
 しかし、
 神によって救いが約束されている人は、
 きっと敬虔な生活を送っているに違いない」。
これが、
カルヴァンの唱えた「予定説」の
基本的な考え方です。
従来は、
その人が敬虔な生活を『することによって』、
神様に救われるかどうかが
決まるとされていたのですが、
「予定説」ではこれを逆転させ、
救われるかどうかはあらかじめ決まっており、
救われる人が敬虔な生活をするのだと
説いたのです。


先生は自分で解説しておいて、
「今でもこれについてはピンとこない」と、
今ひとつ納得の行かないという顔をしていた。
だが、
その説明を聞いた僕には
ものすごく「ピンときた」のだ。
僕が小さいころからずっと考えてきたことが
その瞬間、
初めて鮮やかに整理された感触を得た。

僕が小さいころから考えていたこと
――それは、
「人間の行動というものは
 すべてあらかじめ決まっているのではないのか」
ということだった。

これを他人に説明するのは非常に難しい。
僕がこの考えを話すと、
人によっては、
「人間の運命なんて生まれる前から決まっている」という
いわゆる「運命論」と
一緒にされてしまうことすらある。

僕の考え(「予定論」とでも名づけよう)と
いわゆる「運命論」との違いはこうである。

例えば僕の人生に今、
Aという選択肢とBと言う選択肢とがあるとする。
「運命論」によれば、
人間の人生はあらかじめある運命の下にあり、
選択肢Aを選ぼうと選択肢Bを選ぼうと
結果は同じであると説く。
それに対して僕の考えた「予定論」では、
選択肢Aを選ぶのと選択肢Bを選ぶのとでは、
その後の人生はおそらく変わってくるだろうと
考える。
だが、
そのとき僕が選択肢Aを選ぶのか
選択肢Bを選ぶのかは、
僕の今までの生育環境とか、
両親から遺伝した性格とか、
もっと細かく言えば
その日の気温とか精神状態とか、
そういったもろもろの原因に規定されて
あらかじめ決まっている、
と考えるのだ。

僕は決して運命論者ではない。
自分の運命は自分の手で切り開くものだと信じるし、
自分の選択が
自分の人生を決定することも承認する。
(だから、
 「どんなに努力したって結果は同じさ」
 というような考え方には全く組しない)。
だが、
その「自分の選択」というものも結局は、
脳の中で起こっている
電気化学的変化の結果に過ぎない。
究極的にはこれも、
この世界の物理的・科学的法則にしたがって、
その法則に合致する
ただひとつの動きを行なっているに過ぎない。
もちろん、
脳の中で起こっている思考の仕組みは
あまりにも複雑であるため、
人類はおそらく永遠に
その仕組みを完全に理解することはできないだろう。
だが、だからと言って
人間の脳だけが
この世界の物理的・科学的法則から外れる動きが
できるわけではないはずだ。
結局 人間は
最初から「それ以外にありえない」選択を、
淡々と積み重ねていくことしかできない。
一見 選択肢が2つ以上あるように見えても、
それは世界の必然のすべてを
人間が認識できないことからくる錯覚に過ぎず、
その人がそのどちらを選ぶのかは、
究極的にはこの世界の物理的・科学的諸法則に基づいて
あらかじめ決まっている……と
僕は考えていたのだ。

いや、
「考えていたのだ」というのは正確ではない。
僕は、
「予定説」について解説する中学の先生の話を聞いて、
ようやくいま上で言ったような形に
僕の「予定論」をまとめることができたのだ。

カルヴァンは決して、
「敬虔な生活を送るものが救われる」
ということ自体は否定しない。
彼の教えに従っても、
結果だけを見れば、
敬虔な生活を送るものは救われ、
そうでないものは救われないのだ。
だが、
その人が敬虔な生活を送るのかどうかが
神様にもわからないのだとすれば、
神様は「全知全能」ではなくなってしまう。
彼の考えでは、
(ある人が敬虔な生活を送り、
 救われるのかどうかも含めて)
神様はすべての事柄を知り、
すべての事柄を決定していなければ
「唯一・万能の神」ではなくなってしまう。

僕は無神論者であるが
(というより、徹底して無神論者であるからこそ)、
この点の考え方に関しては
カルヴァンにとてもよく似ている。
カルヴァンの予定説における「神様」という部分を
「世界の物理的・科学的諸法則」と置き換えれば、
そのまま僕の意見になってしまいそうなくらいだ。

僕もまた、
「努力をした人が報われる」のだということを承認する。
だが、
その人が努力をするのかしないのかが、
この世界の物理的・化学的諸法則から
断絶したところで決まっているのであれば、
僕の信奉する唯物論は成り立たなくなってしまう。
唯物論では、
(人間の心の働きも含めて)
すべての事柄は
物理的・化学的諸法則に則って
動いていると考えるからだ。

徹底した無神論と徹底した有神論では、
結論が驚くほど似てしまうことがままある。
カルヴァンは神様の絶対性を守ろうとした結果、
「予定説」を打ち出さざるを得なかった。
僕は、
世界の物理的・科学的法則の絶対性を守ろうとした結果、
「予定論」にたどり着かざるをえなかったのだ。
どちらも、
人間の意志というものを認めつつも、
その「人間の意志」さえもが
その背後にある「偉大な力」によって
すべて決定されていると考える点では
共通していると思うのだ。
『鈴木邦男をぶっ飛ばせ!』「酒井徹の今週の裏主張」No.103より転載)
[PR]
by imadegawatuusin | 2004-07-19 23:37 | 倫理