「ほっ」と。キャンペーン

■ホームページはこまめに更新を
三重県で開かれていた
日本最大の教育研究集会・日教組教研が
27日終了した。

子供の安全対策や学力問題などをテーマに開催された今回の日教組教研は
マスコミでも大きな注目を集め、
新聞各紙でも いち労働組合〔注1〕の主催する勉強会としては
異例のスペースをとって報道されてきた。

それは大変結構なのだが、
当の日教組のホームページを拝見すると、
これほど社会的注目を集めている日教組教研に関する記事がまったくない。
これでは日教組が、
本気で社会に何らかのメッセージを発していく気があるのかどうか、
その姿勢に疑問を覚えてしまう。

日教組地方支部の役員をしている父に訊くと、
「みんな会場に来ていて忙しくて、
 ホームページを更新している暇がなかったんだろう。
 これからだんだんと記事を載せていくんじゃないか」と弁明していた。
だが、
「これからだんだん」では遅いのだ。

日教組教研に関する話題が新聞に載り、
テレビで流れているのを聞いて、
人々は興味を覚えて日教組のホームページをのぞきに来る。
(僕もその一人だ)。
ところが、
その日教組のホームページに教研集会の記事が何も載っていなければ、
人々はがっかりして帰っていってしまう。
(僕もその一人だ)。

日教組としても、
せっかく莫大なお金をかけて会場を借り、
たくさんの人員を動員して集会を成功させたからには、
その成果を少しでも多くの人々にアピールしなければ
あまりにも「もったいない」のではないだろうか。

新聞やテレビなどのマスメディアの取材には積極的に答えておいて、
「自前のメディア」であるホームページには写真一枚載せないというのは
本末転倒だと僕は思う。
新聞やテレビは確かに多くの人々に情報を送るが、
その分 表面的な報道しか伝えない。

日教組教研で交わされた議論の内容をもっとも詳しく、
かつ的確に報道することができるのは、
「自前のメディア」であるホームページではないだろうか。

インターネットの世界は速報性が勝負である。
即時速報で情報を提供できなければ、
ホームページに人は集まらない。
(もちろん、自戒を込めての主張だが)。

何も難しいことではないはずである。
各部会でその日どんな研究が発表され、
どんな議論がなされたのか。
全国各地の教育現場からはどんな声が上がっているのか。
それを簡単にレポートして順次ホームページで速報するだけで、
読者の興味・関心にこたえる立派な記事ができあがる。
日教組には各支部で、
優れた機関紙を編集している活動家がいるはずだ。
そのセンスが、
どうしてホームページでは生かせないのか。

はっきり言うが、
日教組のホームページはつまらない。
いつ見に行っても変わりばえがしないからだ。

その点、
例えば部落解放同盟のホームページなどは面白い。
僕は毎日チェックする。
記事が毎週必ず更新されるからだ。

ホームページはこまめに更新がなされなければ意味がない。
「あそこのホームページは
 見に行けば必ず新しい情報が載っている」という信頼性が、

もちろん、
「書くことがない」のであれば仕方がない。
しかし、
日教組教研という、日教組最大のイベントが行なわれているのに、
「書くことがない」はずがないではないか。

日教組が、
本当に自分たちの思いや考えを社会に広く発信してゆこうと思うのならば、
「日教組教研」という、いわば最大の「書き入れどき」を
有効に利用しない手はないはずだ。
「自前のメディア」であるホームページを最大限に生かし、
即時速報で社会に広くアピールしてほしい。
〔注1〕日教組(日本教職員組合)は労働組合とは違い、
争議権(ストライキ権)が認められていないので、
法律的には労働組合ではなく「職員団体」とされている。
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by imadegawatuusin | 2006-02-28 15:47 | 労働運動

――それができれば「君子」になれる――

■「君子」=「人格者」への道は不可能ではない
儒教の経典・『論語』に、
「人知らずしていきどおらず。
 亦た君子ならずや」(学而篇1章、『論語』通番1章)
(他人が自分のことをわかってくれなくてもうっぷんを抱かない。
 それができる人は、立派な人格者と言うべきではないだろうか。)
とある。

僕たちはついつい、
他人に対して何かにつけて、
「何でわかってくれないんだ!」という心の声をあげてしまう。
そして、
必要以上に自らを悲劇の主人公に見立て、
どんどん「うつ状態」に陥ってゆく。
(例:「何でわかってくれないんだ!
    何でわかってくれないんだ!
    こんなに頑張ってるのに、
    こんなに頑張ってるのに、
    どんなに頑張ってもできないのだということを、
    何で誰もわかってくれないんだ……」。
 人は一度こういう状態に陥ると、
 「本当にそこまで言うほど頑張っているのか?」
 という冷静な突っ込みは
 自分では入れられなくなってしまう)。

しかし、
心の中で嘆き、うっぷんを抱くだけでは、
問題は何も解決しない。

「他人が自分のことをわかってくれなくてもうっぷんを抱かない」。
それができる人を、
儒教の祖・孔子は「君子」と呼んでいる。
「君子」とは、
「身分のある男子が原義であるが、
 そこから立派な人格者を意味するようになった。
 ただし君子は
 努力すれば何人も到達しうる境地で、
 孔子の教育において一応の目標となっている」(宮崎市定『現代語訳論語』岩波現代文庫、3ページ)。

孔子という人はは人々に対して、
超絶的な聖人・超人になることを求めたわけでは決してなかった。
「孔子の教育において一応の目標と」されたのは「君子」であり、
それは「努力すれば何人も到達しうる境地」なのである。
具体的には、
「他人が自分のことをわかってくれなくてもうっぷんを抱かない」
といった、
ちょっとした日々の心がまえで達成できる徳目が
実践できるようになることだ。

この程度のことなら、
確かにちょっと努力すれば誰にでも到達可能に見えてくる。
そして実際、
この境地に達して日々の生活を送っている人も、
決して少なくはないのだろう。

しかし、
僕のような未熟な人間には、
意外にこれが難しい。
思い返せば僕はいつも、
「どうして誰も、
 僕のことをわかってくれないんだよーッ!」と、
憤り、うっぷんを抱き、
自分を悲劇のヒロイン(?)に仕立ててしまう癖を持っている。
そして自らを「うつ状態」に追い込んでしまい、
やるべきことを こなさなくなってしまうのだ。
(そう。
 ぼくの「失敗パターン」はいつもいつも
 判で押したように決まりきっている)。

「他人が自分のことをわかってくれなくてもうっぷんを抱かない」。
それさえできれば、
僕は「君子」=「立派な人格者」になることができる。
たった「それだけのこと」なのだ。

「君子」は決して一部の限られた超人のみが到達しうる境地ではなく、
「努力すれば何人も到達しうる境地」なのだ。

簡単そうに見えていざ実践してみると、
これがなかなか難しい。
これが「君子」への道である。
しかしそれでも、
これは「努力すれば何人も到達しうる境地」なのだ。

信じよう。
信じよう。

自分を信じて、
今日から僕は、
「他人が自分のことをわかってくれなくてもうっぷんを抱かない」人間になることを
ここに誓う。
これが達成できたとき、
僕は「君子」=「立派な人格者」となれるのだ。
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by imadegawatuusin | 2006-02-12 17:47 | 儒教

儒教の根本文献・『論語』に、
「吾日に吾が身を三省す」
(私は日ごとに自分について3つの反省をすることにしている)
とある。
僕たちはこのように、
日々自らの生活を省みて、
改善を施してゆかなければならない。

人間には大抵「失敗パターン」がある。
自分はどういう状況で、
どういう失敗をするのか。
それを知り、
日々生活を改善してゆけば、
僕たちはまさに、
日々前進してゆくことができる。
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by imadegawatuusin | 2006-02-07 17:44 | 儒教