ニュージーランドの先住民族マオリの女性が
口元のタトゥーを理由に
北海道の温泉施設で入浴を断られた件について、
「マニュアル通りの画一的な応対は……
 『おもてなし』の対極にある」とする
「おもてなしの心は大丈夫か」(9月20日)と、
「例外は認められない……と説明した……施設の説明を
 是としたい」とする
「入れ墨認めない側にも一理」(10月17日)とを
朝日新聞の投書欄で相次いで読んだ。

マオリ民族のタトゥーはごく一般的な風習であり、
暴力的なものでは全くない。
他方、
入浴施設にある注意書きには大抵、
「入れ墨をされた方の入浴はお断りします」と
あるだけで、
暴力団員を連想させるかどうかは
判断基準になっていない。
英和辞書を引くと"tatoo"は「入れ墨」とある。
規定を素直に解釈する限り、
「入浴お断り」となってしまうのも無理はない。
今回の件を受けて問われるべきは
施設の「応対」の是非ではなく、
入れ墨をもって一律に入浴を断る規定自体の是非である。

近年では
若者がファッションでタトゥーを入れることもある。
国際化・多文化共生の進展にともない、
「入れ墨=暴力団」という
日本社会の狭い認識そのものを
変えていく必要があるのではないか。
入れ墨自体は善でも悪でもない単なる文化現象だ。
入れ墨をもって施設の利用を一律に断る規定そのものを
見直していくべきだろう。

【参考記事】
「入れ墨お断り」規定見直せ


..... Ads by Excite 広告 .....
[PR]
by imadegawatuusin | 2013-10-26 17:17 | 暮らし家庭

――「護憲」か「憲法改悪反対」か――

■党首候補、進歩的な憲法改正論議を提起
先日の社民党党首選挙に立候補者した
同党豊島区議の石川大我氏が、
「僕は必ずしも憲法改正に反対ではない。
 同性婚の容認や環境権など
 新しい権利を加える改正論議なら賛成だ」と述べ、
憲法改正についての議論を提起した。

■同性婚を禁止する現行憲法の差別性
石川氏は
日本で初めて同性愛者であることを公言した上で
当選を果たした地方議員だ〔注1〕。
豊島区議になる前から
『ボクの彼氏はどこにいる』という本を出版するなど
同性愛者解放運動に積極的にたずさわってきた。
だが現行の日本国憲法はその第24条で、
「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し……」と定め、
同性同士の結婚を禁じている。
護憲論者の多い社民党の党首選挙の中で、
石川氏が勇気を持って
あえて改憲に踏み込む発言を行なったのは
決して軽はずみな思い付きなどではない。
自らの性的指向のゆえに
現行憲法の排他的側面と向き合わざるをえなかった
石川氏自身の切実な実感が
その背景にあったのだと思われる。
現行憲法は完全無欠の「理想の憲法」では決してない。

同性愛者の存在を無視・排除して
婚姻を
異性間の(「両性の合意……に基」く)もの のみに限定し、
同性愛者には愛する人との結婚を許さない
現行憲法24条の規定は
客観的に考えれば極めて差別的なものである。
私も社民党の党員であるが、
社民党がよって立つ、
個人の尊厳を最大限に尊重する
社会民主主義の理念に照らせば本来、
こうした理不尽で一方的な条文については
少数者の立場を考慮したものに変えていこうと
声を挙げるのが筋というものだと考える。

〔注1〕先に同性愛者であることを公言した
地方議員としては
元堺市議の尾辻かな子氏がいた。
だが、
尾辻氏が自らの性的指向を公言したのは
市議に当選した後のことである。

■社民党の党是は「護憲」ではない
石川氏の発言に党内では、
「『護憲の党』である社民党の議員でありながら
 改憲を唱えるのはいかがなものか」と
首をかしげる向きもあった。
だが
社民党の綱領である『社会民主党宣言』には、
「憲法の理念」の「実現」や
「憲法の前文と9条を指針にした平和外交」という
文言はあるが
「護憲」という文言はない。
「護憲」は社民党の綱領的な党是ではないのだ。
社民党員は、
法の下の平等や基本的人権の尊重といった
現行憲法の基本理念を
より発展させる方向の憲法構想については
自由に論じ合えるのである。
社民党が立脚すべき党是は「護憲」ではなく、
不断の進歩と改革を旨とする
国際的な「社会民主主義」の理念である。
67年前の時代的制約の中で生まれた
現行憲法の全条文を一字一句固守し、
現行憲法を理想化して崇め奉る立場であってはならない。
そうした保守的な態度は
真の社民主義の進歩的精神に反する。
歴史の進歩と発展を信じる社会民主主義者こそが、
現行憲法体制のその先にある未来を
もっと語っていくべきだ。

■革新陣営こそ天皇制・同性婚禁止条項の見直し提起を
党首選で石川氏を破った吉田忠智氏は
石川氏との間に
「対立する争点があるわけではない」と言っていた
(朝日新聞10月10日)。
だが党首選の公約で社民党を
「護憲……勢力」と位置づけた吉田氏と
石川氏との間には
憲法観に違いがある(社会新報10月9日)。
家柄によって人を規定してしまう天皇制や
同性婚禁止条項も含む
現行憲法の全条文をどこまでも護る「護憲」か、
変えるべき点は変えろと言いつつ
護るべき点は護る「憲法改悪反対」か。
国権主義的改憲勢力の台頭を前に、
社会の進歩を担う革新陣営の側もまた
真剣に議論するべきだ。

【関連記事】
2人の「左翼」が僕を改憲論者に転向させた
憲法改正で皇室制度を廃止しよう
左からの改憲提言はタブーか
「守る」運動から「変える」運動へ
「改憲派」社民党員の提言


..... Ads by Excite 広告 .....
[PR]
by imadegawatuusin | 2013-10-11 17:48 | 政治

正しい努力を少しずつ

――『PHP』誌11月号テーマ・「努力」に寄せて――

■泥棒もヤクザも「努力」はしている
とんち話で名高い
一休という室町時代の座禅仏教の法師に、
「一寸の線香 一寸の仏 寸々積み成す丈六の身」
という歌があります。
「線香を一寸たく間 座禅をしたら、
 その間だけ仏のようになることができる。
 それを一寸一寸と日々積み重ねていったら、
 ついにはその身が
 全くの仏(丈六の身)になっていく」ということです。
立正佼成会という仏教団体の長沼基之という人は、
『法華経実践の道のり』という本で
この歌を引いています。
そしてその上で、
「毎日、
 少しでもいいから仏さまのような気持ちになって、
 人さまのためになることを繰り返していけば、
 いつかは仏になることができる」、
「日常の中でも、
 一寸(ちょっと)だけ仏さまのような心を起こし、
 善い行いを積み重ねていくことはできるはずです。
 そうして日々、
 努力していけば、
 どんな人にも仏となる可能性が
 ある」と言います〔注1〕。

『PHP』11月号のテーマは
「『努力』が人生を変える」でした。
私は先ほどの一休の歌について、
日々少しずつ努力を積み重ねていくことが
大きな実りをもたらすのだという教えだと思っています。
日々の努力が明日を開いていくのです。

ただし、
ただ張り切って努め励むだけでは
正しい努力とは言えません。

腕のいい泥棒は
人に見つからずお巡りさんに捕まらないで
物を盗み取るために
色々と努め励んでいることでしょう。
大きなヤクザの親分も
自らの組を強く大きくするために
努め励んでいるに違いありません。
けれどそれは、
やはり正しい努力とは違うのです。
ただ励み努めるだけで、
そこに人の道というスジが一つ通っていなければ、
それは正しい努力ではありません。
目指すべきでないものを求めるそのような励みは
世を悩ませて人々を苦しめることにしかならないのです。

■なぜ「努力が報われない」のか
まじめに努め励んでも
実りがもたらされないということは確かにあります。
しかしそれは、
どこかに少し誤りがあったということなのだと
思うのです。

目指す所が元々間違っていたのかもしれません。
自らの励みだけでは届かないものにこだわっていても
それを成し遂げるのは難しいでしょう。
できないことはできないのです。
不可能を可能にするのは魔術であって、
努力ではありません。
努力とはすべて、
やればできることをやり抜くことに他ならないのです。

あるいは、
もっと足元から始めなければならなかったのかも
しれません。
自らの努め励みを実らせるに足る元々の力が
足りていなかったということです。

もしくは、
努め励むそのやり方がまずかったのかもしれません。
どれほど努め励んでも、
そのやり方が悪ければ
それに値する実りは得られません。

そうではなく、
正しい地点から、
正しい目標に向けて、
正しい努力を少しずつ積み重ねていくならば、
何らかの形でそれは必ず自らの身となり、
豊かな実りに結びつくものです。

〔注1〕ここでいう「仏」とは、
「悟りを開いて道に目覚めた人」という、
仏教の元々の意味での「仏」のことです。
神のような、
人には持ちえない力を持つ者ではありません。
仏とは生きた人がなるものであり、
なろうと目指すべきあり方です。
死んでから仏になっても仕方がありません。
わが国の仏教の法師の多くは、
生きている私たちに背を向けて、
死んだ人の位牌に向かってお経をあげます。
しかも今の日本語ではなく、
今の人々にはわけのわからない
昔の中国語でお経を読みます。
そういうことをしても何の役にも立ちません。
「ひと握りの知識人しかわからない言葉には、
 社会を動かす力はありません」
(橋爪大三郎『世界がわかる宗教社会学入門』197ページ)。
優れた教えは生きている間に、
わかる言葉で聞かなければものの役には立たないのです。
人は死ねばもう何一つ知ることはできません。
死んだ人にはもはや意識はないからです。
死んだ人は何を考えることも行なうこともできません。
だからお経は、
死んでから聞かされても遅いのです。
優れた教えは生きている間に自らのわかる言葉で学び、
生きている間に行ないに移して
努め励まなければならないのです。
実践に結びつかないお経などは死んだものなのです。


..... Ads by Excite 広告 .....
[PR]
by imadegawatuusin | 2013-10-09 17:26 | 倫理