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白取春彦『仏教「超」入門』について(その4)

■「空」=絶対でない  「縁起」=「関係」 
本書・『仏教「超」入門』の著者・白取春彦さんは、
仏教の「空」という概念を、
「実体がない」という意味だと説明した。
しかし、
ドイツ哲学を専門とする白取さんの「実体」という言葉の使い方は、
僕たちが日常生活の中で使う「実体」という言葉の使い方とは
かなり大きくずれている。

普通、世間の人々は、
「実体がない」という言葉を聞けば、
「実は存在しない」とか「見せかけだけが存在する」という意味だと思ってしまう。
「○○という会社は単なるペーパーカンパニーで実体がなかった」
というような具合に使用する。

これに対し、
ドイツ哲学などの業界では、
「実体」という言葉は、
「他の何者からも完全に独立して存在する性質」という意味をあらわす。
「絶対的な性質」と言い換えることもできよう。

だから、
白取さんの言う「実体がない」(=空)という言葉は、
僕たちが普通に使う日本語としては、
むしろ「絶対ではない」という言葉に近い。

より正確に説明すると、
「空」とは、
「全てのものの性質は、
 そのものの性質として他から完全に独立して存在するのではなく、
 他のものとの関係のなかで
 はじめて そのものの性質として成立する」
という考え方のこと、ということになる。

具体例を挙げて説明しよう。
白取さんはこんな例を挙げている。

その花は美しいか、美しくないか。

この問いに、
誰も正確には答えられない。
なぜならば、
美しさはその花に付随している何らかの要素ではなく、
花を見る人の感性の働きだからである。(本書146ページ)


これは非常に分かりやすい例だ。
僕たちはいとも簡単に
「美しい花」という言葉を使ってしまう。
しかし、その花自体に「美しい」という性質が
あらかじめ備わっているわけではない。
その花が人間に見られ、
その人間の心にある特定の(つまり「美しい」という)感情を抱かせたとき、
はじめてその花は「美しい花」となるわけだ。

その花が「美しい」という性質は、
その花固有の性質として他の存在から完全に独立して存在するのではない。
花と人間とのかかわりの中で、
はじめて「美しい花」というものが成立する。

だから、見る人が違えば、
たとえ花は同じでも「美しい」という性質は
そこに成立しないかもしれない。
また、たとえ見る人が同じでも、
その人のその日の体調や気分、あるいは美意識が変わってしまったら、
やはり「美しい」という性質は成立しないかもしれない。

よって花の美しさは「絶対ではない」ことがわかる。
これが「空」の考え方だ。
花の美しさが「空」=「絶対ではない」からといって、
美しい花が「存在しない」というわけではない。
花そのものの存在だけから「美しい」という性質は発生しないと
言っているだけだ。

こう言うと、
次のような反論が飛び出してくる。

「それは『美しい』という主観的な性質についてだからじゃないのか。
 例えば、『赤い』という客観的な性質についてはどうなのか」と。

なるほど。
確かに「赤い花」の場合は、
「赤い」という性質はその花固有の性質として、
他から独立して存在するように見える。
そこに人間がいてもいなくても、
赤い花は赤いに決まっているだろう……と。

しかし、
「赤い花」の「赤い」もまた、
花そのものと他の存在との関係の中で
はじめて成立する性質に過ぎない。

そもそも「赤い」とはどういうことなのか。
光学的に言うとそれは、
「『光をあてたとき』、
 その光の中の『赤色』以外の部分をその物質が吸収し、
 『赤色』のみを反射する性質」ということだ。
受けた光の成分の中の「赤色」の部分だけを反射するので、
僕たちの眼にはそこに「赤色」が見える。

だから、
「赤色」という性質を、
「光」という概念抜きで説明することはできない。
他の何者かから当てられる「光」を抜きにして、
花そのものの赤さを説明することはできないのである。

ごく単純に考えてみよう。
どんなに「赤い」花でも、
それを真っ暗な暗室の中に入れてしまえば、
そこに「赤い」という性質は発生しない。
暗闇の中で見る花は決して「赤」くはないのである。

「当たり前だ」と笑わないでほしい。
このことは、
「赤い」という性質はその花単体では成立せず、
必ず光との関係によって成立するという真理を証明している。

よって、花の赤さは「絶対ではない」ことが分かる。
つまり「空」だ。
花の赤さが「空」=「絶対ではない」からといって、
赤い花が「存在しない」と言っているわけではない。
花そのものの存在だけから「赤い」という性質は発生しないと
言っているだけだ。

「赤い花」は花だけで「赤」くあることはできない。
その花の「赤さ」は、
太陽とか、電球とか、
他の何ものかによって光があてられたとき、
はじめてそこに成立する性質なのだ。

もっと極端なことを言うと、
そもそもその花そのものが、
光がないと生きてはいけない。
水がなくても生きてはいけない。
土壌に栄養がなくても生きてはいけない。

植物は光を浴びて光合成し、
根から水を吸い、養分を吸収することによって、
はじめて存在することができる。

その花の「赤さ」は、
花と太陽との関係の中で成立し、
花と水との関係の中で成立し、
または花と土壌との関係の中で成立し、
気候や気温、その他この世の様々なものとの無数の関係の中で
ようやく成立した性質だったのだ。

その、そのものの性質の存在を支えるありとあらゆる関係のことを
仏教では「縁起」と呼んでいる。
これが「縁起」と「空」である。


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by imadegawatuusin | 2007-11-27 15:45 | 仏教
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