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『唯物論哲学入門』(森信成)を読む・その7

意識と脳の関係

本書・『唯物論哲学入門』
著者・森信成氏の言うように、
「脳の作用そのものを
 われわれは意識することができず、
 この作用に対して
 どのような物質的なものも感じることができない」。
だから、
心は心臓にあるといった誤解が生まれるのである。

本書ではここで、
17世紀の哲学者・デカルトが引き合いに出されている。
唯物論と観念論との関係について論じるとき、
デカルトは不適切な文脈で引用されて
非難されることが多い。
例の「我思う故に我有り」という彼の命題が、
「私が思っているから私がいる」という、
典型的な観念論と とらえられることが多いのである。

デカルトは別に、
意識は存在に先立つとか、
そのようなことを主張したわけではない。
デカルトは不確かなものを全部疑って、
「確かなもの」を見出そうとした。
たとえば目の前にコップがある。
けれど、
これは夢かもしれない。
本当はここにコップなんて存在しないのかもしれない。
幻覚かもしれない。

ただ一方で、
たとえ夢であろうと幻覚であろうと、
「コップがある」と思っている意識がいま
この瞬間に何らかの形で存在していることだけは
疑えない。
「私は(何かを)思っている。
 だから、『私』というものが今あることは
 『確実だ』」というのが
デカルトの主張したことなのである。

もちろん、
私が存在しているからこそ
こうして私がものを考えることができるのだ。
だが、
『私がいる』ということは
私がこうして何かを考えたり感じたりすることからしか
確認することはできない。
事実の方向性としてではなく、
人間の認識の方向性として、
絶対にそうでしかありえない。

だから、
唯物論者である森氏もまた、
「人間は
 脳なしに思考したことはかつてなかったのですが、
 しかし、
 脳の作用を意識しえない」と
言わざるをえないのである。

人間が脳によって思考しているということは
なかなか「感じる」ことのできない事柄である。
それは決して『自明の事実』ではない。
脳を損傷したさまざまな人を観察するなどした
実験科学の発達の結果としてしか
確認することができない事柄なのだ。
だから昔は、
人の思考の中枢は心臓にあるなどと
世界中で思われてきた。

そしてデカルトに言わせれば、
実験のような経験に頼る手法は
究極的には夢や幻覚である可能性を
完全には捨てきれないのであるから
『確かな根拠を欠く』ということになる。

デカルトの『方法序説』を読めば、
デカルト自身も実際には、
物質と精神は
脳の松果体において相互作用するなどとして、
思考の中枢が脳であることを認めていることがわかる。
だがデカルトにとっては、
そのことは
「我思う故に我有り」のような「自明の真実」とは
次元の異なる事実であったのである。


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【参考記事】

『社会民主党宣言』を読む
新しい社会主義像を求めて
小牧治『マルクス』について
レーニン「マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分」を読む

by imadegawatuusin | 2011-12-07 16:41 | 弁証法的唯物論
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