――「元ネタ」の解釈そのものに再検討を迫る新視点――

■巧みなミスリードで原作に切り込む
野村美月さん『文学少女』シリーズがすごいのは、
単なる「文学紹介」や「文学をネタにしたパロディー」に終わらず、
それ自体が、
「元ネタ」となった文学作品に対する独自の解釈を含む
優れた批評的作品に仕上がっているという点だ〔注1〕。

たとえば。
本作『“文学少女”と死にたがりの道化』では、
作品前半、
手紙の中に記されている「あの子」を、
あたかも竹田千愛のことであるかのように
読者に錯覚させようとする作為がほどこされている。
手紙は「あの子」のことを、
次のように記している。

自分のことを好きだといってくれたあの子も、
犬のようでした。

無邪気で明るく、
いつも楽しそうに笑っている、
子どもっぽいあの子。
あぁ、
自分も、あんなふうであれば、
どんなによかったろう。

けど、
そんな平和で単純なあの子が、
自分は憎らしくもあったのです。(本書55~56ページ)


この手紙の中で、
「自分のことを好きだといってくれたあの子」が
「犬」や「子ども」に例えられているという点に注目してほしい。
「犬」と「子ども」。
これはどちらも、
竹田千愛の第一印象に
ピタリと重なり合うものである。
竹田千愛が初登場した際、
本作は彼女を次のように描写している。

ドアが開くと同時に、どさっという音がして、
誰かが前のめりに転げ込んできた。

床にかえるみたいに倒れている女の子は、
制服のスカートがめくれ、
くまのパンツがもろ見えだ。

今年小学校に入学した妹が同じようなパンツを持ってたな、
なんてことを考えていたら、
「はぅ~」とか「うにゅ~」とかうめきながら体を起こした。

……ふわふわした髪を肩の上までのばした、
小さくてふっくらした女の子だ。
ミニチュアダックスフントとか、トイプードルとか、そんなイメージ。(本書15~16ページ)


竹田千愛も「あの子」と同様、
「犬」や「子ども」のイメージで描かれていることが見て取れる。
こうした印象操作・叙述トリックによって、
読者は「あの子」を無意識のうちに
竹田千愛に重ねて見るようになり、
手紙の筆者が「愁二先輩」であるとの誤解を
強めてゆくカラクリになっている。
そしてその「期待」を徹頭徹尾 裏切りぬくことによって本作は、
単にミステリとして優れているといった次元に留まらず、
「元ネタ」である『人間失格』という作品の読み方にまで、
重大な再検討を強いるのだ〔注2〕。

結論からいうと、
竹田千愛は「あの子」ではない。
それどころかこれらの手記の著者こそが、
竹田千愛だったのである。
「無邪気で明るく、
 いつも楽しそうに笑っている
 ……平和で単純なあの子」像は、
全て竹田千愛の意図的な「演技」で
作られたものにすぎないことが
作品後半 明らかになる。
(作品の中で太字のブロック体で記された手記は、
 すべて竹田千愛の手によるものであり、
 片岡愁二の「手紙」は天野遠子と井上心葉の会話の中で
 その数節が明らかになるのみである)。

主人公の目に、
「無邪気で明るく、
 いつも楽しそうに笑っている」ように写るからといって、
その人物が本当に「平和で単純」であるとは限らない……。
ただそんな人物像に、
あこがれを抱いているだけの人物の演技である可能性は
どこまでいっても否定できない。
もしそうだとすれば、
これはつまり、
太宰治の『人間失格』の主人公・大庭(おおば)葉蔵が
「よごれを知らぬヴァジニティ」(太宰治『人間失格』新潮文庫116ページ)、
「信頼の天才」(前掲書118ページ)とのみ描く「ヨシ子」もまた、
「もう一人の道化」でなかったという保障はどこにもない、
ということになりはしないか。

本作の主人公・井上心葉は、
竹田千愛の「演技」に気付いたとき、
次のように独白している。

これまで竹田さんが僕に語った言葉が、
頭の中でくるりと一転し、
まったく違う意味を持つ別の言葉に変わってゆく。(本書217ページ)


この瞬間 本書は、
竹田千愛のこれまでの言動のみならず、
太宰治の『人間失格』という作品そのものに対しても、
これと同様の重大な再検討を迫るものとなる。
もし、
大庭葉蔵の目に「よごれを知らぬ」「信頼の天才」と写った「ヨシ子」が、
本書の竹田千愛と同様、
実は「道化」にすぎなかったのだとすれば……。
そうした視点を導入しただけで、
太宰治の『人間失格』という作品は、
その様相を一変する。
『人間失格』に描かれた、
「ヨシ子」に関する全ての記述が、
「頭の中でくるりと一転し、
 まったく違う意味を持つ別の言葉に変わってゆく」ことになるだろう。

■太宰治『人間失格』の新解釈
例えば、
「ヨシ子」の初登場シーンである。
ここで「ヨシ子」は、
酔っぱらってマンホールに落ちた
『人間失格』主人公・大庭葉蔵を手当てしながら、
「飲み過ぎますわよ」とたしなめる。
そして葉蔵は、
「やめる。
 あしたから、一滴も飲まない」
と誓いを立て、
「やめたら、ヨシちゃん、
 僕のお嫁になってくれるかい」と
「冗談」で言う。
「ヨシ子」は
「モチ(筆者注:=勿論)よ」と快諾。
しかし葉蔵は、
翌日さっそく昼から酒を飲んでしまう。
「ヨシちゃん、ごめんね。
 飲んじゃった」という葉蔵に、
「ヨシ子」は、
「あら、いやだ。
 酔った振りなんかして」と
言うのである。

ここで葉蔵は、
「ハッとしました。
 酔いもさめた気持ちでした」と記述する。
葉蔵が、
「本当に飲んだのだよ。
 酔った振りなんかしてるんじゃない」と言っても、
「からかわないでよ。
 ひとがわるい」と、
「てんで疑おうとしない」という。
「かつごうったって、だめよ。
 昨日約束したんですもの。
 飲む筈が無いじゃないの」と
「ヨシ子」は言う。
葉蔵は、
「ああ、よごれを知らぬヴァジニティは
 尊いものだ」と「ヨシ子」の純粋性に感激し、
「その場で決意し」、
「結婚」してしまうのである(太宰治『人間失格』新潮文庫115~116ページ)。

だがこれが、
「ヨシ子」の、あくまで葉蔵と結婚するための
「演技」であったのだとしたら、
葉蔵の「冗談」を実現させてしまおうという、
「ヨシ子」の一世一代の
計算高い演技であったと考えれば
どうだろう。

「ヨシ子」はこのとき、
実は葉蔵の顔が赤いことにも
はっきり気づいていたのだが、
「夕日が当たっているからよ」の一言で
かたづけている(全掲書116ページ)。

葉蔵は、(冗談で)
『酒をやめたら結婚してくれ』とプロポーズした。
「ヨシ子」はこれを受ける。
でも、翌日 葉蔵は
やっぱり酒を飲んでくる。
ここで「酒を飲んでいる」と認めてしまえば、
自分は葉蔵と結婚することはできない。
そこで「ヨシ子」は、
葉蔵の顔が赤いことも夕日のせいにして、
「昨日約束したんですもの。
 飲む筈が無いじゃないの」と
あたかも純真な、
「信頼の天才」をよそおってそれを否定し、
葉蔵がそれにころっと騙されたのだとしたら……。

『人間失格』の各手記は、
大庭葉蔵の一人称の視点から描かれており、
このとき『本当は』「ヨシ子」がどういった気持ちだったのか、
読者には確認するすべがない。
そう考えると、
『人間失格』という作品の根底が
がらりと崩れ、全くあたらしい世界が
顔を覗かせることになる。

これは ほんの一例にすぎない。

野村美月さんの『文学少女』シリーズは、
単なる「文学紹介」や「文学をネタにしたパロディー」ではない。
一作一作が、『元ネタ』とされた作品の通釈に重大な再検討を迫る
極めて批評的な作品なのだ。


〔注1〕本作の主人公・井上心葉自身、本書の中で、
「文学の解釈なんて人それぞれ」と言っている(本書37ページ)。

〔注2〕本書『“文学少女”と死にたがりの道化』と併読するのであれば、
太宰治の『人間失格』は新潮文庫から出ているものをお薦めする。
遠子先輩の太宰薀蓄の中にある「潜在的二人称」(本書91ページ)というフレーズなどは、
新潮文庫の奥付にある奥野健男氏の「解説」によるものである(奥野健男「解説」太宰治『人間失格』新潮文庫157ページ)。
著者・野村美月さんも、
現在書店で発売されているものの中では
新潮文庫版を参考にしたことを明らかにしている(本書254ページ)。


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野村美月『“文学少女”と死にたがりの道化』
「続・野村美月『“文学少女”と死にたがりの道化』」


《参考サイト》
野村美月『天使のベースボール』について
野村美月『天使のベースボール2巻』について

太宰治『人間失格』について
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by imadegawatuusin | 2007-02-11 17:58 | 文芸

■公正さを欠いた日英言語比較
小学生用の国語教材・『読解の基礎』(JESDA)の
「書きぬき問題9」の項に、
国語学者・金田一春彦氏の著書『日本語』から取った問題が
収録されている。
「お茶が入りました」という表現に、
「自分の手がらは極力かくそうとする、
 ……日本人の心づかい」を見出すという文化論である。

確かに、問題を解くという作業を通じて
文化論や言語論に触れることは、
文化や言語といったものについて考えをめぐらせる良い機会となる。
単に子供たちの読解力を向上させるというだけでなく、
そうしたものに対する興味・関心を高め、
自分なりの思想を芽生えさせるきっかけにもなるはずだ。

しかしこの文章は、
今日の目から見ると非常に問題点が多いように
思われてならない。
小学生の子供たちが「国語」を学習する教材として、
明らかに不適切であると僕は思う。

この文章は、
「お茶がはいりました」に代表される
「自分の手がらは極力かくそうとする」表現を
「何と美しい言葉であるか」と絶賛する。
ここまでは、まあいい。
看過できないのは、
これと対比される形で「アメリカ」の例が
次のように記載されている点である。

日本人がアメリカへ行って
色の黒いお手伝いさんをやとう。
その人間が台所でコーヒー茶わんを割った。
何と言うか。

 「お茶わんが割れたよ」

と言うのだそうだ。
「お茶わんを割った」とは言わない。


そして、

日本人は違う。
……自分の責任にして、

 お茶わんを割りました

と表現するのである。


と続けるのだ。

つまり、「日本人」は
「お茶を入れた」という「自分の手がら」を「極力かくそうとする」ために、
「お茶がはりました」と
あたかもお茶がひとりでに入ったかのような表現をする。
その反対に「アメリカ」の「色の黒いお手伝いさん」は、
「茶わんを割った」という自分の落ち度を「極力かくそうとする」ために、
「お茶わんが割れたよ」と
あたかも茶わんがひとりでに割れたかのような表現をすると言うのである。
(日本人ならこのようなとき、
 「お茶わんを割りました」と表現するとも)。

これは、
日本とアメリカとの文化比較、
あるいは日本語と英語との言語比較の例として、
あまりに公正さを欠いたやり方だ。

まず、中学生レベルの英語の知識さえあればわかると思うが、
英語(特に英米において話される英語)において、
茶わんを割ったときに「お茶わんが割れたよ」などと言うことは
まずありえない。
そもそも英語には、
「割れる」などという動詞自体が存在しない。
(細かく探せばもちろんあるかもしれないが、
 あまり一般的な表現でないことは確かであろう)。

英語にあるのは"brake"(「割る」)と"be broken"(「割られる」)だけである。
そして英語は日本語と違い、
文に必ず主語を必要とする。
したがってアメリカの「お手伝いさん」には、
うっかり茶わんを割ってしまい、
「何があった!?」と聞かれたときには、
次の2通りの答え方しか存在しない。

1つは"I"(「私」)を主語とする答え方、

"I broke your cup."(「私があなたの茶碗を割りました。」)


もう一つは"cup"(「茶わん」)を主語とする答え方、

"Your cup was broken (by me)."(「あなたの茶わんが(私によって)割られました。」)


である。
「割れる」に当たる動詞がなく、
かつ、
「主語」を明示せずに「茶碗を割りました」などと言うことができない以上、
「お手伝いさん」は上のどちらかの表現を選択しなければならない。

そしておそらく、
この「お手伝いさん」は2番目の表現を選択したのであろう。
まず伝えるべきは「何があったか」である。
「私」について伝えるべきなのか、
それとも「茶わん」について伝えるべきなのか。
何よりも先に伝えなければならないのは
やはり後者であろう。
(筆者の想定する「日本人」も、
 「お茶わんを割りました」と、
 「お茶わん」を枕にして話をしている)。

したがって「お手伝いさん」は、
「茶わん」を主語にして言ったのだ。

"Your cup was broken."「あなたの茶わんが割られました。」


と。

しかし、筆者の友人である日本人は、
「茶わん」を主語にしたこの文を、
とっさにこのように訳して理解してしまったのだ。

「お茶わんが割れたよ」


日本人は「茶わん」のような「もの」を「主語」にする文に
なじみが薄い。
だから、
「茶わんが割られた」というような表現が
とっさには受け入れがたかったのであろう。

そもそも、
「あなたの茶わんが割られました。」というのは、
どう考えても日本語としては悪訳である。
だから、
"Your cup was broken."と聞いてとっさに
「お茶わんが割れたよ」と理解したこの人物は、
ある意味では非常に健全な日本語力を有しているわけだ。

しかし、それを元に、
『日本人は責任を引き受けるがアメリカ人は無責任だ』というようなことを言うのは、
明らかに不公正だ。

「お茶わんを割りました」という表現に「私が」という意味が潜在しているのと同様、
"Your cup was broken."には"by me"という意味が潜在している。
どちらが責任があるとか、無責任だというような問題ではないのである。

しかし、この文章にはさらに見過ごせない問題点がある。

■黒人に対する偏見を助長させかねない記述
茶碗を割ってその責任を免れようとするお手伝いさんについて、
「色の黒い」と書かれている点である。
「色の白い」お手伝いさんならこのようなことはしないのだろうかと
意地悪なことを考えてしまう。

少なくともこのケースにおいて、
唐突に肌の色を持ち出す必要はなかったはずだ。
関係のない「肌の色」を
どうして持ち出したりしたのだろうか。
僕はどうも、
ここに黒人に対する「悪意」のようなものを感じてならない。

言語に関する不正確な情報を元に、
一方の言語を用いる民族の「心づかい」を褒め上げたり、
特定の肌の色の人たちに対する偏見が垣間見られる文章を、
そうした点について何の説明もないまま小学生の学習教材として使用することは
好ましくないと僕は思う。

本教材の発行元であるJESDAは、
本書の再版にあたっては、
「書きぬき問題9」の掲載の是非について、
もう一度検討し直すべきであると考える。
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by imadegawatuusin | 2007-02-09 19:13 | 日本語論

――「性同一性障害者」に無用の躊躇を強いるな――

■性別の違う「替え玉投票」の想定など突飛
私たちの社会には、
生物学上の性別と自己意識上の性別との不一致に苦しむ
「性同一性障害者」が存在する。
その中には、
ホルモン療法などによって外見を自己意識上の性別に合わせ、
日々の生活を送っている人も少なくない。

先日、
田原市議会議員の選挙が行なわれ、
僕のもとにも選挙の投票券が送られてきた。
その投票券には有権者の男女の別が記されていた。
それは、
戸籍上の性別と生活上の性別とがごく自然に一致する人間の目には、
ごく普通の、
極めて些細な記載に映るかもしれない。

しかし例えば、
外見上女性に見える(戸籍上の)「男性」が
この投票権を受け取った場合、
投票券には「男性」と記載されているわけであるから、
非常に投票に行きづらくなる。
「もしかすると他人の投票権を不正行使していると
 勘違いされるのではないか」、
「投票所の入り口で、
 地域の人々も見ている中で、
 自分の戸籍上の性別とその外見とが異なっている理由を
 説明しなければならないのだろうか」などと悩み、
投票を躊躇する人も存在すると聞いている。
特定の立場の人々に参政を躊躇させうるようなやり方は、
選挙の公平性という観点から考えても、
極力避けるべきことである。

2003年の「性同一性障害者特例法」の公布によって、
「外性器の整形手術を受けていること」、
「結婚していないこと」、
「子がいないこと」など、
一定の要件を満たす「性同一性障害者」に対しては、
戸籍上の性別の変更が認められるようになった。
しかし言うまでもなく、
「性同一性障害者」の全てがこれらの要件を
完全に満たしているというわけではなく、
戸籍上の性別と生活上の性別とが一致しない人々は
今なお少なからず存在する。

そもそも、
「替え玉投票」の防止のためには、
生年月日の確認で充分である。
もし不審な点があった場合は、
身分証明書の提示を求めるなどの対処をすればよいだろう。
「替え玉投票」を企むものが、
あえて自分とは違う性別の人間に成りすまして投票したりするものだろうか。
立会人の記憶などにも残りやすく、
不正の発覚を容易にするだけであり、
極めて考えづらいことである。

選挙の公平性を確保し、
多様な民意を議会に反映させるためにも、
全ての有権者が投票に行きやすい環境を整えることが大切である。

僕は以上の観点から、
選挙における投票券には有権者の男女の別を記載しないこと、
また、
国や自治体において扱う他の公文書についても、
必要性の低い男女記載の削除を促進するのが望ましいと考える。

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by imadegawatuusin | 2007-02-01 03:48 | 差別問題