「ほっ」と。キャンペーン

哲学の始祖ターレス

原始の人々は、
自然を自然として見ることができず、
川が氾濫したら川の神が怒ったのだとか、
山が噴火すれば山の神が怒っているとか、
そういった人間的なものの見方を
自然に対して押し付けることしかできなかった。
いわば、
ものの見方・とらえ方が極めて人間中心的で、
主観的だった。

「自然と人間の関係について、
 自然を自然として
 客観的に人間から区別してみるというのは、
 非常に後の時代の観念であり、
 この観念に始めて到達したのは、
 二五〇〇~二六〇〇年前である」と
本書・『唯物論哲学入門』は述べている。

ここで紹介されるのは、
古代ギリシャのターレスという哲学者である。
世界で「最初の哲学者といわれてい」る彼は、
「全ての根源は水である」と主張した。
そして、
「その水のいろいろなあらわれ方が
 宇宙の変化にほかならない、というように
 説明し」たのである。

現代の科学水準や物理知識から言えば、
いうまでもなく事実としては間違っている。
本書の著者・森信成氏も、
「この説明の内容そのものは、
 ……非常に幼稚なものですから、
 たいしたことはない」と言っている。

しかし、
ターレスの
「世界というものの『とらえ方』・『説明の仕方』」の
革新性を捉えなければ、
なぜこの人物が「哲学の始祖」とされているのかが
わからない。

「ここで非常に重要なことは、
 彼が、
 宇宙の根源が物質的な水であるとし、
 しかも、
 この宇宙を自然の法則にもとづけて
 説明しようとしたことです。
 つまり、
 それまでは、
 天地の変化や運動を説明するのに、
 すべて神話によって、
 それらが神の創造、
 または、
 神の作用によって起こったとか、
 あるいは、
 占星術のようなもので説明していました。
 これに対して、
 このターレスが初めて自然を自然として、
 自然から説明する態度をとったのです」。
これが、
このターレスの画期的な点である。

そして本書は、
ここに哲学の歴史が始まったとする見方を承認して
次のように言う。
「彼は、
 宇宙の神話的解釈であるとか、
 占星術的な説明ではなく、
 自然を自然としてそれ自身から説明しました。
 ここから哲学が発生したのです」。


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『社会民主党宣言』を読む
新しい社会主義像を求めて
小牧治『マルクス』について
レーニン「マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分」を読む

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by imadegawatuusin | 2011-12-22 17:35 | 弁証法的唯物論

観念論の起源としての宗教

宗教というものを私たちは、
今では一つのたとえ話のようなものとして
受け取ることが多い。
たとえば『聖書』に書いてあることを一字一句、
事実としてその通りの出来事が起きたのだと信じる人は、
一部の原理主義者を除いて
今日ではほとんどいない。
しかしもともと、
「宗教は、
 身体と霊魂の関係とか、
 あるいは自然現象を説明する
 一つの『科学的な憶測』、仮説として
 アニミズムの観念が生まれるところから
 発生して」きたのである。

原始の人々は、
身体が活動していなくても見る「夢」というものから、
身体とは別個に身体の中で働く「霊魂」の存在を
想定した。
そしてそうした「霊魂」は
身体とちがって傷ついたり古びたりしないので、
身体の死後も生き続けると仮定した。
やがて身体から離脱したそうした霊魂は、
身体ではない現実の自然、現実の物体に
影響力を及ぼすと考えられ、
恐れられ、
祭られるようになり、
次第に「神」へと進化してゆく。
その大本は、
当時の人々の知識では説明の困難だった
精神と身体、個人と世界といった難問に、
何とか納得可能な説明を与えようという
苦闘の末に編み出された
「一つの『科学的な憶測』、仮説」だったのだ。

観念論はこうして発生した。


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by imadegawatuusin | 2011-12-20 17:18 | 弁証法的唯物論

唯物論と不死の思想

「人生の意義というのは、
 人類の幸福に
 われわれがどの程度貢献するのかということに
 あるのです」。
非常に明快な人生論である。
そして本書・『唯物論哲学入門』の著者・森信成氏は、
そうした人生観は
「個人として
 絶対に死ぬということが
 はっきりしている」ところから
導き出されるというのである。
「将来の、
 自分の死んだ後のことを考えて生きている時に、
 道徳的に行為するということが起こるのです」と。

では、
逆に道徳的に生きられないのは
どういったときのことなのか。
もし、
人間が「永遠の命」を手に入れてしまった場合、
人は道徳的に生きられないのか。
そしてもう一つ、
人間が自分の死後というものを考えないとき、
「死ねばすべてが終わり」・「すべてが無になる」と
観念論的・独我論的に考えたとき、
人は道徳的に生きられないのか。
これは意外に難しい問題である。

人間には「歴史観」というものがある。
自分に直接関係がないと思っても、
自分の生まれる前のことや、
自分の死んだ後のことが
どうしたことだか気になるという性質を持っている。
特に、
自分が死んだ後のことである。
自分というものが永遠に生きられず、
死んだ後に世界に残せるものは
自分が生きている間になした行為の
影響だけだということを知るからこそ、
自分のやったことが
自分の死後にどんな影響を与え続けるのかが
気になってしまう。

そうした、
「歴史の中の自分」という感覚がなくなったとき、
人は道徳的には生きられないのだろうか。

守旧的な人々は、
道徳の源として歴史より、
世間とか民族共同体のようなものを
意識する傾向がある。
「世間の中の自分」・「世間の一員としての自分」
という感覚がなくなれば、
人は道徳的には生きられないのではないかという危惧を
持つ人が多い。

一般に左翼は、
そうした「世間の中の道徳」を乗り越えようとする。
「世間様が見ているから悪いことはしない」といった
旧来型の感覚を超越しようとする。
そのときに何が道徳の動機となりうるのか、
「世間様」ではなく誰の目を意識するのか。
そこで持ち出されてくるのが
「歴史の審判」という考え方である。

本書の著者・森信成氏は、
「個人の生命の不死とは、
 唯物論の見地からいいますと、
 その人の行為そのものが、
 人々の追憶のうちに生き残って、
 その追憶のうちによみがえるということだと思います」
とまで言っている。
これほどまでに、
個人の道徳的行為の理由が
後世への思い入れに規定されているのである。

ただ、
マルクスとかエンゲルスとかいった人々は
今後何百年も、
ことによると何千年も
「人々の追憶のうちに生き残って、
 その追憶のうちによみがえる」ことになるだろうが、
そうした「偉人」でない一般の人々は、
相当道徳的に社会進歩のために貢献したとしても、
「人々の追憶のうちに生き残って、
 その追憶のうちによみがえ」り続けることなど
難しいのではないか。
死後、
たとえ名が忘れられ、
「追憶のうちによみがえる」ことがなくなったとしても、
その人が職場で、地域で地道に奮闘した社会的貢献が、
知らず知らず、
後世の人々に良い影響を与え続けている……。
そんな後世への影響の残し方であっても、
それが実現できるのであれば立派に人々の励ましになり、
道徳的行為の動機に
なりうるのではないかと思うのであるが、
どうだろう。


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by imadegawatuusin | 2011-12-19 17:02 | 弁証法的唯物論

死の積極的意味

「死」というものに
積極的な意味を見出すかどうかという問題は
一種の人生論であろう。
その意味でこの章は、
唯物論の基本とはあまり関係がないと私は思う。

ただ、
考えるべきことは多い章かもしれない。

言うまでもなく、
すべての人生には時間的に限りがある。
いいとか悪いとかいうことではなく、
事実としてそうなのだから、
どちらがいいとか悪いとか言うこと自体、
前提を欠く議論だと思う。
私たちは
『いつか死ぬこの人生』しか生きられないのであって、
永遠に生きられる方がいい人生だとか、
死のある人生の方がいい人生だとか考えた末、
選り好んだ選択として
死のある人生を選ぶことはできないのである。
だから、
どちらがいいとか悪いとか、
そんな議論には意味がないと思うのである〔注1〕。
ありもしない妄想と現実とを
引き比べたりはしない方がいい。
事実は事実として淡々と受け入れ、
それを前提に生きるしかない。
それこそが唯物論的態度であろう。
精神修養団体・「実践倫理宏正会」の上廣榮治氏は、
「この世のすべては
 大自然から生み出されたものですから、
 それらはまた、
 いつかはそこへ帰ることが自然の定めであり、
 すじみちです。
 私たち人間も同じことで、
 この世に生まれ出たものは、
 再び大自然の中へ帰る運命にあります。
 その間には少しの不自然も超自然もなく、
 また、
 神秘、不可思議もありません」と
明確に述べている〔注2〕。

むしろ考えるべきことがあるとすれば、
この章の後半にある、
「個人的に長生きするということは
 価値があるのかどうか」ということの方であろう。
こちらは、
安楽死とか尊厳死とか、
場合によっては自殺の問題を考える場合にも
意味のある問いだと思う。

しかしこの問いだって、
『どんな状態で』長生きするのかという問題と
切り離して考えることは本当はできない。
それを抜きにして言うならば、
「若死にするよりは長生きした方がいい」と
多くの人は答えるのではないか。

「人生五十年」だった戦国時代よりは
今の方がいいに決まっているし、
幼児死亡率がやたら高い国よりは
今の日本の方がいいに決まっている。
「長生きするということは価値があるのかどうか」
というようなことが問題になるのはむしろ、
「自分としては生きているのが苦痛な状態で
 ただ生き続けることに意味があるのか」
というような場合であろう。
しかしこれも、
結局は人生観の問題であって、
唯物論の問題ではないと私は思う。

〔注1〕なお本書では、
「死ぬということがあるから、
 われわれは生きている間、
 緊張するわけです。
 できるだけ
 生きている時を有益に過ごそうとする努力が
 生じるわけです」として、
「一兆年後であろうが、
 またそれの一兆乗掛けた先であろうが、
 いつ勉強を始めても同じだというのであれば、
 全然緊張できません」と言っている。
そして結論として、
「制限性というものがあるから、
 ……なんとかしてやろうという気になるのです」
というのである。
しかし私の見るところ、
この議論は怪しい。
仮に「死ぬということ」がなかったとしても、
人間は
できるだけ苦痛を避けて
快適にときを過ごしたいと願うだろうから、
「できるだけ
 ……時を有益に過ごそうとする努力」は
やはりせざるをえないのではないか。
話題を「勉強」だけに限定しても、
世界は膨大であり
刻々と変化するのであるから、
「一兆年後であろうが、
 またそれの一兆乗掛けた先であろうが、
 いつ勉強を始めても同じだ」ということには
ならない。
1000年前に国語の勉強をするのと、
いま国語の勉強をするのでは
勉強する内容が違ってくる。
社会を勉強する場合でもそうであるし、
勉強するかしないかで、
その間1000年間の生き方は変わってくる。
寿命が永遠であるからと言って、
「制限性というもの」がなくなるわけではない。
人間の寿命が永遠であっても、
この世界の寿命も永遠であるなら、
世界の方が圧倒的に膨大なわけで、
人間は常に、
この世界の一部しか知り得ない。
この世界を知り尽くし、
調べ尽くすことは不可能なのである。

〔注2〕実は『聖書』でも、
死者にはもはや何の意識もないと教えている。
そこでは
人間は土(自然)から作られたとされており(創世記2-7)、
「霊が人間を去れば
 人間は自分の属する土に帰り
 その日、彼の思いも滅びる」(詩編146-4)、
「塵にすぎないお前は塵に返る」(創世記3-19)と
されている。
そして、
「死者はもう何ひとつ知らない。
 彼らはもう報いを受けることもな(い)……。
 その愛も憎しみも、情熱も、既に消えうせ
 太陽の下に起こることのどれひとつにも
 もう何のかかわりもない」(コヘレトの言葉9-5~6)、
「陰府(よみ)には
 仕事も企ても、知恵も知識も、もうないのだ」(コヘレトの言葉9-10)
とされているのである。



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by imadegawatuusin | 2011-12-18 16:48 | 弁証法的唯物論

死への恐怖

「死」というものに対する恐れが
宗教を作り出したのではないかという考え方がある。
だとすると、
いかに科学が発達して民衆の知的水準が向上しても、
どれほど社会の隅々まで民主主義が徹底されても、
人々は永遠に宗教を求め続ける心理から
脱却できないということになってしまう。

本書・『唯物論哲学入門』は、
一般に「死への恐怖」と言われるものは
本当に「死そのもの」に対する恐怖なのかと問いかける。

たとえば、
自殺しようとする人がいて、
マンションの屋上に上り、
地面を見下ろして恐怖し、
自殺するのをやめたとする。
これは、
死ぬのが怖かったのであろうか。
そうではない。
怖いのは
「落ちること」・「地面にぶつかること」・
「痛いこと」であって、
「死ぬこと」そのものではないのである。

以前の項目でも触れたが、
ギリシアやインドでは
「生まれ変わること」はつらいことだと考えられていた。
当時はそれほど、
生きることはつらいことであったのだ。
そんなギリシアやインドでも宗教はあったわけである。

医療水準が相当向上した現代でも、
死に際して苦しみや痛みをともなわないことは
まだまだ まれだ。
そしてさらに、
社会的な責任のあるポジションにいたり、
家族を養ったりしている立場の人は、
自分が死ぬと困る人が出るわけだから、
死ぬのを嫌がる。
これは、
「死そのもの」を恐怖するのとは
次元の違う社会的な悩みである。

「死そのもの」より、
それに付随するものこそが苦しみの本質であり、
宗教の原因となっていると本書は見るわけである。


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by imadegawatuusin | 2011-12-17 16:51 | 弁証法的唯物論

唯物論と死の問題

「死んだら全てが無になる」という「冷たい」考えが
唯物論だという思い込みが
世間ではわりと行き渡っている。
しかし、
これはむしろ、
唯物論とは正反対の考え方である。
唯物論者は一般に、
天国も地獄も、
復活も輪廻転生も信じない。
そのことから、
「死んだら無になる」と考えているのだろうと
勝手に決め付けられがちである。
だが、
事実はそうではない。

唯物論とは、
「私」が死のうが生きようが、
この世界というものは厳然として存在し、
存在し続けるという強烈な確信である。

『私』が死んだら全てが終わり、
全てが無になるという考えは、
むしろ「私が全て」・「心が全て」という
独我論とか唯心論とか
そういった部類の考え方である。
これは唯物論ではなく、
むしろ観念論の一派である。
唯物論は世界の基礎を、
「私の心」ではなく、
時間・空間の中にある物質とその働きから構成される
物理的な世界そのものに置いている。
だから、
死というのは
世界の一部分である私が
その有機的な活動を停止するという、
大きな物理世界の中で起きるべくして起こる
一現象にすぎないのである。

私が死んでも世界は動いてゆくのであるし、
歴史も進んでゆく。
そして、
「私」もそんな物質世界の一部である以上、
その私が生きているうちに働きかけたさまざまな事柄が、
世界への影響としてさまざまな形で残ってゆくと
唯物論は考える。

歴史はそうした、
過去の先人たちの行動の積み重ねの上に
現在に至っている。
人類の歴史は神様でも一部の英雄でもなく、
一人一人の人間の日々の行動の積み重ねが
築きあげてきたものなのである。
このことを誰よりも強調する唯物論者の世界観が、
「死ねば全てが無になる」であるわけがない。

「私が死んでも世界は存在し続ける」。
これが唯物論の結論である。
「私」の主観を絶対視する観念論に対して、
客観的な世界は
主観から独立して存在すると強く主張するのが
唯物論なのだ。


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by imadegawatuusin | 2011-12-16 18:55 | 弁証法的唯物論

魂の不死

人間の活動の根源は魂であると原始の人々は考えた。
魂(精神)の源が
脳という肉体の活動にあると考える唯物論とは
逆の捉え方をしていたのである。

肉体が時とともに衰え、
やがて活動を停止することはすぐにわかる。
唯物論的に言えば、
原因である肉体の活動が停止すれば、
その結果に過ぎない精神の活動もまた
必然的に停止せざるを得ない。

ところが昔の人々は、
この肉体と精神(魂)の関係を逆さまに捉えていた。
だから、
結果に過ぎない肉体の活動が停止しても、
その活動の源泉である魂が滅びない限り、
魂は不死であると考えた。

肉体を持たない「魂」そのものは
古びたり傷付いたりしないので、
『論理的に考えて』魂は不死であると
結論せざるを得なかった。

「個人の不死」や「魂の不死」ということは、
「人類の発展のこの段階では、
 人々には慰めとは思われず、
 さからいがたい運命と思われ、
 ……しばしば積極的な不幸と思われていた。
 一般に
 人々が個人の魂の不死という
 退屈な想像を持つようになったのは、
 宗教的な慰めの要求からではなく、
 同じく一般的な無知のために、
 一度認めた魂というものを、
 肉体の死後どう取り扱ったらいいか
 当惑した結果である」とエンゲルスが述べているのは
こういうことなのである。



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by imadegawatuusin | 2011-12-15 17:35 | 弁証法的唯物論

占星術の意味

原始の人々が、
自然を人間にひきつけてしか
捉えることができなかったという
良い例として、
「占星術」というものがある。
俗な言い方をすると「星占い」というやつなのであるが、
多くの古来の社会においては占星術は、
今の最先端科学のような扱いを受けていた。
古来の人々にとって占星術は、
今の「占い」というような言葉から連想される
迷信的な存在ではなく、
自然の摂理を読み解き人間の生活に生かしてゆく
最先端技術としての位置を占めていたのだ。

ここでは星の運行が人間はおろか、
一国の運命とも連関があると捉えられている。
占星術は一方的に非科学的であったのではなく、
星の運行を捉えるにあたっては
非常に精密な捉え方をしていた。

現代の人も昔の人も、
星の運行を正確に捉えていた、
捉えようとしていたという点においては
さして違うところはない。
しかし昔の人々は、
そうしてせっかく科学的に捉えた星の運行を、
人間の運命・国家共同体の運命と連関させてしか
やはり捉えることができなかった。
星の運行を星の運行として、
星と星との相互関係の中での動きとしてだけでなく、
あくまでそこに
「人間の運命」というようなものを投影してしか
捉えることができないのである。
これが本書・『唯物論哲学入門』にある、
「天体の運行すらも、
 人間の生活との関連においてのみ
 考えられている」ということの意味なのだ。



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by imadegawatuusin | 2011-12-14 18:12 | 弁証法的唯物論

アニミズムから世界宗教へ

「そのうちに、
 霊魂を放置しておくのは
 非常に具合が悪いというので、
 死んだ人間には
 一定の場所を与えることとなります」と
本書・『唯物論哲学入門』は解説する。
霊魂にその辺を好き勝手にうろつかれては
気が休まらないので、
祠(ほこら)を作ったり社(やしろ)を作ったりして
そこに居てもらうようにする。

すると、
単なる
「おじいさんの霊」・「おばあさんの霊」に対する
畏れであったものが、
祠のようなところに
まとめて行ってもらうと決めたことから、
そうした霊が一緒くたにされて
「氏神様の霊」のような存在が
想定されるようになってくる。

山の神や川の神も、
一か所でまとめて祭るようになってくると、
「自然の神」のような
より段階の高い抽象的な神が
登場してくるようになるわけである。

アニミズムはこうして、宗教に発展してゆく。
「霊魂の信仰が、
 やがて自然の神になり、
 種族の神になり、
 さらにいろいろな種族の神と結合して、
 民族の神になります」というのは
こういうことなのである。

要するにここで言いたいことは、
「観念論の源泉あるいはその根底には、
 非常に長い間にわたる
 アニミズムの伝統というものが
 あるのだということを、
 まずは了解していただきたい」ということなのだ。
「エンゲルスはこの点から考え始め」たのである。


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by imadegawatuusin | 2011-12-12 18:59 | 弁証法的唯物論

霊魂への恐れ

魂が不滅であるということは、
死んだ側はともかくとして、
生きている側の人間からすれば非常に厄介な話である。
目にも見えない、
話もできないご先祖様が霊魂の形で生き続けている。
粗末にすれば怒り出すし、
災いをもたらしたりする。

一方で、
そのように具体的な力のある存在であるならば、
そうした霊を活用して利益を得ようという人間も
現れる。
これが魔術であると
本書・『唯物論哲学入門』の著者・森信成氏は言う。

たたりをなすにせよ、
活用するにせよ、
原始人の世界観では死者は簡単には消えてくれない。
常に霊魂との上手な付き合い方を考えながら
日々暮らさなければならないわけで、
これは非常に厄介なのだ。

森氏の言う、
「現在では、
 人間の魂が不死であるというと
 非常にうらやましがる人がいますが、
 原始人は人間がいつまでも死なないので、
 実は往生してたのです」とは、
つまりこういうことを指しているのである。


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by imadegawatuusin | 2011-12-11 18:57 | 弁証法的唯物論