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白取春彦『仏教「超」入門』について(その5)

■本来の仏教は徹底した「処世術」である 
前回説明したようにブッダは、
この世に存在するすべてのものの あり方は
他のものとの関係(=縁起)の中で成立するという考えを打ち立てた。
しかしこれは、
存在論や認識論・現象論などの形而上学上の課題に
回答を与えるためでは決してない。

ブッダの関心はただ、
「人間は、どのように生きてゆけば
 この世の苦しみを克服し、
 心の平穏を獲得することができるのか」という一点に尽きた。
このことに関係のない衒学的な問い、
例えば「この世界はいかにして生まれたのか」とか、
「宇宙の果てはどうなっているのか」というような
「問いのための問い」については、
ブッダは、
自分の目標に無関係なものとして無視した。

だから彼は、
「人間は、どのように生きてゆけば
 この世の苦しみを克服し、
 心の平穏を獲得することができるのか」という自らの第一課題に対して、
「他のものとの関係」を重視する立場から回答を見つけ、
悟りを開いてブッダとなったが、
それ以外の問題については特別の見解を得たわけではない。

本書・『仏教「超」入門』の中でもそのことは繰り返し説かれている。

例えば、白取春彦さんは本書の中で こう言っている。

悟れば死後のことが分かるようになるのか。
いや、
悟ったとしても死後のことは依然として分からない。

しかし、
死後のことが気になってしかたがないという思いはなくなる。(本書118ページ)


ブッダがや縁起について説いたのは、
それがあくまで彼の問い、
つまり、
「人間は、どのように生きてゆけば
 この世の苦しみを克服し、
 心の平穏を獲得することができるのか」という問いに対する
回答の前提となる事柄であったからだ。

白取さんは本書の中で、
仏教を「哲学」であると言っている。
これはおそらく、
「宗教」という言葉に付随する
非合理的・超越的・神秘的……といった印象を
仏教から払拭しようとしたためだろう。
仏教が現実に即した合理的な思想であることを
「哲学」と呼ぶことで強調しようとしたのだと思う。

だが、
「たとえ答えがないかもしれない問いであっても、
 『ただ答えが知りたいから』、
 その問いをひたすら問い続ける」のが「哲学的思考」なのだとすれば、
仏教は はっきり言って「哲学」ではない。
仏教は、
「この世の苦しみを克服する」という目標に無関係な問いには
最初から関わろうとはしないのである。
だから仏教は、
むしろ「処世術」と言った方が近いかもしれない。

これは決して仏教を
貶めて言っているわけではない。
「哲学」が高尚で「処世術」が低級だなどという考えは、
世の中に氾濫する低級な、
小手先だけのテクニックが、
「処世術」として もてはやされていることに対する
単なる反動的印象にすぎない。

本物の「処世術」は人生というものの本質をつく。
ブッダが目指したものもまさにそれだった。

白取さんは次のように言っている。

人生には限りがあるから時間的余裕などない。
だから、
ブッダはまずはもっとも重要なことから
手をつけよといさめたのである。(本書120ページ)


と。


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by imadegawatuusin | 2007-11-28 15:54 | 仏教
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