「ほっ」と。キャンペーン

「平和のために国際交流の推進を」とよく言われる。
国際交流によって友好がはぐくまれ、
それが平和に結びつくというのである。

私は、
交流も友好も平和も大切だと思う。
しかし、
国際交流が必ずしも友好につながらない場合も
あると思うし、
友好と平和とは
次元の違う問題ではないかと思うのである。

私は前に、
地域の個人加盟制労働組合の運営委員長をしていた。
多くの外国人労働者の労働相談にも乗ってきた。
外国人と じかに接した経験は多い方だろう。
もちろん、
そうした経験を通じて
その労働者の母国に対して親しみを覚えたことは
確かに多い。
しかし同時に、
彼らの母国のあり方がいかにひどいかということを
目の当たりにせざるをえなかったり〔注1〕、
国民性の違いに
どうしてもついていけないものを感じたことも
率直に言ってある。
(さらに、
 お国の料理をご馳走になると、
 たいてい口に合わずに気まずい思いになる)。
こうした外国への負の印象は、
外国人との直接の交流がなければ
生まれえなかったものである。

これからのグローバル社会の中で、
外国人との交流は
ますます避けられないものとなるだろう。
だが、
そのことが即 国際的な友好をはぐくむとのイメージは
楽観的すぎる。
同じ国の人同士であっても、
気の合う人と合わない人がいるというのが世の常だ。
まして、
言葉も文化も違う人との交流が
必ずしも友好をはぐくむとは限らない。
むしろ国際交流というものは、
互いに我慢や妥協を重ねる中で
折り合いをつけていくものであると考えるべきだ。

そして「友好」と「平和」である。
どちらもすばらしいものであることに異存はない。
しかし私に言わせれば、
仲の悪い国、
とても親しみの持てない国とも共存していくのが
真の「平和」というものではないかと思うのである。

太平洋戦争が始まったとき、
「相手がアメリカなら
 負けたってひどいことはするまい」と言った人が
いたという話を聞いたことがある。
これは、
なまじ「友好」・「信頼」があったために
戦争を容認してしまった事例であると言えるだろう。

平和とは、
仲のいい国と仲良くするということではなく、
たとえ互いに利害や感情の衝突があっても、
それを武力では解決しないということである。
そうした意味で平和は、
感情面での「好き嫌い」の問題ではなく、
極めて理性的な営みなのだ。

交流を深めれば友好がはぐくまれ、
それが平和に結びつくとのイメージは
必ずしも実態にそぐわない。
私たちはその事実を直視しつつ、
交流・友好・平和を深めてゆくべきだ。

〔注1〕外国人「実習生」が労働組合に加入したところ、
送り出し機関が母国の政府とつながっており、
母国の家族に圧力がかかったその組合員は
労働組合を辞めざるをえなかった件など。

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# by imadegawatuusin | 2013-11-07 18:06 | 国際

ニュージーランドの先住民族マオリの女性が
口元のタトゥーを理由に
北海道の温泉施設で入浴を断られた件
について、
「マニュアル通りの画一的な応対は……
 『おもてなし』の対極にある」とする
「おもてなしの心は大丈夫か」(9月20日)と、
「例外は認められない……と説明した……施設の説明を
 是としたい」とする
「入れ墨認めない側にも一理」(10月17日)とを
朝日新聞の投書欄で相次いで読んだ。

マオリ民族のタトゥーはごく一般的な風習であり、
暴力的なものでは全くない。
他方、
入浴施設にある注意書きには大抵、
「入れ墨をされた方の入浴はお断りします」と
あるだけで、
暴力団員を連想させるかどうかは
判断基準になっていない。
英和辞書を引くと"tatoo"は「入れ墨」とある。
規定を素直に解釈する限り、
「入浴お断り」となってしまうのも無理はない。
今回の件を受けて問われるべきは
施設の「応対」の是非ではなく、
入れ墨をもって一律に入浴を断る規定自体の是非である。

近年では
若者がファッションでタトゥーを入れることもある。
国際化・多文化共生の進展にともない、
「入れ墨=暴力団」という
日本社会の狭い認識そのものを
変えていく必要があるのではないか。
入れ墨自体は善でも悪でもない単なる文化現象だ。
入れ墨をもって施設の利用を一律に断る規定そのものを
見直していくべきだろう。


【参考記事】
「入れ墨お断り」規定見直せ

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# by imadegawatuusin | 2013-10-26 17:17 | 暮らし家庭

――「護憲」か「憲法改悪反対」か――

■党首候補、進歩的な憲法改正論議を提起
先日の社民党党首選挙に立候補者した
同党豊島区議の石川大我氏が、
「僕は必ずしも憲法改正に反対ではない。
 同性婚の容認や環境権など
 新しい権利を加える改正論議なら賛成だ」と述べ、
憲法改正についての議論を提起した。

■同性婚を禁止する現行憲法の差別性
石川氏は
日本で初めて同性愛者であることを公言した上で
当選を果たした地方議員だ〔注1〕。
豊島区議になる前から
『ボクの彼氏はどこにいる』という本を出版するなど
同性愛者解放運動に積極的にたずさわってきた。
だが現行の日本国憲法はその第24条で、
「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し……」と定め、
同性同士の結婚を禁じている。
護憲論者の多い社民党の党首選挙の中で、
石川氏が勇気を持って
あえて改憲に踏み込む発言を行なったのは
決して軽はずみな思い付きなどではない。
自らの性的指向のゆえに
現行憲法の排他的側面と向き合わざるをえなかった
石川氏自身の切実な実感が
その背景にあったのだと思われる。
現行憲法は完全無欠の「理想の憲法」では決してない。

同性愛者の存在を無視・排除して
婚姻を
異性間の(「両性の合意……に基」く)もの のみに限定し、
同性愛者には愛する人との結婚を許さない
現行憲法24条の規定は
客観的に考えれば極めて差別的なものである。
私も社民党の党員であるが、
社民党がよって立つ、
個人の尊厳を最大限に尊重する
社会民主主義の理念に照らせば本来、
こうした理不尽で一方的な条文については
少数者の立場を考慮したものに変えていこうと
声を挙げるのが筋というものだと考える。

〔注1〕先に同性愛者であることを公言した
地方議員としては
元堺市議の尾辻かな子氏がいた。
だが、
尾辻氏が自らの性的指向を公言したのは
市議に当選した後のことである。

■社民党の党是は「護憲」ではない
石川氏の発言に党内では、
「『護憲の党』である社民党の議員でありながら
 改憲を唱えるのはいかがなものか」と
首をかしげる向きもあった。
だが
社民党の綱領である『社会民主党宣言』には、
「憲法の理念」の「実現」や
「憲法の前文と9条を指針にした平和外交」という
文言はあるが
「護憲」という文言はない。
「護憲」は社民党の綱領的な党是ではないのだ。
社民党員は、
法の下の平等や基本的人権の尊重といった
現行憲法の基本理念を
より発展させる方向の憲法構想については
自由に論じ合えるのである。
社民党が立脚すべき党是は「護憲」ではなく、
不断の進歩と改革を旨とする
国際的な「社会民主主義」の理念である。
67年前の時代的制約の中で生まれた
現行憲法の全条文を一字一句固守し、
現行憲法を理想化して崇め奉る立場であってはならない。
そうした保守的な態度は
真の社民主義の進歩的精神に反する。
歴史の進歩と発展を信じる社会民主主義者こそが、
現行憲法体制のその先にある未来を
もっと語っていくべきだ。

■革新陣営こそ天皇制・同性婚禁止条項の見直し提起を
党首選で石川氏を破った吉田忠智氏は
石川氏との間に
「対立する争点があるわけではない」と言っていた
(朝日新聞10月10日)。
だが党首選の公約で社民党を
「護憲……勢力」と位置づけた吉田氏と
石川氏との間には
憲法観に違いがある(社会新報10月9日)。
家柄によって人を規定してしまう天皇制や
同性婚禁止条項も含む
現行憲法の全条文をどこまでも護る「護憲」か、
変えるべき点は変えろと言いつつ
護るべき点は護る「憲法改悪反対」か。
国権主義的改憲勢力の台頭を前に、
社会の進歩を担う革新陣営の側もまた
真剣に議論するべきだ。

【関連記事】
2人の「左翼」が僕を改憲論者に転向させた
憲法改正で皇室制度を廃止しよう
左からの改憲提言はタブーか
「守る」運動から「変える」運動へ
「改憲派」社民党員の提言

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# by imadegawatuusin | 2013-10-11 17:48 | 政治

正しい努力を少しずつ

――『PHP』誌11月号テーマ・「努力」に寄せて――

■泥棒もヤクザも「努力」はしている
とんち話で名高い
一休という室町時代の座禅仏教の法師に、
「一寸の線香 一寸の仏 寸々積み成す丈六の身」
という歌があります。
「線香を一寸たく間 座禅をしたら、
 その間だけ仏のようになることができる。
 それを一寸一寸と日々積み重ねていったら、
 ついにはその身が
 全くの仏(丈六の身)になっていく」ということです。
立正佼成会という仏教団体の長沼基之という人は、
『法華経実践の道のり』という本で
この歌を引いています。
そしてその上で、
「毎日、
 少しでもいいから仏さまのような気持ちになって、
 人さまのためになることを繰り返していけば、
 いつかは仏になることができる」、
「日常の中でも、
 一寸(ちょっと)だけ仏さまのような心を起こし、
 善い行いを積み重ねていくことはできるはずです。
 そうして日々、
 努力していけば、
 どんな人にも仏となる可能性が
 ある」と言います〔注1〕。

『PHP』11月号のテーマは
「『努力』が人生を変える」でした。
私は先ほどの一休の歌について、
日々少しずつ努力を積み重ねていくことが
大きな実りをもたらすのだという教えだと思っています。
日々の努力が明日を開いていくのです。

ただし、
ただ張り切って努め励むだけでは
正しい努力とは言えません。

腕のいい泥棒は
人に見つからずお巡りさんに捕まらないで
物を盗み取るために
色々と努め励んでいることでしょう。
大きなヤクザの親分も
自らの組を強く大きくするために
努め励んでいるに違いありません。
けれどそれは、
やはり正しい努力とは違うのです。
ただ励み努めるだけで、
そこに人の道というスジが一つ通っていなければ、
それは正しい努力ではありません。
目指すべきでないものを求めるそのような励みは
世を悩ませて人々を苦しめることにしかならないのです。

■なぜ「努力が報われない」のか
まじめに努め励んでも
実りがもたらされないということは確かにあります。
しかしそれは、
どこかに少し誤りがあったということなのだと
思うのです。

目指す所が元々間違っていたのかもしれません。
自らの励みだけでは届かないものにこだわっていても
それを成し遂げるのは難しいでしょう。
できないことはできないのです。
不可能を可能にするのは魔術であって、
努力ではありません。
努力とはすべて、
やればできることをやり抜くことに他ならないのです。

あるいは、
もっと足元から始めなければならなかったのかも
しれません。
自らの努め励みを実らせるに足る元々の力が
足りていなかったということです。

もしくは、
努め励むそのやり方がまずかったのかもしれません。
どれほど努め励んでも、
そのやり方が悪ければ
それに値する実りは得られません。

そうではなく、
正しい地点から、
正しい目標に向けて、
正しい努力を少しずつ積み重ねていくならば、
何らかの形でそれは必ず自らの身となり、
豊かな実りに結びつくものです。

〔注1〕ここでいう「仏」とは、
「悟りを開いて道に目覚めた人」という、
仏教の元々の意味での「仏」のことです。
神のような、
人には持ちえない力を持つ者ではありません。
仏とは生きた人がなるものであり、
なろうと目指すべきあり方です。
死んでから仏になっても仕方がありません。
わが国の仏教の法師の多くは、
生きている私たちに背を向けて、
死んだ人の位牌に向かってお経をあげます。
しかも今の日本語ではなく、
今の人々にはわけのわからない
昔の中国語でお経を読みます。
そういうことをしても何の役にも立ちません。
「ひと握りの知識人しかわからない言葉には、
 社会を動かす力はありません」
橋爪大三郎『世界がわかる宗教社会学入門』197ページ)。
優れた教えは生きている間に、
わかる言葉で聞かなければものの役には立たないのです。
人は死ねばもう何一つ知ることはできません。
死んだ人にはもはや意識はないからです。
死んだ人は何を考えることも行なうこともできません。
だからお経は、
死んでから聞かされても遅いのです。
優れた教えは生きている間に自らのわかる言葉で学び、
生きている間に行ないに移して
努め励まなければならないのです。
実践に結びつかないお経などは死んだものなのです。

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# by imadegawatuusin | 2013-10-09 17:26 | 倫理

ニュージーランドの先住民族・マオリの女性が、
口元の「タトゥー」を理由に
北海道の温泉施設で入浴を断られた件について
9月20日の朝日新聞の投書欄に投稿があった
(「おもてなしの心は大丈夫か」)。
投稿者は女性のタトゥーを、
「暴力団員を連想させる『刺青』ではない。
 伝統文化の『タトゥー』だ」という。

確かに
マオリ民族のタトゥーが
暴力団員を連想させるものでないことは明らかだ。
だが、
温泉施設などによくある注意書きには大抵、
「入れ墨をされた方の入浴はお断りします」などと
書いてあるだけで、
暴力団員を連想させるかどうかは
判断基準になっていない。
手元の英和辞書を引くと、
"tatoo"は「入れ墨」と訳されている。
主観を入れず、
規定を純粋に解釈する限り、
これでは
やはり「入浴お断り」とならざるをえないのではないか。

投稿者は、
「マニュアル通りの画一的な応対は……
 『おもてなし』の対極にある」という。
だが、
規定がある以上、
現場の従業員はそれに従って応対せざるをえない。
問題は応対にではなく
規定そのものにあると考えるべきだ。

最近では
若者がファッションでタトゥーを入れることもある。
多文化共生社会の進展で、
「入れ墨=暴力団」という図式そのものを
改める時がきたのではないか。
入れ墨をもって
施設利用を一律に拒絶するような規定は
見直す必要があるだろう。


【参考記事】
入れ墨お断り規定自体の是非を

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# by imadegawatuusin | 2013-09-20 16:25 | 暮らし家庭

朝日新聞の投書欄で、
「子に銃 米軍批判は筋違い」という投稿を読んだ
(朝日新聞「声」欄9月12日)。
投稿は、
米軍基地内は「事実上は米国」であるといい、
同国では銃の保持が
「神が与えた権利」と考えられていると指摘する。
そして、
「日本の親たちは、
 その文化の違いを知った上で基地を訪れるべきだ。
 遊園地に行くのではない」というのである。

確かに米軍基地内は、
日本の法律や常識がそのまま適用されない所だ。
米国では人民が「銃を持つ権利」を憲法で認めている。
しかしその米国においても、
銃を扱う権利を持つのは
責任能力を備えた人間であることは大前提だ。
幼い子供に遊びで銃を使わせないことは、
銃規制の賛成派・反対派を超えた共通了解事項である。
自動車の運転が自由に認められる国だからといって、
幼い子供に運転させることが
容認されるわけではないのと同じだ。

伝統的な欧米文化では、
子供は「一人前になる前の未熟な人間」であり、
権利の主体というよりも、
もっぱら保護・教育の対象とされる。
また、
子供たちに銃を構えさせた米兵の行為に
批判の声をあげたのは、
当の子供たちの親ではなく、
米軍基地の存在に批判的な市民団体であった事実も
付け加えておきたい。

米国の「銃文化」は、
幼い子供に銃を構えさせた米兵の行為を
正当化する理由にはならない。
子供たちの親をなじることこそ「筋違い」というものだ。

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# by imadegawatuusin | 2013-09-13 14:50 | 文化

アメリカやフランスがシリアに対し、
反政府勢力に化学兵器を使用したと一方的に断定して
武力攻撃を行なおうとしている。
しかし国際法では、
武力の使用が認められるのは
自衛の場合か国連安保理の決議に基づく場合だけだ。
アメリカはシリアの「化学兵器の使用」を
「レッドライン(一線)を超えた」ものだとして
武力攻撃を正当化しようとしているが、
どこかの国がシリアに侵略されたわけでもなく、
国連安保理の決議もなく
自らの主観に基づいて他国を攻撃することこそ、
まさに国際法の「レッドライン」を超える侵略行為だ。
このようなことが許されれば、
世界中の国々が自らの主観で戦争を起こせることになり、
あちこちで戦争が起きることになる。


【関連記事】
証拠と決議なき攻撃は侵略行為

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# by imadegawatuusin | 2013-09-10 13:36 | 国際

2020年の夏季オリンピックの開催都市が
日本の首都・東京に決まった。
開催都市を決める
国際オリンピック委員会の総会が開かれた
アルゼンチンの首都・ブエノスアイレスには
安倍晋三総理大臣がG20の会議を中座して現地入りし、
懸念されていた福島第一原発事故の汚染水漏れ問題で、
安全性を強調した。

安倍総理はオリンピックの東京開催決定後の会見で、
「原子力比率は引き下げていく。
 このため、
 今後3年程度の間に、
 再生可能エネルギーの普及と省エネルギーの推進を
 最大限加速させていく」と
原発政策全体に言及したという。
『日刊スポーツ』のコラム・「政界地獄耳」は、
「海外に原発を売り、
 再稼動を積極的に推進していた政府としては
 大きな政策転換だ」と指摘する(日刊スポーツ9月9日)。

この発言は
オリンピック開催にあたっての国際公約と
世界に受け止められるだろう。
空手形にするようなことがあってはならない。
汚染水対策を政府主導で着実に実行するのはもちろん、
稼動年数の長い原発の廃炉の推進や
東電解体・発送電分離など、
原子力比率の引き下げや自然エネルギーの普及のための
具体的な措置を取っていくことが求められる。

オリンピック開催国の総理として、
「言いっぱなし」は許されない。
私たちもオリンピック開催国の国民として
総理の公約実現を厳しく監視していきたい。

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# by imadegawatuusin | 2013-09-09 13:32 | 政治

遺産相続の際、
結婚していない男女間に生まれた婚外子の相続分を、
結婚していた男女間に生まれた婚内子の
半分とする民法の規定について、
最高裁は9月4日に、
「法の下の平等を定めた憲法に違反する」との判断を
示した。
判決は、
「父母が婚姻関係になかったという、
 子にとっては自ら選択、修正する余地のないことを
 理由として
 その子に不利益を及ぼすことは許されず、
 子を個人として尊重し、
 権利を保障すべきだ」述べ、
大法廷で全員一致の判断となった。

さて、
今回の判決で敗訴した婚内子側が
見過ごすことのできない声明を出し、
新聞などで報道されている。
声明は、
「私たちは幸せな家庭を壊され、
 家から追い出されました。
 それでも母は(婚外子の相続を半分とする)規定を
 心の支えに精神的苦痛に耐えてきました」とし、
「最高裁の判断」に「絶望しました」というのである
(朝日新聞9月5日)。

この婚内子の母が
最終的に「父」と離婚したのかどうかはわからない。
しかしもし離婚はしなかったのであれば、
配偶者である婚内子の母は
遺産の半分を自らのものにできるのに対し、
婚外子を生み育てた側の母は、
配偶者でないので
今回の判決をもってしても
1円も相続することはできない。
そしてもし離婚していたのだとすれば、
そうした「精神的苦痛」は
その際の慰謝料によってあがなわれるべきものであって、
互いの子供同士を差別することによって
精神の安定を図ろうというのは
はなはだ不健全な話である。

父母の間で起きた「精神的苦痛」は
父母の世代で解決すべきものであり、
子供たちの世代に持ち込むべきではない。

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# by imadegawatuusin | 2013-09-08 13:53 | 差別問題

――東アカ「名誉棄損訴訟」の経験から――

■団結を全国的に勝ち取る武器に

個人加盟制労組において、
インターネットはその戦略上決定的な意味を持つ。

トヨタ自動車労組のように
職場の大多数を結集する社内労組なら、
会社の問題は機関紙や職場掲示板などを通して
全ての社員に周知徹底することができる。
しかし、
組合員が会社に一人の状態から始まるユニオンの場合、
労働組合ができた事実も、
団体交渉が開催された事実も、
どのようなことがそこで話し合われたのかも、
全国に散らばる他の労働者に伝える手段は限られている。
勤務時間内の組合活動も施設の使用も、
掲示板や組合事務所の設置も認められない中、
組合側がインターネットを広報手段として活用するのは
当然だ。

東京アカデミーから名誉棄損で訴えられた記事を
私が書いた第一の目的は、
全国で働く同社の従業員に、
労組と会社との間の団体交渉の内容を報道し、
従業員の労働組合への結集を図り
職場の民主化を進めることにあった。

そしてこうした活動は、
違う会社の労働者にもユニオンの活動と意義とを紹介し、
理解を広めて労働運動の発展を図り、
働く者の権利を社会的に守り抜くことにもつながる。

そもそも労働組合と会社とは、
対等な立場で交渉しなければならない。
しかし実際は、
雇う側の経営者と雇われる側の労働者との間では、
圧倒的な力の格差が存在する。

そこで、
社内の多数を組織している労組の場合は、
ストライキなどをかまえることで対等性を確保する。
しかし、
社内に1人しか組合員がいない場合、
「ストライキだ!」と言っても
「はい、どうぞ」と言われて、
それで終わりだ。
単に同盟罷業を背景にするだけでは
労使の対等性は一切担保されないのである。

しかし、
これは力関係を会社の中にとどめた場合だ。
私たちはこの力関係を、
「会社VS一労働者」の構図から
「会社VS地域の労働者」
さらには「会社VS全国の労働者」という関係に
押し広げていくことによって
力関係を逆転してゆく。
その手段として、
全国に情報を発信できるインターネットは
今後ますます重要になっていくはずである。

だからこそ、
経営側は今後ますます訴訟などで
これを押さえ込もうとするだろう。

今回訴訟を受けたことは私自身の教訓にもなった。
跳ね返すにあたっては
財政面でもユニオンにお世話になった。
記事の書き方や発表の仕方に
反省すべき点もあったと思う。

だが今回の件を、
決してユニオンが
インターネットの利用に消極的になったり
萎縮したりするきっかけにだけはしてほしくない。
そうなれば、
労働者・労働組合の言論活動を封殺したくてたまらない
経営側の思う壺だ。
負けることなくひるむことなく、
経営側の矛盾を暴露する大きな武器として
今後もインターネットを縦横無尽に活用することが
個人加盟制労働組合の勝利の原動力となるだろう。


【参考記事】
東京アカデミー事件・和解報告

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# by imadegawatuusin | 2013-09-07 17:11 | 労働運動