――仲良し姉弟、安里と千里が入れ替わり!?――

■「ボクたち中身が入れ替わったんだ!!」
本作はいわゆる「男女入れ替わりモノ」である。

中学2年の安里と千里は
いつも仲良しの かわいい双子の きょうだいだ。
「活発」な姉の安里、
「素直でいいコ」の弟・千里(本書7ページ)。
2人は学年の誰からも好かれるマスコット的存在だ。
だが彼らには、
他人には言えない「二人だけの秘密」があった。
それは、
弟の「千里には小さい頃から不思議な力があって、
幽霊を見ちゃったり
ときどき予知夢を見たりもする」ということだ(本書9ページ)。

そんなある日の夜こと、
弟の千里が姉の寝室にやってきた。
「今日一緒に寝てくれない?」と言うのである。
「さっきとてもよくない夢を見たんだ」、
「ボク怖くて心細くて…」と千里は言う(本書10ページ)。

そんな千里の手を握り、
姉の安里はこう言った。
「だーいじょうぶっ
 あたしがこーして
 手をにぎってれば
 安心して眠れるでしょ!?」。
こうして2人は眠りについた(本書11ページ)。
安里は千里の「企み」に全く気付いていなかったのだ。

翌朝 目を覚ました安里は、
ある「異変」に気が付く。
自分の体が「千里」になっていたのである(本書13ページ)。

そして、目の前にやってきたのは何と「安里」。
実は「彼女」は「安里の体を持つ千里」であった。
「彼女」は満面の笑みを浮かべてこう言った。
「ボク千里だよ
 せ・ん・り(ハート)
 安里が寝てる間に
 『魂入れ替え術』が
 成功したんだ!!」(本書13ページ)

「ボクたち中身が入れ替わったんだ!!」(本書14ページ)

そう。
姉の安里と弟の千里との体の魂が、
それぞれ入れ替わってしまっていたのだ。

「なんでっ!?
 どうやって!?
 どうして!?」
と問う(千里の体を持つ)安里に対し、
(安里の体を持つ)千里が答える。
「ごめぇん
 安里が寝てる間に
 ボクがやっちゃった!!」(本書15ページ)

安里ならずとも
「なんですってえ――――!?」というものであろう。

■なぜ千里は安里と入れ替わろうとしたのだろうか
そもそもどうして弟の千里は
姉の安里と入れ替わろうなどと考えたのか。
(安里の体を持つ)千里は
次のように弁明した。

もともと千里には、
如月北斗という親友がいた。
彼は霊感体質で内気な千里に対しても、
気さくに話しかけてくれた。
女子にも人気があって
とてもカッコいい北斗を見ているうちに、
千里は北斗を好きになっていったのだという。
『ボクは北斗の恋人になりたい。
 そのために、
 なんとしてでも「女の体」を手に入れて、
 北斗に振り向いてもらいたい……』と。

(千里の体を持った)安里はただちに元に戻すように要求するが、
(安里の体を持った)千里は断固拒否する。
こうして2人は互いの体を入れ替えながら
生活してゆくハメになる。

ところで、である。
物語を読み進めてゆくうちに以上の千里の弁明は、
少々マユツバ臭いということに
徐々に読者は気付いてゆくことになるだろう。
というのも作品からは、
千里の北斗に対する執着心が、
あまり感じられないからだ。

実際(安里の体を持つ)千里は、
北斗が他の女の子から告白されているのを見ても、
焼きもちを焼くどころか面白がっているような節すらある(本書23~25ページ)。

それに2人の体が入れ替わってしまったせいで、
むしろ「女」になった千里の側が北斗と疎遠になってゆき、
「親友の座を手に入れた」安里の側が北斗に接近するようになる。
安里は北斗の家に「お泊り」に呼ばれ、
一夜を共にするまでになる。
おかげで安里は今まで何とも思っていなかった北斗のことを
異性として意識するようになってしまう。

対する(「女」になった)千里の側が
北斗に積極的にアプローチする光景は
最後の最後まで見られない。

■最後の最後まで読者に「筋」を読ませない
ここで読者の側には、
当然 次のような推測が浮かぶことになるはずだ。
「千里が安里と入れ替わったのは、
 安里を男にして北斗と接近させ、
 2人をくっつけようとしたからではないのか」と。
これまた少女漫画では、
ある意味 定番の展開ではある。

だが、結論から言ってしまうと、
実はこれも違っている。
本作のように『ちゃお』のような、
比較的低年齢層を主なターゲットとする少女漫画雑誌では、
はっきり言って最初の数ページを見ただけで
その後の展開や構図すべてが
読めてしまうものも少なくない。

だが、本作はそうした凡百の作品とは
はっきり一線を引いている。
篠塚ひろむの『ちぇんじ!』は、
最後の最後まで読者に「筋」を読ませないのだ。
読者はまるで推理小説を読むように、
頭に多くの謎を抱えたまま
ページを読み進めることになるだろう。
「どうして千里は安里と入れ替わろうとしたのだろうか」。
その本当の答えは、
最後の最後まで明かされない。

この「先の読めない面白さ」を、
1人でも多くの人々に味わってもらいたいと
この文を書いた次第である。

《次に読むべき本》
「男女入れ替わり」は漫画界では多くの蓄積を持つテーマであるが、
その頂点とも言うべき作品こそ、
近年発表された志村貴子『放浪息子』(エンターブレイン)である。
女の子になりたい男の子と、
男の子になりたい女の子、
「思春期一歩手前」の子供たちの、
ほほえましくも真剣で、
そしてほのかに もの悲しい日常生活が描写された傑作だ。

《そのうち読むべき本》
『放浪息子』がどこまでも「日常生活」に基盤をおき、
子供たちの人間関係を主とする「小さな世界」にリアリティーを見出すのに対し、
平安時代の王宮を舞台にした波乱万丈の「男女入れ替わり」を描いたのが
山内直実『ざ・ちぇんじ!』(白泉社文庫)である。
姉と弟との入れ替わり、
最後まで先を読ませないサスペンス等は本書とも共通するものがあり、
巧みな伏線の張り方は読むものを真に圧倒する。

酒井徹お薦めの女装漫画》
1.やぶうち優『少女少年』シリーズ(Ⅰ~Ⅶ)、小学館てんとう虫コミックススペシャル
2.吉住渉『ミントな僕ら』全6巻、集英社リボンマスコットコミックス
3.志村貴子『放浪息子』エンターブレイン
4.なるもみずほ『少年ヴィーナス』全4巻、角川書店あすかコミックス
5.松本トモキ『プラナス・ガール』ガンガンコミックスJOKER

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富所和子『ないしょのココナッツ』について
水内繭子『恋する子どもたち』について
『かしまし』漫画版について


【本日の読了】篠塚ひろむ他『ちぇんじ!~ちがうワタシになれたなら~』小学館ちゃおコミックス(評価:4)



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by imadegawatuusin | 2006-05-29 21:18 | 漫画・アニメ

――小学生の愛国心を3段階でランク付け――

■「愛国心A」・「愛国心B」・「愛国心C」!?
「愛国心」表記を
通知表の評価項目に盛り込んでいる公立小学校が
埼玉県で52校に上り、
岩手・茨城・愛知県にもあることが
毎日新聞の報道で明らかになった(毎日新聞5月26日)。

これによると、
たとえば埼玉県のある小学校の通知表には、
「わが国の歴史と政治、
 および国際社会での日本の役割に関心を持って意欲的に調べ、
 自国を愛し
 世界の平和を願う自覚を持とうとする」
という項目があり、
担任によって3段階で評価されているという。

■小泉首相、『愛国心の評価は不要』・『今はない』
通知表での「愛国心」評価を巡っては、
2002年度に福岡市で69の市立小学校で実施されたものの、
市民団体の反発もあり、
翌年度から削除されたという経緯がある。

福岡市でのこの通知表は、
今月24日の衆議院教育基本法特別委員会でも取り上げられ、
小泉首相は答弁の中で、
「(筆者注:愛国心を)評価するのは難しい」、
「小学生に対して愛国心があるかどうか、
 そんな評価は必要ない」と述べ(毎日新聞5月25日)、
「いまは、これは使われていないと聞いております」
と語っていた(しんぶん赤旗5月26日)。

■小学生の「愛国心」をどうやって評価するのか
小泉首相も言うとおり、
小学生の愛国心を教師が3段階で評価するのは
非常に難しいと言わざるをえない。
そもそも いったいどうやって
子供が「自国を愛し」ているかどうかを判断するのか。
入学式や卒業式で
「君が代」を歌っている子は「愛国心A」で、
歌わない子は「愛国心C」とでも評価するのか。

自国の国歌に誇りを持ち、
大きな声で歌うのも、
もちろん立派な愛国心ではあるだろう。
しかし、
この国を一日も早く
「君が代」から「民が代」に変え、
身分や家柄で差別があったり
生まれつき職業を規定されたりすることのない
自由な共和国にしようと考えるのも、
これまた立派な愛国心ではないだろうか。
「君が代は千代に八千代に……」
(「天皇陛下の御代は千代にも八千代にもわたるほど
  長く続きますように……」)
という願いを持つことだけが愛国心ではないことはいうまでもない。

■北朝鮮への「愛国心」を日本の教師が評価する?
それに公立の小学校には、
日本国籍の子供だけではなく、
外国籍の子供も在籍している。
その子供たちにとって、
そもそも「自国」とは何なのか、
という問題も起こってくる。
もしその学校に
北朝鮮の公民である子供が在籍していた場合、
自らの「自国」である北朝鮮を「愛」しているかどうかを
日本の公立学校の教師によって評価され、
ランク付けされることになってしまう。

■「世界の平和を願う自覚」も教師の主観で評価される
また、
こちらの方はあまり問題にはされていないが、
同じ項目にある「世界の平和を願う自覚」についても
同様のことが言えるはずだ。

例えば、
公立小学校の先生たちの最大の職員団体である日教組は、
「教え子を再び戦場に送るな」を旗印に、
自衛隊のイラク派遣に強く反対している。
僕も個人的には、
自衛隊がイラクで、
純粋な人道支援活動だけでなく
武器を持った米兵の輸送まで行ない(朝日新聞2004年4月9日)、
国連決議もないままイラクを先制攻撃した米軍を
イラクにおいて公然と支援している現在のあり方には
大きな疑問を感じている。

しかし、
いかなる行きがかりがあったとしても、
我が国がアメリカの対イラク先制攻撃を
真っ先に支持した以上、
自衛隊の派遣も含む最大限の支援活動を
イラクに対して行なうことが
世界の平和に対する責任だろうという考えも
やはりありうるとは僕は思う。

しかし、そのように考えて
「自衛隊をイラクに送るべきだ」と主張する子供は、
日教組の先生から見れば
「世界の平和を願う自覚」が足りない子供だと
評価されてしまう危険性もあるのではないか。

小学生の「愛国心」や「世界の平和を願う自覚」を、
担任の教師が3段階で評価するのは、
現実的には主観的な判断に傾かざるをえず、
問題が多いと僕は思う。

■小学生に「愛国心」3段階評価は不要
以上の理由で僕は、
小学校における
「愛国心」や「世界の平和を願う自覚」の
3段階評定には反対する。

報道を受けて「愛国心通知表」を使っていた小学校の中には、
これを見直す動きも出てきているという。
僕は、
「愛国心通知表」を使用しているすべての小学校に対して、
このようなやり方をただちに改めるよう強く求める。
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by imadegawatuusin | 2006-05-26 12:30 | 政治

■「学会の天敵」新潮社から出た本のはずが……
島田裕巳さんの『創価学会』は新潮新書の1冊である。
つまり、新潮社から出版されている。

知っている人は知っていると思うが、
創価学会と新潮社は非常に仲が悪い。
『週刊新潮』などを読むと、
しょっちゅう創価学会のことをボロクソに書いた記事が出てくるし、
逆に創価学会系の『潮』や『第三文明』などを読むと、
毎号のように『週刊新潮』のことを
「人権侵害常習誌」などと無茶苦茶にけなしている。

両者とも電車に中吊り広告をよく出しているので、
通勤・通学途中に見て、
知っている人も多いのではないか。
このようなものばかり見ていると、
両方とも、
ほとんど感情的になっているのではないかというような感じすら
受けてしまう。

やれ『週刊新潮』○月○日号の記事は最高裁で断罪されたとか、
やれ創価学会は重箱の隅のほんの些細な間違いをあげつらって、
あたかも記事全体がデタラメであるかのように宣伝してるだの……。
部外者には、
もはや何がなんだかさっぱりわからない状態になっている。

そこで、
話は元に戻るが、
この本は新潮社から出版されている。
当然 創価学会のことを
クソミソにけなした本なのだろう……と思って読み進めてみた。
が、意外なことに、
僕はこの本を読み終えたとき、
自分の中の「創価学会アレルギー」とでもいうべきものが
薄らいでいることに気がついた。
少なくともこの本を読む前と比べれば、
創価学会という宗教団体に対する好感度が
確実に上昇している自分に気付いたのである。
これは意外な体験だった。

この本の著者である島田さんは、
本書の中で繰り返し、
次のような批判を述べている。

創価学会については、
これまで数多くの書物が刊行されている。
……しかし、
その多くは、
創価学会のスキャンダルを暴こうとするもので、
客観的な立場から
創価学会についての情報を
提供するものにはなっていない。(本書18ページ)

創価学会とは何かについて、
国民の間に広く知識が行き渡っているとは言えない。(本書190ページ)


つまり、
『創価学会の指導者たちが
 裏でこんな悪いことをしていた』的な報道はあっても、
では一般の創価学会員たちはどうしてそのような宗教を信じ、
何に惹かれて活動を続けているのか、
創価学会という宗教団体は一体どのような教義を持ち、
具体的にどのような活動をしているのか……という基本的な情報を、
客観的な立場から
ごくまっとうに解説した本が見当たらない、ということなのだ。

そういえば以前、
自民党の武部幹事長が、
『日本では共産党員も創価学会員も、
 正月には神社に初詣に行く』などと放言し、
後に陳謝させられるという騒動があった。
公明党と組んで連立政権を構成している
自民党の幹事長でさえ、
創価学会の信仰について
浅はかな理解しか持っていないのだという事実を
露呈した事件であったといえる。

創価学会を信仰するのもいい。
批判するのもいい。
だがいずれの立場を取るにしても、
まずは「創価学会とは何か」という基本的な部分を
きちんと押さえておかなければそもそも話にならないはずだ。

本書はそのための好著である。

【本日の読了】
島田裕巳『創価学会』新潮新書(評価:4)
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by imadegawatuusin | 2006-05-25 10:40 | 仏教

本書・『陽気なギャングの日常と襲撃』は、
『陽気なギャングが地球を回す』の続編である。
4つの短編と1つの中篇とが、
実は1冊の長編小説を構成するという仕掛けになっている。
(短編部分が「ギャングの日常」、
 中篇部分が「ギャングの襲撃」)。

伊坂幸太郎は『チルドレン』でも、
「短編集、と見せかけて実は1冊の長編小説」
というようなことをやったことがある。
巧みな伏線、皮肉の聞いた軽快な台詞回し、
そして最後の最後まで息つく暇を与えない事件の連鎖……と、
前作の長所をそのまま生かし、
さらにパワーアップさせたような絶品だ。

←伊坂幸太郎『陽気なギャングが地球を回す』に戻る

【本日の読了】
伊坂幸太郎『陽気なギャングの日常と襲撃』祥伝社ノン・ノベル(評価:5)

《伊坂幸太郎お薦め作品ベスト4》
1.『アヒルと鴨のコインロッカー』
2.『チルドレン』
3.『死神の精度』
4.『陽気なギャング』シリーズ
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by imadegawatuusin | 2006-05-23 20:01 | 文芸

今、一番センスを感じさせる小説家は
伊坂幸太郎である。
2004年『このミス』2位に選ばれた
『鴨とアヒルのコインロッカー』を読んだときの衝撃を
僕はいまだに忘れることができない。

何気ない台詞回しの端々に
才能のきらめきを感じる……というか、
とにかく えげつなくすごいのである。
個々バラバラに見えた話が
最後にバシッとまとまった瞬間には
思わずため息を漏らしてしまう。

そんな伊坂幸太郎の原点ともいうべき作品が、
本書・『陽気なギャングが地球を回す』(祥伝社文庫)である。
伊坂幸太郎のデビュー作はもちろん
『オーデュポンの祈り』であるが、
本作の土台となった作品はそれより前に書かれている。
伊坂幸太郎は『オーデュポンの祈り』で
新潮ミステリークラブ賞を受賞する以前、
この賞に2つの作品を応募して落選している。
そのうちの最初の作品・「悪党たちが目にしみる」こそが、
本書の原型であるということなのだ。

ちなみに、若い伊坂が書いたこの作品は
「選考委員から徹底的に叩かれた」という。
それは、
「本人がもう小説を書いちゃいけないんだ、という気持ちになるほど」
であったという。

それを何度も何度も練り直し、
これほどの作品にまで磨き上げたのであるからすばらしい。
ちょっとしたエピソード同士が終盤で意外な形で結びつく、
最後の最後まで気を抜けない奇想天外な作品構成。
「嘘を見抜く男」・「すりの名手」・
「演説の達人」・「完璧な体内時計を持つ女」など奇抜で個性的なキャラクターたち。
そして何より「伊坂節」とでも言うべき
皮肉の聞いたテンポのよさが全快で、
何も考えずにスラスラ読めて面白い。

伊坂幸太郎『陽気なギャングの日常と襲撃』へ→

【本日の読了】
伊坂幸太郎『陽気なギャングが地球を回す』祥伝社文庫(評価:5)

《伊坂幸太郎お薦め作品ベスト4》
1.『アヒルと鴨のコインロッカー』
2.『チルドレン』
3.『死神の精度』
4.『陽気なギャング』シリーズ
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by imadegawatuusin | 2006-05-22 09:58 | 文芸

「居てやっている」と言われて「思いやり予算」
「出て行ってやる」と言われて「移転費用」


■米国防副次官が記者会見で
アメリカのローレス国防副次官は4月25日、
国防総省で記者会見し、
在日米軍再編に伴う日本側負担が
計約260億ドル(約2兆9900億円)に上るとの見通しを
明らかにした(毎日新聞4月26日夕刊)。
いわゆる「日本側負担3兆円発言」である。
3兆円と言えば国民一人当たり約2万5千円。
4人家族で約10万円の負担になるという
実にとんでもない金額だ。

■日本の防衛事務次官も
防衛庁の守屋武昌事務次官も
その前日・24日の講演の中で、
在日米軍再編経費の日本側負担は
「グアム移転経費を除き8年間で2兆円と試算している」と述べている(毎日新聞4月27日)。

この試算で除かれているグアム移転経費の日本側負担は、
4月23日の額賀・ラムズフェルド合意によると
総額102億7000万ドルのうちの59パーセントにあたる
60億9000万ドル(約7100億円)である(毎日新聞4月25日)。
これを含むとローレンス国防副次官の言う「日本側負担3兆円」も、
「細かく積み上げた数字ではない」ということではあるが、
あながちデタラメというわけでもなさそうだ。

■理不尽な日本側負担を阻止しよう
そもそも日本は、
年間約2300億円もの「思いやり予算」
在日米軍に払い続けている。
これはいわば、
『居てやっているんだから金をよこせ』という米軍の要求に答えた
「みかじめ料」のようなものである。
これに対して今回の在沖縄海兵隊のグアム移転費用は、
言うなれば、
『出て行ってやるんだから金を出せ』というものだ。
海兵隊が常駐することで、
沖縄県民がこれまで多大な負担を被ってきたのは事実であるが、
アメリカの軍隊がアメリカ国内に基地を作るのに
その費用の半分以上を日本側に負担しろというのであるから、
実に理不尽な話である。

■なりふり構わぬ対米追随
政府・与党は「日米同盟のため」といって、
こうした負担を正当化しようとする。
しかし、いかなる軍事同盟も、
条約上の権利と義務で組み立てられているものである。
「思いやり予算」も「基地移転費用」も、
そもそも日米安保条約には一切規定されてはいない。
にもかかわらず、
とにかく「日米同盟のため」ということであれば、
いかなる名目であれ なりふり構わず金を出す……。
これはまともな主権国家ではありえない、
異常な「言いなり」の姿ではないか。

僕は、
今回の米軍再編にともなう
アメリカ言いなりの「日本側負担」の支出に反対する。
戦争支持・対米追随の小泉政権を打ち倒し、
理不尽な日本側負担を阻止しよう!
このような税金の無駄遣いを改め、
真の国民福祉のための民主的政権を打ち立てよう!

《第7号》


《関連記事》
「思いやり予算」、バーの人件費も負担
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by imadegawatuusin | 2006-05-20 20:35 | 政治

――味覚障害者が「甘い物語」という表現を使うとき――

■キーワードは「想像力」
野村美月さんの『“文学少女”と死にたがりの道化』について、
ブログ『一本足の蛸』の主宰者・安眠練炭さんがおもしろい問題を提起した。
安眠練炭さんはブログでの記事の中で、
次のように問いかけたのだ。

「文学少女」こと天野遠子は、
ふつうの食物の味がわからないかわりに
本を食べて味わうことができる特殊能力の持ち主だが、
本の味を表現する際にふつうの日本語の味覚表現を用いたり、
ふつうの食物に喩えたりする。
いったいこのような比喩はいかにして可能なのだろうか?


実はこの問題は、
作者の野村美月さん自身も充分に意識しており、
作中で遠子が、ギャリコの物語を「ソルベ」という食べ物に例えたとき、
主人公・井上心葉に次のように語らせている。

ソルベの味って、
遠子先輩は……文字以外のものを食べても、
味がわからないんでしょう?
比べようがないじゃないですか(本書10ページ)


これに対する天野遠子の答えはこうであった。

そこは想像力でカバーするのっ。
あ~ソルベってこんな味かしら~って。(本書12ページ)


彼女は、ギャリコの物語を食べたときには
「喉にするりと滑り込んでゆく食感」がするので、
それは、
僕たち普通の人間が「ソルベ」という食べ物を食べたときに感じる感覚と
共通性を持つのではないかと「想像」したというわけだ(本書10ページ)。

そのように説明されると、
僕は「ソルベ」という食べ物を一切食べたことはないのだが〔注1〕、
「ソルベ」の食感がどのようであるのか
想像することが可能である。

他にも天野遠子は、
ある小説を
「キャビアをシャンパンと一緒にいただいている」ときの
味がすると言っている(本書37ページ)。

僕は生まれてこのかた
「キャビア」なる食べ物を口にしたことがないし、
シャンパンも飲んだことはない。
ましてそれを「一緒にいただい」たときにいかなる味がするのかなど、
全くもって知りはしない。
だがそれでも、
「キャビア」的小説や「シャンパン」的小説を
想像することは可能である。
ここで大切なのは、
「キャビア」や「シャンパン」の味そのものではなく、
それに付随して世間に流れるイメージだ。
要するに「華やか」な小説であり、
「虚飾と栄光と情熱」にあふれる小説なのだろうということだ(本書37ページ)。
天野遠子はその「華やかさ」や「虚飾」や「栄光」や「情熱」を、
その本を食べた際に口の中で感じている。
そしてそれを、
「キャビア」や「シャンパン」の味と表現するのだ。

食べ物の味そのものを知らなくとも、
そこに表現されている状態を想像することは
必ずしも不可能ではない。
キーワードは「想像力」と言えそうだ。

■全盲者も「頭の中が真っ白になる」ことがある
安眠練炭さんは、
食べ物の味がわからない者が
普通の味覚表現を比喩として用いるのは不可解であるとして、
次のように述べている。

全盲の人が音を色に喩える場合を想像せよ。


と。

しかし、少し思いをめぐらせば、
「全盲の人が音を色に喩える場合」は
以外に容易に「想像」可能だ。

例えば、
生まれたときから全く物の見えない全盲の視覚障害者が、
次のように言う場合はどうだろう。

私はその話を聞いたとき、
目の前が真っ暗になった。


あるいは「目の前が真っ暗になった」という部分を
「頭の中が真っ白になった」〔注2〕と言い換えてもいい。
不可解だろうか。
僕はそうは思わない。

確かにその視覚障害者は、
「真っ暗」あるいは「真っ白」という状態を、
その言葉の真の意味で理解することは不可能だろう。
その人はおそらく、
「真っ暗」や「真っ白」という状態がどのようなものかを
きっと わかっては いなかったはずだ。
だがそのような人にも、
「目の前が真っ暗になるような
 衝撃的な事件」や
「頭の中が真っ白になるような驚き」を体験する機会は存在する。
そして、
そのような状態が日本語において、
「目の前が真っ暗になった」とか
「頭の中が真っ白になった」と表現されていることを
知る機会もやはりある。

ならば、その視覚障害者が、
たとえ「真っ暗」や「真っ白」という感覚そのものを
経験したことがないとしても、
「ある話を聞いたときに受けた感覚」を
「目の前が真っ暗になった」あるいは
「頭の中が真っ白になった」と表現することは可能であるし、
何ら不可解なことではない。

もっと極端な例を挙げてもいい。
生まれつき全盲の視覚障害者が
「今とてもブルーな気分だ」と言ったり、
あるいは
「そのとき私は、
 真っ赤な炎が私の背後で燃え上がるような
 猛烈な怒りを感じた」といった
「色鮮やかな」表現を用いることがあったとしても、
何ら不思議ではないのである。

■全聾者にも「運動音痴」は理解可能
逆の例を挙げるなら、
よりわかりやすい説明が可能になる。
生まれつき全く耳の聞こえない聴覚障害者が、
例えばある人について、
「××さんは運動オンチだった」
と著書の中で書いていたとして、
これを変だと思う人がいるだろうか。
ほとんどいないのではないかと僕は思う。

「オンチ」とは漢字で書くと「音痴」であり、
本来は
人が著しく音感に欠ける状態を意味していた。
したがって、
音感どころかそもそも聴覚を全く持たない者にとって、
「音痴」という状態そのものを
体験することは不可能だ。

しかしそのような人にも、
「運動音痴」という状態がどういうものであるかを
把握することは可能なのである。
それが可能であるならば、
「運動音痴」という言葉を自ら用いることも可能であろう。

■味覚障害者にも「恋物語の甘さ」はわかる
では、
「文学少女」こと天野遠子の場合はどうだろう。
彼女は食べ物の味がわからない味覚障害者である。
ただし、一般の味覚障害者と違うのは、
彼女は本を食べてその「味」を「味わう」ことができるという
特殊能力を持っているという点だ。

さて、
この「本を食べて味わうことができる」という点も
少々注意を必要とする。
というのも、
このときに彼女が感じる「味」は、
僕たちが食べ物に味を感じるときとは違って、
その本の材質などに規定されているわけではないからだ〔注3〕。
どうやら彼女の感じる「味」は、
その本の『内容によって』
規定されているらしいのである。

したがって彼女の感じるところのいわゆる「味」は、
実際のところ、
僕たちの感じているところの味という感覚と何らかの共通性を持つのかさえ
よくわからないとしか言いようがない。
彼女が「甘い」と言ったとき、
その感覚が、
僕たちが砂糖をなめたときやケーキを食べたときに感じる
「あの感覚」と共通のものであるのかどうかは、
確かめようがないのである。

ただ、はっきりしていることが1つある。
それは、彼女が口で感じるいわゆる「味」は、
僕たちが本を読んだときに感じる「印象」という感覚と
相当密接な相関関係があるらしい、という点だ〔注4〕。

その証拠に彼女は、
ハッピーエンドの恋愛小説から感じる「味」は
「甘い」と表現しているのである(本書14ページ)。
「恋物語は甘くて美味しい」とも発言している(本書187ページ)。
自分が食べた作品がハッピーエンドの恋愛小説であった場合、
どうやら彼女はそこに、
他の傾向の作品とは区別される一定の「味」を感じるようだ。

無論、彼女の言うところの「甘い」とは、
直接的には砂糖やケーキの味ではなく、
ハッピーエンドの恋愛小説の「味」である。

ただし我が国では一般的に、
ハッピーエンドの恋愛小説などから受ける印象を、
味覚に例えて「甘い」と表現することがある。

先に証明したとおり、そのような文化に暮らす人なら、
例えその人に味覚がなくても、
ハッピーエンドの恋愛小説を読んだとき、
その印象を「甘い」という言葉で表現することは可能である。
そして天野遠子がの持ついわゆる「味覚」は、
この「印象」という感覚と密接に関係しているのである。
ならば彼女が、
世間で「甘い」と比喩されるところの本から感じるいわゆる「味」を、
同じく「甘い」という言葉で表現しても一切差し支えはないはずだ。

■異質な感覚に「共感」を求めて
いや、「差し支えはない」どころか、
そのようにしてもらわないと僕たちは大いに困るのである。
もし彼女が、
「私が本を食べたときに感じる感覚は、
 あなたたちが食べ物を食べたときに感じる感覚とは
 本質的に異なるのだから、
 『甘い』なんて表現でお茶を濁すことはできないわ。
 今日から私は、
 ハッピーエンドの恋愛小説なんかを食べたときに感じる感覚を
 『ミロい』と表現することにするわっ!」と
宣言したらどうだろう。

「いい? 心葉くん。
 『ミロい』作文をお願いね。
 この前みたいに苺大福の箱が落っこってきて
 初恋の人が死んじゃうようなヤツはダメよ。
 やっぱり文学は『ミロい』のが一番よね。
 私が今まで食べた中で一番『ミロ』かった小説は……」
なんて話をされたら、
「ミロい」という語彙も感覚もそもそも持たない心葉には
さっぱり訳がわからなくなってしまう。
僕たち読者も同様だ。

だから彼女は、自分が
ハッピーエンドの恋愛小説を食べたときに感じる「味」を表わす形容詞として、
「甘い」という言葉を採用するのだ。
僕たち普通の人間が、
その作品を読んだときに感じる印象を表わす比喩表現として
通例使われている「甘い」という言葉を、
自らが口の中で感じた感覚を表現する言葉として、
彼女は取り込んだのである。

なお彼女は、
「苦しいことや辛いこと」が書かれたレポートは
「とっても苦い」と表現する(本書251ページ)。
この点についても上記と事情は同様だ。
彼女は「苦しいことや辛いこと」が書かれたものを食べた際、
他の傾向の文章とは区別される一定の感覚を持つようだ。

そうした「苦しさ」や「辛さ」は我が国においては
「苦い」と比喩的に表現されることが多い。
したがって、彼女の感じる「その感覚」が、
はたして僕たちの感じる「苦さ」と共通のものであるのかどうかは不明だが、
そうした作品を「苦い」と表現することで、
彼女と心葉の間には一定の共通理解が生じるのである。

■「お化け」が「お化け」のまま生きる為に
さて、
なぜ僕はこの問題を
かくも長々しく取り上げてきたのか。
それはこの問題が、
この小説のテーマそのものと
重大なかかわりを持っているからである。

本書は、
太宰治の『人間失格』と同様、
「他人の理解しうるものを理解できない」(本書84ページ)人間が、
いかにして、
自分とは異質な他者たちと
関係を取り結んでゆけばいいのかを問う作品である。
直接的には、
「愛や優しさを持たぬお化け」(本書66ページ)である、
『人間失格』の主人公の大庭(おおば)葉蔵〔注5〕と
片岡愁二〔注6〕・竹田千愛の2人とが、
それぞれに物語を綴りながら
自らの生きる道を見つめてゆく物語なのだ。

だが、この物語に出てくる「お化け」は、
実はこの3人だけではない。
「文学少女」こと天野遠子先輩自身が、
「仲間たちと同じものを喜べず、
 ……同じものを食せず、
 仲間たちが心地よいと感じるもの……を理解できない」(本書3ページ)
「お化け」・「妖怪」なのである。

本書の中で天野遠子を評してしばしば用いられる「妖怪」という表現を
文字通りの、
「生物学的にホモ=サピエンスという範疇から逸脱する存在」
と捉える人がいるようだが、
そのように解釈すると本書の真のテーマを見失うことになる。
彼女は、
社会の一般の人間とは同じ感覚を共有できない人間であるという意味で、
大庭葉蔵・片岡愁二・竹田千愛の3人と同様、
「お化け」であり、「妖怪」なのだ。

社会は、自分たちとは異質な存在を
しばしば恣意的に排除する。
竹田千愛の言葉を借りれば、
「お化けである」者を「世間」は
「石をもって追」うことがあるのだ(本書142ページ)。
だからこそ『人間失格』の大庭葉蔵は、
「一言も本当の事を
 言わない子にな」ることを強いられた(太宰治『人間失格』14ページ、新潮文庫)。

片岡愁二は自殺に追い込まれた(本書181ページ)。

そして竹田千愛は、
「バカで無邪気な少女のフリをして」生きているのである(本書242ページ)。

この点は、
一見 自由奔放に生きているかに見える天野遠子とて例外ではない。
彼女は「みんなでフルーツパフェを食べてるとき」
(当然「自分だけ美味しいって思えない」のだが)、
「うんと甘い本を思いうかべて、
 “わぁ、美味しい”って」言うのだという(本書106ページ)。

彼女もやはり、今の日本の社会の現状は、
自分が「妖怪」であることを
だれかれ構わずカミングアウトできる状況には
至っていないことを知っている。
「フルーツパフェを食べながら“わぁ、美味しい”と言う、
 どこにでもいる女子高生」を演じながら
「妖怪」は日々の生活を送っている。

けれど、
彼女は大庭葉蔵や片岡愁二・竹田千愛の3人のようには、
自らの孤独に絶望感を抱いてはいない。
それは心葉がいるからだ。

■遠子はなぜ、心葉の作文はどんなにグロくても食べたのか
彼女は、
今までずっと秘密にしてきた「本を食べる」瞬間を、
ある日の放課後、
新入生の井上心葉にばったり見られることになる。
彼女は「ぽっと顔を赤らめ、恥ずかしそうに
『見たわね』」と言ったという(本書185ページ)。

そして心葉は文芸部に引っ張り込まれ(本書186ページ)、
今に至る。
彼は、
食べ物の味を解さず、本を食する
「妖怪」の存在を受け入れた。
遠子は、
「お化け」が「お化け」であるままで
生きてゆける場所を手に入れたのだ。
これが、
天野遠子と
大庭葉蔵・片岡愁二・竹田千愛の3人との
最も大きな違いである。

ただし彼女はそのために、
何の努力もしなかったわけではない。
彼女は心葉に作文を書かせ、
たとえそれが
「わざと汚い文章で書いた、
 句読点一切なし、
 "てにおは"無視のグロい話」でも絶対に、
「半泣きで一生懸命食べ」たのだ(本書199ページ)。
そしてその作文を食べた感覚を、
「甘い」・「苦い」・「アクが足りない」をはじめとする、
僕たち「普通の人間」にも理解できる語彙を最大限に利用して
表現してゆく作業を積み重ねていった。

この作業を通じて、
文学に味覚を感じたりはしない心葉も、
彼女の感覚をおぼろげながらも理解し、
共有できるようになっていった。
天野遠子という「お化け」は、
自分は実は理解できない「普通の人間」の味覚表現や
食べ物の味について、
得意の「文学的表現」を最大限に借用することで、
自らの「妖怪」的感性を心葉に理解させることに成功したのだ。
(もしここで、
 遠子があくまで「この作品は『ミロい』」式の
 自らの「妖怪」性に固執する表現のみを用いたならば、
 2人の間に「味」に関する共感は
 おそらく生まれなかったであろう)。

■「甘い」は相互理解の第一歩
だから思えば、
天野遠子が恋物語を「甘い」と評した瞬間(本書187ページ)こそは、
2人の間に「味」に関する相互理解が生まれるための第一歩だったのだ。

もともと心葉は、
「きみ、文芸部に入部しなさい」の一言で
遠子に命じられるまま文芸部に入部し(本書186ページ)、
「ほらぁ、書かないと、呪っちゃうぞ」という遠子の発言を真に受けて
あれほど嫌がっていた文学の世界に再び引き戻されている(本書187ページ)。
このことを考えると、
遠子のことを当初は「どこか恐ろしい妖怪」と捉え、
恐れを抱いていた可能性が高い。
しかし遠子が恋物語を「甘くて美味しい」と言ったとき、
彼は彼女の感性を、
おぼろげながらでも理解するきっかけをつかんだのである。
「遠子先輩の『味覚』では、
 恋物語を『甘くて美味しい』と感じるんだ」と。

たとえ自分が「お化け」でも、
「人間の世界」に思い切って飛び込んでみれば、
お互いを理解し合える人間は現れる。
「お化け」が「お化け」のままで受け入れられる空間を
手に入れることは可能である。
本書はそのことを教えている。

他人とは異質な感性を持つ「お化け」には、
最初は自分の感覚をあらわす言葉そのものが
社会に存在しないかもしれない。
けれど、あきらめずに探してみよう。
『聖書』にも、
「求めなさい。
 そうすれば、与えられる。
 探しなさい。
 そうすれば、見つかる」とある(マタイ7章7節)。

自分の抱いた感覚を、
100パーセント完璧にでなくてもいい、
少しでもそれを表現できる言葉を探して、
外に向かって発してみよう。
そうすればきっと、
「お化け」が「お化け」のままで
生きてゆける場所は見出せる。
本書はそう、教えている。

それこそが本書のテーマなのである。

だから、安眠練炭さんの、
「遠子の特殊能力」は
「今のところ彼女のキャラクターを際立たせるという程度の効果しか
 あげていない」という主張は誤りである。
「遠子の特殊能力」こそは、
「仲間たちと同じものを喜べず、
 ……同じものを食せず、
 仲間たちが心地よいと感じるもの……を
 理解できない」(本書3ページ)「妖怪」が、
いかにして他者との関係を取り結ぶかという本書のテーマと
見事に直結しているのである。

■『心の種を言の葉に』(古今集)
本書の主人公・井上心葉の
心葉(このは)という名は、
平安時代の和歌集である『古今和歌集』の序文、
『心の種を言の葉に』に由来する〔注7〕。

心の中にある思いは、
そのままでは、他の誰とも関係を結ぶことのできない、
土に埋もれた孤独な「種」としてしか存在しない。
しかし、その思いを大切に育て、
その芽(=目)を地上へと伸ばし、
立派な言の葉(=言葉)へと成長させていったとき、
人は、異質な他者と共感し、
関係を取り結ぶことが可能になる。

いかにして
「心の種を言の葉に」育て上げゆくか。
これはおそらく、
この「文学少女」シリーズを貫く
重要な主題となるはずだ。

土に埋もれた孤独な思い、
それを言の葉(=言葉)へと成長させ、
他者の前に自らを表現することが、
「お化けの孤独」を乗り越える第一歩となる。
だからこそ、
本書の主人公は「作家」でなければならなかったのである。


〔注1〕「『ソルベ』という食べ物」について、
山猫日記の山猫さんから次のコメントを頂いた。
「『ソルベ』はたぶん幾度も食しておられると思いますよ.
 フランス語のsorbetで,シャーベットのことですから.」。

〔注2〕「頭の中が真っ白」という表現について言えば、
「衝撃のあまり何も考えられなくなる状態」と「白い」という色との間には、
生理学的には何の必然的関係も存在しない。
ただ、
この世界で最もよく使われる筆記用具が たまたま「紙」であり、
その紙は白を地の色とすることが多く、
「内容が何も書かれていない紙」が「真っ白」であることから
類推された比喩にすぎない。
もしこの世界の紙という紙の色が桃色であったならば、
僕たちは、衝撃のあまり何も考えられなくなったとき、
「頭の中が桃色になった」という表現を
何の躊躇もなく使うであろう。

〔注3〕ただし、
本の材質などが全く味に影響を及ぼさないのかどうかは
微妙である。
天野遠子は本書の中で、
「手で書かれた文字は
 ……すっっっっごく美味しい」(本書14ページ)・
「普段は本を食べているけど、
 本当は紙に肉筆で書いた文字が一番好き」(本書187ページ)とも
発言している。
これは、
単に文庫本に印刷された本と、
肉筆でかかれたものとでは、
書かれた内容が同じでも「味」が異なることを示唆している。
高級和紙に能筆家が書いたものは、
さらに味が異なるかもしれない。
ただこれは、
紙や筆記用具の材質そのものではなく、
その作品全体から受ける「印象」が
彼女が口で感じる「味」に
影響を与えるのだと考えた方が妥当であろう。

〔注4〕異なる感覚同士が密接な関係を持つというのは
必ずしも理解不能な事態ではない。
例えば一般の人間の場合、
味覚と嗅覚は相当密接な関係を持っている。
少なくとも僕は、
「臭いはいいが味はダメ」または
「味はいいが臭いがダメ」という食べ物を
食べたという経験はほとんどない。

〔注5〕『人間失格』の大庭葉蔵も、
作品の中で自分を「お化け」になぞらえている箇所が
ある。(太宰治『人間失格』新潮文庫37~39ページ)。

〔注6〕ちなみに、太宰治の本名も、
片岡愁二と「シュージ」違いの
「津島修治」である。

〔注7〕本書作者・野村美月さんの自伝的小説とも言うべき
デビュー作・『赤城山卓球場に歌声は響く』の中で、
野村さんの分身である主人公・村上朝香は
文学部国文科に在籍し(『赤城山卓球場に歌声は響く』43ページ)、
上代古典研究会に所属していた(前掲書42ページ)。
おそらく作者の野村さん自身、
そうであったと思われる。
『赤城山卓球場に歌声は響く』冒頭の5ページでは
古代の和歌が引用されるなど、
この作品には我が国古代の和歌に関する薀蓄が
繰り広げられている箇所が多数見られる。
このような作者・野村さんにとって、
「心葉」という本書主人公の名を『古今和歌集』序文から採ることは
極めて自然なことだったのだ。

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《参考記事》
野村美月『天使のベースボール』について
野村美月『天使のベースボール2巻』について

太宰治『人間失格』について
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by imadegawatuusin | 2006-05-17 15:43 | 文芸

■「居てやっている」と言われて「思いやり予算」、
 「出て行ってやる」と言われて「移転経費」
アメリカのローレス国防副次官は4月25日、
国防総省で記者会見し、
在日米軍再編にともなう日本側負担が
計約260億ドル(約2兆9900億円)に上るとの見通しを
明らかにした(毎日新聞4月26日夕刊)。
いわゆる「日本側負担3兆円発言」である。
3兆円と言えば国民一人当たり約2万5千円。
4人家族で約10万円の負担になるという
実にとんでもない金額だ。

防衛庁の守屋武昌事務次官も
その前日、24日の講演の中で、
在日米軍再編経費の日本側負担は
「グアム移転経費を除き
 8年間で2兆円と試算している」と述べている(毎日新聞4月27日)。

この試算で除かれているグアム移転経費の日本側負担は、
4月23日の額賀・ラムズフェルド合意によると
総額102億7000万ドルのうちの59パーセントにあたる
60億9000万ドル(約7100億円)である(毎日新聞4月25日)。
これを含むとローレンス国防副次官の言う「日本側負担3兆円」も、
「細かく積み上げた数字ではない」ということではあるが、
あながちデタラメというわけでもなさそうだ。

そもそも日本は、
年間約2300億円もの「思いやり予算」
在日米軍に払い続けている。
これはいわば、
『居てやっているんだから金をよこせ』という米軍の要求に答えた
「みかじめ料」のようなものである。
これに対して今回の在沖縄海兵隊のグアム移転費用は、
言うなれば、
『出て行ってやるんだから金を出せ』というものだ。
海兵隊が常駐することで、
沖縄県民がこれまで多大な負担を被ってきたのは事実であるが、
アメリカの軍隊がアメリカ国内に基地を作るのに
その費用の半分以上を日本側に負担しろというのであるから、
実に理不尽な話である。

政府・与党は「日米同盟のため」といって、
こうした負担を正当化しようとする。
しかし、
いかなる軍事同盟も、
条約上の権利と義務で組み立てられているものである。
「思いやり予算」も「基地移転費用」も、
そもそも日米安保条約には一切規定されてはいない。
にもかかわらず、
とにかく「日米同盟のため」ということであれば、
いかなる名目であれ なりふり構わず金を出す……。
これはまともな主権国家ではありえない、
異常な「言いなり」の姿ではないか。

僕は、今回の米軍再編にともなう
アメリカ言いなりの「日本側負担」の支出に反対する。
戦争支持・対米追随の小泉政権を打ち倒し、
理不尽な日本側負担を阻止しよう!
このような税金の無駄遣いを改め、
真の国民福祉のための民主的政権を打ち立てよう!


《関連記事》
「思いやり予算」、バーの人件費も負担
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by imadegawatuusin | 2006-05-12 15:12 | 政治

――お嬢様監督、合宿に行く――

■リリイに迫られ断れず
私立男子校・翔之原高校野球部が
このたび合宿を決行した。
引率はもちろん、
お嬢様監督・琴宮まりあさんである。

「最初はレスリング部の安岡先生に
 代わりに行っていただこうかとも思っていたんです。
 だって最近、
 野球部部長の太宰くんと
 いろいろ変な噂を立てられているでしょう。
 でも樋口くん(リリイ)が、
 『琴宮サンが行かなかったら、
  女の子はアタシ一人になっちゃうじゃない』と言い出して……」。

「樋口くん」とは野球部のエース、
樋口百合夫くんである。
男子校に通ってはいるが、
「頭のてっぺんから足の先まで女の子」を自認する。
校内では「リリイ」の愛称で親しまれている、
少しキツめの美少女だ。
(そのためしばしば、
 野球部のマネージャーと勘違いされることがある)。

関係者によると まりあさんは、
「若くてかわいい女の子を、
 たった一人で、
 野郎どもと一緒に行かせて平気なの?
 アタシに子供ができちゃったら、
 琴宮サンが引きとって育ててくれるの?」
とリリイに持ち前の気迫で迫られ、
逆らえなかったようなのだ。
(しかしいくら何でも子供はできないだろうと思うが)。

これまでまりあさんは
樋口くんのことが少し苦手であったという。
確かに樋口くん(リリイ)はまりあさんを、
「女は胸の大きさじゃない」・「デブ」などと、
客観的に見ればほとんど逆恨みではないかとも思われる言葉で
ののしった「前科」がある。

しかし今回の合宿で、
まりあさんは樋口くんと
「少しだけ仲良くなれた気がしてうれしかった」と語っている。
まりあさんによると、
同室になった樋口くん(リリイ)は、
化粧品の使い方についてアドバイスしたり、
日焼け止めクリームについての説明をしてくれたりして、
すっかり打ち解けたということなのだ。
「楽しかったですよ。
 樋口くん、
 『アタシ達野球をする女性にとって一番の敵は、
  相手チームのピッチャー、バッターじゃなくて、紫外線よ!
  青空の下で明るく楽しく野球をするには、
  日焼け止めの厳選は不可欠よ!』なんて力説しちゃったりして……」。

■まりあさんの心のオアシス・中原由羽くん
今回の合宿先には、
黒いグランドピアノが置かれていた。
小さいころからピアノと生活を共にしてきた
ライトの中原由羽くんが喜んだことは言うまでもない。
副部長の夏谷魁くんは、
合宿先の選定にあたって、
ひそかにピアノのあるところを探し回ったといわれている。
(関係者によると、
 「ナツさん(夏谷くん)はお由羽ちゃん(中原くん)にあまあま」とのこと)。

さらさらの茶色の髪と大きな目、
かわいく無垢な中原くんは、
「猛獣のすみか」と言われる翔之原高校における、
まりあさんの心のオアシスである。
まりあさんが野球部の顧問を押し付けられたばかりのころ、
辛い日々に耐えられたのは、
中原くんがいたからだとまりあさんは振り返る。
まりあさんは中原くんを、
「天使のような存在」と言ってはばからない。

そんな中原くんを巡って、
今回の合宿ではひと悶着あったという情報を入手した。
もともと中原くんに想いを寄せていたセカンドの永井達樹くんと、
中原くんが野球を始めるきっかけとなった
憧れのバッター・正宗一也くんとの間で
三角関係が勃発したというのである。

関係者は次のように語っている。
「もともとお由羽ちゃん(中原くん)の指導役は
 永井だったのよ。
 お由羽ちゃんは中学のころ、
 指に怪我したら大変だからって野球の授業は全部見学させられて、
 全く初心者だったじゃない。
 それで永井は、
 お由羽ちゃんのことをかわいがって、
 あれこれ世話を焼きまくってきたわけよ。
 お由羽ちゃんって、
 いたいけで庇護欲そそるとこあるじゃない。
 それを正宗が、
 ひっさらって行っちゃったわけだから、
 やっぱり焼きもち焼いちゃうわよねー」。

この件で
永井くんが合宿先でトラブルを起こしたとの情報もあり、
本紙は当事者3人にインタビューを試みたが、
永井「う……うるさい! 帰れ帰れっ!」
中原「え……いや、その話はちょっと……(少し顔を赤らめて)」
正宗「……(無言)」
という結果に終わり、
その詳細を把握することはできなかった。

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【本日の読了】
野村美月『天使のベースボール2巻』ファミ通文庫(評価:3)

《参考記事》
野村美月『天使のベースボール』について
野村美月『“文学少女”と死にたがりの道化』
続・野村美月『“文学少女”と死にたがりの道化』
続々・ 野村美月『“文学少女”と死にたがりの道化』
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by imadegawatuusin | 2006-05-11 14:28 | 文芸

――お嬢様監督、球場を駆ける――

■「私は野球を憎んでいました」
「最初は、無理やり押し付けられたんです。
 野球のことなんてほとんど何も知りませんでしたし、
 野球を憎んでさえいたんです」。
私立男子校・翔之原高校野球部の監督・琴宮まりあさんは
そう語る。

琴宮まりあさんはいわゆる「お嬢様」だった。
4歳で聖クララ女学院の付属幼稚園に入学し、
初等部、中等部、高等部、とつつがなく進学。
この春 短大を卒業した。

彼女には、
中学生のときからすでに許婚が決められていた。
戦後急成長した企業グループの御曹司で、
頭脳明晰でスポーツマンで、
何をやらせても完璧な人であったという。
彼女は、短大卒業後はその人のもとに嫁ぎ、
穏やかな一生を送るものだと思っていた。

しかしその人は
家業を継ぐことを拒否してプロ野球選手となる。
まりあさんのお相手は、
現在 ゴールデンルーキーとして球界に旋風を巻き起こしている
織川慶吾選手だったのだ。

まりあさんとの婚約も破談。
そしてそのことをきっかけに、
まりあさんの父親が経営していた会社は
織川グループからの支援を打ち切られ、
事実上倒産してしまう。
こうしてまりあさんは、
生活のために、
私立男子校・翔之原高校に古典の教員として務めることとなった。
だからまりあさんは、
自らの人生を狂わせた「野球」というものを
ひそかに憎んでいたのだという。

■押し付けられて監督に
まりあさんが監督に就任した当時、
翔之原高校野球部の部員は8名。

髪を真っ赤に染め上げ耳にはピアスをジャラジャラつけて
一見不良風に見えるのだが、
実は料理やお菓子作りの得意な太宰千草くん(部長)。

太宰くんの親友で、
地域一帯の暴走族総長を務め、
趣味は園芸という のんびり屋の夏谷魁くん(副部長)。

巨体と怪力の持ち主で、
趣味は絵を描くことというマイケル=ヘミングウェイくん。

陰気な占いマニアの国江田守くん。

性格はキツイが「リリイ」の愛称で親しまれている
スレンダーな金髪美少女・樋口百合夫くん。

ピアノの腕前は海外で賞を取ったこともあるほどで、
名門・清和学園の芸術科への進学が期待されていたにもかかわらず、
野球をするため翔之原高校に入学してきた
無垢で優しい中原由羽くん。

そんな中原くんに想いを寄せる
やんちゃ坊主の永井達樹くん。

校舎の3階の窓からよく飛び降りて運動場に向かう
せっかちで身軽な尾崎風太くん。

……
個性的な面々のそろった野球部の顧問にはどの先生もなりたがらず、
新任教師の まりあさんにその役が押し付けられたというわけだ。

■9人目獲得に四苦八苦
野球は9人のメンバーが集まらないと試合が成り立たない。
そのため当初は まりあさんが、
自ら試合に参加したこともあったそうだ。
(まりあさんの元婚約者の織川慶吾選手が、
 野球部の指導にきたこともあるとの噂もあるが、
 いまだ確認は取れていない)。

そんな翔之原高校野球部がついに獲得したのが、
中学時代は都大会で打率6割を超えたという天才バッター、
正宗一也くんだった。
全打席ホームランで10点差をひっくり返した伝説は、
今も なお語り草である。
(クラシックピアノ一本槍だった中原くんは、
 この試合を見て正宗くんに憧れ、
 野球をやってみたいと思ったのだという)。

■「晴れた日には野球をしよう」
そんな部員たちと活動を共にしてゆく中で、
まりあさん自身、
野球に対する認識を改めてゆく。

翔之原高校野球部には、
部長の太宰千草くんが提唱するポリシーがあった。
「一つ、晴れた日は野球をしましょう。
 二つ、野球は楽しくやりましょう」。
(翔之原高校野球部が雨の日に練習をしないのは、
 このポリシーに忠実であろうとするためだという)。

まりあさんは、
「野球はスカッと晴れた青空の下で、
 楽しくするもんなのヨ」と言った太宰くんの言葉を
今でも忘れることができない。

最後にまりあさんは、
本紙のインタビューに答えてこう言った。
「自分の意思で監督になったわけではありませんでした。
 けれど、今は違います。
 晴れた日には野球をしよう、
 この先もずっとそうしようと
 今では思っているんです」。

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【本日の読了】
野村美月『天使のベースボール』ファミ通文庫(評価:3)

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by imadegawatuusin | 2006-05-10 23:24 | 文芸