「ほっ」と。キャンペーン

――同性愛者への視線 揶揄から理解・共感へ――

■作者自身の成長が見える作品 
先日、
筒井旭さんの『CHERRY』を読んで非常に面白かったので、
同じ作者の別の作品に手を広げてみることにした。
そこで今日読んだのが、
筒井旭『汝なやむことなかれ』全5巻(集英社マーガレットコミックス)である。

舞台はカトリック系のミッションスクール〔注1〕。
ところどころに配される聖書からの引用〔注2〕が
なかなかうまく効いている。
5巻巻末に収録されている中篇・「たまたまってやつ?」も含めて、
著者・筒井旭さんの実力の高さを感じさせる作品だ。

しかし、「5巻」という巻数は
以外に「長い」ものだと実感した。
この5巻という巻数の中に、
僕は作者・筒井旭さん自身の成長を見た気がする。

まず、
この物語の序盤と終盤とでは、
絵の巧さがまったく違う。
そして、
物語序盤では同性愛者に対して
しばしば揶揄的・差別的な表現が目立つのだが、
物語終盤では、
同性愛を茶化したり嫌悪したりすることなく、
これときちんと向き合って理解・共感を深めていこうという
真摯な姿勢を見ることができる。

世間には、いまだに
同性愛者への差別・偏見が根強く存在する。
僕たち異性愛者が同性愛者をつい差別してしまうことだけでなく、
同性愛者自身が自分の性的指向を受け入れられず、
悩み、苦しみ、
時には命を落としてしまうこともある。

この作品でも序盤では、
むしろそうした差別・偏見を助長しかねない表現が
見られないわけではない。
だが、
終盤になってその「汝なやむことなかれ」という表題が
いよいよ本物となって輝き出すのである。
この作品は終盤に至って、
自分自身の性的指向を受け入れられずに苦しんできた同性愛者に、
まさに「汝なやむことなかれ」というメッセージを伝える
福音の書となってゆくのだ。

だから、
この作品を読む人はぜひ、
例えば1巻だけを読んですべてを判断しようとせずに、
とりあえず5巻の最後まで読みとおしてほしい。
あるところまで来ると読むのをやめられなくなってしまい、
気がつけば一気に読み上げてしまっている。
そんな自分に気付くことになるかもしれない。

〔注1〕どうでもいいことだが、
どうして少女漫画や少女小説に登場する「ミッションスクール」は
いつもカトリックなのだろう。
『少年舞妓・千代菊がゆく!』(奈波はるか)の聖ジョージ学院も、
『マリア様がみてる』(今野緒雪)の私立リリアン女学園も、
みんな宗旨はカトリックである。
日本にはプロテスタント系の私立中学や高校も
いっぱい存在するというのに。
もしかしたら、
「マリア様にお祈りする少女」の図が
少女漫画・少女小説の伝統と強固に癒着してしまい、
マリア崇拝を禁じるプロテスタント系の信仰は
「少女漫画・少女小説に似合わない」と考えられてしまったのかもしれない。
プロテスタントが一般にマリア様を拝まないのは、
「神ならぬ人を拝んではならない」、
「ただ一つの神のみを崇めよ」という聖書の教えに
キリスト教徒として忠実であろうという、
プロテスタントなりの信念に基づくものなのだ。
そのあたりはぜひとも理解しておきたい。

〔注2〕この作品も例外でないが、
漫画や小説などに聖書の語句が引用されるときには、
大正時代の翻訳である『文語訳聖書』が用いられることが多い。
「汝……するなかれ」というような、
極端に昔風の言葉づかいの聖書である。
しかし現在、
キリスト教業界の現場では
ほとんどこの『文語訳聖書』は用いられていない。
現在各地の教会で使用されている聖書は、
カトリックとプロテスタントが共同で翻訳した
『新共同訳聖書』など、
「今の日本語」に翻訳されたものが主流である。

参考お勧め記事
「筒井旭『CHERRY』について」

《同性愛について知りたい人のためのおすすめブックガイド》
[初級編]
伊藤悟『同性愛がわかる本』明石書店
[中級編]
伏見憲明『〈性〉のミステリー』
[上級編]
キース=ヴィンセント・風間孝・河口和也『ゲイ・スタディーズ』青土社


【本日の読了】
筒井旭『汝なやむことなかれ』全5巻 集英社マーガレットコミックス(評価:4)
筒井旭『ナガシマをあげる』集英社マーガレットコミックス(評価:2)

[PR]
by imadegawatuusin | 2005-11-21 04:29 | 漫画・アニメ

■当たり前のことを当たり前に 
儒教の祖・孔子の言行を記した『論語』に、

(奇跡のようなことを行わないでも)
最も近いところで、説明のできることをするのが、
仁者のやり方というものだ。(『論語』通番147章)


とある。
また、

仁の道は遠くにある理想ではない。
いま自分が仁を行おうと思えば、
仁はすぐそこにあるのだ。(『論語』通番176章)


とも言っている。
今この場から、
当たり前のことを当たり前に行なっていくことが
大切だということであろう。

実際、
『論語』の「公治長篇」で、
孔子の弟子の子貢が、

先生の生活の哲学は、
これまでいつも教えを受けてきたが、
先生の性命論と宇宙論とは、
ついぞ伺ったことがない。(『論語』通番104章)


と証言しているし、
また『論語』の「述而篇」には、

孔子は
怪奇、暴力、背徳、神秘なことを話題にしなかった。(『論語』通番167章)


とある。

孔子の教えはあくまで、
「この現実」を重視する実際的なものであった。
これは、
のちの儒者(特に朱子の一派の学者)たちが、
孔子の名を語りながら怪しげな「性命論」や「宇宙論」
(福沢諭吉の言うところの「腐儒の腐説」・「陰陽五行説の妄誕」)を
展開したのとは対照的な態度である。

※翻訳には『現代語訳論語』宮崎市定訳(岩波現代文庫)を使用した。
[PR]
by imadegawatuusin | 2005-11-20 17:27 | 儒教

■「純情ラブコメ」の仮面の裏にミステリー 
筒井旭『CHERRY』(集英社マーガレットコミックス)の裏表紙には、
次のような紹介文が載っている。

主人公・詩(♂)はオタク。
意識不明の重態になった双子の妹の代わりに
告白することに!?
しかも、
女に間違われ男とつきあうハメに!
純情なオタクが繰り広げるラブコメディ。


しかし、この紹介文が曲者なのだ。
だまされてはいけない。
この作品は「純情ラブコメ」の仮面をかぶった
ミステリー作品である。
僕はすっかりだまされてしまったが……。

一見本筋とは関係なさそうなエピソードが、
意外な形で伏線となって終盤で生きるその手法は
「お見事!」としか言いようがない。
僕の好きな推理小説家・法月綸太郎さんの
『二の悲劇』(祥伝社文庫)という作品で
同じようなトリックが使われていたことがあったが、
まさか『マーガレット』に掲載された純然たる少女漫画を読んでいて、
こんな大技をくらわされるとは思わなかった。
最後の最後に物語の構図そのものをひっくり返す
どんでん返しが待っている、
とだけ予告しておこう〔注1〕。

美女装漫画としてもかなりのレベルに達している。
短いけれど、読んだあと、
心がほっと温かくなり、
誰かにやさしくなれる気がする……。
『CHERRY』(チェリー)は そんな作品である。

〔注1〕この「どんでん返し」は、
もちろん最初からきちんと計算されたものである。
184ページを丁寧に読めば、
そのことがよくわかるだろう。
この作品を読み終わったらもう一度、
184ページを参考に、
26ページの「奏の手帳」、
そして、
48~51および58~59ページの
「国分先輩の反応」をじっくり読み返してほしい。
この作品の構造が良く理解できるはずである。
(中には事態がよく飲み込めないまま
 読了する人もいるようなので)。

参考お勧め記事
「筒井旭『汝なやむことなかれ』について」

「マンガ・アニメに女装少年」 『朝日新聞』が報道


酒井徹お薦めの女装漫画》
1.やぶうち優『少女少年』シリーズ(Ⅰ~Ⅶ)、小学館てんとう虫コミックススペシャル
2.吉住渉『ミントな僕ら』全6巻、集英社リボンマスコットコミックス
3.志村貴子『放浪息子』エンターブレイン
4.なるもみずほ『少年ヴィーナス』全4巻、角川書店あすかコミックス
5.松本トモキ『プラナス・ガール』ガンガンコミックスJOKER

女装漫画に関する関連記事
「マンガ・アニメに女装少年」 『朝日新聞』が報道
やぶうち優『少女少年』第一期解説
やぶうち優『少女少年II―KAZUKI―』解説
『アイドルマスター Neue Green』(黒瀬浩介)について
片山こずえ『女のコで正解!』について
篠塚ひろむ『ちぇんじ!』について
林みかせ『君とひみつの花園』について
富所和子『ないしょのココナッツ』について
水内繭子『恋する子どもたち』について
『かしまし』漫画版について

【本日の読了】
筒井旭『CHERRY』集英社マーガレットコミックス(評価:4)
書評は上記。



..... Ads by Excite 広告 .....
[PR]
by imadegawatuusin | 2005-11-19 04:27 | 漫画・アニメ

――孔子でも できなかった――

「一を聞いて十を知る」〔注1〕ということわざは
『論語』の「公治長篇」8章(『論語』通番100章)から出たものだが、
この中で孔子は、
『自分にもそれはできない』と告白している。
そんなことができるのは、
数いる弟子の中でも
顔回というものだけだ、と。

中島敦の作品・「弟子」にもある通り、
「孔子に在るものは、
 決してそんな怪物めいた異常さではな」く、
「ただ最も常識的な完成に過ぎないのである」。

〔注1〕「一を聞いて十を知る」とは、
少しのことを聞いただけで ものごと全体を理解する
察しのよさをたとえたことわざ。
[PR]
by imadegawatuusin | 2005-11-18 17:26

■今の生活の裏にある、先人たちの尊い犠牲 
今日の「朝日新聞」夕刊で作家の陳舜臣さんが、
『論語』第10篇の「郷党篇」について語っていた。
この「郷党篇」は「子曰く」で始まる文章が一つもなく、
衣食住や公私の生活・礼儀について述べられたものである。

この中で陳さんは、

色の悪しきは食(くら)わず、
臭いの悪しきは食わず。(『論語』243、「郷党篇」8)


つまり
「色の変わったものは食わぬ。
 臭いの悪くなったものは食わぬ」(宮崎市定訳『現代語訳 論語』岩波現代文庫)
という「郷党篇」の文句に、

あたりまえだ


と短く一言
突っ込みを入れている。

確かに、
食べ物が豊富な現代では、
だれも すき好んで
「色の変わったもの」や「臭いの悪くなったもの」を
食べようなどとは思わない。
しかし、
飢えと貧困の時代、
人間は ひもじいと
ついつい何でも口にしてしまったのではないだろうか〔注1〕。

孔子は、
どうしても飢え死にしそうなほどの限界の状況でもない限り、
そこでグッと我慢しろと言いたかったのだと思う。
さもなければ、
一時の空腹は満たせても、
結局かえって命を落とすことになってしまうぞ、と。

〔注1〕「納豆」とか
「カマンベールチーズ」などという食べ物が今の世に存在するのは、
おそらくついつい「色の悪しき」・「臭いの悪しき」に
手を出してしまった貧しい人民の功績であろう。
そしてその輝かしい「功績」の裏には、
「色の悪しき」・「臭いの悪しき」にあたって腹を下し、
死んでいった幾多の犠牲があったのだろう。
こうした先人たちの尊い犠牲の上に
今の僕たちの生活がある。
[PR]
by imadegawatuusin | 2005-11-08 17:21 | 儒教

――イ=スホ委員長は辞職拒否――

■事務総局の常勤活動家ら 執行部総辞職を要求
――集団辞職騒動に――
韓国第二の労働組合全国中央組織である民主労総で、
最高幹部の一人が背任収賄容疑で逮捕される事件が起きている。
逮捕されたのは民主労総 主席副委員長の
カン=スンギュ氏である。
カン氏は民主労総 主席副委員長の地位を悪用して、
使用者側に金銭を要求。
受け取った金を
義父の借金の返済や積立金への加入など、
個人的な用途に流用していたとされる。

事態を受けて当初、
民主労総のイ=スホ委員長は辞任の方向を示唆していたが、
「闘争と組織革新」を行なう責任があるなどとして
委員長の職に留まった。
これに対して民主労総の事務総局に勤める
常勤活動家13人が反発。
現執行部の総辞職を求め、
集団辞職する騒動にまで発展した。

集団辞職にあたり活動家らは、
改めて現執行部の総辞職を促す声明を発表。
「われわれは……
 民主労組運動の大義と伝統を破壊する『非常識』の隊列に、
 断じてともにいることはできません。

 ……原則の崩壊する状況に順応するよりは、
 あえて組織をよみがえらせる1粒の麦になろうと思います」
と述べている。

彼らの行動の是非はさておき、
興味深いのは声明の中にある「1粒の麦」という言葉である。
この言葉は明らかに、
新約聖書の

一粒の麦は、
地に落ちて死ななければ、
一粒のままである。
だが、死ねば、多くの実を結ぶ。(『新共同訳聖書』「ヨハネによる福音書」12章24節)


という一節を踏まえたものである。

日本ではよく、
「欧米の美術や芸術作品を理解するには
 聖書の知識が不可欠だ」
というようなことが言われる。
しかし、
お隣の国・韓国もまた、
僕たち日本人が思う以上にキリスト教の影響が強いのだ。
(前大統領の金大中氏もキリスト教徒である。)

聖書を知らなければ、
この「1粒の麦」という言葉に込められた献身性、
「労働者の命」とも言うべき「自らの職」を投げ打ってでも
組織の再生を願うという彼らの思いを
理解することは難しいだろう。

《参考文献》
「カン・スンギュ不正事件と民主労組運動の危機」(『週刊かけはし』11月7日)

〔続報!〕
民主労総執行部 10月20日に総辞職
韓国第二の労働組合全国中央組織・民主労総の執行部(イ=スホ委員長)は、
カン=スンギュ副委員長の不正事件を受けて、
10月20日、
ついに総辞職に追い込まれた。
「社会的交渉路線」を進めてきた イ執行部の退陣を受け、
韓国の日刊紙・「朝鮮日報」は、
「民主労総の主導権は今後、
 左派勢力が握ることになる見込みだ」との観測を伝えた。
[PR]
by imadegawatuusin | 2005-11-07 04:34 | 労働運動

『般若心経』を日本語で

うちの家では昔、
僕の祖母が朝、
仏壇に向かって『般若心経』を唱えているということがあった。

「ブッセツマーカーハンニャーハーラーミーター」
とやるのだが、
それがどういう意味なのかは
さっぱりわかっていなかった。
おそらく、祖母自身、
ほとんどわかっていなかったのではないだろうか。

意味のわからないお経を、
呪文のように唱えることに、
一体どんな意味があるのだろう。

「お経を読めばご利益がある」とか
「功徳になる」とかいうのは
実に馬鹿らしい神秘主義のきわみであって、
仏教の始祖である釈迦自身、
自分の説いた教えがそんな風に「呪文」と化してしまうのは
望んでいなかったはずだと僕は思う。

ありがたいお経は、
死んでから聞いても意味がない。
生きているうちに、
生きている人間がわかる言葉で読まなければ仕方がないと思うのだ。

以下は、
僕にとってもっとも身近なお経である『般若心経』の、
僕なりの解釈とでもいうべきものだ。
毎朝『般若心経』を唱えているという方は、
明日からはぜひ、
訳のわからない古代中国語でではなく、
こちらのバージョンで唱えてほしい。


■お釈迦さまの説かれた偉大な般若波羅蜜多心経
「観音菩薩は、
 深遠な智慧を完全に掌握したとき、
 物理的な現象や精神の作用は
 すべて相互の関係によって成り立っていると見抜かれて、
 一切の苦悩を超越された。

 舎利子よ。
 物理的な現象は相互の関係によって成り立っており、
 相互の関係こそがまさに物理的な現象なのだ。
 物理的な現象はすなわち相互の関係であり、
 相互の関係とはすなわち物理的な現象である。
 私たちの精神の作用もまた、
 このように相互の関係によって成り立っているという点において、
 何の違いもないといえる。

 舎利子よ。
 この世のあらゆる法則も、
 すべて相互の関係によって成り立っている。
 すべての存在は根源的には相互の関係によって成り立っており、
 それ単独で生じたり滅したりするものではなく、
 またそれ単独で善いものであったり悪いものであったりすることはない。
 それ単独で増えたり減ったりするものでもないのである。
 
 もちろん、
 『相互の関係』というものそのものは、
 物理的な存在でもなければ精神の作用でもなく、
 感覚や意識で直接感じ取れるものではない。
 『相互の関係』というものそのものは、
 かたちもなく、音もなく、
 香りも味もなければ感触もなく、
 あるいは感性で捉えられるものでもない。
 目の領域から意識の領域に至っても、
 これを直接捉えることはできないのである。

 『心の迷い』というものも、
 決してそれ単独で存在するというわけではない。
 だがそれは、
 『心の迷い』が存在しないということは意味しない。
 『老い』や『死』も、
 それ単独で存在するというわけではないが、
 だからといって
 『老い』や『死』というものがなくなるというわけでもない。

 私が今までに説いた真理も、
 決して絶対的なものではないわけだ。
 大体、
 『知る』とか『得る』とかいったこと自体、
 関係の上でしか成り立ちえないことである。
 『得る』ということが絶対的なものではなく、
 そして求道者は深遠な智慧に依拠して生きているので、
 その者は心が束縛されるということがない。
 心が束縛されるということがないから
 何かを恐れることがなく、
 迷いの世界を離れてその境地を楽しむのである。

 過去・現在・未来の仏たちも、
 この深遠な智慧に依拠するからこそ、
 完全な悟りに達することができたのである。

 それゆえに、
 人々は次のように知るべきなのだ。
 深遠な智慧は、
 一切の苦悩を取り除く偽りのない真実であるがゆえに、
 神秘的で、明らかで、この上なく、比較しうるものがない
 真言であるといえる。
 その深遠な智慧の真言をここに説こう」

こうしてお釈迦様は、
その真言を次のように説かれた。



至った者よ、
至った者よ、
悟りの世界に至った者よ、
悟りの世界に完全に至った者よ、
悟りよ、
幸あれ。


と。

《参考サイト》
「白取春彦『仏教「超」入門』について」
[PR]
by imadegawatuusin | 2005-11-06 20:38 | 仏教

■「単ナル神話ト伝説」への逆戻り 
皇族の三笠宮寛仁(ともひと)親王が、
女系天皇容認に異議を唱える随筆を
発表した(「朝日新聞」「読売新聞」11月4日)。
これがなかなか「凄い」内容なのである。

寛仁親王はこの随筆の中で、
「二六六五年間の世界に類を見ない我が国固有の歴史と伝統」(!)を
「平成の御世(みよ)でいとも簡単に変更して良いのか」と問いかける。

そして、
「万世一系、一二五代の天子様の皇統」(!)が「貴重な理由」は、
「神話の時代の初代・神武天皇」(!)から
「連綿として一度の例外も無く、
 『男系』で今上陛下迄(まで)続いて来ているという厳然たる事実」(!)
にあるのだと言う。

そして最後に、
「国民一人一人が、
 我が国を形成する、
 『民草』の一員として、
 二六六五年の歴史と伝統」(!)に対し
「きちんと意見を持ち発言をして戴かなければ、
 日本国という、『国体』」(!)の
「変更に向かうことになりますし、
 いつの日か、
 『天皇』はいらないという議論に迄発展するでしょう」
として文章を締めくくるのである。

今どきここまで露骨に復古主義的な主張を目にすることも珍しい。
「二六六五年の歴史と伝統」(!!)に、
「国体」(!)に「神武天皇」(!!)に「天子様」(!!!)である。

先代の昭和天皇のいわゆる「人間宣言」にすら、

朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、
終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、
単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。


つまり、
「天皇と国民との間の絆は、
 お互いの信頼と敬愛とによって結ばれているのであって、
 単なる神話と伝説とによって生じるものではない」
と明記されているのである。
少なくとも僕は、
現代の皇室制度とは
こうした理念の下に存在するのだと認識してきたのだが、
寛仁親王の主張はまさしく、
皇室制度の根拠を、
先代の昭和天皇が否定した「単ナル神話ト伝説ト」に
もう一度 置き直そうとするものに見える。
いくら何でも時代錯誤も甚だしいのではないか。

大体、今から「二六六五年」前と言えば、
歴史の教科書の年表には「縄文時代」と書かれている時代、
つまりは石器時代である。
現在の皇室につながる「大和朝廷」の記述が登場するまでには、
縄文時代の次の弥生時代の
そのまた次の大和時代まで待たなければならない。
「二六六五年の歴史と伝統」や「一二五代の天子様の皇統」などというものは、
まさしく「単ナル神話ト伝説」に過ぎないのである。
そのようなものを持ち出して、
「初代・神武天皇から
 連綿として一度の例外もなく、
 『男系』で今上陛下迄(まで)続いて来ているという厳然たる事実」
などと胸を張られては、
こちらとしては、
「皇族の中には、いまだにこういう考えの人間もいるんだ」と、
正直、驚くしかない。

■「Y1染色体」についての記述はあまりに粗雑 
――「生物学的に言うと」間違っている――
「読売新聞」によればこの随筆には、
最近一部で流行している(らしい)例の「八木理論」も登場する。
寛仁親王は随筆の中で、
「生物学的に言うと、
 高崎経済大学の八木秀次助教授の論文を借りれば、
 神武天皇のY1染色体が継続して
 現在の皇室全員に繋がっている」と言うのである。

「Y1染色体」とは男子が父親から受け継ぐ遺伝子である。
もっとも、
寛仁親王自身がこの理論をどの程度理解しているのかという点については、
「読売新聞」に掲載された随筆の要旨から察する限り、
かなり怪しいと言わざるを得ない。
少なくとも寛仁親王の言い分は、
「生物学的に言うと」間違っているし、
八木助教授の理論の正確な引用にもなっていない。

文の冒頭に
「高崎経済大学の八木秀次助教授の論文を借りれば」とある通り、
自らの意見を正当化するために、
内容をあまり吟味しないまま、
取りあえず「借り」てきただけではないかとすら思わせる。

先ほども書いたとおり、
「Y1染色体」とは『男子が』『父親から』受け継ぐ遺伝子なのである。
よって、
皇太子・徳仁親王とその妻・雅子皇太子妃との間に生まれた
敬宮愛子内親王は、
女性であるため「Y1染色体」を持っていない。
また、
皇室の外から嫁いできた女性である雅子皇太子妃もまた、
「Y1染色体」を持ってはいない。

寛仁親王は、
「神武天皇のY1染色体が継続して
 現在の皇室全員に繋がっている」と言う。
だが、
(神武天皇の実在性はさておくとしても)
敬宮愛子内親王は「現在の皇室全員」には含まれないと言うのだろうか。
雅子皇太子妃は「現在の皇室全員」には含まれていないと言うのだろうか。
いかに「随筆」であるとはいえ、
女性を家族の一員とは見なさないかのようなこの論理展開は
あまりに粗雑すぎはしないか。

■天皇は「遺伝学上の骨董品」か 
大体、
「神武天皇のY1染色体」云々という話自体が、
よくよく考えてみれば「それがどうした」という話でしかない。
「Y1染色体」などというものは、
人間の男性が持つ46個の遺伝子の中の1つでしかなく、
これのみを そうも神聖視するべき いわれは特にない。

同じ男系の先祖を持つ一族の男性同士が
同じ「Y1染色体」を持っているのは、
別に皇族に限った話ではないはずだ。
世の男性は誰でも、
その直系の男系の先祖の「Y1染色体」を
連綿と保持しているのである。

それとも、
(そもそもその実在すら疑わしい
 「石器時代の天皇」?である)神武天皇の「Y1染色体」とやらは、
例えば小泉首相やビートたけしや、
あるいは麻原彰晃や僕の持つ「Y1染色体」と比べて、
何か特別優れた特質を持っているのか。
世の男性ならだれでも持っている「Y1染色体」と比べて、
日本国の象徴たるにふさわしい何らかの特質を
備えているとでも言うのだろうか。
(念のために言っておくと、
 「神武天皇のY1染色体」は、
 妊娠した女性の腹を割いて胎児を見たり、
 人の生爪を抜いて山芋を彫らせたという あの武烈天皇も
 持っていた、とされる染色体のはずである。)

あるいは、
現在も「徳川家康の男系子孫」や「夏目漱石の男系子孫」は存続しているが、
そのY1染色体について云々されることはまったくない。
「神武天皇のY1染色体」とやらだけに、
「徳川家康のY1染色体」や「夏目漱石のY1染色体」と比べて、
特別に国家がこれを保護し、
永久にこの保持に努めるに値する、
歴史学上の、あるいは生物学上の意義を
どうすれば主張できるというのだろうか。
もしそのような、
人間男子の46個の染色体の1つでしかないこのY1染色体の由来によって
皇位の正当性が主張されるというのであれば、
天皇とは単なる「遺伝学上の骨董品」にすぎないことになってしまう。

少なくとも、
遺伝子の解析技術が飛躍的に進み、
「Y1染色体」などというものが知られるようになったのは、
歴史の中ではごく最近に属する出来事であり、
我が国の長い「歴史と伝統」の中で
このようなものに価値が置かれてきたことは、
過去に一度もなかったのだということは
はっきり確認しておく必要がある。

■強い違和感を感じる内容 
僕は、
皇族と言えども言論の自由は認められてしかるべきだと考えている。
たとえ皇族であっても、
一個人として広く社会の問題に関心を持ち、
これについて自らの見解を明らかにしようとするのは
人間として自然なことで、
当然の権利だと考えている。
一個人が一個人として、
一個人の見解を述べることは、
公権力の行使には当たらず、
皇族が国政に関する権能を有しないこととは何ら矛盾するものではないと
僕は思う。

ただし、
実に当然のことながら、
権利の行使には責任を伴う。

僕は、
特に政治的な発言・行動をしない限りは、
皇族個人に対する批判は行なわないことにしている。
皇室制度自体に対する批判はしても、
それは決して、
皇室に属する一人一人に
何らかの個人的責任があると考えてのことではない。

しかし、
ある皇族が自らの言論の自由を行使して
反動的言動をとるのであれば、
こちらも言論の自由を行使して
これを論難することもありうる。
(無論、
 その言動の内容によっては
 これを支持することもあるかもしれない)。

三笠宮寛仁親王が今回発表した随筆の論理は、
先代の昭和天皇ですら否定した
「単ナル神話ト伝説」への逆戻りを指向するものであり、
極めて反動的なものである。
僕はこれに強い違和感を覚えたことを
ここに率直に表明する。

【関連記事】
「憲法改正で皇室制度を廃止しよう」
[PR]
by imadegawatuusin | 2005-11-05 04:15 | 政治