昨日の記事に続き、
『ことわざの知恵』(岩波新書)を取り上げる。

この本の17ページに
「人を呪わば穴二つ」ということわざが出てくる。
人を呪ったりするとその報いは自分のほうにも跳ね返ってくるぞ……、
という意味であることはなんとなく知っていたが、
この「穴二つ」というのは一体 何のことなのだろうか。
この本には次のように書かれている。

省略しない形では「人を呪わば穴二つ掘れ」。
なぜかといえば、
呪った相手が葬られる穴と、
自分自身が葬られる穴と二つ必要になるからだ。

のろい殺すからには、
自分も命を失うことを承知せよ、
あだやおろそかに人を呪ってはならぬぞ、
という教え。


なるほど。
一つ目の穴が呪い殺す相手が入る墓穴で、
もう一つは自分が入る墓穴なのだ。

今でこそ、
「呪い殺す」などということは非科学的なオカルトとして
まっとうな人間が相手にするようなものではないとされている。
しかし、
その効力が信じられていた昔においては、
これはれっきとした犯罪行為であった。
(奈良時代の長屋王など、
 「人を呪った」罪によって殺されている)。

おそらくこのことわざは、
そうした「犯罪」を抑止するために作られたものであったのだろう。

しかし、逆から言えば、
命を投げ出す覚悟があるのなら、
思う存分 人を呪ってもかまわない、
という意味にも読めてくる。

僕は、
「呪(のろ)い」というのは一種の精神療法だったんじゃないか……、
というようなことを考えている。

たとえばここに、
殺したいほど誰かを憎んでいる人がいるとしよう。
その人は、
そいつを殺すためなら自分の命など惜しくはないと思っている。
そのまま放っておくと、
本当に人殺しに走りかねない、という状況である。

しかしそんな時、
「呪術によって人を呪い殺せる」ということが
一般に信じられていたとしたらどうだろう。
さすがに直接手を下したりすると、
「殺人者」のレッテルを貼られて、
自分はともかく、
一族郎党にまで迷惑をかけかねない。
しかしもし、
証拠を残さず呪術によって呪い殺せるとすれば……。
その人は、そちらの道を選ぶかもしれない。

毎晩、丑の刻に起きだしては、
わら人形を釘で打つ。
口で言うのは簡単だが、
これを毎晩続けるのはかなりキツい。
続けているうちに、
だんだんあほらしくなってくるかもしれない。

それに、
いっとき どれほど激しく燃え上がった恨みでも、
意外に長くは続かないのも人の常だ。
ある一瞬、
「○○のためなら命を捨てても惜しくない」なんてことを本気で考えたりしても、
しばらくして冷静になってみると、
「馬鹿なことを考えてたよな」となってしまう。
つまり、殺したいほど誰かを恨んでいる人も、
その「恨みのピーク」さえやり過ごせれば、
後はまた、
静かに暮らしていけるようになるかもしれないのだ。

そういう意味では「呪(のろ)い」は、
うつ病になった人に具体的な課題(特に単純作業)を与えて、
「悩んでたってしょうがないでしょう。
 とにかく、目の前にあるこの課題をこなしなさい」と指導する
森田療法などに近いものがあるように思う。
「夜中に起きだして釘を打つ」なんて、
まさしく単純作業の最もたるものだ。
やってるうちに冷静に(あるいは馬鹿らしく、または恥ずかしく)なって、
何事もなかったかのように
普段の生活に戻っていった人も多かったのだと思う。

無論こんなことは、
「呪(のろ)い」を信じない現代人だからこそ言えることでもある。
「呪(のろ)い」自体に実効力があると考えた昔の人々なら、
「人を呪わば穴二つ」と教えて「呪い」を禁じようとしたのも
実に当然のことなのだから。


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「『ことわざの知恵』を読む(その1)」
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「『ことわざの知恵』を読む(その13)」
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by imadegawatuusin | 2005-01-31 17:56 | 日本語論

昨日の記事に続き、
『ことわざの知恵』(岩波新書)を取り上げたい。

この本の11ページに「盗人の昼寝」ということわざが登場する。
僕にとって非常になじみのあることわざである。
小さいころ、『いろはカルタ』に夢中になっていた時があった。
「ぬ、盗人の昼寝」はちょっと間抜けそうな泥棒の顔が特徴的で、
僕の「得意フダ」だったのだ。

だが、このことわざの意味については、
僕はまったく知らなかった。
「盗人の昼寝」について、
この本には次のように書かれている。

盗人はふつう、
まっとうな人々が寝ている夜に「仕事」をするから、
人々が働いている昼間は反対に寝ているだろう(中略)。
(中略)短縮される以前の形は、
「盗人の昼寝も当てがある」というもの。
何をするにも理由があるというたとえ。
どうやらこの盗人は、
今夜の仕事先のめどをつけた上で、
昼寝をしているようである。


へー、そうだったのかと初めて納得がいった。

「楽しくてためになる」などと言って「いろはカルタ」を売り込んでいる企業もあるようだ。
しかし、これははっきり言って嘘だと思う。
僕は確かに「盗人の昼寝」ということわざは覚えたけれど、
その意味についてなんて、考えたこともなかった。
ただ、「盗人の昼寝」という言葉とそのフダの絵柄を覚えて、
ちょっとカルタ取りに強くなったというだけだ。

そういえば今、妹が百人一首に凝っている。
学校で百人一首大会があるらしく、
ライバルでもいるのか、やたら張り切って家でも練習しているのだ。
上の句を数文字聞いただけで
下の句だけが書かれたカルタを取ってしまうのだから、
すごいもんだと思う。
思うのだが……、
多分、妹は百人一首の個々の和歌の意味は
全然わかっていないと思う。
「カルタ取り」の腕はめきめき上がっているようではあるが、
あまり勉強になっているように見えないのは気のせいだろうか。

もっとも、これはうちの妹に限ったことでもないらしい。
今年の百人一首クイーン・楠木早紀さんは、
史上最年少、初の中学生クイーンということもあって注目を集めたが、
どうやら彼女も和歌の意味はあまりわかっていないらしい。
1月15日の朝日新聞「ひと」欄の記事によると、
「成績が上がる」と言われて百人一首をはじめたにもかかわらず、
「古文が苦手で、歌はよく意味がわからない」ということなのだ。
(もっとも、
 「歌の意味も少しずつ勉強しようかな」とも発言しているが)。

多分、競技としての百人一首は、
文学としての百人一首とはまったく別物の「スポーツ」なのだ。
「畳の上の格闘技」などとも呼ばれており、
突き指ぐらいは当たり前、
骨折だって珍しいことではないという。

そういえば、百人一首のクイーン戦に出場する選手って、
絶対に羽織袴の姿だけど、
あれって「ああいう格好をしなきゃいけない」っていう規則とかがあるんだろうか。
「スポーツ」・「格闘技」なのだと割り切れば、
あんな動きづらそうな格好ではなくて
ジャージなんかを着た方が絶対に有利だと思うのだが……。

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by imadegawatuusin | 2005-01-30 17:51 | 日本語論

「ことわざ」というと、
「長い歴史によって磨かれた民族の英知」というようなイメージがあり、
どこか高尚な雰囲気を漂わせる。
文章の中にさりげなく使われていると、
響きもいいし、
なんとなく深い含蓄を感じたりしてしまうものだ。

しかし、岩波新書の『ことわざの知恵』は、
こうしたイメージをのっけからぶち壊してくれる。
この本は、前書きにあたる「はじめに」という文章を
次のように書き始めるのだ。

ことわざが表現しようとしている内容は、
強いて一言にまとめようとすれば、
「人生の知恵」としか言いようのないものです。
ただし、その「人生の知恵」は、
随分えげつない悪知恵であったり、
意地悪な観察・批評であったりと、
必ずしも品格の備わった高邁な知恵ばかりではありません。
むしろ、
庶民が世間をわたるうえでの、
いじましい処世訓、
あるいは励ましや慰めとしての側面も大きいのです。


たしかに、ことわざを
「民族の英知」とか「真理」とかいった形で神聖視してしまうと
見えてこない部分がある。

例えば、
不都合なことや醜聞を
その場しのぎの手段で隠してしまおうとする人を非難するときによく使うことわざに
「臭い物に蓋」というのがある。
与党の政治家や官僚などが、
よくこうしたことわざを使って非難される。
だが、この本によると、
古くは「臭い物には蓋をせよ」という
命令形の表現もあったそうなのだ。
臭いものには早く蓋をして、
周囲に迷惑をかけることのないようにという、
これはこれで至極まっとうな教訓だったというのである。

「女房と味噌は古いほどよい」
と言うかと思えば、
「畳と女房は、新しい方がよい」
とも言う。

「鯛の尾より鰯の頭」・「鶏口となるも牛後となるなかれ」
などと言うかと思えば、
「鰯の頭をせんより鯛の尾につけ」・「寄らば大樹の陰」
という、全く正反対のことわざもある。

「情けは人の為ならず」や「転石苔を生ぜず」・
「君子豹変す」などは、
それぞれ同じことわざが
人によってはまるで正反対の意味に理解されている。

「商人(あきんど)と屏風は曲がらねば立たぬ」・
「我が亡き後に洪水よ来たれ」などという、
道理や道徳の観点からすれば問題の多いものも少なくない。

こうした事態は、
ことわざを神聖視してしまうと理解できないことである。

ことわざは多分、
それ自体にはさして奥深い真理や真実が
隠されているというわけではない。
そのときそのときの自分を正当化したり、
あるいは他人を慰めたり、非難したりするときに、
ついつい使ってしまう気の聞いた言葉のカタログが
おそらくことわざなのだろう。

だから、時代や社会が変わってしまうと
案外あっさり廃れたり、
意味や形が変わってしまったりするものなのだ。
この本の別の箇所には、

ことわざというと、
どれもが大昔から言い伝えられてきたように思いがちだが、
実際は必ずしもそんなに古いものばかりではない。(100ページ)


とも書かれている。
「ことわざ」も、大局的に見れば、
「ちょっと息の長い流行語」程度のものでしかないわけだ。

だが、そこに意味がないと考えるのは間違いだ。
矛盾していたり、自分勝手だったり、
時代が変わればあっさり廃れてしまったり……。
そんなことわざの中にこそ、
その時代、その時代の庶民の姿が
むしろ いきいきと表現されているのだと思う。

ことわざを高く祭り上げるでもなく、
かといってこき下ろすでもなく、
いま伝わっている一つ一つのことわざを
純粋に面白がってみようじゃないかというのが
この本である。
「ことわざ」というものに対する
その「距離感のとり方」が、
僕はとても気に入ってしまったのだ。

今日から数日間、
この本を読んで感じたことを書いてゆきたい。

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by imadegawatuusin | 2005-01-29 17:43 | 日本語論

フランスのシラク大統領が26日、
スイスで開かれている世界経済フォーラム(ダボス会議)で演説し、
発展途上国などでのエイズ対策の財源を国際的な規模で確保するため、
「国際連帯税」の創設を提唱した(読売新聞1月28日)。

記事によると「国際連帯税」とは、
国際金融市場での取引などにあたって一定の課徴金を徴収し、
エイズワクチンの開発や発展途上国での治療薬購入に充てようというものだそうだ。
『読売新聞』は「斬新なアイデア」と評価しているけれども、
これはまさしく、
国家・財界中心の世界経済フォーラムに対抗して
世界のNGO団体などが主催している世界社会フォーラムが
従来からずっと提案してきた「トービン税」そのものである。

報道によるとシラク大統領は、
「1日3兆ドルとされる国際金融取引の一部に最大0.01%課税するだけで、
 年間で100億ドル集めることができる」
と述べたという。

最大でも0・01パーセントの課税なので、
まっとうな設備投資や貿易などを行なっている企業には影響が少なく、
かつ、
分刻み・秒刻みで右から左へ投機を繰り返して「利ざや」を稼ぐ投機的な金融取引からは
(取引のたびごとに0・01パーセント徴収されるので)
しっかりと税金を取り立てることができる。
この構想はもともと、
ノーベル経済学賞を受賞したアメリカの学者・ジェームズ=トービンが
投機目的の短期資金移動を抑止する目的で提唱したものだ。
そして、取り立てられた莫大なお金を、
世界の貧しい人々や環境対策のために使えば……。

この構想は特にここ数年間、
提唱者のトービンの名を冠して「トービン税」と呼ばれ、
世界の貧困や環境問題を解決する具体策として
脚光を浴びてきた。

僕はフランス・シラク大統領の「国際連帯税」構想を強く支持する。

シラク大統領は近く
国連や欧州連合(EU)などに「国際連帯税導入」を呼びかけるという。
ぜひ、実現させてほしい。
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by imadegawatuusin | 2005-01-28 18:30 | 国際

1月15日の記事1月18日の記事の中で僕は、
「いけいけギャル」の「いけいけ」の「いけ」は
五段活用動詞・「行く」の命令形ではなく、
一段活用動詞「いける」
(「状態がよい」という意味で使う動詞。
 「この酒はなかなかいける」とか
 「あの子、なかなかいけてない?」といった形で使う)
の連用形〔注1〕であると主張した。

ところが昨日あたりから、
「やっぱり命令形なのかな」とも思うようになってしまった。

というのも、
こんな名詞を見つけてしまったからなのだ。

「歩け歩け運動」。


「日本ウオーキング協会」というところが呼びかけた運動で、
僕は今までまったく聞いたことのない言葉であったが、
「振り込め詐欺」〔注2〕のような違和感がない。

そしてもうひとつ、これは命令形ではないが、
「てるてる坊主」という名詞も発見してしまった。

で、以上の事実から考えてみるに、日本語には、
「動詞の命令形であれ、終止形〔注3〕であれ、
 2回続ければ容易に名詞化して他の名詞に接続する」
という傾向があるのではないだろうか。

「振り込め詐欺」も、
「振り込め振り込め詐欺」とでも言いかえれば、
文法的な違和感はなくなるのかもしれない。
もっとも、「ひとつの名詞としては長すぎる」という、
別の意味で致命的な違和感を抱えてしまうため、
現実的には不可能であるが。

〔注1〕動詞の連用形とは、
その動詞を「~ます」に続くように変化させたときの形である。
「動く」なら「動きます」になるので連用形は「動き」。
「泳ぐ」なら「泳ぎます」になるので連用形は「泳ぎ」。
このように日本語では、
動詞を名詞化するときは通常その動詞の連用形を用いる。

〔注2〕「振り込め詐欺」という言葉については、
「『振り込め詐欺』は『なりすまし詐欺』に!」(1月13日)
「『振り込め詐欺』妥当論に反論する 」(1月16日)とを参照のこと。

〔注3〕動詞の終止形とは……、
まぁ、動詞が「辞書に載っているときの形」と考えればいいだろう。
「行け」とか「振り込み」とかではなく、
「行く」・「振り込む」がそれぞれの終止形にあたる。
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by imadegawatuusin | 2005-01-20 18:18 | 日本語論

1月15日の記事の中で僕は、
「いけいけギャル」の「いけいけ」の「いけ」は、
「行く」という動詞の命令形ではなく、
「いける」という動詞の連用形〔注1〕であると書いた。

このことを確かめるために大学の図書館にある
各種国語辞典を引いてみたのだが、
「いけいけギャル」もしくは「いけいけ」という項目がみつからない。
たいていの国語辞典では、
「畏敬」(いけい)の後に「異系交配」(いけいこうはい)という言葉がきてしまうのだ。

そんな中、唯一「いけいけ」という項目を設けてあるのが
小学館の『日本国語大辞典』(第二版)である。
「大辞典」の名にたがわず、
全13巻(他に別冊も)の大著だ。
「第二版・刊行のことば」には次のように書いてある。

本辞典は、
上代から現代に至る日本語の歴史を
確実な文献によって跡づけた本格的な国語大辞典として、
国語国文学界のみならず各界より高い評価を得て、
海外においても日本語の研究には欠かせぬ基本的な資料となるに至っている。


要するに、現在ある日本の国語辞典の中でも
最も権威のあるものがこの『日本国語大辞典』なのだ。
(一般的には岩波書店の『広辞苑』がよく知られているが、
 これはあくまで1巻ものの「中辞典」であり、
 各家庭に1冊ずつ置かれることを前提とした辞典である。
 『日本国語大辞典』は13巻の大著であり、
 日本語研究者のための辞典といえる)。

その、唯一「いけいけ」という名詞が掲載されている『日本国語大辞典』には、
「いけいけ」の語源が次のように書かれていた。

動詞「いく(行)」の命令形を重ねた語


何ということだろう。
日本の国語辞典の最高権威である『日本国語大辞典』には、
「いけいけ」が「動詞『いく(行)』の命令形を重ねた語」と書かれてあるではないか。

だが、本当にそうなのだろうか。
少なくとも僕も、「いけいけギャル」の「いけいけ」の「いけ」を
「行く」の命令形だと思っていた(1月15日の記事を参照のこと)。
しかし僕は、
「『動詞の命令形+名詞』の複合語なんて
 そうそうあるわけがない」といろいろ考えた末、
これは「いける」の連用形だという結論に達したのだ。
日本語では通常、動詞を別の名詞とくっつけて複合名詞を作る際や、
動詞を名詞化するときには、
その動詞を連用形にすることになっている。
(「走る」を名詞化するなら「走り」。
 「のぼる」を「棒」につなげるなら「のぼり棒」)。
無論、まったく例外がないわけではないのだろうが、
「動詞の連用形である」としても説明のできるこの名詞を、
あえて「これは動詞の命令形だ」というのであれば、
そこにはよほどの根拠がなければならないだろう。

ところが、である。
「いけいけ」の項目に出てきた語義解説や用例を見ても、
やはり積極的に「行く」の命令形を重ねたものであるとみるほどの根拠は
ないように思われて仕方がないのである。

『日本国語大辞典』に掲載されている「いけいけ」の語義と用例は
次のとおりだ。

1.ほったらかしのこと。放任。放置。
2.受け渡しや損益の差し引きがゼロであること。相殺。
3.やたらに威勢がいいこと。むやみと元気なさま。

「1.」の用例としては、
1770年に書かれた『歌舞伎・桑名屋徳蔵入船物語』から引かれた
次のものが載っている。

「『さうして十年も家へ往(い)なずに、後はどうなった』
 『どうなったやらいけいけぢゃ』」


「2.」の用例としては
1868年から70年ごろに書かれた『両京俚言考』という、
一種の方言辞典のようなものから引かれた
次の例が載っている。

「いけいけ
 計算上に双方差引過不足なく
 取り遣り無きをいふは是も双方往け往けといふ義ならん」


「3.」の用例は挙がっていないが、
おそらくこれこそ「いけいけギャル」の「いけいけ」であろう。

どれもこれも積極的に
「行く」の命令形であるといわなければならない根拠は
ないように思う。

特に「2.」に関しては、
「受け渡しや損益の差し引きがゼロである」のであるから、
「双方が『いけている』状態なのである」。
「いける」の連用形を重ねて「いけいけ」であると考えるのが
最も妥当であろう。

また、「3.」についても、
まさか「いけいけギャル」が「行け! ギャル」という意味だとは思えない。
「いけいけギャル」は「いけるギャル」(もしくは「いけてるギャル」)という意味である。

ちなみに、この項目の末尾に
日本各地で採集された「いけいけ」という方言例が掲載されているが、
これも、

①やりっぱなし。(高知県)
②行きあたりばったりで計画性のないこと。(徳島県)
③あり合わせのもので間に合わせること(奈良県宇陀郡)
④共通にして間に合わせること(奈良県)
⑤隣家などの境界に何の設備もなく行ったり来たりできること。(大阪市)
⑥勘定が差し引きなしになること。相殺。(大阪市・奈良県北葛城郡)


とあるだけである。

「やりっぱなし」や「行きあたりばったりで計画性のないこと」を
「行け!」 という言葉で説明するのは苦しいと思う。
無論、「いける」という言葉でも説明しにくいが、
「いける」だと考えると「命令形が名詞になる」という
日本語としてかなり例外的な語義説明をする必要がなくなるのだから、
よほどの理由がない限り、「いける」説をとるべきだろう。
(むろん、「いけいけ」最古の用例である『歌舞伎・桑名屋徳蔵入船物語』が書かれた1770年には
 すでに一段活用動詞「いける」が存在したことは、
 この辞典の「いける」の項目で確認できる)。

そして何より、③・④の
「あり合わせのもので間に合わせること」・「共通にして間に合わせること」とは
まさしく「それでも『いける』」ことであり、
⑤の「行ったり来たりできること」もまさしく「いける」ことである。
⑥も「勘定が差し引きなしにな」ったのだから、「いけた」のである。

以上の理由から僕は、
「いけいけギャル」の「いけいけ」を
「動詞『いく(行)』の命令形を重ねた語」とした『日本国語大辞典』の記述は
誤りであると考える。

『日本国語大辞典』は次回の改定の際にはぜひ、
「いけいけ」の項目に「動詞『いける』の連用形を重ねた語」と書き改めていただきたい。

〔注1〕「動詞の連用形」とは、
その動詞を「~ます」に続くように変化させたときの形である。
「動く」なら「動きます」になるので連用形は「動き」。
「泳ぐ」なら「泳ぎます」になるので連用形は「泳ぎ」。
このように日本語では、
動詞を名詞化するときは通常その動詞の連用形を用いる。

「『歩け歩け運動』 動詞は2回続ければ名詞化する?」へ続く→
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by imadegawatuusin | 2005-01-18 18:04 | 日本語論

1.文法は絶対の規範ではない。だが、考慮すべき目安ではある
1月13日の記事の中で紹介した
鈴木克義さんの「振り込め詐欺/名称に違和感」に対する反論が、
1月16日『朝日新聞』朝刊の投書欄に掲載された。
弁護士・江頭節子さんの「振り込め詐欺/妥当な名称だ」である。

江頭さんはまず、次のように言う。

「振り込め詐欺」という名称は
文法的に誤りだから反対だという投稿(11日)を読んだ。
その文法の分析には「なるほど」と思うものがあった。
しかし、文法には例外がつきものであるのが言語の特性である。


「文法には例外がつきもの」という江頭さんの指摘には、
原則的には同意する。
文法は決して絶対的なものではなく、
自分の意思をより多くの人に円滑に伝えようとするときや、
その言葉を習得しようとするときなどに参考にするべき
目安の一つに過ぎないと思う。

ただし、「文法的に誤」った言葉の使い方は、
たとえ通じたとしても、
聞き手や読み手に負担を強いる。
また、日本語を読んだり聞いたり、
あるいは書いたり話したりする必要があるのは、
いまや必ずしも日本語を母語とする人だけではない。
日本で暮らす外国人もいれば、
日本語の情報にアクセスして情報を入手しようとする
海外の学者やジャーナリストもいるだろう。
そうした、
何らかの理由で日本語を「外国語」として学んでいる人々にとって、
あまり「文法の例外」が多いことは好ましいこととは言えないだろう。

以上の理由から僕は、
(「仲間内」だけの閉ざされた世界での会話ならともかく)、
役所やマスメディアなどの「公の場」で使われる言葉は、
現代日本語の標準的な文法に
即したものであることが望ましいと思う。
まして、
「公の場」で用いられる新しい言葉を考えようとする際に
わざわざ「文法的な例外」を作り出そうというのであれば、
そこには「よほどの必然性」が存在しなければならないだろう。


2.「振り込め」詐欺の本質は「なりすまし」である
江頭さんは「振り込め詐欺」という名称を用いるべき理由を
次のように説明する。

名称の適否は
「詐欺の電話を受けた人に、
 それが詐欺だと気づかせられるかどうか」を
第一に考えるべきだと思う。
 
この点「オレオレ詐欺」は
犯人が「オレオレ」と言わない場合は無力である。
「なりすまし詐欺」も、
まさになりすましであることに被害者が思い至らないのだから
役にたたない。

犯人側が電話をする目的は
金を振り込ませることにあるのだから、
「振り込め詐欺」という名称は
わかりやすくて効果が期待できる
妥当な名称だと思われる。


江頭さんは、
「犯人側が電話をする目的は
 金を振り込ませることにある」としているが、
これは必ずしも正しくない。
犯人が電話をする目的は
「金を騙し取る」ことなのであり、
「金を振り込ませる」のはその手段でしかないわけだ〔注1〕。

事実、銀行や郵便局の口座への振り込みではなく、
宅配便や私書箱を利用した「振り込め詐欺」もあることが
新聞などで報道されている(読売新聞12月15日夕刊)。
ちなみに『読売新聞』では、
この事件が「振り込め詐欺」という名称で報道されていたのである!
口座への「振り込ませ」という行為がどこにも介在しないこの事件にまで
「振り込め詐欺」という名称が用いられていたという事実は、
「その種の詐欺」の本質が
「金を振り込ませる」という部分にはなかったのだということを
明らかにしている。

一体、「その種の詐欺」を「その種の詐欺」たらしめているのは
一体何なのだろう。
江頭さんの言うように、
犯人が「オレオレ」と言わない「オレオレ詐欺」が存在する。
また、僕が先ほど指摘したように、
「現金を振り込ませる」という行為の介在しない
「振り込め詐欺」も存在する。
しかし、これらの事件は、
たとえ犯人が「オレオレ」などと言わなくても、
あるいは銀行や郵便局の口座に金を「振り込」ませたりはしなくても、
犯人が何者かになりすまして金品を騙し取るという一点では
すべて共通していたのである。

「その種の詐欺」を「その種の詐欺」たらしめているのは
まさに「なりすまし」だったのだ。
「なりすまし」こそ、
「オレオレ詐欺」・「振り込め詐欺」の本質だったのである。

大体、「お金を振り込ませる」という行為は、
それ自体は実に日常的な、
どこにでもある行為である。
NHKは受信料を「振り込ませ」ようとするし、
水道局は水道料金を「振り込ませ」ようとする。
大家は家賃を「振り込ませ」ようとするだろうし、
都会に出ている家族に仕送りをしようと
お金を銀行や郵便局の口座に振り込むことも、
それ自体としてはごくごく自然な行為のはずだ。

だが、NHKも水道局も、
言うまでもなく都会に出ている家族も、
誰かになりすまして金を騙し取ったりはしないのだ。
僕たちが警戒しなければならないのは「振り込ませ」自体ではなく、
「なりすまし」なのである。

江頭さんは「なりすまし詐欺」という名称について、
「まさになりすましであることに被害者が思い至らないのだから
 役にたたない」と述べている。
だが、
「なりすまし詐欺」という名称とその実態が世間に流布することによってこそ、
誰かから金品を送るように頼まれたとき、
「もしや、これが世にいう『なりすまし詐欺』では」と
「被害者」に「思い至ら」せる効果が期待できる。
重ねて言うが、僕たちが警戒しなければならないのは
「振り込ませ」ではなく「なりすまし」なのである。

また、13日の記事にも書いたが、
「振り込め詐欺」という名称は、
「高圧的で命令調の犯人像を想像させ」がちであり、
むしろ猫なで声で金品をせびるような場合も多い
「その種の詐欺」の実態と乖離している。

以上の理由で僕は、
「その種の詐欺」の名称は、
広島県警の考案した「なりすまし詐欺」が最善であると考える。

だが江頭さんは投書の最後で、
次のような提案もしている。

あくまで「文法的に正しく」というのであれば
「振り込ませ詐欺」となるだろうか。


江頭さんの言うとおり、
「振り込ませ詐欺」なら「文法的に正しく」、
また「高圧的で命令調の犯人像を想像させ」るという欠点も払拭される。
すでに
「振り込め詐欺」という名称が
マスコミなどを通じて一般化しつつあるという実態と
その言葉との連続性とを考えるなら、
これも確かに一考に値する「妥協案」ではあるだろう。

〔注1〕大体、「金を振り込ませる」という面だけを取り上げるなら、
「オレオレ詐欺」でもなんでもない「ごく普通の詐欺」においても
犯人が被害者に金を振り込ませることはあるはずだ。
「金を振り込ませる」ことはやはり、
「オレオレ詐欺」の特質たりえないのである。
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by imadegawatuusin | 2005-01-16 17:42 | 日本語論

1.「いけいけギャル」も「連用形+名詞」である
1月13日の記事の中で僕は、
警察庁が新たに考案した「振り込め詐欺」(「オレオレ詐欺」の新語)という言葉は
現代日本語としては無理のある形であるという
短大教員・鈴木克義さんの意見を紹介した。

鈴木さんはこの中で次のように言っている。

通常「詐欺」などの名詞の前に置いて複合語を作る場合、
名詞または名詞化した動詞の連用形が使われる。
(中略)
「振り込め」はどう見ても動詞の命令形だ。
これを詐欺の前に置くのは、
言語学的に無理がある。


この文章を記事で引用した後、
「本当に『動詞の命令形+名詞』の形の複合語はないのか?」
と思い、いろいろと考えてみた。
そして、考えに考えた結果、
たった一つだけ見つけてしまったのだ。
それは、
「いけいけギャル」である。

「いけいけギャル」。
これはやはり、
動詞「行く」の命令形「行け」を2回重ねて
名詞「ギャル」にくっつけた複合名詞ではないだろうか……。

しかし、昨日になってようやく僕は、
この「いけいけギャル」という言葉も
「動詞の連用形+名詞」であると説明できることに気がついた。
「いけいけギャル」の「いけいけ」の「いけ」は、
五段活用動詞「行く」の命令形「行け」ではなく、
一段活用動詞「いける」の連用形「いけ」だったのだ!
(「いける」は「状態がよい」ことを表す動詞で、
 若者の間ではもっぱら「いけてる」の形で使われている。
 しかし年配の方々も、
 「この肴〔さかな〕はいける」などという形で使うことも多い)。

「いけいけギャル」は
「行け! ギャル」ではなく、
「いけるギャル」(もしくは「いけてるギャル」)のことだったのだ。

「いけいけギャル」という言葉は、
おそらく日本語文法のことなどはろくに知らない「最近のワカモン」が作り出したのであろう
俗語の一種だ。
その「いけいけギャル」のような言葉ですらも、
「名詞の前に置いて複合語を作る場合、
 名詞または名詞化した動詞の連用形が使われる」という日本語の法則には
忠実に従っていたのである。
動詞と名詞を組み合わせて複合名詞を作る際は
「連用形+名詞」の形にするという法則は、
現代日本語においてはそれほど自然なものなのだ。


2.「振り込め詐欺」はやはり「なりすまし詐欺」に!
警察庁が考案し、
マスコミが積極的に流布しようとしている「振り込め詐欺」という言葉は
現代日本語としては圧倒的に不自然であり、
少なからぬ人に違和感を与え続けている。
お役所やマスコミで使われる言葉は
老若男女あらゆる人々に向けて発せられる言葉であることを考えれば、
そのような言葉を突然もちいるのは適切ではないように思われる。

「振り込め詐欺」は、
やはり広島県警の考案した「なりすまし詐欺」という言葉に
言い換えるべきだ。

「小学館『日本国語大辞典』に異論あり!」へ続く→
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by imadegawatuusin | 2005-01-15 17:38 | 日本語論

文学賞の値うち

阿部和重さんの「グランド・フィナーレ」(『群像』12月号掲載)が
第132回芥川賞を受賞した。

芥川賞は本来、
「無名もしくは新進作家が対象となる」文学賞である。
しかし阿部さんは、
1994年に「アメリカの夜」(群像新人文学賞)でデビューして以来、
すでに10年以上経過している。
新聞各紙でも阿部さんは、
「『J文学』の旗手」(読売新聞1月14日)であり、
「90年代後半以降の文学シーンを代表する一人」(毎日新聞1月14日)であり、
「最後の大物」(朝日新聞1月14日)であったなどと評されている。
『毎日新聞』の記事によると阿部さん自身、
「新人に与えられる賞なので手放しで喜んでいられない」と述べているらしい。

『朝日新聞』によると、今回の芥川賞選考にあたっては、
「(村上春樹さん、島田雅彦さんに芥川賞を出せなかった)80年代の取りこぼしを
 繰り返してはならない」と話す選考委員もいたという。

さて、この選考委員のコメント、
よくよく考えてみるとちょっと奇妙な現象をあらわしている。
普通、文学賞とは、
その賞の権威や名声を、
ある作家、あるいはその作品に与えるものだと考えられている。
しかしこのコメントは、
今回の芥川賞の選考の過程で、
まったく逆のメカニズムが働いた可能性を示唆している。

阿部和重という作家の権威や名声を
芥川賞は逃すことができない、というメカニズムである。

文芸評論家・福田和也さんの
『作家の値うち』(飛鳥新社)という本があったけれども、
値うちの高い作家に文学賞を出せないと、
今度は文学賞の値うちのほうが下がってしまう。
「村上春樹」の件だって、
村上春樹に芥川賞をあげられなかったのは
芥川賞の恥かもしれないが、
芥川賞をもらえなかったことは
村上春樹の恥ではない。
「村上春樹にあげてないなんて、
 芥川賞も所詮その程度の文学賞だ」と言う人はいても、
「芥川賞ももらってないなんて、
 村上春樹も所詮その程度の作家だ」と言う人はどこにもいないのである。
例の選考委員の発言は、
こうした事態を踏まえたものだといえるだろう。

実は、こうした現象は世界中のどこにでもあって、
あの「ノーベル文学賞」ですら、
その権威を確立する過程ではそうだったという。
作家で精神科医の・なだいなださんは、
『権威と権力』(岩波新書)の中で次のように書いている。

(筆者注:ノーベル賞の権威というのは、)えらばれた人たちにあるのです。
たとえば、文学でいえば、
ジイドやカミュやヘミングウェーがえらばれていることで、
それが賞に権威を与えているのです。
彼らに賞を与えることで、
賞の価値が高められるのです。
ヘミングウェーがもらうような賞という形でね。
(中略)
しかし、いつの間にか、
賞そのものに権威があるかのように、
賞を与える選考委員に権威があるように思われるのです。
(中略)
そして、いつの間にか、
人間は賞をもらうことをのぞみ、
賞にえらばれることを名誉に思いはじめるのですよ。
(中略)
皮肉ないい方をすれば、
ノーベル賞は、あの多額な賞金で、
受賞者の持つ権威を買って来たことになります。(134~135ページ)


「ノーベル賞は、あの多額な賞金で、
 受賞者の持つ権威を買って来たことになります。」
とは、ずいぶんと辛らつな言葉に聞こえるかもしれないが、
実際にそうだったのだろうと僕は思う。

そういえば、僕の好きな歌人・枡野浩一さんの短歌に
こんな作品があったことをふと思い出した。

●ほめているあなたのほうがほめられている私よりえらいのかしら
 (筑摩書房『かんたん短歌の作り方』186ページに収録)

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by imadegawatuusin | 2005-01-14 17:28 | 文芸

『朝日新聞』1月11日朝刊の投書欄に、
短大教員・鈴木克義さんの
「振り込め詐欺/名称に違和感」という投書が載っていた。
ちょっと紹介してみよう。

鈴木さんはまず、次のように言う。

「オレオレ詐欺」が警察庁によって
「振り込め詐欺」に名称が変更になったというニュースを聞いて、
「まさか定着するはずがない」とタカをくくっていたのだが、
各メディアが一斉に使い始めたのを見て、
一言異議を申し立てたい。


僕も最初、
テレビのニュースで「フリコメサギ」という言葉が出てきたときには、
何のことなのかさっぱり訳がわからなかった〔注1〕。

その後 新聞で「振り込め詐欺」と表記してある記事を見て、ようやく
これが「オレオレ詐欺」の新名称で、
「振り込む」という動詞の命令形「振り込め」に
「詐欺」という言葉をくっつけた新名詞であることに気がついたのだ。
(いや、正直に言うと、
 ここに至ってもなお 僕は最初は気づかなかった。
 しばらく記事を読んでいくうちに、
 そうか! 「振り込め!」+「詐欺」か!
 と、ようやく思い至ったという次第である)。

とはいえ、耳にするたび、目にするたびに、
「どうも変な感じだ」という印象は増すばかりである。

どうやら、そう思っていたのは僕だけではなかったらしい。
鈴木さんもまた、次のように書いている。

「振り込め詐欺」という名称に違和感を感じる人は多いと思うが、
それには理由がある。
 
通常「詐欺」などの名詞の前に置いて複合語を作る場合、
名詞または名詞化した動詞の連用形が使われる。
例としては結婚詐欺、保険金詐欺、取り込み詐欺などがある。

「オレオレ」はかろうじて名詞と見ることもできるが、
「振り込め」はどう見ても動詞の命令形だ。
これを詐欺の前に置くのは、
言語学的に無理がある。


もちろん、言うまでもないことではあるが、
永遠不滅の「正しい日本語」なるものが
どこかに確固として存在すると考えるのは幻想である。
過去・現在・未来を通して、
日本語は常に変化してきたし、変化しているし、
これからも変化し続けるであろうと僕は考えている。
したがって僕は、
「大体近ごろの若いもんは……、
 言葉の乱れがどうたらこうたら……」
というような類の話には本当はあまり興味がない。

しかし、この「振り込め詐欺」という造語については、
それとは全く話が違う。

少なくとも僕は、現代日本の共通語においては、
老若男女を問わず、
名詞の前に動詞を置いて複合語を作る場合は
ほとんどの場合、動詞の連用形〔注2〕を名詞化したものを用いていると認識している。
動詞の命令形と名詞との組み合わせで複合語ができるなどという「変化」・「動き」が
「若者」あるいは「特定の人々」の間ですら
広まりつつある、というようには見えないのである〔注3〕。

というより、話は全く「逆」なのだ。
「振り込め詐欺」なる、
現代共通語の標準的な文法(=大半の日本人が共通語を使う際になんとなく認めている言語規則)に
明らかに反する作られ方をしたこの奇妙な複合名詞を使うように呼びかけたのは、
「近ごろの若いもん」でもなければ「一般の民衆」でもなく、
天下の警察庁だったのである。
人々の間では、すでに「オレオレ詐欺」という、
広く親しまれた名称が存在していたにもかかわらず、だ。

もちろんその背景には、
「オレオレ詐欺」という言葉が
ある種の混乱を引き起こしていたという実態があることを
無視することはできない。
最近のいわゆる「オレオレ詐欺」においては、
必ずしも電話の冒頭で「オレオレ」などと
わかりやすく語り始めてくれるわけではないそうなのだ。
「おう、お前か。実はなぁ……」
と始めるパターンもあるだろうし、
女の声で
「あっ、おばあちゃん?
 実はねぇ、ワタシ……」
と始めるパターンもあるだろう。
「オレオレ詐欺」という言葉だけが一人歩きすると、
こうしたちょっとパターンを変えただけの「オレオレ詐欺」が、
「オレオレ詐欺」であるとは認識されなくなってしまう危険があるのだ。

とはいえ、
「振り込め詐欺」というのも五十歩百歩ではないかとも思うのだ。
「オレオレ詐欺」ないし「振り込め詐欺」はその性質上、
どちらかというと猫なで声で被害者に
金をせびるようなものが多いと聞いている。
ところが「振り込め詐欺」という言葉は高圧的で命令調の犯人像を想像させ、
これまた実態とかけ離れてしまう危険性がある。
(「○○の口座に金を振り込め。
  さもないと……」などというのは、
 「恐喝」ではあっても「詐欺」ではない)。

鈴木さんは次のように言う。

広島県警が考案したという「なりすまし詐欺」ではいけなかったのだろうか。


広島県警が「なりすまし詐欺」という言葉を考案していたということを
僕は全く知らなかった。
しかし、これは実にすばらしいネーミングだと思う。

そうなのだ。
「オレオレ詐欺」ないし「振り込め詐欺」の本質は、
犯人が会話の冒頭で「オレオレ」などと言うことでもなければ、
被害者に金を「振り込め」などと命令するということでもない。
犯人が何者かに「なりすまし」、
被害者の好意や善意を逆手に取って金を騙し取るという、
まさにその手口にこそあるわけだ。

「言葉は常に変化する」と僕は言った。
しかしそれは、
決して「どんな言葉を作り出しても大丈夫」という意味ではない。
それぞれの言語にはそれぞれの言語の構造というものがあり、
それに反する用法を突如として国家が喧伝しても、
人と人とのまっとうなコミュニケーションを
阻害する作用しか果たしえない。
(例えば、ある日 突然「ん」で始まる名詞や動詞が作られて、
 「今日からこれを使いましょう」と言われても困るだろう〔注4〕。
 「意味がわからない」ということはないにしても、だ。
 言語の変化は、
 国家の呼びかけに基づいた、
 マスコミを通じての大量宣伝によってではなく、
 人々の間での使用と淘汰を繰り返されながら
 少しづつ行なわれるものであってほしいと僕は思う)。

「ら抜き言葉」ほどの市民権すら得ていない
「動詞の命令形+名詞」などという形の複合名詞の使用を、
国家機関である警察庁が自ら呼びかけるというのは不可解だ。
国家機関は、「全国民に向けて言葉を発する存在」なのであり、
国民の間であまり一般的とは言い難い言葉の使用法を
安易に用いるべきではない。

僕は、鈴木克義さんの投書の趣旨に賛同し、
「オレオレ詐欺」は「振り込め詐欺」ではなく、
「なりすまし詐欺」と言い換えることを提唱する。

〔注1〕「フリコメサギ」。
なにやら「詐欺事件の一種」であることは間違いなさそうなので、
よくわからないが「フリコメル」という動詞があって、
その「フリコメル」動作に関係する詐欺事件なのだろう……、
と思っていた。

〔注2〕「動詞の連用形」とは、
その動詞を変化させて「~ます」に接続するかたちにしたもの。
たとえば「振り込む」という動詞は、
「~ます」に続けると「振り込みます」になるので、
連用形は「振り込み」。
「笑う」なら「笑います」になるので連用形は「笑い」。
「飽きる」なら「飽きます」になるので連用形は「飽き」……。
以上を見ればわかるとおり、
日本語では動詞を名詞化するときは通常連用形を用いる。

〔注3〕「それゆけ! アンパンマン」はアニメの題名だから複合名詞だ、
と取ることもできるかもしれないが、
これはやはり「それゆけ!」という動詞の命令形と
「アンパンマン」という「呼びかけられる対象」によって成立した文章を、
そのままアニメの題名にしたと とるべきだろう。

〔注4〕もちろんこれは、
日本語として考えにくいパターンであるといっているだけで、
外国語には「ン」で始まる名詞・動詞もあるだろう。
アフリカ大陸中部にあるチャド共和国の首都は
「ンジャメナ」というのだそうだ。

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《参考お薦め文献》
黒田龍之介『はじめての言語学』講談社現代新書
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by imadegawatuusin | 2005-01-13 17:03 | 日本語論