人気ブログランキング |

『唯物論哲学入門』(森信成)を読む・その15

死の積極的意味

「死」というものに
積極的な意味を見出すかどうかという問題は
一種の人生論であろう。
その意味でこの章は、
唯物論の基本とはあまり関係がないと私は思う。

ただ、
考えるべきことは多い章かもしれない。

言うまでもなく、
すべての人生には時間的に限りがある。
いいとか悪いとかいうことではなく、
事実としてそうなのだから、
どちらがいいとか悪いとか言うこと自体、
前提を欠く議論だと思う。
私たちは
『いつか死ぬこの人生』しか生きられないのであって、
永遠に生きられる方がいい人生だとか、
死のある人生の方がいい人生だとか考えた末、
選り好んだ選択として
死のある人生を選ぶことはできないのである。
だから、
どちらがいいとか悪いとか、
そんな議論には意味がないと思うのである〔注1〕。
ありもしない妄想と現実とを
引き比べたりはしない方がいい。
事実は事実として淡々と受け入れ、
それを前提に生きるしかない。
それこそが唯物論的態度であろう。
精神修養団体・「実践倫理宏正会」の上廣榮治氏は、
「この世のすべては
 大自然から生み出されたものですから、
 それらはまた、
 いつかはそこへ帰ることが自然の定めであり、
 すじみちです。
 私たち人間も同じことで、
 この世に生まれ出たものは、
 再び大自然の中へ帰る運命にあります。
 その間には少しの不自然も超自然もなく、
 また、
 神秘、不可思議もありません」と
明確に述べている〔注2〕。

むしろ考えるべきことがあるとすれば、
この章の後半にある、
「個人的に長生きするということは
 価値があるのかどうか」ということの方であろう。
こちらは、
安楽死とか尊厳死とか、
場合によっては自殺の問題を考える場合にも
意味のある問いだと思う。

しかしこの問いだって、
『どんな状態で』長生きするのかという問題と
切り離して考えることは本当はできない。
それを抜きにして言うならば、
「若死にするよりは長生きした方がいい」と
多くの人は答えるのではないか。

「人生五十年」だった戦国時代よりは
今の方がいいに決まっているし、
幼児死亡率がやたら高い国よりは
今の日本の方がいいに決まっている。
「長生きするということは価値があるのかどうか」
というようなことが問題になるのはむしろ、
「自分としては生きているのが苦痛な状態で
 ただ生き続けることに意味があるのか」
というような場合であろう。
しかしこれも、
結局は人生観の問題であって、
唯物論の問題ではないと私は思う。

〔注1〕なお本書では、
「死ぬということがあるから、
 われわれは生きている間、
 緊張するわけです。
 できるだけ
 生きている時を有益に過ごそうとする努力が
 生じるわけです」として、
「一兆年後であろうが、
 またそれの一兆乗掛けた先であろうが、
 いつ勉強を始めても同じだというのであれば、
 全然緊張できません」と言っている。
そして結論として、
「制限性というものがあるから、
 ……なんとかしてやろうという気になるのです」
というのである。
しかし私の見るところ、
この議論は怪しい。
仮に「死ぬということ」がなかったとしても、
人間は
できるだけ苦痛を避けて
快適にときを過ごしたいと願うだろうから、
「できるだけ
 ……時を有益に過ごそうとする努力」は
やはりせざるをえないのではないか。
話題を「勉強」だけに限定しても、
世界は膨大であり
刻々と変化するのであるから、
「一兆年後であろうが、
 またそれの一兆乗掛けた先であろうが、
 いつ勉強を始めても同じだ」ということには
ならない。
1000年前に国語の勉強をするのと、
いま国語の勉強をするのでは
勉強する内容が違ってくる。
社会を勉強する場合でもそうであるし、
勉強するかしないかで、
その間1000年間の生き方は変わってくる。
寿命が永遠であるからと言って、
「制限性というもの」がなくなるわけではない。
人間の寿命が永遠であっても、
この世界の寿命も永遠であるなら、
世界の方が圧倒的に膨大なわけで、
人間は常に、
この世界の一部しか知り得ない。
この世界を知り尽くし、
調べ尽くすことは不可能なのである。

〔注2〕実は『聖書』でも、
死者にはもはや何の意識もないと教えている。
そこでは
人間は土(自然)から作られたとされており(創世記2-7)、
「霊が人間を去れば
 人間は自分の属する土に帰り
 その日、彼の思いも滅びる」(詩編146-4)、
「塵にすぎないお前は塵に返る」(創世記3-19)と
されている。
そして、
「死者はもう何ひとつ知らない。
 彼らはもう報いを受けることもな(い)……。
 その愛も憎しみも、情熱も、既に消えうせ
 太陽の下に起こることのどれひとつにも
 もう何のかかわりもない」(コヘレトの言葉9-5~6)、
「陰府(よみ)には
 仕事も企ても、知恵も知識も、もうないのだ」(コヘレトの言葉9-10)
とされているのである。



【戻る】
『唯物論哲学入門』(森信成)を読む・その1
『唯物論哲学入門』(森信成)を読む・その2
『唯物論哲学入門』(森信成)を読む・その3
『唯物論哲学入門』(森信成)を読む・その4
『唯物論哲学入門』(森信成)を読む・その5
『唯物論哲学入門』(森信成)を読む・その6
『唯物論哲学入門』(森信成)を読む・その7
『唯物論哲学入門』(森信成)を読む・その8
『唯物論哲学入門』(森信成)を読む・その9
『唯物論哲学入門』(森信成)を読む・その10
『唯物論哲学入門』(森信成)を読む・その11
『唯物論哲学入門』(森信成)を読む・その12
『唯物論哲学入門』(森信成)を読む・その13
『唯物論哲学入門』(森信成)を読む・その14

【進む】
『唯物論哲学入門』(森信成)を読む・その16
『唯物論哲学入門』(森信成)を読む・その17
『唯物論哲学入門』(森信成)を読む・その18

『社会民主党宣言』を読む
新しい社会主義像を求めて
小牧治『マルクス』について
レーニン「マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分」を読む

by imadegawatuusin | 2011-12-18 16:48 | 弁証法的唯物論