――独裁批判演説の矢先に――

■20名死亡、負傷者多数の自爆テロを糾弾する!
軍政の続くパキスタンで、
民主化を掲げる「パキスタン人民党」総裁のベナジル=ブット元首相が
27日、暗殺された。
来年1月の総選挙に向け、
「この国は独裁者により踏みにじられてきた」との
ムシャラフ現政権への痛烈な批判演説を繰り広げた
その15分後、
銃撃と自爆テロとが
ブット元首相とその支持者らを襲ったのである(中日新聞12月28日)。
死者は約20名に及び、
多数の負傷者が出ているという(朝日新聞12月28日)。

ブット元首相が率いるパキスタン人民党は、
我が社会民主党(日本)と同じく、
社会民主主義政党の国際組織・社会主義インターナショナルに
加盟している〔注1〕。
ジアウル=ハク将軍の軍事クーデターにより失脚し処刑された
ズルフィカル=アリ=ブット元首相を父に持ち、
高い大衆的人気を誇るベナジル=ブット元首相を頂く同党は、
単一政党としてはパキスタンで最も支持基盤が広く、
来年1月8日の総選挙で躍進が確実視されてきた。

■国連安保理、テロ非難の議長声明採択
国連の安全保障理事会は27日、緊急会合を開き、
「過激派による自爆テロ攻撃を最も強い表現で非難する」
との議長声明を採択した。
議長声明は全てのパキスタン国民に
自制と安定維持を求めるとともに、
犯人らが法の下に裁かれる必要性を強調し、
加盟国に積極的な協力を促している(朝日新聞12月28日)。

今回のテロは明らかに、
1月8日の総選挙において、
ベナジル=ブット元首相の率いるパキスタン人民党が
民主的な基盤の上に躍進することを
妨害しようとしたものである。
ブット元首相の支持者の一部には、
憤りのあまり暴動に走る者も出ているというが、
このような挑発に対して暴力をもって対抗することは、
むしろ民主主義の妨害をたくらむテロリストの意図に
手を貸す結果となってしまう。
またそうした暴動は、
戒厳令の再発令や大衆集会の高圧的な圧殺といった、
ムシャラフ政権が目論む強権的な対応に
絶好の口実を与えることにもなりかねない〔注2〕。

ブット元首相亡き後もパキスタン人民党が党の団結を維持し、
総選挙において圧倒的な多数を獲得してこそ、
テロリストの思惑は打ち砕かれることとなる。
ムシャラフ政権は今回の事件を口実に、
パキスタンの民主化を一歩たりとも遅らせてはならない。
来年1月8日に予定通りに自由で公正な選挙を実施し、
この国がテロリズムには屈服しないということを、
パキスタンが再び民主主義を回復することを通じて
国際社会に知らしめることが大切だ。

■上級判事を復権させ、国連による中立的な真相究明を!
今回の事件については、
イスラム原理主義組織の犯行との指摘が出されているが、
パキスタン軍の情報機関が関与したとの疑惑もくすぶっている。
ムシャラフ軍事政権が捜査を主導する限り、
その捜査に信頼性を置くことは困難だ。

国連は、
パキスタン民主化の妨害を狙った
今回のテロ事件の真相を究明するため、
2005年に起きたレバノン元首相・ハリリ氏暗殺事件の時のように、
独立調査委員会を設置するべきである。
事件の捜査はハリリ元首相暗殺事件の時と同様、
国連の独立調査委員会の主導で
行なわれるべきだ。

またムシャラフ政権は先月11月、
自身の「当選」した大統領選挙を巡る最高裁判所の審査で
自らに不利な決定が下されることを恐れて戒厳令を発令。
政権から独立的なイフティカル=チョードリ最高裁判所長官をはじめとする
多くの裁判官らを一方的に解任している。

戒厳令は今月15日に解除されたが、
チョードリ最高裁判所長官をはじめとする裁判官らの復権は認めず、
戒厳令下で指名された者たちが現在その席を占めている。

ムシャラフ政権は戒厳令下で解任された
チョードリ最高裁判所長官をはじめとする裁判官らを
直ちに復権させるべきである。
今回及び以前のブット元首相や その支持者を標的としたテロ事件の裁判は、
政権から独立的なこれらの裁判官によって
行なわれなければならない。

〔注1〕パキスタン人民党と同じ、
社会主義インターナショナル加盟政党である
日本の社会民主党の福島みずほ党首は、
事件後直ちに「ベナジル・ブット元首相の暗殺について」との談話を発表。
この中で福島党首は
「社会主義インター加盟党である
 パキスタン人民党(PPP)のブット党首が暗殺されたことに対して、
 深い哀悼の意を表すとともに、
 同時に殺害された他の人民党党員や支持者に対しても、
 哀悼の意を表す」とした上で、
「政治家を暗殺することによって民主的な選挙を妨害し、
 暴力によって自由な発言を封じ込めようとすることを
 強く糾弾する。
 パキスタンから独裁を排し民主主義を根付かせるために、
 最後まで全力で闘いつづけたブット党首の功績を忍ぶとともに、
 パキスタンが速やかに平和的で安定した社会となることを
 切望する」と述べている。
また社会主義インターナショナル系の
青年組織・社会主義青年インターナショナルに加盟する
社会主義青年フォーラム(日本)もまた、
「ブット暗殺を糾弾する」と題する談話を発表。
「我々は、
 いかなる政治的主張によるものであれ、
 テロによる殺傷を糾弾するものである。
 人権と民主主義を志向する社会主義青年フォーラムは、
 同じ価値観を共有する国際社会と連携し、
 またその維持発展に全力を尽くすものである。
 このような蛮行を糾すと共に
 今後の類似事件防止を強く訴えたい」としている。

〔注2〕国際的な人権擁護団体である
アムネスティ・インターナショナルも27日に発表した
「パキスタン : べナジル・ブットとパキスタン人民党職員らの暗殺を非難する」
という声明の中で、
「本日、
 パキスタンの元首相であるパキスタン人民党のベナジル・ブット党首と
 党職員15人が暗殺されたことを強く非難する」と宣言。
アムネスティ・インターナショナルの
キャサリン=バーバー アジア太平洋部長は、
「このような攻撃は決して正当化されるものではない。
 これは国際法違反であり
 民主主義のルールを破るものである」と批判している。
その上でキャサリン=バーバー アジア太平洋部長は、
「ムシャラフ政権は相当なプレッシャーの下、
 犯人を捕まえ国の平穏と安定を保つ努力をするだろう。
 しかし、アムネスティとしては、
 その際、ムシャラフ大統領そして治安部隊が自制し、
 法の支配を守ることを求めるものである。
 べナジル・ブット党首の殺害が
 文民政権の後退や市民的自由に対する
 さらなる弾圧を許すものとなってはならない」として、
今回の事件を口実としてムシャラフ政権が
強権的な政治手法をいっそうエスカレートさせることを
強く牽制した。

【関連記事】
パキスタン捜査当局:ブット氏は「射殺」 見方固める
[PR]
by imadegawatuusin | 2007-12-28 23:26 | 国際

――赤字を出して「公営ギャンブル」運営――

■外郭団体所管の文科省、「廃止」に反発
渡辺喜美 行改担当大臣は、
独立行政法人の整理計画をめぐり、
文部科学省の外郭団体が運営している
サッカーくじの廃止を求めた。
しかし、
文部科学省はこれに反発。
結論は持ち越しとなった模様だ(中日新聞12月6日)。

新聞報道によると、
サッカーくじの売上は年々減少しており、
2006年度の繰越欠損金は264億円に上っているという。

そもそも たとえ黒字であっても、
国家が国民に対して禁止している賭博行為を
公的機関が自ら公然と行なうこと自体、
道義にもとることである。
まして、
次代を担う青少年の育成を責務とする
文部科学省の外郭団体が
その胴元となっているなどとんでもない話だ。

しかも、バクチの胴元の位置を占めながら、
その事業が赤字であるというのであるから
開いた口がふさがらない。
このままでは、
こうしたギャンブルに一切手を出さなかった
真面目な国民の税金までもが
損失補填のために投入されることが避けられない。
傷口を広げないうちに、
早期に撤退すべきである。
国も自治体も財政難で、
福祉や教育にかける予算までが削られようとしている中で、
どうして赤字を出してまで「ギャンブルの胴元」を
続ける必要があるというのか。

サッカーくじは直ちに廃止すべきである。
文部科学省は自らの職責をもう一度思い起こし、
真の意味での教育行政に専念してほしい。
[PR]
by imadegawatuusin | 2007-12-06 10:09 | 政治

■その後の仏教
ブッダの死後、
彼の教団は
出家修行者を中心に運営された。
彼らはブッダの教えの理論的な研究に
重点を置いた。
ブッダの説いた教義教理を
組織化・体系化して把握することを目指したのだ。
そのこと自体は、
仏教が「智慧」を重視する合理的思想である以上、
当然の流れだったと僕は思う。

しかしこの流れは、
やがて人間日常の生活とは遊離した
煩瑣な議論に終始する傾向に行き着くことになる。
ブッダの言うところの「煩悩」の正体を正確に知ろうとして、
それを108つだかいくつかに非常に細かく分類し、
その区分の仕方を巡って延々と議論を繰り返したりするようになった。
ブッダの言葉を借りれば、
「毒矢の材質」を知るための議論に
終始するようになったのだ(『仏教「超」入門』117~118ページを参照)。

これはキリスト教で言えば、
その神学研究が「聖書の解釈の解釈の解釈」に堕し、
やがてスコラ哲学(=煩瑣哲学)の行き詰まりにぶつかったことに
相当するのかもしれない。
本来 平明を旨としたブッダの教えは、
このような不毛な議論の中でズタズタに切り裂かれていった。

さらに、
教団運営の主導権を出家指導者が握ったことで、
教団は、
ごく一部の宗教エリートたちが
個人的に悟りを開くことのみを目指す運動へと
矮小化されていった。
広く大衆の中に分け入って、
一人でも多くの人々と幸福を分かち合おうと奮闘したブッダの実践は軽視され、
現実社会・生活を避けて、
どこか遠くに悟りや幸せを求めようとする傾向が強まったのだ。

しかしこのようなあり方は、
やはり「宗教改革」によって覆される運命にあるのだろう。

こうした流れ(=「小乗仏教」)に抗して現れたのが
いわゆる「大乗仏教」であった。

「大乗仏教」はもともとは、
煩瑣な議論の中にかき消されつつあった、
「すべての物事の性質は
 相互の関係の中で成立する」というブッダの教えを
「空」の思想として捉えなおす原点回帰(=ルネッサンス)運動であった。
そしてまた、
一部の宗教エリート(=出家修行者)から一般の在家信者へと
教団の主導権を取り戻そうという民衆運動でもあった。

「大乗仏教」初期の経典である、
『般若心経』をはじめとする「般若経典」では、
「実体」ではなく「関係性」を重視するブッダの主張が、
「空」の思想として鮮やかによみがえっている。

だが、
「民衆重視」の方向性は、
やがて悪い意味での「大衆迎合」へと向かっていってしまった。
それ以降作られたいわゆる大乗経典は、
ブッダ本来の精神からは
どんどん遠ざかっていったように僕には見える。

いわゆる「浄土三部経」(『無量寿経』・『観無量寿経』・『阿弥陀経』の3経典の総称)では、
本来は悟りに至った人間の穏やかな境涯を表わす
比喩的表現であったはずの「彼岸」(本書127~129ページを参照)が
「浄土」として実体化する。
悟りに至った人の心の平穏さが、
極楽浄土の素晴らしさ、
それも本書127~128ページにあるような、
(「極楽には五百億もの宮殿や楼閣がそびえている
  ……あたりは見渡す限りきらびやかな宝石だらけで……」というような)
実に即物的な「素晴らしさ」に
すりかえられてしまったのだ〔注1〕。
そして、
ブッダは「阿弥陀仏などという古い民間宗教の神様と
一緒にされ」てしまった(なだいなだ『神、この人間的なもの』岩波新書、111ページ)。
西方極楽浄土という観念的な、
死後の世界での成仏が説かれたためか、
「仏」というものがあたかも人間から離れた存在であるかのように
捉えられてしまったのだ。
また、
成仏とは死後の出来事であると考えたり、
死体を「ホトケ」と呼ぶなどの、
「仏」や「成仏」をいま生きている人間から切り離したものとして捉える
誤った風潮を生むこととなった。

『妙法蓮華教』(いわゆる『法華経』)では、
歴史上のブッダは仮の姿にすぎず、
遥か昔に成仏を遂げた永遠不滅の仏の化身であるなどと
臆面もなく説かれることになる。
もともとは、
個人としてのブッダその人などよりも、
普遍的なその教えの方が大切だという趣旨から出たのだろうが、
それがいつの間にやら、
逆にブッダの存在を限りなく神秘的なものとする
個人崇拝へとつながってしまった。

そして『大日経』などの密教に至って、
仏教はいよいよ呪術・祈祷をこととする、
儀式儀礼の「まじない宗教」に堕してしまう。

そして、
我が国・日本に広まった「仏教」は、
そのような「大乗仏教」だったのだ。

本書『仏教「超」入門』は、
ブッダ本来の教えに立ち返ろうという
原点回帰(=ルネッサンス)の呼びかけだ。
上に記した
「これまで安易にイメージされてきた仏教」を乗り「超」え、
本来の「仏(=ブッダ)」の「教」えの「門」に「入」ろうと説く。
『仏教「超」入門』という書名には、
僕たちへのそうしたメッセージが込められている。

本書が、一人でも多くの人たちにとって、
驚くほど新鮮で実際的なブッダ本来の教えに
触れる機会となれば幸いである。
〔注1〕鎌倉時代の僧で日蓮宗を開いた日蓮は、
「浄土」や「地獄」といったものについて、
「浄土と云うも地獄と云うも
 外(ほか)には候(そうら)はず・
 ただ我等がむねの間にあり、
 これをさとるを仏といふ・
 これにまよふを凡夫と云う」(『日蓮大聖人御書全集』1504ページ)、
つまり、
「浄土と言ったり地獄と言ったりするものも、
 ほかでもない、
 ただ私たちの心の中にあるものなのだ。
 この真理を悟った者を仏という。
 この真理を悟れない者を凡夫というのだ」と主張している。
日蓮宗ではこの主張を、
「一念三千」の法理と呼んで非常に重視している。
つまり、
「私たちの思い一つ(=一念)の中に、
 (浄土や地獄をはじめとする)三千世間(=全世界)が
 存在している」と考えるのだ。


酒井徹のおすすめ仏教書》
B=R=アンベードカル『ブッダとそのダンマ』山際素男訳、光文社新書


《戻る》
「白取春彦『仏教「超」入門』について(その1)」
「白取春彦『仏教「超」入門』について(その2)」
「白取春彦『仏教「超」入門』について(その3)」
「白取春彦『仏教「超」入門』について(その4)」
「白取春彦『仏教「超」入門』について(その5)」
「白取春彦『仏教「超」入門』について(その6)」
「白取春彦『仏教「超」入門』について(その7)」
「白取春彦『仏教「超」入門』について(その8)」
「白取春彦『仏教「超」入門』について(その9)」
「白取春彦『仏教「超」入門』について(その10)」

《進む》
「白取春彦『仏教「超」入門』について (補章1)」
「白取春彦『仏教「超」入門』について (補章2)」
[PR]
by imadegawatuusin | 2007-12-04 16:33 | 仏教

■ブッダは遺骨崇拝を否定した 
本書・『仏教「超」入門』にもある通り、
ブッダは死期が近づいたとき、
弟子たちに対してこう語った。

お前たちは修行完成者(ブッダ)の遺骨の供養(崇拝)に
かかずらうな。
どうか、
お前たちは、
正しい目的のために努力せよ。(本書29ページ)


ブッダは遺骨崇拝を否定した。
大切なのは、物質としてのブッダの遺骨などではなく、
ブッダの悟りの内容なのだ、と。

死期を目前にしてあえてこのようなことを言ったのは、
おそらくブッダ自身、
自らの遺骨が迷信的な崇拝の対象となるのではないかと
予感し、心配していたからであろう。

だが……。

しかし、
弟子たちは遺骨を分配した。
遺骨の供養と崇拝を始めた。
ブッダの死とともに、
葬式仏教が始まったといっていいだろう。

……ブッダの遺志ははたされなかった。(本書29ページ)


ブッダの心配は的中した。
ブッダの遺骨は現在でも、
「仏舎利」として、
世界中で崇め奉られ続けている。
(もっとも、
 その「仏舎利」の総量を合計すれば
 とてつもなく膨大な量になってしまうと言われる。
 そのようなものが本当にブッダの遺骨なのかどうかは
 確認のしようもないことであるし、
 仮に本物であったとしても、
 ブッダの教えた通り、
 そのようなことには何の意味もないものである)。


《戻る》
「白取春彦『仏教「超」入門』について(その1)」
「白取春彦『仏教「超」入門』について(その2)」
「白取春彦『仏教「超」入門』について(その3)」
「白取春彦『仏教「超」入門』について(その4)」
「白取春彦『仏教「超」入門』について(その5)」
「白取春彦『仏教「超」入門』について(その6)」
「白取春彦『仏教「超」入門』について(その7)」
「白取春彦『仏教「超」入門』について(その8)」
「白取春彦『仏教「超」入門』について(その9)」

《進む》
「白取春彦『仏教「超」入門』について(その11)」
「白取春彦『仏教「超」入門』について (補章1)」
「白取春彦『仏教「超」入門』について (補章2)」
[PR]
by imadegawatuusin | 2007-12-03 16:31 | 仏教

■「南無」(~に帰依する)をブッダはどう見るだろう 
日本は仏教国だ、と一般には言われている。
事実、日本人の大部分が「仏教徒」として、
その(「家」が)所属する寺院に登録されている。

しかし白取春彦さんは本書・『仏教「超」入門』の中で、
「日本が本当に仏教国であるかどうか、
 疑わし」いと言っている。
そして、
「もし仮に仏教国だとしよう。
 では、
 ブッダの教えた仏教を信じているのだろうか。

 ブッダがここにきたら、
 ためらいもなく『日本は仏教国だ』と言う確率は
 どのくらいあるものだろうか」と問いかけるのだ(本書182ページ)。

確かに、
「南無妙法蓮華経」と唱えることで
即身成仏が実現するとか、
「南無阿弥陀仏」と唱えれば
極楽往生間違いなしだとかいった類の、
我が国の「仏教」の主流派である
「南無」(~に帰依する)の信仰をブッダが知れば、
おそらく即座に、
「それは自分の教えとは異なるものだ」と言うだろう。

あらかじめ「阿弥陀仏」とか「妙法蓮華経」といった絶対的なものを設定し、
それへの帰依を説く「南無」の考え方は、
絶対的なものの存在やそれへの執着を否定する
ブッダの教えからは明らかに逸脱している。

日本の仏教徒の大半は、
「南無阿弥陀仏」の浄土宗系(真宗系を含む)か、
「南無妙法蓮華経」の日蓮宗系(霊友会などの新興教団を含む)で
占められている。
僕はいま、
日本人の大部分を敵に回す発言をしてしまったのかもしれない。
ただ、
本来の仏教の立場に立てば、
やはり以上のように言わざるを得ないのである。

ブッダは
「あの世」より「この世」、
「超越性」より「現実性」、
「神秘性」より「合理性」を重視した。

このような教えは、
あるいは宗教ではないと言われるかもしれない。
それならそれで構わないのではないかと僕は思う。

インド仏教復興の祖であるB=R=アンベードカルは、
その著書・『ブッダとそのダンマ』(光文社新書)の中で
次のように述べている。

ブッダがダンマと呼ぶものは
宗教とは根本的に異っている。
彼のダンマは
ヨーロッパ神学者が宗教と呼ぶものと似てはいるが、
類似性よりむしろ相違性のほうが遥かに大きい。
このためブッダのダンマを宗教と認めないヨーロッパ神学者も
かなりいる。
が、
このことで悔やむことは何もない。
悔やむのは彼らのほうであり
ブッダのダンマにはいささかの瑕(きず)もつかない。
むしろそれは
何が宗教に欠けているかを示しているといえる。(第4部第1章-2)



《戻る》
「白取春彦『仏教「超」入門』について(その1)」
「白取春彦『仏教「超」入門』について(その2)」
「白取春彦『仏教「超」入門』について(その3)」
「白取春彦『仏教「超」入門』について(その4)」
「白取春彦『仏教「超」入門』について(その5)」
「白取春彦『仏教「超」入門』について(その6)」
「白取春彦『仏教「超」入門』について(その7)」
「白取春彦『仏教「超」入門』について(その8)」

《進む》
「白取春彦『仏教「超」入門』について(その10)」
「白取春彦『仏教「超」入門』について(その11)」
「白取春彦『仏教「超」入門』について (補章1)」
「白取春彦『仏教「超」入門』について (補章2)」
[PR]
by imadegawatuusin | 2007-12-02 16:23 | 仏教

■仏教は悲観論か 
本書・『仏教「超」入門』白取春彦さんも指摘するとおり、
ブッダは、
「人間存在を苦しみであると見るところから出発した」(本書34ページ)。
このような仏教を、
「悲観論」あるいは「厭世論」であるとして非難する人もいる。

確かに、
「人生は苦しみに満ちている」という結論で終わってしまえば、
それは確かに悲観論・厭世論というものである。
しかし、
ブッダにとって「人生は苦しみである」というのは
あくまで出発点にすぎない。

彼は菩提樹の下で悟りを開き、
苦しみ=心の病を自らの力で克服し、
心の平穏を獲得した。
そしてその後は、
以前の自分と同様の「病」に今も苦しむ人たちに
自分の獲得した心の平穏を分け与えようと、
布教と説教にその生涯をささげた。

これが果たして、
単なる悲観論者・厭世論者の行動であろうか。

「インド仏教徒のバイブル」と言われる
『ブッダとそのダンマ』(B=R=アンベードカル)は、
この点について実に的確な指摘をしている。

ブッダのダンマは厭世観を生むと非難されてきた。
その非難の根拠は、
この世は苦であると説いた最初の説法にある。
しかしその苦に対する考察がそのような批判を呼ぶというのは
いささか意外である。
カール・マルクスは、
この世界には搾取が存在し、
富めるものは益々富み、
貧しいものは益々貧しくなるといっている。
だが誰も
マルクスの思想は厭世的だとはいっていない。
だのに何故ブッダの思想には
異なった態度をとるのか。
おそらく最初の説法の中で、
“生まれることは苦であり、
 老いも死も苦である”と語ったと記録されていることから、
教義の厭世観が殊更(ことさら)強調されたのであろう。

……しかしブッダは第二の説法で、
この苦は取り除かれねばならぬと強調している。
苦の除去を力説するために
苦の存在に言及したのである。
苦の除去こそ
ブッダが極めて重視したものである。
……

このようなダンマが
どうして厭世的といえよう。
苦の克服に熱心であった教師が厭世的だなどと
どうして非難できるのだろうか。(第6部第4章-3)



《戻る》
「白取春彦『仏教「超」入門』について(その1)」
「白取春彦『仏教「超」入門』について(その2)」
「白取春彦『仏教「超」入門』について(その3)」
「白取春彦『仏教「超」入門』について(その4)」
「白取春彦『仏教「超」入門』について(その5)」
「白取春彦『仏教「超」入門』について(その6)」
「白取春彦『仏教「超」入門』について(その7)」

《進む》
「白取春彦『仏教「超」入門』について(その9)」
「白取春彦『仏教「超」入門』について(その10)」
「白取春彦『仏教「超」入門』について(その11)」
「白取春彦『仏教「超」入門』について (補章1)」
「白取春彦『仏教「超」入門』について (補章2)」
[PR]
by imadegawatuusin | 2007-12-01 16:18 | 仏教